夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

51. 終わりに

2009-08-14 22:24:20 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
(1)嘉陵その後

 嘉陵の紀行文は、天保五年(1834)で終わっている。体力的に長い距離を歩けなくなったのか、紀行文を記述することが難しくなったのか、或いは別の理由があったのか、それは分らない。ただ、天保十年(1839)の冬に、高田天満宮が焼失した事を、紀行文の表紙に記載しているので、関心が失われたのではないようである。

 天保十二年(1841年)春。病床にあった嘉陵は、たまたま、文化十三年(1816)に書いた、「井の頭弁才天詣での記」の文を読み、次のように追記している。

「この時は、相模の綱広の刀・長さ二尺五寸重さ七百五十匁と、無銘の脇差一尺五寸重さ三百五十匁、合わせて一貫二百匁(4.5kg)の刀を差して歩いたが、重いとは感じなかった。しかし、年を取るにつれて重い刀はどうにもならず、請われるままに人に渡してしまった。是も一時。彼も一時。夢の中で夢を見ているような気がする」と。
 
 天保十二年(1841)五月十九日、嘉陵死去。麻布四の橋の西福寺に葬られる。正靖居士晴雲信士。享年82歳(数え年)であった。

(2)嘉陵の紀行文、その後

 嘉陵の紀行文は、江戸時代には出版されなかったが、嘉陵を知る者などに、貸し出されてはいたようである。そうした一人に由誼という人物が居て、「藤稲荷に詣でし道くさ」という嘉陵の文に、次のような、村尾正靖(嘉陵)を偲ぶ文を付けている。

 此巻は正靖ぬしの作也。これを見て、懐旧の情堪えかねて、
  「今も猶袖をしくれにぬらす哉 野山のにしきみるにつけても」
  「残し置し人の心のからにしき いまも野山の末のもみち葉」
 嘉永丁未紀元二月十日           由誼

 嘉陵の紀行文を借りて読んだ人の中に、竪斎守興という人がいた。守興は写本という形で、嘉陵の紀行文を残したが、これが、「江戸叢書」所収の「嘉陵紀行」のもとになっている。竪斎守興は、写本の経緯について、次のように述べている。

 この書は、嘉陵こと正靖、通称、村尾源右衛門の著作である。正靖は清水家付きの廣敷用人を勤めた人物である。嘉陵の人柄については、堀江氏の文を参照されたい。写本の図は、原本の上に紙を載せて写し取ったものではなく、おおよそ見たままに書いたものであり、多少の違いはあるかも知れない。原本は達筆で読み難い所も多いので、そのままに写し、強いて改めず、朱点を加えるか、朱書きするに留めている。

 私は、去年仲秋の末より病に伏し、今年春が過ぎ、夏が去って、この秋のはじめには、少し回復したものの、完治するまでには至らず、全ての仕事を辞めて、引き籠っていた。退屈のあまり、この紀行文を読んだところ、労せずして、居ながらに遠い山水の地に遊び、或いは花を見、或いは古跡を訪ねる心地がした。この紀行文のことがずっと気になっていたのだが、何もせずに日を送るよりはと思い、七月の始めから時々、一枚二枚と写し始めた。そして、十月の半ばには五巻すべてを写し終えることが出来た。やらない方が益しのような事だったかも知れないが、ひとまず、こうして綴り置くことにしたのである。

「書き残すこの葉の花に今も猶 過ぎにし春に遊びこそすれ」
「写しつつ過ぎにし人の偲ばれて 面影さえに見る心地せり」 
  時 万延元年十二月書 於操園閑中        竪斎守興

(3)村尾正靖(嘉陵)について

 村尾正靖、字(別名のこと)は伯恭、通称は源右衛門、嘉陵と号した(雅号)。徳川清水家に仕え、御広敷用人であった。生まれ年は、森銑三の説に従えば、宝暦十年(1760)であり、没年は天保十二年(1841)である。村尾正靖の先祖は、清和源氏、山名氏の枝流で、但馬を本国とする山名師氏である。その子孫は、代々周防の岩国に住んだが、師氏十二世の孫にあたる權右衛門誠正が江戸に出て清水家に仕え、村尾と名乗る。正靖はその孫にあたるようである。その人柄については、「嘉陵紀行」に収められた、大略次のような内容の、堀江誼の文により知ることができる。

