夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

実篤公園と蘆花恒春園

2015-06-20 18:00:12 | 公園・庭園めぐり

(1)実篤公園

仙川駅を南に出て右へ、仙川商店街に出て左折し南へ、桐朋学園前の交差点で桐朋学園沿いに右へ行き、その先、学園の敷地に沿って左に折れ、道なりに右へ曲がり、変形の四つ角を越えて進むと実篤公園の入口に出る。この公園は、武者小路実篤旧宅跡を調布市が寄贈を受けて昭和53年に公園としたもので、昭和60年には隣接地に記念館を設置している。調布市若葉町1-8-30。仙川駅またはつつじヶ丘駅から歩いて10分ほど。公園までのルートは、仙川駅からの方が分かりやすい。

公園の管理事務所の先に実篤公園の案内板が設置されている。この公園は国分寺崖線に位置しているが、案内板の辺りまでが台地の上で、1500坪ほどの敷地の大半は斜面とその下になる。台地上からは樹林のため、展望は得られないが、展望は望んでいなかったのであろう。武者小路実篤は、老後を水のある場所で送りたいという長年の夢を叶えるべく土地を探し歩いた結果、この地に湧水と池がある事を知り、土地を取得し家を建てて移住した。昭和30年のことである。実篤は、水がある事のほか、つくしがとれる事と古い土器が出ることも希望していたが、つくしは敷地内からとれ、また古い土器の破片も敷地内から見つかり、実篤の希望はすべて叶えられることになった。この家は仙川駅に近かった事から、実篤は仙川の家と呼んでいた。

 

入口から玄関に至るアプローチは急坂で、やや右に曲がって玄関に達する。建物の延床面積は30余坪、国分寺崖線下部の緩やかな傾斜地に建てられている。建物は南向きで玄関は北側にあり、入るとロビ-で、その周りに仕事部屋、応接室、客間が配置され、左側には居室などがあり、地下は倉庫になっている。土日祝日には内部が公開されているが、写真撮影は禁止されている。ただし、仕事部屋と応接室については平日でも外から内部を見る事が出来る。現在は樹木が茂ってしまったが、当時の写真を見ると、建物の南側が芝地になっていて、実篤の希望通り日当たりの良い明るい家であったらしい。

 

敷地内の崖下からは涌水があり、小さな池になっている。今は涌水量も多くはなさそうだが、昭和30年頃はかなりの湧水量があったらしい。この水は上の池を経て下の池に流れ込み、さらに田圃の水源としても利用されていた為、池を埋めない事が土地購入の条件だったという。実篤は池に放した鯉や鱒に餌をやる事が日課になっていたようで、上の池にあずまやが造られる以前の、桟橋のような場所から餌を撒いている写真が残っている。

 

実篤公園は道路によって上の池の区画と下の池の区画に分断されている。この道路は戦前からあった農道で、利用する人があったためか購入の対象にはならなかったのだろう。現在は道路下の地下通路により二つの区画が結ばれているので、ここを通り抜けて菖蒲田を見に行く。今年は生育に難があって菖蒲は残念な状態になっているが、その代わりヒカリモが見ごろになっていた。ヒカリモは単細胞の藻類で、群生すると光を反射して黄金色に輝くのだが、都内で見られるのはここだけということなので、少し得した気分になる。

 

実篤公園には実篤旧宅と庭がほぼそのまま保存されており、武蔵野の雑木林の面影も残されている。ただ、樹木が茂って幾分暗くなっているという難点が無いでもない。この暗さを和らげているのが竹林である。竹林があると無いとでは、かなり印象が違うかも知れない。

 

下の池には小島があって、人の手で造られたような風情もあるが、多分、自然の池なのだろう。この小島を実篤は孫ヶ島と呼び、最初のうちは舟で渡っていたが、後になって橋を架けている。昭和30年頃、下の池の西側は、入間川沿いに開かれた田圃に続いていた。しかし、昭和30年代の終わりごろには、田圃が埋め立てられ、宅地化が進んでしまう。

 

地下通路を通って記念館に行く。無料の実篤公園に対し、記念館は有料になっているが、折角、武者小路実篤ゆかりの場所に来ているゆえ、入ってみる。帰りは、つつじヶ丘駅に出るが、道は少々わかりにくい。

