夢七雑録

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残堀川から根川緑道へ

2019-04-08 19:11:05 | 散歩道あれこれ

狭山池に発する残堀川は、玉川上水と立体交差して南に流れ、昭和記念公園内を通り、西立川駅の東側を流れ、大滝と呼ぶ人工の滝から流れ落ちて、下を流れていた根川に合流し、根川を残堀川の名に変えて多摩川に合流していた。その後、立川橋の手前で多摩川に流入するショートカットの水路が造られると、残堀川はそちらを流れるようになり、切り離された元の根川の下流は根川緑道として復活することになった。

西立川駅南口から富士見通りに出て富士見橋に行き、残堀川に沿って歩く。滝口橋から先は川沿いに歩けないので、富士見通りに戻って富士見高架を下り、その先を左に滝下橋まで行く。橋から上流を眺めるが、ここから大滝が見えるわけではない。

残堀川の右岸を歩いていくと山中坂下橋に出る。橋から下流を見ると、右岸には桜が続いている。

馬場坂下橋から下流を眺め、中央線の橋梁を列車が通るのを待って写真を撮る。

中央線の橋梁から先も、右岸には桜並木が続いている。川はやや左に曲がっていき、対岸にも桜が見えるようになると間もなく立川橋で、奥多摩街道のバイパスである新奥多摩街道がその上を通っている。残堀川はこの先、根川と分かれて、多摩川へと流れていく。

立川橋を渡り残堀川の左岸を少し戻ったところに、根川緑道の入口がある。根川は上流が断ち切られてしまったため、浄化した水を入口近くから緑道に流すことで、根川の流れを再現している。ここから柴崎橋まではAゾーンと呼ばれ、“生物”を表す区画になっている。

Aゾーンには、流れもあれば、庭園風の池もある。桜のほか様々な植物もあり、野鳥も来ていて変化のある区画になっている。この区画の途中に琴帯橋跡という表示があり、今では単なる道になってしまったが、どんな橋で、橋の名の由来はどうなのか知りたい気もする。

先に進むと柴崎橋に出る。橋の上には多摩モノレールが通っていて、通りの名も多摩モノレール通りになっているようだ。柴崎橋から先はBゾーンと呼ばれ、“遊び”を表す区画になっている。川での遊びというイメージだろうか。

根川緑道を先に進み、新奥多摩街道の根川橋の下を潜る。ここから先はCゾーンで“休息”を表す区画になっている。桜も多いので花見にはもってこいの場所である。ここを先に行くと甲州街道の下を潜るが、この先はDゾーンとなり、“散策”を表す区画となる。ここからは来た道を戻り、多摩モノレールで立川に向かう。

 

旧葦見橋の銘板を参考に、甲州街道と根川に架かる橋についてまとめてみた。柴崎体育館の東側の道は旧甲州街道で、根川に架かる橋を渡って、日野の渡しで多摩川を渡っていた。大正15年、多摩川に日野橋が架けられたとき、根川にもアーチ式コンクリート橋が架けられ、辺り一面が葦の原だったため葦見橋と名付けられた。これにより、甲州街道は葦見橋を経て日野橋を通るようになり、日野の渡しは廃止されることになった。なお、明治39年の地図では少し上流に橋があり、大正10年の地図では葦見橋の位置に橋があるので、大正15年より前にも橋はあったかも知れない。昭和63年、老朽化により葦見橋は撤去され、盛り土により拡幅された。この時に根川緑道と野球場等との間を地下道で結んだという。つまり、甲州街道が根川を渡る橋は消滅してしまったことになる。一方、旧甲州街道が根川を渡る橋は、姿が変わったにせよ残されている。

 

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小竹向原から光が丘へ

2019-04-05 21:08:23 | 散歩道あれこれ

小竹向原から光が丘まで歩いてみた。

有楽町線小竹向原駅の2番出口から出ると遊歩道がある。遊歩道は東側にもあり1番出口は東側の遊歩道に出るようになっている。東側と西側の遊歩道は放射36号線(要町通り)の両側にあり、“さぶろく四季の道”と呼ばれている。

四季の道を先に行くと環七に出る。ここを右に行き、歩道橋の先を左に入って道なり進み、小茂根4丁目公園を過ぎ、突き当りを右に折れ左に折れて茂呂山通りを下る。右手の茂呂山公園に上がり、花見を兼ねて小休止したあと茂呂山通りを北に進む。

茂呂遺跡を右に見ながら下って、石神井川を栗原橋で渡ると城北中央公園に出る。公園内の桜の道から石神井川を振り返ってから、茂呂山通りを北に進み交差点に出る。今は暗渠となってしまったが、以前は田柄川という小さな川が、この交差点付近を通って城北中央公園の外周沿いに西から東に.流れていたという。田柄川の水量は少なかったらしく、江戸時代には石神井川を堰き止め水位を上げて田柄川に合流させるという事もあったらしい。