 村尾伯恭(嘉陵)は、細かい所まで手を抜かぬ人であったが、風流を解し、奥ゆかしい人物でもあった。また、右手には文を、左手には武をといった人でもある。仕事は多忙をきわめたが、少しの暇があれば、山水を訪ね歩き、多くの詩歌を詠んだ。その地に至れば、その概略を記し、あれこれ探し求め、調べもした。旅に出て触れたもの、間近に接したものは、あまりに多く、果てしがなかった。特に優れていたのは、いわゆる紀行文が一級品であったということであろう。かって、懇意にしていた若者が、その文を読んだ時、その美にひかれ、何年たっても忘れることなく、その内容が心に残っていたという。氏の跡継(嘉陵の子息)が主君に仕えるようになった頃、私もこの紀行文を借りてみたのだが、読み進むにつれて、険しい山の情景や、広々とした水の風景が、まざまざと浮かんできたものである。それは、あたかも、伯牙の琴の演奏を側で聞いた鍾子期が、その調べに魂も宙に飛ぶ思いだったという故事の如くであった。氏は霞挙雲揚の思想を有していたのであろう。その文章からは、綾や錦が乱れ散り、宝玉が迸り出でるようであったが、その一方で、すべてに考証を加えて、僅かな誤りも見逃さなかった。何事も見届け、一瞬しか見ない場合も、なおざりにはしなかった。惜しいことに、亡くなってから十四年、その骨は朽ちてしまっている。嘉陵の文章は今も残っているが、その文章を読み、共に肩を組んで、酒杯をあげ、詩歌を詠むことは、もうできないのだ。思えば、まことに惜しむべきことである。ここにおいて、感慨ますます切々たるものがある。そこで、死者へ贈る短い序文を作ってはみたが、伯恭(嘉陵)の霊が地下でこの事を知れば、ただ冷笑するだけかも知れない。
 嘉永元年(1848)十一月    六十七歳翁 堀江誼

 朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」によると、嘉陵の著作には、「梅乃志乎理」「花月吟二百首」「嘉陵十種癸集・天文怪異」「嘉陵腹議」「嘉陵腹議余話」があるという。このうち「嘉陵腹議」は、宮本武蔵の二刀流について論じるなど兵法に関するものだが、兵法に関する書は他にもあったらしい。

 嘉陵の居住地だが、子供の頃、すなわち親の代には、田村小路(港区西新橋2付近)に住んでいたことが、「八幡詣で」に記されている。文化四年の最初の紀行文「下総国府台、真間の道芝」には、浜町に住んでいることが記されているので、時期は不明だが、嘉陵の代には浜町に移り住んだのであろう。文化十四年の「半田いなり詣での記」で、出発地は浜町の家とあり、文政十一年の「千束の道しるべ」では、三番町の家が出発地になっているので、この間の何れかの時期に浜町から三番町に移住していたことになる。文政七年九月十二日の「藤稲荷に詣でし道くさ」の文中に、「さるは移りすめる所も」とあるので、文政七年には三番町に移住していたのではなかろうか。その場所だが、弘化五年(1848)の番町絵図で、田安御門の西側の場所(千代田区九段南3)に村尾栄蔵とあるのが、嘉陵の三番町の屋敷と考えられる。この絵図では、源右衛門から栄蔵に変更になった事が分かるが、源右衛門とは嘉陵の通称であり、栄蔵は嘉陵の子(養子か)である。屋敷は番町では小さい方だが、旗本の屋敷が並ぶ地域にあり、仕えていた清水家とも近いので、仕事上は好都合であったろう。