 

(2)蘆花恒春園

明治大正の文豪、徳富蘆花の旧宅と遺品を愛子夫人が寄付した事から、これを整備して昭和13年に開園したのが蘆花恒春園である。当初の敷地面積は1万2千㎡余であったが、現在は、周辺の土地も取得して8万㎡まで拡張している。現在の正門を含む北東の区画も、後に取得したもので、正門が建てられたのは昭和47年である。徳富蘆花の旧邸宅を中心とした恒春園区域に対して、後に拡張した開放公園区域は、家族連れにも楽しめる公園になっている。恒春園区域を含め入園は無料。世田谷区粕谷1。最寄り駅は八幡山駅、芦花公園駅、千歳烏山駅だが、千歳烏山駅から歩くのであれば、南口に出て千歳烏山駅南の交差点を過ぎて南東に、品川用水が流れていた道を進み、延命地蔵のある芦花公園西の交差点を東に行けば公園の正門に着く。歩いて15分ほどである。 

明治39年、蘆花がロシアにトルストイを訪問した際の、「農業で生活できないか」というトルストイの一言がきっかけで、蘆花は農業生活を始める事を決意し、明治40年、紹介された北多摩郡千歳村字粕谷に東京青山の借家から移住する。移住先は人家もまばらな新開地の低い丘で南と西に展望が開け、西には高尾山や甲斐東部の連山(大菩薩峠に連なる小金沢連嶺)が見えたが、富士山は防風林に阻まれて見えなかったようである。当時は京王線がまだ開通しておらず、蘆花が東京に出かける時は、3里の道を徒歩で往復したという。移住先には井戸もあったが飲用には難があり、大掛かりな井戸浚いを行う羽目となる。粕谷での暮らしは、蘆花が望んでいたものではあったが、家族にとっては都落ちの悲哀を感じる時もあっただろう。その後、大正2年に京王線が開通し芦花公園駅の前身である上高井戸駅が開業。やがて、住まいも次第に整えられて、恒春園と称するようになる。その住まい、恒春園は、今も当時の姿を伝えており、都指定の史跡になっている。

昭和34年に建てられた記念館に入って、一通り見たあと、愛子夫人の居宅を見に行く。この居宅は、愛子夫人が蘆花旧宅を寄付するに当たっての条件の一つとして建てたものであったが、実際に愛子夫人がこの家に住んだのは1年ほどで、その後は三鷹台に転居している。近くのゴミ集積場からの悪臭が原因だったとされる。現在、この建物は有料の集会場として利用されている。

恒春園内を歩くと竹林の存在が目立つが、それはそれとして、クマザサと建物との対比も印象的である。恒春園が開園した昭和13年当時、園内の植物は156種1716本で、既存の植物に加えて、地元及びその周辺で入手した植物を中心に、青山の借家から持ち込んだものや、各地から取り寄せたものを植えていたようである。昭和61年の調査では144種、高木が3226本なので、種類は減っているが本数は倍増していることになる。蘆花は農業生活を目的として移住しており、畑を耕している写真も残っているが、畑地がどこにあったのかは分からない。開園当時の平面図では、現在の記念館の辺りが空地になっているので、この辺りに畑があったのかも知れない。

秋水書院は屋根が特徴的だが、茅葺の維持が難しいので、今は擬木を用いているらしい。秋水書院は明治44年に烏山の古屋を移築したもので奥書院とも呼ばれていた。秋水書院が建てられた後、各棟を結ぶ廊下も造られている。秋水書院の南側には宝永4年の地蔵尊が置かれているが、高尾山下の浅川の農家から移したものという。

梅花書屋は、明治42年に北沢の売家を購入して移築したもので、表書院とも呼ばれていた。この建物は東に面していて、母屋との間が庭のようになっている。林に囲まれている割には明るく、落ち着ける庭である。現在、梅花書屋は有料の集会場として使用されている。

