夢七雑録

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参考・井の頭深大寺コースの別ルート

2014-09-11 19:15:23 | 歴史と文化の道

井之頭池をかいぼりしてから時間が経つので、その後、どうなったのか見に行った。ひょっとして池の底を泳ぐ小魚が見えるのではと思い、池を巡りながら所々で池の中を覗いてみる。しかし、小さな魚の姿など見当たらない。かいぼりを行わなかった弁天池と比較して良くなったのかどうか、定かには分からない。池の底が見えるほど透明になるのはまだ難しそうだが、それでも、投棄された自転車などが引き上げられ、外来種も除去されているので、かいぼりの意味はあったのだろう。井の頭池を一周したあと、万助橋に出て風の散歩道を歩く。ネーミングばかりでなく、通りの佇まいも洒落た散歩道になっている。玉川上水沿いが緑のカーテンになっているのも好もしい。

散歩道の途中に山本有三記念館がある。今回は入館せずに先に行くが、門や建物の景観は風の散歩道に相応しい姿である。道を先に進むと、歩道の傍らにさりげなく玉鹿石が置かれている。その先には百日紅の下のポケットパーク。植え込みには太宰のモニュメントも見える。散歩道をさらに進めば程なく三鷹駅となる。ここからは中央通りを南に、散策にはもってこいの道を歩く。三木露風の赤とんぼの碑、武者小路実篤の地球を支える手、太宰治と亀井勝一郎の本のレリ-フ、山本有三の少年の像。そこかしこに置かれている文学碑を眺めながら歩き、連雀通りに出て右に折れれば禅林寺。その隣が八幡大神社である。三鷹駅を起点に成蹊けやき並木を通り、井の頭池を巡り、風の散歩道を歩き、中央通りを抜け、八幡大神社から野崎八幡に出るルートは、井の頭深大寺コースの別ルートという事になるのだろう。

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参考・航空写真による成蹊けやき並木散歩

2014-08-24 13:50:11 | 歴史と文化の道

東京都の「歴史と文化の散歩道」の「井の頭深大寺コース」のうち「成蹊けやき並木散歩」について、今と昔の航空写真で空中散歩を試みてみた。下に貼り付けたGoo地図で、左下の「地図」ボタンをクリックすると、大きな地図が表示される。左上のボタンのうち、「航空」をクリックすると現在の航空写真が表示される。また、「古地図」のボタンをクリックし、昭和38年か昭和22年の何れかにチェックを入れると、当時の航空写真が表示される。また、「地図を重ねる」にチェックを入れると現在の地名・施設名が表示される。それでは、地図を伸縮させたり位置を移動させたりして、三鷹駅北口を起点に空中散歩を始めよう。 

 

昭和22年の航空写真を見ると市制施行当時の武蔵野市の様子が分かる。三鷹駅北口に広場はなく、玉川上水沿いに北西に向かう道路と、現・文化会館通りにつながる北東に向かう道があるだけ。駅の北には農地が広がっている。昭和38年の航空写真では、駅北口のロータリーと北に向かう中央大通りが見えるが、周辺に農地がまだ残っている。そして現在。中央大通りの周辺はビルが立ち並び、農地の代わりに駐車場や駐輪場が駅周辺に点在している。中央大通りを北に進むと、道幅が拡張された三鷹通りに合流する。武蔵野警察署前を右に折れて次の角を左に曲がり文化会館通りを進むと、井の頭通り手前の右側に横河電機のグラウンドがある。昭和22年の写真では、この場所がグラウンドとして使えたかどうか良く分からないが、昭和38年の写真では、既にグラウンドとして整備されていたように見える。

 

井の頭通りを渡ると東側に横河電機の敷地が続き、西側はビルが幾つかあるほかは、住宅地になっている。昭和38年の写真でも西側は住宅地になっているが、昭和22年の写真では西側に広い農地が写っている。文化会館通りを北に進むと右側に一中がある。昭和38年の写真には一中の校舎が写っているが、昭和22年の写真ではまだ敷地だけである。一中の先には昭和59年開館の市民文化会館があり、五日市街道を渡った先には平成7年開館の中央図書館がある。旧市役所の庁舎は市民文化会館と中央図書館の辺りにあったそうだが、昭和38年と昭和22年の写真に写っている建物が該当するのだろうか。五日市街道の北側は、昭和22年の写真では農地が多く見えるが、昭和38年になると、宅地化が進み農地は一部だけになっている。

 

文化会館通りを北に進むと左側に大野田公園があり、その西側は武蔵野市の浄水場になっている。昭和22年の写真では一帯は農地だが、昭和38年の写真には浄水場と大野田小が写っている。武蔵野市が誕生した昭和22年頃は水道がなく、井戸水利用であったが、昭和29年に浄水場が完成し武蔵野市の水道事業が開始される。現在は浄水場も2か所となり、深井戸による地下水利用が8割、残りを都の水道を受けているという。