(4)参考文献

 本稿を書くにあたって、次の資料を参考とさせていただきました。
「嘉陵紀行」(江戸叢書所収)、朝倉治彦編注「江戸近郊道しるべ」、阿部孝嗣訳「江戸近郊ウオーク」、森銑三「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(森銑三著作集)、鶴ケ谷眞一「古人の風貌」、「徳川実紀」、「江戸名所図会(復刻)」、「広重の大江戸名所百景散歩」、「練馬の道」「六阿弥陀調査報告書」など郷土資料、「金王八幡神社社殿門調査報告書」「中野長者の寺・成願寺」など社寺関係の資料、「江戸切絵図集成」「江戸情報地図」等の江戸の絵図及び「東京都市地図」など地図類、今井金吾「今昔中山道独案内」及び「史跡散歩」を含む歴史関係資料、辞典類など。このほか、種々のホームページや、現地の説明板も参考にしました。

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50.2 真間の道芝(2)

2009-08-09 15:45:12 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 市川への道を行くと、国分寺、手古奈、弘法寺への道標がある。ここを北に行くと、手古奈の社(手児奈霊堂。写真。市川市真間4)に出る。嘉陵は、十四、五歳の時に、父に誘われて来たのが、この社を訪れた最初であった。その時には、社の場所が分からず、案内の人に聞いて訪ねたのだが、葦と荻が生い茂った中に、茅葺の小さな祠があるだけで、鳥居も無かった。真間の井というのも、山際の窪地に水が垂れているだけであった。寛政四年(1792)の春に詣でた時には、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。文化四年(1807)の春に訪ねた時には、祠は取り払われ、二間ほどの社に造り替えられ、真間の井も場所を移して普通の井戸になってしまい、板葺きの庵が出来ていた。いままた(1834)来て見ると、社殿は広さ五間ほど、太い欅柱に瓦葺、白壁造りに造り替えられ、鳥居も大きなものが建て並べられ、昔の面影はどこにもなかった。
 
 石段を上がり真間山弘法寺に行く。祖師堂の前に二葉の楓が二本あった。以前来た時には一本が枯れて若木を添えていたのが、この楓である。その横に以前は無かった枝垂桜があった。遍覧亭にも行ってみるが、無用の者入るべからずと書き付けてあり、煩わしいので、黙って通り過ぎた。総寧寺にも行ってみたが、昔と違って美々しく磨き上げて、近寄りがたい雰囲気であった。

 裏手の門を出て、矢切の渡しに出た。日もすでに暮れようとして、辺りはもの寂しく、流れる水の音だけが響いていた。渡り終えて、柴又の帝釈天を通り抜け、新宿に出た後、熟知の道を戻った。恐らくは、亀有から曳舟で四つ木に出て、吾妻橋で墨田川を渡り、三番町の家に戻ったのだろう。舟の区間を除いて、歩いた距離は30kmほどであった。

 嘉陵が書いた紀行文は、これが最後にあたる。嘉陵は、その紀行文を、自らにおくる文として、大略、次のように締めくくっている。

 子供の頃に真間に来たことがあったが、それから、もう60年になる。寛政の年に、再びこの地に遊んでからも、すでに40年過ぎている。顧みると、その時に同行した者は、もう誰も居ない。しかし、その事を悲しみ嘆くべきではない。昔の人が言うように、人生せいぜい百年である。この一日を安易に過ごした事の方を、惜しむべきなのだ。幸いにして生き延びたのであれば、生きる事の楽しみを知らずに過ごすべきではない。虚しく生きたとすれば、その事を憂うべきである。嘉陵、今年、75歳。虚しく生きたことを嘆いて、長溜息をつくような事は、しないようにしたい。

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50.1 真間の道芝(1)

