夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

大西洋航路

2010-05-29 22:31:21 | 絵葉書で海外の旅
 ニューヨークでの仕事を終え、今度はロンドンに向かうことになりますが、大正13年(1924)に、ニューヨークからヨーロッパに向かうには、船で大西洋を横断するしかありませんでした。リバプールで入手したと思われる絵葉書の中に、キュナード・ラインの客船の絵をカラー網版印刷したものが三枚入っていますが、多分、そのどれかに乗船し、大西洋を横断してリバプールに向かったのでしょう。大西洋航路の所要日数ですが、当時の渡航案内には、総トン数5万トンのアキタニヤに水曜に乗船すると火曜に到着すると書かれています。ただ、客船によって、また寄港地によっては、もっと日数を要したらしく、例えば、SCYTHIAの例では、11日を要したようです。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船、二代目のALBANIAを描いたものです。この船は1920年に建造されました。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船で、英国郵船・SCYTHIAを描いたものです。1921年の建造で、総トン数は2万トンです。

 上の絵葉書は、キュナード・ラインの客船で、英国郵船・ANTONIAを描いたものです。1922年頃の建造で、総トン数は1万4000トンです。 

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ニューヨーク(4)

2010-05-26 19:14:24 | 絵葉書で海外の旅

 上の絵葉書は、40丁目から北を見た五番街の写真です。左手に少し見えているのはニューヨーク公共図書館で、五番街と42丁目の角にあった巨大な貯水槽の跡地に、1911年に建てられました。この写真が撮影された当時、郊外の高級住宅地であった五番街は既に小売店が集まる商業地へと変貌していたようです。海外出張の折に五番街をショッピングして歩いたとは思えませんが、写真の場所は、1913年に完成したグランド・セントラル駅から遠くない場所でもあり、ニューヨークに到着して最初に見た繁華街であったかも知れません。なお、グランド・セントラル駅周辺にはホテルが多く、駅から地下道で連絡しているホテルもあって、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した旅客にとっては、宿泊するのに好都合な地区であったようです。

 次の絵葉書は、1809年に公園となったユニオン・スクエアの写真です。写真の中央、遠くに見える塔は、メトロポリタン・ライフ・ビルの塔のようです。説明書きによると、ユニオン・スクエアは、撤退の日(独立戦争でイギリス軍が撤退した日)の祝典が行われた場所であり、長い間、周辺はホテル地区でしたが、四番街にロフト・ビルが建つようになってから商業地区として発展を遂げたとしています。

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ニューヨーク(3)

2010-05-23 08:32:45 | 絵葉書で海外の旅

 上の絵葉書は、ブロードウエイとパーク・ロウの交差点にあった中央郵便局の写真です。この建物には、中央郵便局のほかに地方裁判所、巡回裁判所も入っており、連邦ビルとも呼ばれていました。この建物は、花崗岩で建てられた建造物の中では、世界で最も美しい装飾を持つビルの一つとして知られていましたが、後に移転して、跡地がシティ・ホール・パークの一部となりました。写真の左側の通りはブロードウエイ、右側の通りはパーク・ロウ、そして、中央郵便局の右側の後ろには、シティ・ホール(旧市庁舎)が少し見えています。なお、シティ・ホールの塔の上に立っているのはCivic Fame像です。

 次の絵葉書は、シティ・ホールの近くにある記録保管所の写真です。この建物は花崗岩で建てられ、内装は大理石、ブロンズ、マホガニーで仕上げられていました。説明書きによると、この場所には、登記所、郡事務所、代理裁判所、税務・法律関係部署の事務所が入っていましたが、ニューヨーク郡の土地の記録も保管していました。この建物は現存しており、今は代理裁判所になっているようです。

 次の絵葉書は、1883年に開通したブルックリン橋の1915年版の写真です。説明書きによると、当時の交通量は、通過した人数で一日に50万人、車の台数で5000台となっています。ニューヨーク滞在中に、この橋を渡ったかどうかは分かりませんが、橋を見る機会はあったのでしょう。橋の姿は今もそれほど変わっていないと思いますが、背景となるマンハッタンのビル群が描く輪郭線、ニューヨークスカイラインは様変わりしている筈です。この写真で、右側の塔のあるビルはシティ・ホール(旧市庁舎)。写真の中央に一際高く聳えているのがウールワースビル。その左の二番目に高いビルがシンガービル。その左の方形のビルはエキタブルビル。その左、上が三角形のビルがバンカーズ・トラスト・ビルでしょう。橋の下に目をやると、軍艦らしき船が航行していますが、その正体は分かりません。