明治40年、粕谷に移住した時、すでに粗末な草葺の家が存在していた。母屋と呼ばれているのがその家で、粕谷で最初に暮らした家である。ただ、暮らすには難があったらしく、その後、リフォームしたようである。大正12年には、恒春園に4棟の茅葺の古屋があったというが、現存するのはそのうちの3棟で、何れも老朽化していたため、昭和60年までに改修が行われている。母屋の近くに恒春園の入口があるが、蘆花邸の門があった場所である。初めの内、蘆花邸には囲いなど無かったが、後に恒春園を囲むように生垣や竹垣が造られる。

母屋近くの恒春園入口の東側は、大正7年に買い上げた土地で、雑木林の中には徳富蘆花夫妻の墓所がある。ここは、武蔵野の面影が比較的残されている場所でもある。この場所のそばに共同墓地があるが、蘆花が移住する以前からあった墓地で、蘆花は自らを墓守と称していた。

恒春園の敷地の南側は一段低くなっている。今は公園の一部となり、児童公園やトンボ池、自然観察資料館などが設けられているが、もとは水無川沿いの田畑だった場所である。水無川は、玉川上水から牟礼で分水した三鷹用水を受け、芦花公園西の交差点の南で品川用水の下を潜り、恒春園の南側を流れて烏山川に合流していたが、水が流れていないことが多く、大雨が降れば溢れるような川だったらしい。現在、水無川は暗渠化されているが、公園の南側の境界が、その流路の位置を示している。

公園の南東は公園化が遅かった場所だが、今は花の丘区域と呼ばれ、花壇には季節に応じた花が植えられている。花の丘区域から道路を挟んで向こう側は東京ガスの世田谷整圧所で、昭和31年に球状のガスホルダーが設置された時は、その景観が評判になったそうである。花の丘の東側、環八通り沿いは低地になっているが、田圃を埋立て植樹をして公園としたところで、今はフィールドアスレチック広場や、草地広場になっている。ドッグランを左に見ながら進み、駐車場の横を過ぎて先に行くと、公園の北東側に出る。環八通りを渡り、八幡山アパートを抜ければ程なく八幡山駅に着く。

 蘆花恒春園付近の環八通りとその両側は、八幡田圃があった場所であり、この田圃には2本の川が南に流れていた。東側の川は烏山分水(烏山村分水)と呼ばれ、玉川上水の現・岩崎橋付近から分水し、芦花公園駅の西側を南に流れ、世田谷文学館の近くで東流し、環八通りの東側の辺りで北からの支流を入れて南に流れていた。北からの支流は、はらっぱ広場沿いに流れて来る支流(水源は医王寺の薬師池か)と、八幡山駅付近からの支流を合わせたもので、流れに沿って田圃になっていた。現在の世田谷区と杉並区の区境は、それを反映しているようである。一方、西側の川は本来の烏山川で、現・高源院鴨池の辺りを水源とし、烏山分水の西側を南に流れ、途中、西からの出井の流れを入れた後、烏山分水と並行して流れ、環八通りの西側、現・公園駐車場の辺りを通って南に流れ、その先で東に流れて烏山分水と合流していた。昭和30年代に入ると、烏山川は芦花中付近で烏山分水に合流したあと、芦花小の先で西側に分流するように変更される。昭和30年代の後半になると、八幡田圃の埋立てが進み団地が建てられ田畑は一部に残るだけとなる。昭和40年代、公園拡張のため田畑は都に買収されて西側の川は消滅、東側の川は残るものの、用水としての意味は失われている。昭和46年には環八通りが開通。昭和55年には公園の拡張部分が開園する。その後、東南側の土地が買収され平成12年に花の丘区域として開園し、現在に至っている。

<参考資料>「緑と水のひろば71」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「仙川の家」「蘆花恒春園」「みみずのたはごと」「今昔マップ」

 

 

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大田黒公園・角川庭園・荻外荘・与謝野公園

2015-06-05 21:02:25 | 公園・庭園めぐり

(1)大田黒公園

荻窪駅南口から阿佐ヶ谷方向に行き次の角を右に、荻窪電話局前の交差点を左折、その先の角を案内表示により右折して進む。突き当って右すぐの所に大田黒公園の正門がある。駅から歩いて10分ほど。杉並区荻窪3-33-12。入園は無料になっている。大田黒公園は、我が国の音楽評論家の草分け的存在でNHKのラジオ番組“話の泉”の解答者としても知られた大田黒元雄の邸宅跡を杉並区が庭園として整備し、昭和56年に開園した公園である。