 

ここで、昭和38年の航空写真で西側を見てみると、三鷹駅から境浄水場付近を通り武蔵野中央公園付近に至る円弧状の道が見えてくる。この道は、昭和26年に中島飛行機製作所跡地に開場したグリーンパーク野球場に乗客を運ぶために敷設された武蔵野競技場線の線路跡である。野球場は僅か1年で営業休止に追い込まれ、昭和31年には解体されて団地へと変わる。昭和34年には武蔵野競技場線も廃止となり、現在は線路跡地が緑道として残っている。ところで、昭和38年の写真を見ると、境浄水場の南側に当たる線路跡にコンテナのようなものが並んでいるが、これは何だろうか。

 

大野田小の北側に、昭和22年の写真にも写っている陸上競技場がある。その手前を右に折れる。昭和22年の写真では周辺は農地だが、昭和38年の写真では住宅地へと変わりつつある。今も昔も変わらない成蹊学園のけやき並木をたどり、五日市街道に出る。昭和22年の写真では農地も多少見受けられるが、昭和38年になると住宅が密集し農地は見られなくなる。吉祥寺通りは、昭和22年の写真でも都市化が進んでいる様子が見て取れるが、昭和38年になると吉祥寺駅近くにビルが目立つようになる。昭和22年から昭和38年まで、井の頭池の周囲はあまり変わっていないように見える。池の景観を変えてしまった池の西側のマンションは、昭和38年にはまだ建っていない。

 

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高尾八王子コースを歩く

2014-06-08 08:56:36 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「高尾八王子コース」は、「多摩御陵・銀杏並木散歩(高尾山口駅~真覚寺)」、「関東武士ゆかりの地散歩(真覚寺~片倉駅)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は10.7kmになる。今回は、片倉駅を起点に逆コースで歩くことにした。

(1)関東武士ゆかりの地散歩

横浜線の片倉駅で下車、北側に出る。この駅は初めてではないが、記憶には何も残っていない。駅前広場の北側、歴史と文化の散歩道の標識Aが散歩の始まり。この地点の標高は100m余、ここから上り下りを繰り返し徐々に高度を上げてゆく。次の角を左に行き、東京環状という道路を渡って、車の流れに沿って左側の歩道を歩く。今日は片倉城跡に行く予定は無いが、片倉城跡公園には入ってみる。片倉城は、朝廷の官僚で後に鎌倉幕府の政所別当となる大江広元の子孫、大江氏か長井氏の築城とする説があるが、確かなことは分からない。山の下には池が幾つか。その昔、湯殿川を堰き止めて造ったという大沼の名残だろうか。池近くの広場には彫像が並んでいて、ここが公園である事を主張しているかのようである。

続きの道を歩き湯殿川を渡る。片倉町の交差点で北野街道を渡り、右側の歩道に移って坂を上がる。京王高尾線をくぐるが、坂はまだ続いている。坂の上の水準点は標高133.8m。片倉町の交差点から20mほどの上りである。子安町の信号で東京環状の騒音と分かれ、とちの木通りを歩く。標識Aがあり、ここから山田川まで20m余りを下る。程なく八王子駅南口の交差点。その手前の案内板でルートを確認し、左に折れる。

左側の歩道で南大通りを進む。前方に見える山並みに少し気分を良くして、市立第三小の信号で東京環状を渡る。本立寺を過ぎ、その先の信号を渡り、道の角に置かれた標識Bの指示に従って左に折れる。左に曲がっていく幅広の道と分かれ、狭い方の道を上がり、標高133mの富士森公園前の交差点を渡る。上り坂の途中、右手の富士森公園に入って小休止。公園内には浅間神社があり、その裏手には富士塚も築かれている。富士登山の代替えというより、霊峰の遥拝所であったのでは。そんな気がする。

公園横の坂を上りきって、標高153mの交差点を過ぎると、今度は眺めの良い下り坂となる。喜び勇んで坂を下るうち、道は左に曲がって行く。道の向きが右に変わる少し手前に、広園禅寺の石柱が建っている。ここを右に入り、寺の森と思しき辺りに向かって直進すれば、ほどなく広園寺の総門の前に出る。この辺りの標高は138m。15mほど下ってきたことになる。広園寺は文化財ウイークの時の公開事業にも参加しているが、あくまで修行道場としての寺である。総門は開いているが、人影はなく、森閑としている。この寺には、静寂が似つかわしい。

広園寺総門の、向かって右の方に置かれている案内板を確認。寺から先のルートは分かりにくそうなので、今回は、総門の前を南に行き、山田川を山田橋で渡る。京王高尾線のガードらしいものが向こうに見えるが、確かめに行く気は無く、橋を渡ってすぐ右へ、もう一つ橋を渡って、山田小に沿って坂を上がる。上がりきって左に行くと、幅広の道路に出る。この道路を右に行くルートなら、迷う事は無いだろう。