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ニューヨーク(2)

2010-05-19 22:30:20 | 絵葉書で海外の旅

 上の絵葉書は、バッテリーパーク近くのボウリング・グリーンから始まるブロードウエイの写真です。当時、ここからシティ・ホール・パークまでの間が金融地区の中心で、世界的にも最大級の、また最も高いオフィスビルが集まっていました。絵葉書の説明書きには、代表的なビルとして、アダムス・ビル、シンガー・ビル、エキタブル・ビル、ウールワース・ビルの名があげられています。この写真では、道の奥にウールワース・ビルが見えています。ところで、この写真には路面電車が写っていますが、よく見ると、軌条が三条あります。景観を重視して暗渠式による地中給電方式を採用していたため、第三軌条から集電していたようです。

 次の絵葉書は、シンガー・ビルを写した写真です。シンガー・ビルは、ブロードウエイとリバティ通りの角にあったビルで、高さは186.7m。1908年に建てられた時は世界で最も高いビルでした。このビルは、残念ながら1970年に取り壊されてしまいました。絵葉書の説明書きによると、このビルには5000のテナントが入っていて、16台のOTIS製エレベータが設置されていました。このビルの建設で採用された基礎工法はケーソン工法で、岩盤に36個の潜函を沈めて基礎としていました。

 次の絵葉書は、世界一の高さ241.6mを誇っていたウールワース・ビルの写真で、建てられた1913年に写したものです。この絵葉書は夜景となっていますが、昼間に撮影したビル街の写真に夜空を組み合わせたものかも知れません。このビルは、1929年に高さ世界一の座を譲りましたが、今もなお、ニューヨーク有数のビルの一つとして存続しています。説明書きによると、基礎はケーソン工法を用い、費用は1500万ドルとなっています。なお、写真の左側に見えているビルはシティ・インベスティング・ビルのようです。また、その後ろに見えているのはシンガー・ビル、左下に見えている建物は中央郵便局(旧)でしょう。 

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ニューヨーク(1)

2010-05-16 10:52:57 | 絵葉書で海外の旅
 横浜からニューヨークへの経路は複数あり、パナマ運河経由のニューヨーク航路も開設されていましたが、特別の事情が無ければ、北太平洋航路で西海岸に渡り、大陸横断鉄道でニューヨークに向かったのでしょう。日本の海運会社による北太平洋航路を選んだとすると、日本郵船のシアトル航路、大阪商船のタコマ航路、東洋汽船のサンフランシスコ航路の何れかを選ぶことになりますが、仮に東洋汽船を利用したとすると、11000-14000トン級の設備の良い客船が利用出来ました。しかし、ホノルル経由でサンフランシスコまで16日ほど、大陸横断鉄道もシカゴ乗換で5日はかかるので、横浜からニューヨークまで3週間ぐらい要しました。一方、日本郵船の場合は6000トン級、大阪商船の場合は6000-9000トン級の貨客船の利用になりますが、所要日数はもっと少なくて済みました。ニューヨーク以外の絵葉書は無いので、大陸横断鉄道を途中下車して、各地を見て回ったかどうかは分かりませんが、何れにせよ、ニューヨークに着いてやっと一息といったところでしょうか。ニューヨークでの日程は分かりませんが、市内を見物するだけの余裕はあったのでしょう。それでは、自由の女神像から順番に、ニューヨークの絵葉書を見ていきましょう。

 最初の絵葉書は、カラー印刷による自由の女神像の、1914年版の写真です。ニューヨークに出張したのであれば、自由の女神像を眺めることはあったでしょうが、ベドロウ島(現在のリバティ島)に渡って、自由の女神像を見物したかどうかは分かりません。この絵葉書の印刷はフォトクロム方式のようですが、モノクロの網版写真をもとに多色を重ねた平版印刷で、手で彩色したような色ずれがあり、品質はさほど良いものではありません。ニューヨークで入手した写真版の絵葉書は、全て同じ方式で印刷されています。この絵葉書には、トーチについて世界で最も高い場所にある航路標識という説明書きがついています。