2009-08-07 19:12:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行

 天保五年十月九日(1834年11月9日)、嘉陵は、葛飾や真間の辺りに行こうと、午前6時に三番町の家を出て、行徳舟出所(行徳河岸)から舟に乗っている。江戸から行徳に行く航路の起点は、行徳河岸(中央区日本橋小網町にあった)である。ここから隅田川に出て、小名木川に入って東に行き、中川に出て、舟堀(新川)を通り、利根川(旧江戸川)を遡って、行徳の河岸に至るのがその航路であるが、嘉陵は、文政五年に宇喜多と猫実に行った時も、この航路の一部を利用している。小名木川の五品松(五本松)を過ぎたところで、舟は岸につく。小豆餅を売っていたので、嘉陵も買い求めている。五本松は、江戸名所図会や広重の名所江戸百景にも取り上げられているが、既に四本は枯れていたので、残る九鬼家の松が画材になっている。現在、この松も既に無く、近くの小名木川橋(江東区猿江2)に、説明版と記念の松が植えられているだけである。
 ここで朝日が昇るのを見る。西風が少し寒かったという。嘉陵は、舟の乗客から八月十四日の風雨の被害状況についても話を聞いている。舟は中川から舟堀(新川)に入り、曳舟により進むが、利根川(旧江戸川)に出てからは、櫓を漕ぎ棹をさして川を上がる。流れに逆行するため、船足ははかどらないが、それでも、午前10時には行徳に着く。岸に上がると、乗客は各々の方向に散っていくが、名残惜しいとは思わない。人の世は生と死から成り立つが、袖の塵を払うように別れる方が、罪がないのだ、と嘉陵は書いている。

 行徳から北に少し行き、川(旧江戸川)の堤を歩いて北東に行くと八幡宿に出る。ここから南東に行くと中山に出る。八幡宿からは、佐倉道(千葉街道)を歩いたと思われる。中山では正中山妙法経寺(中山法華経寺。写真。市川市中山2)を参詣する。嘉陵が残した境内の図を見ると、当時の配置が現在もかなり残っているようである。ここを出て、もと来た道を市川の方に行く。途中、八幡不知(八幡の藪しらず。市川市八幡1)という木立があり、中に入ると死ぬということで、四方に垣根をめぐらしてあった。嘉陵は、有毒な気体が時々発生するためだろうとし、上総にも同じような場所があり、酢を煮て藁に染み込ませ撒き散らしながら行けば大丈夫だという説を記している。この木立は現存しているが、百坪ほどの広さで、垣や説明板が無ければそれと気付かないかも知れない。八幡不知の北には、八幡宮(葛飾八幡宮。市川市八幡4)があって、以前、嘉陵がここを訪れた時には、古木の銀杏が空高く聳えていた。ところが、今回来てみると、幹が途中で打ち切られていた。それでも嘉陵は、再び詣でることがあるかどうか分からないと思い、銀杏の落ち葉を二三枚、懐に入れて立ち去っている。この銀杏は千本公孫樹と称されて現存しており、国の天然記念物に指定されている。千本公孫樹は社殿に向って右側にある。

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49.2 百草道の記 ならびに高畠不動詣(2)

2009-08-03 22:10:17 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 六所明神(大国魂神社)の門を出て、用水路に沿って歩き、土蔵がある綿屋の前を過ぎて、中河原に出る。ここに、一宮の渡し(府中四谷橋付近)があった。丸木橋三箇所とそだ橋を渡ると渡し場で、馬舟が二艘、渡った先にも丸木橋が三箇所あった。道端に生っていた柿を食べながら、多摩川に沿って西南に歩いて行き、民家の庭を抜け山道を上がると、正蓮寺(松蓮寺)の門に出た。門から石段を上がり、坂道を登ると、盆池があり、水車があり、客殿、坊、庫裏、茶室がある。さらに上がると、歓喜亭があり、清涼台があった。また、新田義貞鎧掛けの松があり、南東にも一亭があった。霞がたなびいていたが、江戸の辺境が見渡せ、不確かながら筑波、日光、赤城が見えた。秩父の諸山、子の権現の山、大山もかすかに見えた、と嘉陵は書いている。嘉陵が訪れた松蓮寺は、明治になって廃寺となるが、現在、その跡地が百草園となり、梅の季節には多くの人が訪れている。