ゆるやかな坂を上がる。高度にして広園寺から15mほど。ここからは本来のルートに合流して坂を下る。次の信号で左に道路を渡り、その先の曲がりくねった道をたどると、左側に大室神社の祠があり、その下に標識Aがある。先に進んで左に曲がると真覚寺の前に出る。今はカエルの合唱もなく、至って静かである。

(2)多摩御陵・銀杏並木散歩

真覚寺から標識Aのところまで戻って、北に向かって進み、JRの線路に突き当たって右に行く。線路の向こう側に出るルートを探して少し迷ったが、結局、車道の横の歩道で線路をくぐる。甲州街道との交差点に出ると、交番の横に標識Aが置かれている。交差点付近の水準点の標高は144.4m。ここを左に折れ、銀杏並木の甲州街道を左側の歩道で進む。甲州街道は緩やかな上りとなり、やがて多摩御陵入口の交差点に出る。先ほどの交番から高度差にして10mほど。北西の角に置かれている案内板を確認し、この交差点を右に行く。

参道に相応しい橋で南浅川を渡り、しばし、山並みと川の流れを眺める。道は左に曲がり、けやき並木の道となる。左側の歩道で陵南公園沿いに進むと多摩御陵(武蔵陵墓地)の正門に出る。標高は170mほど。派出所の先を左に、すぐ先を右に入って、御陵の敷地に沿って下り、高くそびえる陵南大橋の下を潜る。右に行き左に折れて道なりに行けば高尾街道に出る。近くに多摩森林科学園があり、桜咲く頃はお勧めの場所なのだが、今回は立ち寄らずに、廿里町の信号で高尾街道を渡る。

先に進むと南浅川沿いの道となり白山橋に出る。この先、南浅川沿いに続く細い道で両界橋に出るのがルートだが、今日は白山橋を渡り甲州街道に出て両界橋に行く。JRの下をくぐり、その先で旧甲州街道を右に見送る。小仏川を渡る地点の水準点の標高は180.0m。やがて、高尾山の旧登山口。石の道標には高尾山ちか道入口とある。今は記憶もあやふやになっているが、ケーブルカーが運行していない時に、この辺から高尾山に登ったような気がする。案内川を渡り、京王高尾線の下をくぐれば、間もなく高尾山口駅前。標高は189m。出発地との高度差は100mにも満たない。川の近くにある案内板を確認し、これにて、高尾八王子コースは終了となる。
 
以前、片倉から高尾山口までのウオーキングに参加したことがある。その時は、ここまで来たら高尾山にもと思い、六号路のびわ滝経由で霞台まで登ってはみたものの、空模様が怪しくなったため、諦めて下山した事を覚えている。今は、気力体力とも衰えて、続けて山に登ることなど選択肢にも入っていない。高尾山は、またの機会があったならという事にして、この日の予定はすべて終了。東京都の制定した「歴史と文化の散歩道」全23コース240.5kmも、今回をもって完歩となる。「歴史と文化の道」というカテゴリーはこれで終りというわけではないが、今回をもって一区切りという事にしたい。
 

東京都の「歴史と文化の散歩道」のほかにも、同じような趣旨のコースが各区市町村などでも設けられており、各種のイベントでも様々なコースが歩かれているので、東京都のコースが決定版という訳ではなさそうである。今回は、ガイドブックや現地の案内板・標識を参考にして、概ね東京都の設定したコースを歩いたが、距離の点からすると、ウオーキング・コースとしての利用を想定していると思われる。ただ、歴史と文化に触れあう散歩道という視点は多少なりとも薄れているような気もする。「歴史と文化の散歩道」をもう一度歩くとすれば、コースを再構成し、歴史と文化に関わる見所をなるべく多く、時間を掛けて見て回りたいと思う。

参考までに、歴史と文化の散歩道の案内板と標識についてまとめておく。
(1)案内板

東京都の「歴史と文化の散歩道」の各コースには、案内板が設置されている。その内容はルート図のほか、各地の歴史と文化についての解説が、写真や絵とともに掲載されている。ただ、かなり時間を経過しているため汚損が目立つ案内板も見受けられる。今回のブログ記事中では、コース途中の案内板を出来るだけ写真として取り上げる事にしたが、見落としているものがあるかも知れない。

(2)標識A.B.C



各コースの途中に、道標の役割をする標識が置かれている。写真は上から順に標識A、標識B、標識Cである。標識Aはコースの分岐点に置かれることが多く、ルートの方向とルートの概略図を示している。標識Bは標識周辺の道順を示すもので、数多く設置されており、有用な標識ではあるが、迷いやすい場所に置かれていない場合もある。標識Cは道路に埋め込まれる標識で、カタツムリのシンボルマークが使用されているが、知らない人には何のマークか分からないだろう。標識Cには矢印が有るものと無いものがある。矢印はルートの方向を示しており、写真は曲がり角に設置される標識である。この標識は、道路工事等に伴って設置場所や向きが変わると、道標の意味をなさなくなる。