 次の絵葉書はマンハッタンの南端にあるバッテリーパークの写真です。左側に低層の建造物が見えますが、この頃は、水族館になっていました。それ以前は、キャッスル・ガーデン・フォートと呼ばれ、移民局が使用していましたが、元々は砦でした(現在はキャッスル・クリントン)。写真右側のビルは高さが126.9mのホワイトホール・ビルです。説明書きによると1911年に460万ドルの費用をかけて増築されましたが、当時は、港に最も近い摩天楼という事になっていました。バッテリーパークの向こうはハドソン川で、三本煙突の客船が航行しています。ヨーロッパに向かう船でしょうか。
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古い絵葉書による海外の旅

2010-05-13 21:36:08 | 絵葉書で海外の旅




 
 一昔前まで、絵葉書は旅のみやげの定番の一つでしたが、今では、デジカメに撮り溜めしておけば済む事なので、絵葉書を買う人も少ないかも知れません。昔は、絵葉書に旅の便りを書いて旅先で投函するのも楽しみなものでしたが、今なら、写真付きのメールで済ませてしまう事になるのでしょう。

 いま、手元に海外の古い絵葉書の束があります。大正13年(1924年)に欧米に出張した人が持ち帰ったものだそうで、未使用品です。同じ図柄のものが複数枚あったりするので、まとめ買いではなく、選んで買い求めたのでしょう。これらの絵葉書が制作後100年を経過しているかどうかは微妙なところなので、アンティーク・ポストカードとは呼べないかも知れません。それに、図柄も建物や風景ばかりで、値の張るものではなさそうです。それでも、これらの絵葉書の図柄は、旅行者が旅先で見たもの、或いは興味を抱いたものであった筈で、これらの絵葉書の風景や建物から、その旅を想像することは出来ます。そこで、見てきたような話になりますが、これらの絵葉書を通して、大正時代のニューヨーク、ロンドン、パリなどの風景を思い描きながら、当時の旅の跡をたどってみる事にしました。

 大正時代の欧米出張では船旅が必須ということになりますが、その航路には、アメリカを経由する東回りルートと、ヨーロッパ経由の西回りルートがありました。ここではアメリカへの出張を優先したと考えて、東回りルートで出張したとして話を進めることにしましょう。東回りでの渡航は、横浜から出航する事になりますが、大正12年(1923年)9月に発生した関東大震災により、横浜は壊滅的な打撃を受けていましたので、無事に出港出来るのかどうか気になるところです。確かに、横浜港が完全に復興するのはまだ先の事で、特に貨物の取扱については問題山積といった状態でしたが、当時の新聞によると、震災後すぐに港湾の復興に向けての作業が始まり、大正13年3月までに、岸壁の修理が進み、応急措置として大桟橋への仮橋も架けられていたようです。大正13年には、客船の運航に支障が無い状況になっていたのでしょう。その事は、大正13年3月の横浜寄港の発着表からも、うかがい知る事ができます。
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お知らせ

2010-05-09 17:04:11 | Weblog
 
わが家の花暦、今回はカラタネオガタマです。唐種の名が示す通り中国原産で、バナナのような甘い香りがするのでバナナ・ツリーとも呼ばれています。
 さて次回ですが、古い絵はがきによる海外の旅を連載することに致しました。目下準備中ですので、もうしばらくお待ちください。 それでは。夢七。
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千川上水花めぐり

2010-05-05 16:16:56 | 千川上水

 要町通りを渡って直進し、次の信号で右斜め前方の道に入り、板橋高の前を通るのが千川上水のルートである。ついでだが、この信号の所から直進する細い方の道は、旧鎌倉街道とされ、板橋に出る道である。板橋高の前の道は桜並木が続き、道が広い割には静かな道である。この道を進むと、次の信号のところで、桜並木は終わりとなる。角に庚申塔が置かれた五差路の、左前方の広い方の道が千川上水のルートである。フラワーボックスが並ぶ歩道を進み、板橋交通公園を過ぎると、道はやや狭くなって、道路工事中の場所に出る。工事の横を進めば川越街道に出るが、その途中の道路際に水神様が祀られている。千川上水はその下を流れ、病院の敷地内を抜けて、東京信金の横を通っている。川越街道を渡って、東京信金の横を入り、突き当たって左に行き、旧川越街道でもあるハッピーロードに入って右に行く。次の角の辺りが大山橋のあった所で、ここから左側に、踏切へ抜ける道が千川上水のルートということになる。踏切を渡ると、桜を多く植えている老人医療センターが左側にある。その先の信号で右側の細い方の道を入り、山手通りを渡って板橋区役所の横を通るルートが、千川上水の流路である。ここから中山道を渡ると、旧中山道仲宿の交差点に出るが、千川上水は旧中山道の手前で右に曲がり、旧中山道沿いに流れていた。しかし、町並みが近く汚濁の心配があったことから、明治17年に、街道から少し離れた位置に移されることになった。そのルートは、現・板橋区役所の場所から現・中山道を斜めに横断し、道路の向こう側に少し食みだして回り込み、現・中山道を斜めに横断して、現・板橋郵便局の南側を流れ、その先、旧中山道の一本南の道を流れるルートである。

