夢七雑録

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武蔵野三十三観音めぐり・その12

2021-07-22 10:55:21 | 寺社巡拝

  【吾野駅から32番~33番札所】

<コース>

吾野駅―浅見茶屋―32番子ノ権現―豆口峠―33番竹寺―小殿:9km

31番の札所までは、札所の住所をもとに自分なりのコースを考えて歩いてきたが、32番と33番のコースについては、既存のハイキングコースを利用することにした。

 

(32)第32番 子ノ権現・天龍寺(埼玉県飯能市大字南461)

32番札所へのコースは、吾野駅を出てから地下道で線路の反対側に行き、その先を芳延橋に向かう近道を歩くのだが、この道が今も通れるのかどうかは確認していない。芳延橋からは川沿いの車道を上がる。車道は浅見茶屋の少し先で終り、降魔橋からはジグザグの山道となって、駐車場近くの車道に出る。ここから、県の天然記念物の二本杉の横を通って子ノ権現・天龍寺の境内へ。ここには本堂や茅葺の本坊のほか、鉄のワラジもある。寺の草創は子ノ聖とされ、本尊も子ノ聖だが、札所の本尊は十一面観音になっている。なお、本堂には、飯能市有形文化財の不動明王立像も安置されている。 

新編武蔵風土記稿は、秩父郡南村に属してはいるが里正(村長に相当する)を置いて分郷のようになっていた中澤組の項に、子ノ権現社を取り上げ、その名は世に聞こえ繁栄しているとし、除地(年貢を免除される土地)は八段七畝十四歩と記す。同書は、子ノ聖が湯殿山や月山での修業のあと、我野(吾野)に滞在していた時、酒を飲んだ鬼たちに放火されて腰をいためた事から、腰下の病のある者が祈れば験ありとし、この山では固く酒を禁止すると言い終えて昇天したという縁起を取り上げている。また、子ノ聖が昇天した後、人々が社を建てて祀ったのが子ノ権現社で、その別当である天龍寺の開山は子ノ聖の弟子の恵聖としている。

新編武蔵風土記稿では、子ノ権現への道について、北の麓より嶮しい坂を登ること1里ほどとし、他に東からと南からの道があると記している。明治40年の地図からすると、北の麓からの道として考えられるのは、山崎(西吾野駅から近い位置にある)から小床を経て上がる道、下久通から上がる道、下久通の西側から上がる道の何れかと思われ、これらの道は合流した後、吉延(吾野駅近くの芳延橋の辺り)から来る東からの道と合流して、子ノ権現に出ている。一方、南側からの道は上中澤から子ノ権現境内に上がってくる道に該当すると思われる。同書には子権現境内之図という南側から見た鳥瞰図が載せられており、この図に描かれている、川沿いに進んで子ノ権現に上がる道が、南からの道に相当するようである。この道は、飯能から原市場、中藤、下中澤、上中澤を経て子ノ権現に至る参詣道であったのだろう。この図には阿字山に登る道が見え、その山頂には大日の露座仏らしきものが描かれている。阿字山の裏手を経て二本杉の前を通る道も描かれているが、この道は北からの道と東からの道が合流した道と思われる。なお、この図には座禅石から寺の裏手に出る道も描かれている。

 

(33)第33番 竹寺・薬寿院八王寺(埼玉県飯能市大字南704)

子ノ権現天龍寺の裏側から外に出て竹寺への道を進む。この道は、札所めぐりの道として昔から利用されていたのだろうが、現在はハイキングコースとして整備されおり、山歩きの初心者にも向いたルートになっている。現状については確認していないが、途中には林が途切れて西側が見渡せる場所もあり、多少のアップダウンはあるものの快適に歩けるコースである。豆口峠を過ぎると道は下り坂となり、竹寺に出る。寺の正式名称は医王山薬寿院八王寺だが、周辺に竹が多いこともあり、いつの頃からか竹寺と呼ばれるようになったらしい。この寺は、精進料理で知られており、また俳句の寺としても知られている。薬寿院八王寺は神仏習合の寺として知られ、本尊は牛頭天王になっている。札所本尊は聖観音で、武蔵野三十三観音の結願の寺でもある。参拝を終えたあと展望台に上がり、それから急な斜面を下って、小殿のバス停に出る。これにて今回のコースは終わりということになる。

新編武蔵風土記稿では、中澤組の項に薬寿院を取り上げ、本尊は不動で木の座像とし、開山は不詳だが中興の僧は祥雲としている。また、地蔵、弥陀、薬師の木像などがある地蔵堂には、地蔵堂領として2段7歩が除地になっていると記している。寺の後の山には牛頭天王社があり、神体は木の座像で、他に牛頭天王の8人の子である八童子の像もある。寺は医王山八王子と号し、銅鋳の大日像にも八王子と鋳出しているが、八童子を八王子と呼んでいたらしい。しかし、新編武蔵風土記稿では八王子は八王寺の誤りではないかと考えていたようである。そして、現在の寺の名称も、八王子ではなく、八王寺を採用している。