正門に向かって左側の道路沿いには、公園の生垣が延々と続いている。見事な眺めである。この道路の辺りは、正門の側から見ると、やや低くなっている。明治の地図を見ると、ここには、水が流れ水田もある小さな谷戸があった事が分かる。谷戸は北西側に水源があり、南東に流れたあと南流しているが、大田黒公園の敷地は、この谷戸の跡を左に見る位置にある。生垣の下にある石積みは、谷戸に対する土留めを継承しているようにも思える。

総檜瓦葺の門と築地塀からなる正門、そして、門から先、イチョウ並木の直線的な道が70mも続く様子は、まるで、社寺の参道のようである。樹齢から見て、イチョウ並木は大田黒邸の時に作られたと考えられるが、社寺と違って個人の邸宅では、門からの気がダイレクトに家の中に入り込まないよう、門から玄関までのアプローチを途中で曲げるか、少なくとも門と玄関の位置をずらせる事が多い。では何故、大田黒邸は社寺のような直線的な道を造ったのだろう。これは想像に過ぎないが、門を北西側に設ける必要があり、敷地の形から、直線的な道とせざるを得なかったのではなかろうか。

イチョウ並木の道は庭門によって終りとなる。実用上は、庭門をここに置く必要はなさそうだが、正門から見た時、ここに、門のようなものを設ける必要があったに違いない。ところで、大田黒家の主屋は庭門の手前、右側に少し上がった管理事務所の付近にあったという。そうだとすれば、主屋の玄関は正門からずれていた事になる。門から入ってきた気は、主屋から外れ、庭門から庭園内に拡散していくという事になりそうである。

大田黒邸の主屋は木造瓦葺で一部茅葺の二階建てだったそうだが、老朽化のため取り壊されている。現在は、管理事務所、休憩室、数寄屋造りの茶室からなる建物が主屋に相当していると思われる。杉並区は公園化に際して、できる限り原型保存を図り、従前からあった池を再生しているという事なので、大田黒邸の頃とは変わってしまった点があるにせよ、全体としては当時の姿を留めた公園になっていると思われる。

休憩室と、その先の廊下から中庭を眺める。池の中の井筒から水が湧き出して、方形の池を満たし、池から溢れた水が茶室の周囲を巡っている。茶室は公園になってから建てられているので、中庭の池と茶室を巡る水路も新たに造られたと思われる。なお、確認はしていないが、井筒の水は地下水の汲み上げか池の水の循環によると思われる。

大田黒公園には、昭和8年に建てられた洋風の建物と蔵が現存しており、大田黒元雄が仕事場として使用していた洋風の建物の方は、現在、記念館として保存されている。建物はピンク色がかった煉瓦色で形も少し変わった洋風建築だが、それでも木立の中にすんなりと納まっている。記念館には後で入るとして、芝生の斜面に沿って園路を下る。

芝生の下から茶室を見上げる。芝生は平安時代にも使われていたそうだが、当時から、芝生は日本庭園の要素の一つであったのだろうか。その一方、種類は異なるが、西洋庭園でも芝生が使われていた。芝生は日本庭園と西洋庭園の何れにも親和性がありそうである。大田黒公園には和風と洋風の建物が存在するが、芝生はその何れとも調和しているように思える。

 

茶室を巡る水路は、その先で自然の中の流れへと姿を変え、斜面を流れ下って行く。その流れは、大田黒公園の美の重要な要素になっているに違いない。流れに沿って下るうち、何故か爽快な気分になっている。ひょっとすると、水の流れは、池の浄化ばかりではなく、庭園内の大気の浄化にも役立っているのではないか。そんな気さえしてくる。

 

大田黒公園は南東に向かって緩やかに傾斜し、最低部には池がある。池は大田黒邸の時代に造られていたと思われるが、杉並区が整備を始める以前は、かなり荒れていたかも知れない。池のある低地は公園外の低地に連なり、高野ヶ谷戸という名の谷戸を形成していたと思われる。明治の地図からすると、この谷戸には二本の水路が南に流れていた事が分かる。東側の水路は読書の森公園の辺りから流れて来た水路、西側の水路は北西から大田黒公園沿いに流れてきた水路で、二本の水路の間は田圃になっていた。