(3)その他の標識








写真は、歴史と文化の散歩道の標識で、上から順に、文字付きのガードレール、カタツムリのシンボルマーク(黄色)付きのガードレール、文字付きのポール1、同2、文字付きの車止め、カタツムリの形を付けたポール、カタツムリのマーク付き角柱、文字の書かれた標柱である。これ以外にも、歴史と文化の散歩道の標識があるかも知れない。

 
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府中国分寺コースを歩く

2014-05-23 19:19:48 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「府中国分寺コース」は、「旧鎌倉街道散歩(永山駅~府中駅)」、「国府・国分寺散歩(府中駅~国分寺駅)」、「ハケの道・玉川上水散歩(国分寺駅~小金井公園)」、「小平新田散歩(国分寺駅~新小平駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は23.5kmになる。

(1) 旧鎌倉街道散歩

鎌倉街道は近世以降の呼称で、鎌倉に通じる中世の道の総称である。鎌倉街道には支道や連絡道、別経路も含まれているので、街道といっても一本の道ではない。鎌倉街道のうち、鎌倉から北に向かう鎌倉街道の道筋は、下道、中道、上道に分けられるが、このコースの鎌倉街道は、そのうちの上道に相当している。

京王永山駅の北側を東に抜けると、京王線のガードをくぐってくる道路に出るが、その手前に案内板が置かれている。道路に出て左へ行き、多摩消防署前の交差点で右側の歩道に移って進み、永山橋の手前を右に、乞田川の右岸沿いに桜並木の遊歩道を歩く。多摩ニュータウンが開発される以前の地図を見ると、ここまでのルートは、谷戸に沿って下り、蛇行して流れていた乞田川の横を通ってきたことになる。


諏訪下橋で遊歩道は途切れるので、橋を渡って左側の信号を渡り、引き返して乞田川右岸の遊歩道をさらに進む。馬引沢橋を過ぎ、遊歩道に案内板が置かれている事を確認し、南田橋を過ぎて次の熊野橋を渡る。呼称を継承した現在の鎌倉街道を渡り、坂を上がって、ルートを踏襲したであろう旧鎌倉街道に出る。

旧鎌倉街道を渡って熊野神社に入るが、この神社の境内では鎌倉時代の霞ノ関の木柵跡が見つかっている。鎌倉時代の街道も、時代により変化はあったろうが、霞ケ関を通過する地点では今も変わらず道路として存続している。一方、鎌倉街道上道と並行していた古代の官道・東山道武蔵路の道路遺構が、熊野神社とは乞田川を挟んで東側にあたる多摩中央病院近くの打越山遺跡で見つかっている。その道は、山を削り谷を埋めて造成された道幅の広い直線道路であったが、廃道になって久しく、道としては消滅している。

熊野神社を出て、旧鎌倉街道を左側の歩道で北に向かう。大栗川を大栗橋で渡って、川崎街道を越えると、旧鎌倉街道は現在の鎌倉街道に吸収されてしまう。やがて、多摩川に架かる関戸橋に出る。この橋は新旧二本の橋で構成されていて、歩道は上流側の新しい橋にしか無い。下流の古い方の橋が昭和12年に架けられる以前は、関戸の渡し・中河原の渡しで多摩川を渡っていたという。

関戸橋を渡って直ぐの信号で右側の歩道に移り、先に進んでいくと、中河原公園があり、公園内に案内板が置かれている。鎌倉街道を右側の歩道で先に進むと、中河原駅に出る。京王線のガードをくぐった先、中河原北の信号で鎌倉街道が右に分かれていくが、この道に入り、住吉銀座への道を右に見送って、右側の歩道で鎌倉街道を先に進む。    

中央自動車道の手前で、府中用水から分水した新田川の暗渠上に作られた新田川緑道に出る。右手の分梅公園内に置かれている案内板を確認し、園内にある分倍河原古戦場の石碑を見に行く。中世の多摩川は現在より北を流れていて、その跡が新田川だとする説がある。この説によれば、分倍河原は多摩川の北岸に面していた事になる。また、浅川との合流点は現在より下流で、中河原は多摩川と浅川に挟まれた場所であったらしい。

中央自動車道をくぐって先に進む。鎌倉街道は分梅駐在所前の信号から右に曲がっていくが、旧鎌倉街道散歩のルートは、ここを曲がらずに、分梅駐在所の交差点を北に渡る。その際、右側の三角地に案内板が置かれているのを確認して、渡った先を右に折れて、左側の歩道で鎌倉街道を東に向かう。なお、新田川を分けたあとの府中用水(市川)は、御猟場道に沿って流れ、分梅駐在所の交差点を過ぎて、鎌倉街道沿いに東に流れていたが、今は暗渠となっている。