 正蓮寺(松蓮寺)は庭が評判になって、当時、文人墨客が多く訪れた場所である。しかし、嘉陵は、あまり良い印象を持たなかったようである。嘉陵は、奇をてらった不自然な庭を好まなかったため、通り抜けの洞穴を掘ったり、山道の両側に塗り池を造るなど、景勝を壊し、無理な工事をしている事が気に入らなかったらしい。そのうえ、坊への一宿を頼んだものの聞き入れられなかった。既に午後4時。嘉陵は仕方なく寺を出て山を下り、八幡宮(百草八幡宮。日野市百草)も麓から拝んだだけで、先を急いでいる。

 嘉陵は、青柳不動尊しか泊まるところが無いとし、青柳までは西に僅かばかりと書いているが、これには疑問がある。嘉陵の略図にも青柳という地名が見えるが、その場所は多摩川の北側であり、青柳(国立市青柳)に行くには多摩川を渡らなければならない。松蓮寺から西に行く場合、日野の渡しを渡れば青柳に行けるが、そうするより日野宿に泊まるのが普通だろう。嘉陵が青柳不動と書いているのは、高幡不動のことではなかろうか。

 二人は川に沿ったり離れたりしながら進み、馬捨て場を過ぎる。地元の話では2kmほどで着くということだったが、疲れた足には遠く感じたと嘉陵は書いている。高畠不動(高幡山金剛寺。日野市高幡)に着くと、寺には住職と隠居も居て、嘉陵と矩美を喜んで招じ入れてくれた。二人は不動尊の像を拝観し、寺僧の案内で山内を見て回ったあと、隠居や住職から酒食の歓待を受け、風呂にも案内されている。そのあと、長谷川周助という老夫婦も加わって、酒宴が続き、夜遅くまで語り合って、寝に就いたという。

 翌日、江戸への帰途について、嘉陵は次のように書いている。帰り道、所々の道端の芝生に座り込んで、幾度となく瓢の酒を傾けた。幡ヶ谷の辺りで日が傾き、新町(角筈新町)の通りまで来ると、月が出た。月は道の左側、屋根の上にあった。道は東に向かっているに違いない・・・。嘉陵たち二人は、半ば酔い、半ば歩いて、満ち足りた気分で江戸に戻ったのだろう。時に嘉陵、数えで74歳。歩いた距離は、片道で40kmはあった。

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49.1 百草道の記ならびに高畠不動詣(1)

2009-08-01 15:54:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保四年十月(1833年11月)、百草村の松蓮寺に行こうと、嘉陵は、夜の明けぬうちに三番町の家を出る。四谷大木戸で稲葉矩美と落合い、連れ立って内藤新宿まで来ると、開いている飲食店があったので、朝飯を食べることにした。そのうち東の空が白みだしてきたので、瓢に酒を少し入れて出発する。幡ヶ谷まで来ると夜が明け、代田を過ぎる頃には、目黒祐天寺の五つ(午前8時)の鐘が聞こえてきた。その先、滝坂を下って金子(つつじヶ丘)まで来たところで、同行の稲葉矩美が深大寺に行ったことが無いということだったので、道を戻り滝坂の上で甲州街道から分かれ、深大寺(図。調布市深大寺町)に向かう。現甲州街道を、つつじヶ丘から仙川に向かうと、街道の左側に滝坂の旧道が残っている。この旧道を上り現甲州街道に合流した少し先で左に入る道を辿ると、深大寺近くの青渭神社に出ることができる。嘉陵が歩いたのは、このルートに近い道筋と思われる。嘉陵は、上杉五郎朝定が、北条氏茂に討たれた父の仇を討つべく、深大寺に陣城を構えたが、結局合戦が起こらなかった事についてふれ、此処の地形が攻めにくく、出陣もしにくいからだと述べている。嘉陵は深大寺の裏手が城跡で、南側は二郭と考えていたようである。現在は、深大寺の東南の山(都立水生植物園内)が城跡とされ、濠の跡も残されている。