園路を上がり、クマザサに囲まれた記念館に行く。テラスに上がり、掃き出しのガラス戸越しに大田黒元雄の仕事場を眺める。開口部は広いので、部屋の中では、森の中で仕事をしているような雰囲気になるのだろう。記念館の入口は裏手にあり、仕事場として使われた洋間が公開されている。室内の装飾や展示品にも興味がひかれるが、何といっても1900年製のスタインウエイ製のピアノが気になる。このピアノは修復され、その音が録音で室内に流されている。暫くはその音を聞いていたい気もするが、先を急ぐゆえ、展示などに使われる広場を覗いてから公園の外に出る。

 

(2)角川庭園

 

大田黒公園の正門を出て左へ行き、その先の信号で左に折れ、道なりに右に曲がって南に向かい、電柱の案内表示により左折、坂を下ると右側に角川庭園の出入口がある。角川庭園は、角川書店の創始者で俳人であった角川源義の旧邸宅を平成21年に区立公園としたものである。杉並区荻窪3-14-22。旧角川邸は幻戯山房と称されていたが、今はすぎなみ詩歌館という呼称がついている。建物は昭和30年の竣工で、木造二階建瓦葺。設計は加倉井昭夫。近代数寄屋造りの好例で造形の規範になるとして、平成21年に国登録の有形文化財になっている。国登録有形文化財(建造物)は50年以上経過している事を原則としており、旧角川邸はこの条件を満たしているが、文化財としては比較的新しい部類になる。なお、杉並区では西郊ロッヂングなど16件の建造物が国登録有形文化財になっている。

旧角川邸の出入口は北東の低地にあるが、昭和30年頃は北から敷地の北東側に来る道しか無かったらしい。出入口から入って、右に折り返すように上がると玄関になる。つまり、出入口からは玄関を見通せないようになっている。玄関を入って左側に、書斎兼応接室を改修した展示室がある。その隣は居間や食堂を改修した詩歌室で、その先には茶室があり、詩歌室と茶室は有料で利用可能である。ところで、数寄屋造りと言うと凝った造りの高級建築をイメージしてしまうが、本来は格式や虚飾を排した茶室の様式をもとにした質素な造りであったらしい。旧角川邸は、このような数寄屋造りの伝統を受け継ぎ、現代風にアレンジしたものである。

角川庭園の東側は高野ヶ谷戸の続きであり、南側は善福寺川の流域になっている。角川庭園の敷地は台地の端に位置し、もとは野菜畑の斜面地であったので、敷地内には高低差がある。玄関へのアプローチの途中から分かれる小径を下っていくと、進むにつれ建物は姿を隠し、自然石による石畳の道は、山村の道を辿るがごとき趣向を感じる。昭和30年頃は、南側一帯に田圃が広がり、眺めも良かったと思われるが、田圃が団地に変わり周辺に住宅が建つと、風景は一変してしまう。そこで今は常緑高木のシラカシを植え、高さを揃えて目隠しとし、庭園から見た景観を保っている。やがて小径は上りとなり、芝生の庭へと導かれる。

飛び石を伝って明るい芝生の庭を歩く。ここは、芝生を下地にして様々の樹木や草花を愛でる庭である。広大な庭ではないが、それでも外の余分なものが見えないのが良い。試みに、芝生の代わりに池を設え、高低差を利用して滝や流れを造ったらどうなるか。想像してみたが、どうもしっくりこない。この庭には相応しくないのだろう。それにしても、芝生というのは面白い。芝生を西洋庭園に置けば西洋庭園の一部となり、日本庭園に置けば日本庭園の一部となる。芝生は眺めるだけの庭にも、利用するための庭にも使える。ただ、維持管理が適切に行われないと、庭全体が荒れているように見えてしまう。芝生というのは、庭園にとって何なのだろう。

