夢七雑録

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紅葉の旧朝倉家住宅

2019-12-16 19:08:06 | 東京の文化財

代官山の駅から近い旧朝倉家住宅(渋谷区猿楽町29-20)は、東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎氏が大正8年(1919)に建てた住宅で、その後、旧農林省や経済企画庁などを経て現在は文部科学省(文化庁)の所有となり渋谷区が管理している。旧朝倉家住宅は、関東大震災以前の和風住宅として貴重であることから、主屋と土蔵が重要文化財に指定され、復元された車庫と庭門が付属指定されている。

旧朝倉家住宅の観覧料は100円、60歳以上は無料というのは少々申し訳ない気もする。門と主屋の間は前庭に相当するのだろうが、余分なものは見当たらない。大正時代、市街地の周辺部に位置していた朝倉家にとって、車は必須だったので車庫は設けられていた。

下足箱に靴を入れ番号札は持ち歩く。スリッパは禁止。決められた順番に従い左に行くと、床の間のある来客用の応接間がある。ここから順序通り2階に上がる。大正時代からの建物ゆえ、歩けば多少はきしむので、静かに階段を上がる。

階段を上がり、東側にある二間の和室を見てから、西側の広間に入る。15畳の広間と12畳半の次の間から成る格式のある部屋で、会合があった時に使用されていたという。二階南側の廊下からは庭が見下ろせるほか、昔は富士山を望む事が出来たらしい。

階段を下りる。北側にも部屋があるが、家族や使用人が使っていた部屋で見学は出来ない。廊下を南に行けば角の杉の間に出るが、順序通り中庭に沿って右に行く。

中庭を南側から見る。手前の蹲の先に小さな池がある。中庭の北側にも部屋はあるが公開はされていない。中庭の西側には土蔵があるが非公開になっている。

中庭に沿って先に進むと、突き当りの右手に円窓の部屋がある。隙間から少しだけ見える外の景色が面白い。その左側は茶室ということだが、四角形の額縁のような窓が気になる。

奥の杉の間に入る。松の一枚板を使用した踏み込み床があるが、素人目には床の間に見えない。遊び心で造った床の間の変形なのだろうか。

表の杉の間に行く。杉の木目を意匠とする数奇屋座敷というが、それはそれとして、座敷から眺める庭の景色に心癒される部屋でもある。

角の杉の間を見てから、第一会議室に行く。ここは、仏間、中の間、寝間があった所で、朝倉家の日常生活の場だったのだが、朝倉家住宅が官庁の所有になった時に会議室に改造したという。ただ、ここから眺める庭の景色は、昔の面影を残しているのだろう。

第一会議室から洋間に向かう。大正から昭和にかけて、玄関脇に洋間のある和洋折衷の住宅が建てられるようになるが、朝倉家住宅も玄関脇に洋間を設けており、商売に関わる来客との対応や執事の事務室として使われていたという。

玄関を出て復元された庭門から庭園に入り、主屋の前の庭に行く。朝倉家住宅は崖線に位置し、庭園は北側の主屋付近の平坦地と、南側の目切坂に至る斜面地から成っている。

朝倉家の庭園は大正時代の作庭の特徴を示す庭だという。斜面全体は自然の雑木林のようにも見えるが、それでいて、随所に石灯籠などが配された庭になっている。

この庭園には、笹塚の辺りで玉川上水から分水して東南の方向に流れていた三田用水から水が引かれており、時には小さな滝となって斜面を流れ落ちるようになっていたようだが、今は水が流れていない。朝倉家の庭園は、眺める庭ではなく、散策するための庭のようである。

斜面を上がって行くと、主屋の西側にある土蔵が見えてくる。さらに先に進むと、再入場不可の出口があった。住宅も庭園も一通り見たので、今回はここから外に出る。

ヒルサイドテラスの敷地を抜け、旧山手通りを左に行くと、左手に猿楽塚が見える。ここには古墳時代末期の円墳が2基あり、そのうちの大きい方が猿楽塚で、高さは5mほどである。ヒルサイドテラスを含む一帯は朝倉家の敷地だったところで、大正時代に朝倉家によって塚の上に猿楽神社が建立されている。なお、小さい方の円墳は立入禁止の場所にある。

 

 

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東伏見公園、下野谷遺跡公園、武蔵関公園

2019-12-05 19:51:00 | 公園・庭園めぐり

東伏見公園は、都道12号線(調布田無線)のうち、西武線の下をトンネルで抜ける区間(伏見通りの一部)が開通したのに合わせ、2013年4月に開園した新しい都立公園である。公園は未完成のようで、現在より西側に拡張するとともに石神井川を含む広い公園とする構想もあるらしい。