今回をもって武蔵野三十三観音めぐりは終了ということになる。当初は全てを歩いて巡る事を考えていたのだが、実際には歩く代わりに電車を利用した区間もあり、歩くには相応しくないコースもあった。また、新たな道路が開通した区間もある。本来なら、より良いコースを考えて、もう一度歩いてみるべきなのだろうが、今は出来そうにない。そこで、過去の記録と記憶をもとに、武蔵野三十三観音めぐりとして公開するにとどめた。

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武蔵野三十三観音めぐり・その11

2021-07-04 13:32:34 | 寺社巡拝

【高麗駅から吾野駅・28番~31番札所】

<コース>

高麗駅―28番滝泉寺―29番長念寺―30番福徳寺―31番法光寺―吾野駅:12km。

 

(1)第28番 瀧泉寺(埼玉県日高市大字横手79)

このコースは、高麗駅から吾野駅まで、国道299号沿いに点在する4カ所の観音札所をめぐる事になるが、信号のある横断歩道は僅かしか無く、車に注意しながら歩く少々煩わしいコースでもある。高麗駅から踏切を渡り、台の交差点から左へ右側の歩道を歩く。高麗川を高麗橋で渡って先に進むと、右側に石垣と白壁で囲まれた第28番札所の瀧泉寺が見えてくる。

瀧泉寺の本尊は千手観音で、観音めぐりの札所本尊も千手観音である。新編武蔵風土記稿では、高麗郡横手村に瀧泉寺を取り上げ、本尊は不動とし、慶安2年(1649)に観音堂領9石のご朱印を賜ると記す。伝承では萬壽2年(1025)の草創で観音堂も同年とするが、開山開基は伝わっていない。

 

(2)第29番 長念寺(埼玉県飯能市白子260)

瀧泉寺を出て国道を右に行く。関ノ入沢を渡り、武蔵横手駅を通り過ぎて、高麗川に沿って北から西へさらに南へと曲ると、長念寺の看板が見えてくる。その先、道沿いに続く石垣の途中の石段を上がると、長念寺の観音堂への参道に出る。参道の周囲には紫陽花が植えられている。

本堂の本尊は聖観音菩薩立像(市指定文化財)で、観音堂の本尊は聖観音菩薩座像(県指定文化財)になっている。なお、入間市の高倉寺にある国指定重要文化財の観音堂は、長念寺にあった観音堂を移設したもので、現在の長念寺本堂の本尊は、高倉寺に移設する前の観音堂にあった像という。寺の草創は定かでないが、境内の板碑のうち最古のものに正安元年(1299)と記されていることもあり、鎌倉時代末の草創と考えられている。

新編武蔵風土記稿では、高麗郡白子村に長念寺を取り上げ、天正19年に寺領として10石の朱印とし、中興開山は格外玄逸(慶長8年寂)とする。また、大石定久や北条氏邦の文書ありと記す。同書に掲載されている長念寺の境内図には、高麗川に面する側に石垣が築かれ、境内の左側には塀などで囲まれた区画に、門、本堂、衆寮と思われる建物が描かれている。また、境内の右側には観音堂と参道が描かれている。

 

(3)第30番 福徳寺(埼玉県飯能市虎秀71) 

長念寺を出て国道を右に行く。国道は高麗川沿いとなり、医療介護センターの交差点に出る。ここを左に、高麗川を渡って東吾野駅に出る道は、100m足らずの県道になっているが、ここでは渡らず、国道を先に進んで虎秀川を渡り、次の角を右に行き虎秀川沿いに北へ行く。やがて、右側に福徳寺の入口が見えてくる。

入口から坂を上がると福徳寺の本堂に出る。寺の本尊は釈迦如来で札所本尊は聖観音という。福徳寺は隠居寺であったということだが、現在は無住になっているので内部を見ることは出来ない。新編武蔵風土記稿では高麗郡虎秀村の項に福徳寺を取り上げ、慶安2年(1649)阿弥陀領に2石5斗の朱印と記し、本尊は釈迦とする。開山は宝山(寛喜2年(1230)寂)で建暦2年(1212)の草創という。

境内には国指定の重要文化財である阿弥陀堂がある。指定されたのは昭和24年のことで当時は茅葺であったが、昭和30年に本来の形に戻す復元修理が行われ、現在のような銅板葺になっている。建てられたのは鎌倉時代末期と考えられている。堂内の厨子には阿弥陀如来を中心に観音菩薩と勢至菩薩による鉄造阿弥三尊立像が安置されており、埼玉県の文化財に指定されている。通常は非公開だが11月に御開帳されている。

 

(4)第31番 法光寺(埼玉県飯能市坂石町分333)