分梅駐在所の交差点は、近世以前の街道の交差点でもあった。西に向かう道は、江戸時代より前の古甲州街道で、「武蔵名勝図会」の挿絵にも府中用水に沿った往古の甲州街道と一里塚が描かれている。北に向かう道は、「江戸名所図会」の挿絵に分倍河原・陣街道として描かれているが、この道は、奥州から鎌倉に通じる鎌倉街道でもあった。東に向かう鎌倉街道は府中の中心部に出る道であり、南に向かう道は、多摩川を渡って鎌倉に向かう鎌倉街道上道であった。

鎌倉街道を左側の歩道で進むと京王線のガードに出る。東山道武蔵路は、この近くを南北に通っていた筈だが、今はその痕跡すら残っていない。ガードをくぐり、ショッピングセンターを過ぎ、税務署角の交差点で鎌倉街道と分かれて左に折れる。少し先の分倍河原駅前の広場に新田義貞像があるので見に行ってから、南武線の踏切を渡って坂を上がる。坂の下は多摩川の沖積低地、坂の途中は府中崖線、坂の上は立川段丘である。

坂を上がると、江戸時代に街道として整備された旧甲州街道に出る。ここを右に折れ、右側の歩道で緩やかな弁慶坂を上がる。高安寺を過ぎると、その先に、多摩川の砂利運搬を目的としていた国鉄下河原線の跡地、下河原緑道があり、案内板が置かれている。この緑道を南に行くと郷土の森博物館に出るが、またの機会にして今回は先に進む。

旧甲州街道と府中街道の交差点に出ると、その角に府中宿の中心となる高札場が残存している。ここから、旧甲州街道を先に進み、途中の案内板を確認して大國魂神社の前に出る。大國魂神社の前を東西に抜ける旧甲州街道は、古代から存在していた道と考えられている。東山道武蔵路から武蔵国府に出る道だったのだろうか。

大國魂神社の参拝を終えて随身門の外に出る。「武蔵名勝図会」は、随身門の前の道について、慶長・元和の頃までは、分倍の方に行く甲州街道であったと記している。ここで言う甲州街道は、分梅駐在所の交差点から東に向かう鎌倉街道に相当し、神社の西側で随身門の前に出る道と、高札場に出る道に分かれていた。また、随身門の前を東に行く道は、品川道であったという。随身門の南側が大國魂神社のもともとの境内であった。

大國魂神社を東側に出て、国史跡の武蔵国府跡に行く。国府のうち国衙(役所区画)は大國魂神社境内を含む区域とされ、そのうち国衙の中枢部と考えられる区画が武蔵国府跡として公開されている。武蔵国府跡を出て旧甲州街道を渡り、けやき並木通りを右側の歩道で京王線府中駅に向かう。駅南口一帯では再開発事業が進行中である。

なお、国司の館跡は、府中本町駅東側の御殿跡地と呼ばれていた場所で、家康が建てた御殿跡と共に見つかっている。元の御殿跡地の姿は失われてしまったが、「武蔵名勝図会」の挿絵によると、段丘の突端に位置する眺めの良い場所だったらしい。国司の館は、平安時代になると移転したようで、本町2の沖積低地で国司の館跡が見つかっている。

(2) 国府・国分寺散歩


京王線のガードをくぐり、けやき並木の植え込みの中に置かれている案内板を確認して先に進む。けやき並木北の交差点で右に折れ、左側の歩道で桜並木の桜通りを歩く。ルミエール府中を過ぎ、ルミエール府中東の交差点を左に折れ、いちょう通りを左側の歩道で北に向かう。富士見通りを渡り、農工大の横を過ぎる頃には、銀杏並木の道を歩くのも少し飽きてくるが、学園通りを過ぎれば、間もなく東八道路である。ここを左に折れる。

ケヤキ、サクラ、イチョウと続いた街路樹も、東八道路からはクスノキに変わる。左側の歩道で、ひたすら西に向かい、栄町交番前の交差点で国分寺街道を渡る。この先、二つ目の信号で右側の歩道に移って先に進み、標識Bにより右の道に入り、北に向かう。この道は、東八道路の南側で見つかった国分寺参道口跡と国分寺中門跡を結んでいたであろう古代の参道に沿った道でもある。右側に七重塔跡地を見ながら進むと、武蔵国分寺の僧坊跡に突き当たる。現在、僧坊跡では講堂跡の基壇復元作業が進められている。