 千川上水の流路通りには歩けないので、旧中山道仲宿の交差点から平尾宿に向かって旧中山道を歩き、現中山道を渡って、板橋郵便局の南側を通る道を歩く。桜並木のある下板橋通りを渡り、駅前公園を過ぎると埼京線の板橋駅前に出る。踏切を渡って次の信号を右に折れると、土手道のような少し高くなっている道がある。この道が千川上水の流路で、旧中山道より一本南の道である。道より一段低くなっている谷端小の横を過ぎると、南に向かって桜並木があり、さらに、その先にも、桜並木の道がある。そのまま進むと明治通りに出る。道の角に千川上水分配堰の碑が残っている。堀割の交差点を渡って千川上水公園に行く。公園内には水門用のバルブがあり、地下には分配堰や沈殿池が残っているという。しかし、バルブを仮に開けたとしても、水が流れ込むことは無いのだろう。行く宛の無い水で、地下の池を溢れさせるわけにはいかないのだ。現在、暗渠化された水路を流れて来た千川上水は、板橋駅のすぐ東側から石神井川に落とされている。そして、今の千川上水公園には、千川上水の遺物しか存在しない。この公園に漂っている奇妙な静けさは、その所為だろうか。明治通りは、今日もまた車の喧騒が絶える事が無く、その横で、公園の桜が音も無く花を散らしている。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で長崎分水の先にある橋を渡る。畑の中を流れる千川上水の右岸の細道をたどり、長崎と下板橋の境となる橋に出る。現在の五差路の場所にあった橋であろう。この先も、千川上水は畑の中を流れるが、右岸から少し離れた道を進み、次の石橋を渡って左岸を歩き、次の土橋で右岸に戻る。先に進むと、右岸から分水した水路に水車がある。現・板橋交通公園を過ぎ、現・川越街道に入る手前の辺りにあったという田留水車である。水車の南側を回る道を通って次の橋まで行くが、この先の川沿いには道が無い。ここから三つ目の橋が、川越街道が通る大山橋だが、この橋から先も川沿いに道は無い。東上線はまだ存在せず、千川上水の両側に畑が続いているだけである。途中、橋が一か所あり、その先に、北に流れる水路がある。現・板橋税務署付近にあったとされる、悪水を石神井川に流す洗堰だろうか。この水路からすぐ下流に橋があり、ここからは左岸に道が続いている。この道を進むと橋があり、その下流の南側に水車がある。この水車が喜内古屋水車だとすると、その上流の橋は高田道が千川上水を渡る橋ということになる。水車から先も川沿いに道は無いが、その先には橋があり、橋の南側に金井窪村の十字路が書かれている。その位置は定かではないが、東西の道が川越街道だとすると、この道が千川上水を橋で渡ったすぐ先が、板橋・平尾宿で旧中山道から旧川越街道への分岐点ということになる。この橋から先、千川上水は旧中山道に沿って流れていたが、次の橋からは川沿いに道が無く、二番目の橋を過ぎてから右岸に道が現れるようになる。この道の先に下水吐と記す水路が南に流れている。谷端川に悪水を落としていたのだろうか。また、その先に右岸から分水する水車も記されている。この水車は、現・板橋駅の近くにあったと思われるが、明治18年に板橋駅が開業しているので、この時の鉄道敷設工事に伴って廃止されたのかも知れない。「千川上水路図」は、この水車の下流に六ヶ所の橋を記し、その先に、中山道の下を潜って流れる分水と、旧名元枡と書かれた沈殿池を描いて、終わっている。

 「千川上水路図」の制作者や制作目的は分かっていない。書かれている内容から、明治16年頃の制作と推定されているだけである。この水路図に描かれている道や橋、それに流路さえ変わってしまい、暗渠化も進んでいる現在、この水路図により、千川上水の跡をたどることは難しい。ただ、美しい絵図を眺めながら、江戸から明治に移り変わって16年経った頃の風景を、あれこれ想像してみるだけである。上保谷新田の分水口から巣鴨の元枡まで六里二十町十七間。短い旅の原稿を書き終えて、いま、「千川上水路図」を閉じる。   「千川上水路図 完」