 神蛇大王祠の前の道を南に行き、坂道を下る。この道を行くと左手の麓に寺がある。ここで、田圃の縁を西に行き、さらに南に行くと下石原に出る。現在の道でいうと、修道院の前を通り、坂を下って池上院を左にみて、右に折れて山裾を歩き、御塔坂橋を渡り、その先の信号から右に入り、中央自動車道の下を潜って石原小通りを進み、現甲州街道を越えれば旧甲州街道の下石原に出る。ここからは甲州街道を歩くが、染屋に着く頃には空は晴れ渡って、小春日のような陽気になったと記している。嘉陵は文化九年(1812)に府中の六社を詣でた時がある。その時に同行した永井、黒田、蔭山の三人はもう、みな亡くなっている。今や、残っているのは自分ひとり。ふと昔の事が思い出されて、嘉陵は歌を詠み、また、道端に咲いている冬草に、我が身の老いを重ねては、歌を詠んでいる。

 昼過ぎに府中に着き、一軒の家で休んで昼食をとる。家の主の姥が、大根と人参、焼き豆腐を合わせた煮物に、麦のひきわり飯を出してくれたが、まことに美味であった。持参した鮭の塩物も出し、瓢の酒も二人で飲んだ。まるで、初春の祝いのようであったと嘉陵は書いている。瓢の酒を飲み尽くしたので、酒を売る店を姥に聞いて出発する。

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48.北沢牡丹 深大寺道しるべ 

2009-07-28 22:44:51 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保四年四月十日(1833年5月28日)、嘉陵は上北沢の凝香園に牡丹を見に行っている。牡丹の種類は凡そ二百五六十種。嘉陵は花の銘を記録し、牡丹畑の配置を図に残している。嘉陵は四谷新町(角筈新町)の牡丹桜花の銘も記録しているので、途中で立ち寄ったのだろう。また、牡丹畑への道しるべとして、宮益町から駒場野、代田、松原、上北沢を経て牡丹園に至る案内図を付けている。ほんの概略図なので、牡丹園で聞いた道筋を書き留めただけかも知れない。嘉陵によると、四月十日の時点では全体の十分の一しか花が咲いていなかったが、四月十九日に行った人の話では、既に花も末になっていたということであった。嘉陵は、四月十九日に墨田川の牡丹園に行っているが、すでに花は散って跡形もなかったとし、牡丹は廿日草と言うが、盛りは十日に過ぎないと書いている。

 嘉陵の略図からすると、この日、上北沢から深大寺まで足をのばしている。しかし、紀行文は残されていない。ここでは、略図に基づいて、その行程をたどることにする。上北沢の牡丹園へは、甲州街道の松原から入る道を通っている。滝坂北道と呼ばれた道と思われるが、現在の道であれば、日大通りを歩くことになるだろう。この道を進んで行くと、凝香園を開いた鈴木左内の屋敷が道の右側にあった。その場所は、現在の緑丘中(世田谷区桜上水3)の付近とされている。凝香園はその向い側にあり、堀割を渡って入るようになっていた。その少し西に、鈴木左内とともに北沢を開いたという、榎木平蔵の屋敷があった。屋敷の場所には池があり、その水は凝香園の前の堀割に流れこんでいた。さらに行くと、八幡宮(勝利八幡か。世田谷区桜上水3)があり、松の古木が二本あった。

 この先、滝坂北道は滝坂道に合して甲州街道の滝坂に出るが、嘉陵は滝坂道を通らずに、赤堤の道(赤堤通り。世田谷区八幡山3)を歩いて、甲州街道の下高井戸の西に出ている。そのあと甲州街道を西に行き、上高井戸を経て滝坂(調布市仙川町2)の上から深大寺(調布市深大寺元町5)への道に入っている。道標が整備された道で、迷うことなく深大寺に出られたという。帰りは滝坂の上まで、もと来た道を戻り、恐らくは甲州街道を新宿へ向かったのであろう。嘉陵、時に74歳。この日、歩いた距離は40kmを越えていた。