福徳寺から国道に戻る。福徳寺の納経所は、国道を右に1kmほど行った興徳寺になっている。なお、右側の歩道で国道を先に進むと吾野トンネルで行き止まりになるので、先に行くのであれば左側の歩道に移っておく必要がある。平成9年に歩いた時には、興徳寺の存在について気付かず、行ってもいない。東吾野駅付近で国道を左側の歩道に移ったようで、高麗川沿いに歩いた記憶がある。また、吾野トンネルはまだ無かった。

高麗川に沿って先に進み、2カ所の西武鉄道のガードを車に注意しながら通り抜け、吾野橋で高麗川を渡る。渡った先は、吾野宿という秩父街道の馬継の宿場跡で、坂石町分という地名になっている。この地名は、農村であった坂石村のうち町として活動していた地域に対する呼称で、後に坂石村から独立している。今も宿場だった頃の面影を残している道を先に進むと、法光寺の入口が見えてくる。新編武蔵風土記稿では秩父郡坂石町分のうちに法光寺を取り上げ、天正19年(1591)3石のご朱印ありとする。また、開山は日峰伊鯨(天正19年寂)で開基は岡部新左衛門と記しているが、真言宗から曹洞宗への改宗時の開山、開基のようである。

法光寺の山門を入ると正面が本堂になっている。本尊の延命地蔵は、檜材寄木造の地蔵菩薩座像で、埼玉県の有形文化財(彫刻)に指定されている。胎内の銘文に至徳3年(1386)岡部新左衛門開眼供養とあるので、創建はそれ以前ということになる。寺伝によれば先祖の岡部六弥太(忠澄)の菩提の為に建てたという。岡部忠澄は武蔵七党のうち猪俣党に属し、一の谷の合戦で薩摩守忠度を討ったが、文武両道に優れた忠度を討ったことを後悔していたという話がある。「平家物語」のうち“薩摩守忠度は、いづくより帰られたりけん”という一節が妙に記憶に残っているが、以前は薩摩守(さつまのかみ)を忠度(ただのり)すなわち無賃乗車の意味で使うこともあった。

法光寺の本堂の左側に観音堂があり、札所本尊の十一面観世音が安置されている。この観音堂が建てられる以前は、法光寺の裏山にある岩殿観音が観音めぐりの対象になっていたという。この日は法光寺の観音堂で本日の札所めぐりを終え、吾野駅に向かう。今回は4カ所の札所を回ったわけだが、仮に、この区間をまた歩くとしたら、区間を分割するとともに、遠回りであっても国道をなるべく歩かないコースにするだろう。

法光寺の奥の院である岩殿観音には行っていないが、気にはなっていたので調べてみた。新編武蔵風土記稿では秩父郡阪元村のうちに岩殿山を取り上げ、岩殿観音堂之図を載せている。観音院の項で、坂石町分から東に行き南に折れて険しい道を進むとあり、図によると途中で道は分岐する。ここを左に行く道は後で述べることにして、この分岐点を右に行き坂を上がると平地があり、ここに瑞巌寺と号する寺があったが、衰退して客殿だけが残っていたとあり、客殿と思われる建物が図に描かれている。また、近くには岩殿観音堂と思われる建物も描かれている。

岩殿観音堂について、同書では良く知られた勝景の地とし、堂内に行基作の十一面観音を厨子に安置し、観音院本尊の十一面観音を置き、大般若経も蔵していたとする。また、堂の後ろの洞窟内には石龕とその前に石板の門があったとし、経緯を記した文和5年(1356)願主比丘元灯の石板があったとする。

ここで分岐点に話を戻す。ここを左に行くと滝(宝生滝)に出るが、その途中には空海爪書きの不動が図示されている。この滝の源流は弁天窟内にあるが、おかま穴という洞窟が弁天窟の上にあり、梯子で上がり丸木を渡って洞内に入るようになっていて、梯子を上がる様子も図に描かれている。図には無いが、秩父(畠山)重忠の厩跡という洞窟があり、洞窟内に馬蹄跡のある岩があったとし、ほかに、地獄穴、胎内くぐり、風穴などがあると記している。

昭和の初めに石灰採掘が始まると、岩殿観音も消滅する可能性が生じたが、幸いにも文化財としての価値が認められ、昭和9年に埼玉県の重要文化財に指定されたことで、消滅の可能性は無くなった。その一方で、新編武蔵風土記稿に書かれている洞窟など、多くの石灰洞は失われてしまったかも知れない。行基作との言い伝えがある観音像も失われてしまったが、代わりに新鋳造の十一面観音像が石龕に収められている。岩殿観音にはその後も多くの参詣者が訪れていたようで、平成になって法光寺に観音堂が建てられる迄は、武蔵野三十三観音めぐりの対象にもなっていた。しかし、長い年月の間には、建物も老朽化し参道も荒廃する。そこで、扉や屋根の改修や参道の整備が行われ、平成18年から一般公開されるようになったという。現在、岩殿観音は、「観音窟石龕」として埼玉県の史跡に指定されており、所有者は西武建材(株)、管理者は法光寺になっている。

 

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