僧坊跡を左に行くと国分尼寺跡に出る。さらに北に向かえば伝鎌倉街道に出るが、今回はルート通り僧坊跡を回り込むように右へ行き、左に折れて、その先を左に折れる。右側に現・国分寺入口を見て先に進み、次の角を右に行けば薬師堂の石段の下に出る。ここを左に行き坂を上がって行くと東山道武蔵路の跡に出るが、今回はルート通りに右に行き、現在の国分寺の前に出る。案内板は国分寺の塀の前に置かれている。

現・国分寺から、細い流れに沿って進めば、旧本多家住宅長屋門の前に前に出る。門を入ると武蔵国分寺跡資料館がある。ここから、お鷹の道と呼ばれる、流れに沿った道を進み、その先を左に入って真姿の池湧水群を見に行く。そのあと、お鷹の道の続きを歩き、標識Bにより、流れから離れて左に行き、道なりに歩いて行く。途中の児童遊園で左に行く道と分かれて右の道を進んで行くと不動橋に出る。

不動橋は、日立中央研究所の敷地内から流れてくる水路と、お鷹の道に沿って流れてきた水路が合流して、野川として流れていく地点に相当する。不動橋を渡って右に国分寺街道に出て左に、一里塚第2の交差点に出る。ここから左側の急坂を上がって行く。坂の上の右側は殿が谷戸庭園で、野川の水源となる池がある。通りを渡れば、国分寺駅南口に出る。
(注)当ブログの「東京の文化財」のうち、東京文化財散歩・国分寺に関連記事あり。

(3)ハケの道・玉川上水散歩


国分寺駅南口の前の丸山通りを左側の歩道で東に向かって下る。南町二の交差点を過ぎると、道は右に曲がりながら下って行く。案内板はその途中に置かれている。

坂の下、東経大南の交差点の角にも案内板が置かれている。ここを左に折れ、その先の坂を右に入る。ここからは、国分寺崖線、通称ハケの下の道を歩く。

左側に東京経済大学の公開空地があるので入ってみる。細い流れに沿って先に進むと、野川の水源の一つになっている新次郎池に出る。この日の湧水量は少なそうだが、それでも、明らかに気温は低く感じる。

公開空地を出て、くらぼね坂を車に注意しながら左に、直ぐの角を右に入る。その先、左側に貫井神社があるが、ここにも野川の水源となる湧水がある。先に進んで新小金井街道の下をくぐって右に折れ、薬師通りに出て左に進んで行くのがルートだが、今回は階段で新小金井街道に出て、左手の貫井トンネルに上がる。

トンネルの上は小公園のようになっていて、はけうえ遺跡の説明版がある。ここから北に向かって右側の道を進み、警察署前の交差点を右に行くと、右側に滄浪泉園がある。園内に入って野川の水源の一つになっている池の周りを一周。湧水の様子を確かめて外に出る。滄浪泉園に沿って右に坂を下り、薬師通りに出て左に行き、幡随院に沿って角を左に曲がり、なそい坂を上がる。連雀通りに出て左へ、次の信号で右に折れ、消防署の横を入る。本来のルートではないが、滄浪泉園から連雀通りを東に向かい、消防署の横を入っても良さそうである。

JRの下をくぐって、その先の信号を左に行き、次の信号を右に行く。やがて、道は左に曲がって行き、北大通りを過ぎて山王稲穂神社の前に出る。その先、右斜め方向に入る遊歩道を進む。左側は山王窪と呼ばれる窪地で、今は水が流れていないが、仙川の水路が見える。この遊歩道は、小金井分水を仙川と立体交差させて通すために築いた築樋の跡という。  

遊歩道を先に進んでいくと左側に少し曲がるようになり、小金井分水の水路跡が道の横に現れる。さらに進んで、突き当りを標識Bにより右に行く。その先、スポーツ施設のある上水公園の中を抜けていく。案内板は公園を出たところの角にある。

公園を出て左に行くと、玉川上水に突き当たる。ここを右に堤の道を進み、小金井橋に出る。さらに、玉川上水の右岸を進むと、陣屋橋がある。さらに進んで新小金井橋に出る。左に橋を渡って右に行くと、小金井公園の入口があり、標識Aが置かれている。

ハケの道・玉川上水散歩は公園入口で終りとなる。桜の頃なら花見といきたいところだが、既にその時期は過ぎている。園内を西に進むと、江戸東京たてもの園に出る。何棟かの建物が新たに移築されているそうだが、今回はパスして、帰途に就く。

  
(4) 小平新田散歩


国分寺駅南口すぐの道を西に行き、行き止まりの手前を左に、次の角を標識Bで右に折れ、その先を標識Bで右に折れて、花沢橋で線路の上を渡る。北に向かって進むと、左手に日立中央研究所の入口がある。春と秋に庭園が一般公開されているが、以前入った時の大池の写真を上に示す。湧水を入れる大池は、野川の源流の一つになっている。