西武柳沢駅を南口に出て東伏見公園に行く。公園の西側はもともと千駄山広場という場所だったようだが、現在は多目的広場のようになっている。なお、園内の案内図は古いままのようで、現在の公園は東側に拡張されている。

東伏見公園の北側には西武線の電車を眺められるデッキが設けられている。デッキの近くには、千駄山ふれあい歩道橋という西武新宿線の跨線橋があり、眺めも良い。

公園東側の小さな丘から公園全体を眺める。この時は見えなかったが、この公園から富士山が見えるらしい。

丘の上にはローラー式すべり台が設けられている。丘の上から東側を眺め、都道12号線のトンネルの上の道を南に進む。右側には東伏見稲荷神社の森が見える。昭和4年(1929)に関東の稲荷信仰者のため京都の伏見稲荷の分霊を迎えた神社で、東伏見の地名はこの神社に由来する。

交差点を渡って石神井川の右岸を下流に向かって歩く。写真は、弥生橋から上流の東伏見橋方向を見たもので、石神井川は改修されているようである。

石神井川の右岸を進み、下野谷(シタノヤ)橋の手前で右側の丘に上がると、“下野谷遺跡”の上に造られた下野谷遺跡公園に出る。ここは縄文中期の環状集落が隣り合う大規模な集落跡で、遺跡の保存状態も良いことから、国の史跡に指定されている。なお、下野谷遺跡と連続する大規模遺跡として、下野谷橋下流の富士見池南側に富士見池遺跡群がある。

下流に向かって進み、溜渕橋を渡ると、富士見池を中心とした武蔵関公園に出る。上の写真は池の南側にある石神井川の取水口で、石神井川の水位が上がった時は、溢れた水が富士見池に流れ込むことで、周辺が洪水になる事を防いでいるらしい。平常、石神井川は、公園の南側から東側を水路で流れ、北側で富士見池の水を合流させているが、あまり目立たない。

富士見池の名称からすると、昔は池から富士山が見えたのかもしれない。今は富士山も見えないと思うが、その代わり池の周辺に大木が茂ることで、緑に包まれた公園になっている。

武蔵関公園は、江戸時代の溜池がもとになり、大正時代の若宮遊園を経て、昭和13年に東京市の公園として開園している。この公園は昭和50年に練馬区に移管され現在に至っているが、二つの島がある富士見池の形は、開園当初からさほど変わっていないようである。

富士見池の北側に行く。ここから西に行けば東伏見駅に出るが、今回は弁天橋から線路沿いに進み武蔵関駅に向かう。今年もすでに12月。駅近くの本立寺のお会式には、関のボロ市という市が開かれるが、それも、もうすぐである。

 明治42年の地図を見ると、富士見池の位置には石神井川の水路と田があるだけで池は無い。明治14年の地図では、北側に小さな沼が描かれているが、他は荒地で複数の水路が見られるだけである。湧水はあったにしても、池になる程の水量ではなかったのだろう。それでは江戸時代はどうだったのか。調べてみた。

 富士見池から少し南に、玉川上水から分水して江戸に水を送っていた千川上水が流れていた。宝永4年(1706)、千川上水から分水して農業用水として使うことが許されたが、その一つが関村分水で、関村と上下石神井村で使用した。その後、関村に溜池が造られたため、この溜池の水を農業用水に使うようになった。「新編武蔵風土記稿」によると、関村の用水は村内の溜池より引くとあり、また、上下石神井村などの村々とともに組合を作り、溜池からの水を引いて農業用水として利用した。この用水は石神井用水と呼ばれ、複数の水路で田を潤したあと、下石神井村で三宝寺池から流れて来る石神井川に合流していた。

 天明4年(1784)の「関村絵図」には、千川上水からの関村分水と石神井川とを堤で堰き止めた溜井(溜池)が描かれ、堤の下流に田を潤して流れる複数の水路(石神井用水)が描かれている。江戸期の作成と考えられる「関村溜井絵図」からすると、溜池の大半は湿地になっており、池は堤近くの小さな池だけになっている。「新編武蔵風土記稿」には、村に水害が多い事を憐れんだ幕府の役人から弁天の木像を与えられ、その像を溜井の側に祀ったところ、水害が稀になったと記されているので、この木像を祀った弁天社の池が「関村溜井絵図」に書かれた池であったと思われる。なお、弁天社は天祖若宮八幡に合祀されており、今は橋に名を残すだけになっている。

 

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