芝生の庭と分かれて茶室への道を辿る。芝生の庭との間は、それとなく仕切られていて、ここはもう茶室の一部になっているかのようである。飛び石や蹲のほかは、すべてが自然のままに見えるよう、手入れもされているのだろう。道の途中に水琴窟を見つけ、水を流してみる。期待していた通りの音である。水琴窟は江戸時代に庭園で使われるようになり、明治時代には流行し、昭和の初め頃までは造られてもいたが、その後は廃れてしまったらしい。音が鳴らないまま、それと気づかずに放置されている水琴窟が、各地にまだ残っているような気もする。近頃は、公園などでも水琴窟を見かけるようになったが、維持管理は難しいのだろう。水琴窟は雨でも音が鳴る筈だが、小さな音なので、鹿威しのように近所迷惑となるような事は無さそうである。

 

(3)荻外荘

角川庭園を出て、案内表示のある電柱のところまで戻り、左に折れて坂を下る。下り終えて右に歩道を進む。この歩道は善福寺川から分流した水路の跡で、左側は田圃だったところである。先に進むと右側に荻外荘公園(仮称)がある。杉並区荻窪2-43。総理大臣・近衛文麿の別荘であった荻外荘の敷地のうち、南側を杉並区が整備して今年公開している。明治の地図によると、南側には当時から池があったことが分かる。この池は荻外荘にも引き継がれたが戦後に埋められており、今は全体が芝生になっている。

この地を最初に別荘とし“楓荻凹處”と名付けたのは宮内省侍医頭の入沢達吉で、昭和2年のことである。昭和12年、この地は、総理大臣近衛文麿の別荘となり“荻外荘”と名付けられる。荻外荘は重要な会談に使用される等、歴史の舞台となる。別荘の建物は伊藤忠太の設計で、何度か改築されている。当時の正門は北東側にあったが、今は、裏門として使われてきた北西側の門が正門になっている。別荘の建物のうち東側はすでに移設され、西側のみ残存しているが非公開であり、公開されている南側から眺めるしかない。杉並区では、建物の再現を計画しており、文化財の指定に向けての動きもあるので、何れ公開される事になると思われる。

 

(4)与謝野公園

荻外荘を出て先に進み、春日橋を渡り、環八通りを過ぎて、その先を案内表示により右に行くと与謝野公園に出る。与謝野寛・晶子夫妻の旧宅跡にあった南荻窪中央公園を整備し直して、名称変更した公園である。杉並区南荻窪4-3-22。関東大震災後の大正13年、与謝野夫妻はこの地を借りて采花荘と呼ぶ小さな洋風の家を敷地の北東側に建てるが、昭和2年になって、与謝野晶子が原案となる図面を書き、懇意にしていた西村伊作に設計を依頼して、遥青書屋と名付けた洋風2階建ての家を北西側に建て、一家は転居する。西村伊作は、居間を中心とした家族主体の住宅を初めて提唱した建築家で、住む人自らが図面を書く事を推奨していたようである。旧宅には、昭和4年に与謝野晶子の弟子たちが贈った冬柏亭という5坪の茶室もあり、他の建物が失われてしまった今も冬柏亭だけは鞍馬寺に移築されて現存しているという。

現在、与謝野家旧居時代のものは何も残っていないが、公園内の説明板により当時の様子を思い浮かべることは出来る。公園の門は与謝野家の正門の位置にあり、公園の門から続く道は、与謝野家の主屋である遥青書屋の玄関に至る砂利道に相当している。昭和54年頃の写真には正門近くに桜の大木が見えるが、庭には多くの樹木が植えられていたようである。遥青書屋の前に立つ与謝野夫妻の写真は、書斎の出窓の位置から、南側の砂利道辺りから撮ったものと思われるが、物見台と階段らしきものも写っている。公園の門から続く道を進むと、道は右に曲がって行き、遥青書屋の玄関に出ることになるが、今は芝生地になっている。玄関を入ってすぐの広い洋間は、当初、居間として考えられたのかも知れないが、実際には、書斎に続く応接間として使われたらしい。なお、遥青書屋は部屋数が多く、子供たちも部屋を持てたようである。遥青書屋の呼称は2階から秩父連山、富士山、箱根山が見えた事に由来するが、当時は高い建物が無かったため、2階からの眺めが良かったと思われる。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「大田黒公園パンフレット」「角川庭園・幻戯山房パンフレット」「東京の公園と原地形」「荻外荘公園基本構想」「西村伊作の楽しき住家」

 

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