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47.2 遅野井村八幡宮参詣 善福寺池 妙正寺池(2)

2009-07-26 22:24:03 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 来た道を戻って伊草(井草)に行き、寒泉寺(観泉寺。杉並区今川2)を訪れる。客殿につながる室は修理中であった。門の右手に拝殿と本社があったが何の神を祀るかは不明であった。庫裏には人が居る気配があったが、戸を締め切ったままであったため、何も聞けずに、その場を立ち去っている。寒泉寺は今川氏の菩提寺であったのだが、嘉陵が、そのことを知っていたかどうかは分からない。

 嘉陵は、門前に居た翁から妙正寺への道を聞き、その言葉通りに行くと、長屋門を構えた名主井口新之丞の家と、冠木門を構えた井口新十郎の家があった。その前を北に行くと妙正寺(杉並区清水3)の門があり、入ると左に番神堂、右に仮の鐘楼があり、奥には枝垂桜が見えた。寺の堂舎は一昨年、焼失したため、坊と堂を兼ねた庫裏があるだけだった。傍らに居た40歳ばかりの男に池への道を聞くと、案内してくれるという。池(妙正寺池。杉並区清水3)は大きくはないが、湧き水があり、池の水は東南に流れて下落合に至る(妙正寺川)ということであった。また、池の中の島には弁財天の祠が祀られていた。妙正寺の住職は不在で、堂舎建立のために、本所猿江の慈眼院に寄宿して、寄付を募っているという話であった。案内してくれた男は、井口新十郎といい、途中まで送ってくれると言う。天沼と井草の境の石橋まで送ってもらい、帰り道を細々と教わって、謝して別れている。なお、井口家の古文書は、現在、杉並区の文化財に指定されており、門の前にその事を記す標柱も立てられている。妙正寺池の水は、当時は湧水であったが、現在は地下水をくみ上げて、池の水を保っているということである。

 北西に行けば三宝寺や長命寺に出るが、すでに午後4時近くであったので、またの機会ということにして、帰路に着く。天の沼を経て高田へ行く道を進み、下高田の橋(小滝橋)を渡って、大久保中百人町(新宿区百人町)に出る。そこから、尾張戸山屋敷(新宿区戸山)の横を通り、月桂寺(新宿区河田町)の前を過ぎ、尾張の市谷北長屋下を経て、左内坂(新宿区市谷左内町)を通り、市谷御門から家に帰った。午後6時を少し過ぎていた。この日は、阿佐ヶ谷で休んだ以外は休みを取らなかった。歩いた距離は40km弱。嘉陵は数えで73歳になっていた。

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47.1 遅野井村八幡宮参詣 善福寺池 妙正寺池

2009-07-24 20:30:00 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保三年五月九日(1832年6月7日)、午前10時に三番町の家を出て、中野の法泉寺(宝仙寺。中野区中央2)の大師に詣でる。嘉陵は大師八十八箇所詣でをしようと思い、最初に、この寺を選んだと記している。ところで、高田村天満宮詣の記の頭書に、壬辰(天保三年)五月九日遊行富士見の茶屋、云々とあるので、この日は富士見茶屋(跡地は学習院内。豊島区目白1)に立ち寄った事になる。経路は記されていないが、三番町から高田馬場を経て面影橋を渡り、富士見茶屋に立ち寄ったあと、薬王院前を過ぎて西橋を渡り、小滝橋の近くに出て、御成山の麓を南に行き、法泉寺に出たのではなかろうか。

 ここから青梅街道を行き、鍋屋横丁から堀の内に行くのは熟知の道である。妙法寺を参詣したあと西に行き、谷の窪への道を分け、稲荷の祠を過ぎて馬道に出る。五日市街道と思われる。その四辻を北へ行くと青梅街道の馬橋である。さらに西に行くと阿佐ヶ谷で、ここで食事をとる。そのさき、天の沼村の八丁(杉並区天沼3)を通り、12時過ぎに遅野井に着く。馬橋からの道筋は民家が少なく、貧しい村が続いていると記している。