北に向かって進むと、熊野神社通りに出る。案内板は西南の角に置かれている。交差点を渡って北に進み、浄水場に沿って左に曲がり、その先を標識Bにより左に行く。孫の湯通りと言う通称の道を進んでいくと、やがて府中街道に出る。道路を渡って左側の歩道で右に行くと恋ヶ窪の交差点に出る。右後ろから来るのは連雀通り、交差点北側角の弁財天祠の右側を通るのは府中街道、祠の左側を通る道が、これから先のルートになる。

桜並木の歩道を進むと窪東公園に出る。ここには歴史と文化の散歩道の標柱が置かれている。公園から先に進み戸倉通りを渡って五日市街道に出る。ここを右に折れるが、南側の歩道の横に砂川分水の水路が顔を出している。明治15年の地図によると、この地点で砂川分水から分かれる水路があり、現在の窪東公園の横を流れ、恋ヶ窪の交差点で連雀通り沿いに流れる水路(貫井村用水)を分けたあと、府中街道沿いに流れる水路(恋ヶ窪村用水)と、孫の湯通り沿いに流れる水路(国分寺村用水)に分かれて流れていた。小平新田散歩コースの、孫の湯通りから五日市街道までのルートは、この用水路跡を歩いてきたという事になる。なお、「玉川上水絵図」では、久右衛門橋上流の玉川上水から分水されるよう記されているが、「玉川上水線路図」では砂川分水からの分水に変更されている。これは玉川上水を舟運に利用するための措置と思われる。舟運の計画自体は江戸時代からあったが、実現したのは明治になってからで、それも短期間で終わっている。

五日市街道を東に行くと府中街道に出る。北側の歩道に移り府中街道を渡って次の信号を左に入って先に進むと、玉川上水に出る。右側の鎌倉橋を渡って、鎌倉街道という表示のある道を北に向かって進む。たかの街道を、車に注意して渡り、左側の道に入る。この辺り、畑地を短冊状に割り当てた名残なのか、南北に長い道が多いようである。先に進んで小川用水を過ぎ、青梅街道に出て右に折れ左側の歩道を進むと、新小平駅に出る。駅前に置かれている案内板を確認し、コースは、これにて終わりとなる。

ここで、鎌倉街道について付記しておく。延宝の頃の「小川村地割図」に府中海道と表記された道があり、玉川上水を渡って北上し青梅街道を越えてから斜め左に曲がって九道の辻に出る道が記されている。宝永の頃の「小川村絵図」では、この道を、かまくら海道と表記しているが、やがて、この道は衰退し、久右衛門橋を通る府中街道に取って代わられる。明治前期の「小平村之図・西之部」には、かまくら海道の跡と思われる道も見て取れるが、やがて、橋も消滅し道も定かではなくなってしまう。現在、鎌倉街道の表示がある道は、小川村絵図に“かまくら海道”と表記されている道に対応する、現在の道という事になるのだろうか。

小平村が開拓される以前の中世の街道について、そのルートを確かめる事は難しそうだが、古代の官道については、道路遺構が発掘されればルートを確定する事が可能である。国分寺市立歴史公園の説明板には、国分寺市、小平市、東村山市の道路遺構をもとにした古代の官道、東山道武蔵路の直線的なルートが記されている。小平市内では、上水本町、原島農園、小川団地の3カ所で東山道武蔵路の道路遺構が発掘されているが(小平市史)、この道路遺構からすると、玉川上水に架かる鎌倉橋と小松橋の中間地点と、小川団地を結ぶラインが、東山道武蔵路のルートに相当すると考えられる。現在の小平市内の鎌倉街道は、このルートと同一ではないものの、これに近いルートと言えるだろう。


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柴又コースを歩く

2014-04-26 09:03:11 | 歴史と文化の道
東京都の歴史と文化の散歩道のうち「柴又コース」は「帝釈天門前散歩(京成高砂駅~矢切りの渡し)」の1区間だけで、総延長は3.1kmになる。
 
(1)帝釈天門前散歩

京成高砂駅北口の階段を下り、線路側に置かれている案内板を確認して、駅前の道を左に行く。右側の歩道のガードレールにはカタツムリのシンボルマークが見える。高砂八の交差点に出て右折。右側の歩道で旧佐倉街道(さくらみち)を進む。

所々に置かれている歴史と文化の散歩道の標識を確認しながら旧佐倉街道を歩いて行くと、程なく京成金町線の踏切に出る。その手前、左後ろから合流してくる道には、以前、小岩用水が流れていたようで、線路の向こう側には、水路跡らしい続きの道も見えている。小岩用水は、小合溜(水元公園)を水源とする上下之割用水から大堰枠で分水された水路で、昭和22年の地図や「葛西筋御場絵図」からすると、旧佐倉街道は筋違橋で小岩用水を渡っており、その近くから分水された水路が、旧佐倉街道に沿って流れていた。