(注)今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
「千川上水探訪マップ」「千川上水関係資料Ⅰ」「千川上水三百年の謎を追う」「千川上水―昭和27年の写真を中心に」「豊島区地域地図第6集」「千川上水路図解説」「千川上水の今と昔」「千川上水用水と江戸武蔵野」「東京都市地図」などの資料、及び「千川上水 歴史・写真・探訪」「練馬の歴史と文化財・千川上水」などのホームページ。その他、現地の説明板など。
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千川上水花めぐり(8)

2010-05-02 08:21:07 | 千川上水
 江古田二又から先、両側の歩道には桜が植えられている。次の信号で南側の歩道に移って歩いて行くと地域集会所があり、その入り口に半鐘が置かれている。明治37年に千川上水の土手にあった火の見櫓の半鐘という。その頃の桜並木がどうだったかは分からないが、半鐘は桜の上に出ていたのだろうか。南側の歩道をさらに歩いていくと、桜のトンネル状態が続くようになるが、それも束の間で、桜並木は突然途切れてしまい、中野通りと千川通りの交差点に出る。この交差点を直進する道は清戸道で、二又交番で目白通りと合流して江戸川橋に向かっている。左右の道は鎌倉街道と伝えられ、右に行けば哲学堂を経て中野に向かい、左に行けば板橋に出る。千川上水は、この交差点で直角に左へ曲がっている。北側から石神井川に注ぐ谷の上流部が入り込み、南側から妙正寺川に注ぐ谷の上流部が入り込む場所で、千川上水は向きを変えていることになる。なお、交差点の南東側は大正時代に牧場があった所で、その事を記した説明板が交差点の南東角に置かれている。

 交差点を左に曲がって、西武池袋線の踏切を越えると、両側の歩道に桜が植えられている。八重の桜が植えられている右側の歩道を歩いていき、岩崎水車が近くにあったという派出所を過ぎると、歩道と車道の段差が次第に開いていくようになる。築樋の跡の道である。その先、千早高を過ぎて、右前方の道を入ると、桜の下に庚申塔が祀られている。次の角にある千川親水公園は千川上水の跡を公園にしたもので、千川上水の流路が、ここで直角に曲がっている。この場所に架けられていたのが庚申橋で、先ほどの庚申塔も橋の傍らにあったという。桜並木の千川親水公園に沿って進むと要町通りに出るが、その手前に金網で囲まれた場所がある。釣り堀があった跡といい、付近に置かれている石の板は、千川上水に架かっていた石橋に使用されていたものという。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で、江古田二又からの道をたどる。ここから、千川上水は清戸道の南側を流れるようになるので、木橋を渡って左岸に移る。清戸道沿いには人家が多いが、右岸は畑地が続いている。橋を4か所通りすぎると、千川上水が左に直角に曲がっている場所に出る。その曲がり角から、現・落合南長崎駅付近の五郎窪を通って妙正寺川に注ぐ、葛ケ谷村分水が分かれている。清戸道は千川上水が曲がって直ぐの木橋を渡って直進していたが、渡った先に、11坪ほどの水番屋が、江戸時代に作られていた。その場所は、現在の交差点の北東側、ファミリーレストランのある辺りとされるが、この水番屋が明治時代まであったかどうかは分からない。「千川上水路図」は、流路が大きく屈曲している場所では、紙を流路に合わせて貼り合わせ、扇状に折り畳んでいる。その一例が、千川上水が直角に曲がる、この辺りである。

 当時、西武池袋線は存在しなかったので、そのまま、千川上水の左岸を進むと、二つ目の橋の先に、右岸から分水している岩崎水車があった。橋があって左岸から見に行くことは出来たようである。この水車の先、谷の上流部が入り込んでいるため、千川上水は築樋を流れるようになる。この谷は能満寺の前の田圃から現・小竹向原付近を抜けて石神井川に流れ込む谷である。ここから橋を二つ過ぎると、千川上水が直角に曲がっていて、庚申橋が架かっている。さらに左岸を進むと、長崎村の分水が分かれている。この長崎分水は、近くの弁天池を水源とする谷端川の助水となり、農業用水として使われた分水である。この分水を入れた谷端川は南に流れ、現・椎名町駅の南側を回ってから、北に向きを転じて現・下板橋駅に至り、その北側を回ってから向きを変え、下流は小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいたが、現在は全区間が暗渠となっている。 
   
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