 嘉陵はここで遅野井八幡宮(図。井草八幡宮。杉並区善福寺1)を参詣している。現在の井草八幡宮からは想像しにくいが、社は茅葺で簡素な造り、宮主の住まいも人が住んでいるとは思えぬほどだったという。このあと、善福寺池(杉並区善福寺3)に行く。地元の人の話では、此処にあった善福寺、万福寺が廃寺になり、その跡地にある池なので善福寺池ということであった。池は一面に葦が生えていて、水面が僅かに見えるだけ。池の東縁にある弁財天の祠も分け入る事が出来ないため、遠くから手を合わせて立ち去っている。また、この辺り、民家は困窮しているようで、無住の寺も二ヶ所あったと記している。当時の善福寺池は、下から水が湧き上がって葦も浮き根になるほどであったが、現在は、地下水をくみ上げて池の水を確保しているという事である。周辺は公園として整備され、冬には水鳥も多く飛来する。嘉陵が行くことが出来なかった弁財天も、池の西北の小島に市杵島神社として残っている。

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46.白鳥の社を拝す

2009-07-20 10:40:14 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保三年三月二十五日(1832年4月25日)、嘉陵は北郊の花見に行っているが、紀行文の本文は無い。ただ、駒込追分の略図に、花見の道すがら初めて白鳥の社を拝すと書かれているだけである。嘉陵の略図からは少しずれるが、駒込近くで白鳥の社というと、妙義神社(写真。豊島区駒込3)が該当すると思われる。北郊の花見の代表格は飛鳥山になるが、今さら述べるまでも無いと考えたのだろうか、何の記載も無い。しかし、近くの王子権現(王子神社。北区王子本町1)や、滝野川八幡(北区滝野川5)については境内図が付けられている。
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45.隅田村道くさ

2009-07-17 21:33:00 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年九月六日(1831年10月11日)、隅田村に遊び、正福寺(写真。墨田区隅田2)を訪ねる。嘉陵は、文化十三年(1816)と文政十年(1827)にも正福寺を訪ねているが、紀行文中に、“もとこしは三十余年を経れば”、とあるので、それ以前にも正福寺を訪れたことがあったのだろう。今回、来て見ると、木立の下にあった古碑は墓所入口に移されており、あった筈の五重の石塔婆は何処にも見当たらない。昔は、毛氈を敷いたようだった高麗芝も今は無く、松は半ば枯れ、坊の後ろにあった茶亭は跡形も無かった。嘉陵は、時の移ろいを感じつつ、客殿の弘法大師像を拝んで、寺を出ている。

 嘉陵は渡辺周助から、「隅田村の百姓源右衛門の屋敷から、旗揚八幡宮と彫付けた石が出て来たので、中川飛騨守に訴えたが、いまだに音沙汰が無い」という話を聞いたことがあったが、今まで訪ねることはしなかった。今は源右衛門の子、五郎兵衛が後を継いでいて、古碑の文字が剥落していたのを、読み易く直したため偽物の様になり、評判も良くないので隠しているという事であったが、今回は、それでもと、五郎兵衛の家を訪ねている。しかし、そっけない応対であったので、掘り出した場所を教えてもらって、その場を辞した。

 そのあと、若宮八幡宮(荒川放水路工事に伴い隅田川神社(墨田区堤通2)に合祀)を参詣する。赤く塗った鳥居があり、社は板葺きで南に面していた。境内には楠の古木があったが、あとはみな松であった。別当は善福寺といい、客殿には弘法大師が祀られていた。食事の用意をしている嫗が居たが、僧の姿は見えなかった。嘉陵は、この辺の松と御殿山の松とを比べて、土壌によって違いがあるのだろうと述べている。また、堀の内妙法寺の杉が伐採され、江戸で売られていた事を取り上げて、杉は60年経つと役に立つが、自分は役に立っていない。我、杉に恥じると言うべきか、と書いている。

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