交差点手前の左側、田柄川跡を遊歩道とした田柄川緑道を歩く。この道に入り西に向かって進むと城北公園通りに出る。田柄川緑道は、この通りを横切って先に続いている。緑道は円明院を過ぎて北に向かい、川越街道に出る。

 

川越街道を渡って田柄川緑道の続きを歩いて行くと、桜の下に橋があった。面白い趣向で川も緑道になれば橋で渡るのである。ところで、玉川上水から分水した田無用水からさらに分水した田柄用水が明治時代に設けられたが、この用水は田柄川の北側を通り、現在の川越街道の北側にあった旧川越街道の下練馬宿に沿って流れたあと、田柄川に合流したとされる。明治30年の下練馬村全図によると、田柄用水が田柄川に合流したのは、桜の下の橋の近くであったことになる。ただし、他に流路があったのかも知れない。

 

田柄川緑道は環八の上を歩道橋で越えていく。先に進むと綱吉御殿跡之碑がある。五代将軍徳川綱吉が館林藩主だった頃、鷹狩の際に滞在したという御殿がこの辺りにあったと伝えられているからだが、明治30年の下練馬村全図には、この碑の南方に御殿跡と表示がある。

御殿跡之碑から先、田柄川緑道には桜並木が続くようになる。桜を眺めながら、歩く速度を多少落として先に進む。やがて緑道は左に曲がり、川越街道を渡る。

  

先に進むと、田柄川緑道は工事中の道路で分断されている。この道路は放射36号線(要町通り)に続く放射35号線で、北上して新大宮バイパスにつながる幹線道路として計画されており、同時に周辺のまちづくり計画も進められているので、田柄川緑道の周辺の景観も変わるかも知れない。

工事中の道路を渡って田柄川緑道を先に進むと、緑道は道路中央の暗渠の上だけになり、桜も所々にあるだけになる。緑道はやがて都道442号北町豊玉線を横切るが、この道路は埼玉道と呼ばれ江戸時代には東側の下練馬村と西側の上練馬村の境になっていた。寛政4年の写しとされる下練馬村絵図からすると、上練馬村との境には溜池があり周辺の湧水を集めていたようである。一方、安政3年の上練馬村絵図には川の表示が無いので、溜池の上流には川と言える程の流れはなかったのだろう。

やがて、暗渠の上の緑道も姿を消し、所々に桜がある車道へと変わる。田柄中央児童遊園を過ぎると道は右に曲がっていくが、本来の流路と同じかどうかは分からない。やがて長屋門をかたどった門が見えてきて、道路を渡れば光が丘の秋の陽公園になる。田柄川の源流は光が丘より西にあったと考えられているが、実際には湧出量が少なく殆ど枯れた川になっていたらしい。そのため、実際の流れの始まりは秋の陽公園の辺りとされている。

トイレを兼ねた長屋門をかたどった建物を潜ると、その先に溜池、田圃が作られている。秋の陽ではあるが、長屋門の前の桜がすでに満開のように見える。秋の陽公園から幼稚園裏手にまわり歩道橋で光が丘公園に出る。赤塚口への桜並木を眺め、花見に向く芝生広場を通り抜け、ついでに春の風公園まで足を延ばしてから光が丘駅に行く。

 

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仙台堀川公園の桜を見に行く

2019-04-02 17:07:22 | 散歩道あれこれ

旧中川の上に架かる東大島駅で下車。江東区と江戸川区にまたがる大島小松川公園を駅ホームから眺めてから大島口に出る。わんさか広場を抜け、中川船番所資料館に出るが、ここは何度か来ているので、本日はパスして資料館の前の小公園から平成橋方向を眺める。

船番所跡を右に小名木川沿いに進むと番所橋がある。ここから先は、小名木川の遊歩道を歩き塩の道橋から番所橋方向を眺める。小名木川は江戸時代の初めに行徳の塩を運ぶために開削された運河で、明治時代になっても重要な水運ルートとして利用されていた。

塩の道橋の南側にある仙台堀川公園に入る。花見の時期には屋台も出て、公園内は花見客で混雑している。

ここは、大正時代に開削された砂町運河の跡だが、後に仙台堀川の一部として扱われ、さらに埋立てられて公園となり、今は南北に通じる細い水路沿いに1km近く桜並木が続いて、恰好の花見の場所になっている。

桜並木は清洲橋通りで一旦途切れる。先に進んで、古民家の旧大石家住宅を過ぎると、その先で仙台堀公園は右に続いていく。砂町橋から先にも桜はありそうだが、今回は橋に上がって丸八通りを南に、南砂三丁目公園を抜けて南砂町駅に出る。

 

 

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