踏切を渡って、さくらみちに因んだ桜並木の道を進み、少し先で北総線のガードをくぐる。柴又五の交差点を渡り、柴又街道を左に行き、再び北総線のガードくぐると新柴又駅の北口に出る。駅前の広場に置かれている案内板を確認し、広場右手のコンビニの横を入る。東柴又小を右手に見て進めば、左側に柴又七福神・大黒天の宝生院がある。

大黒天から先、北に向かって進み、突き当りにある標識Bの右側の道を進む。その次の角で、標識Bをもとに、左斜め前方の細い道に入る。昭和22年の地図によると、この道は、小岩用水から分水し京成金町線柴又駅の北側を抜けてきた水路で、「葛西筋御場絵図」にも記載されている用水路の跡らしい。ひかり学園の横を通って先に進むと道幅が広がり、柴又街道を渡ると程なく柴又駅前に出る。柴又の帝釈天の参道は、この用水路を帝釈橋で渡っていたらしく、駅前の参道の傍らには小さな水路と橋が造られている。

柴又駅前から帝釈天の参道を進み、柴又街道を渡って、また参道を歩く。参道には食事処や土産店が並んでいるが、先を急ぐので、今回は素通りとなる。

参道を抜けると柴又帝釈天・題経寺がある。参拝を済ませて、寺の北側の道を右に行き、江戸川の土手に出る。

土手の上から江戸川を眺めてから、土手を下りて矢切の渡しに行く。今日は、矢切の渡しを渡る人は居ないようだ。


土手を下りたところに向かい合って置かれている、矢切の渡しの案内板と柴又公園の案内板を確認し、これにて、コースは終了となる。そろそろ日も傾く時間ゆえ、水元公園までの延長コースは取りやめにする。

帰りは、江戸川の土手を下流(南)に向かって進み、葛飾柴又寅さん記念館の屋上を土手と一体化した柴又公園に出て、北側の階段を下り、山本亭の門の前から、道しるべに従って歩く。程なく柴又駅に到着。次に来る時には、柴又七福神めぐりを兼ねて歩いてみたい。

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砂町葛西瑞江コースを歩く

2014-04-10 19:12:15 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「砂町葛西瑞江コース」は、「砂町しおかぜ散歩(南砂町~西葛西4丁目)」、「葛西さざなみ散歩(西葛西4丁目~葛西臨海公園)」、「古川せせらぎ散歩(西葛西4丁目~瑞江大橋)」、「一之江名主屋敷散歩(瑞江大橋~瑞江駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は14.9kmになる。

(1) 砂町しおかぜ散歩

南砂町駅の南砂三丁目公園出口から外に出る。公園内に置かれている案内板を確認して北に向かい、北側から公園の外に出て左に、丸八通りに出て右に折れる。この近辺は江戸時代に砂村新田とよばれた場所で、南側には海が迫っていた。明和の頃、洲崎の弁天から砂村新田に至る海中に波除の杭を打ち込んで土手を作り、塩田を目的とした平井新田が造成される。この塩田は、寛政4年の「分間江戸大絵図」にも記載されており、土手に囲まれた区画を塩浜と記し、その西側に水門を設けて潮を入れる製塩の施設を記載している。しかし、思ったほど塩が生産されなかったらしく塩田は廃止され、その跡地は抱え屋敷や町並屋敷となる。明治になると屋敷地も草地へと変わり、やがて元の干潟へと戻ってしまう。今は、埋め立てが進んで海岸線も遠ざかり、点在する運河の水面のうちに、海だった頃の風景を想像するだけである。

丸八通りを右側の歩道で北に向かい、葛西橋通りを渡るとすぐ、旧砂町橋に出る。橋の下には、大正時代に小名木川から横十間川の間に開削された砂町運河が流れていたが、今は埋め立てられて仙台堀川公園になっている。橋の手前を右に入り公園を東に向かうと、少し先で公園は左に曲がっていく。ここを曲がらずに東南の角から外に出るのがルートだが、今回は左に行き、区指定の有形文化財になっている大石家住宅を見に行く。この住宅は、江戸時代後期の半農半漁の民家を移築復元したもので、文化財ウイークにおける古民家めぐりの対象にもなっている。

仙台堀川公園を出て右に行き、葛西橋通りに出て左に行く。歩道橋の手前を右に入り、標識Bを確認して右側の歩道で先に進む。その先、南砂元八幡通りの交差点で標識Bにより左に入るのがルートだが、今回は少し先の元八幡交番前の交差点を右に入って富賀岡八幡に行く。この神社が預かっていた八幡像を深川の富岡八幡に戻したことがあり、その故か、この神社は富岡八幡の旧地とされ、元八幡と呼ばれるようになったという。寛政や文政の「分間江戸大絵図」では、この神社を水神社と記しているが、弘化や安政の「御江戸大絵図」では、元八マンと記しており、「江戸名所図会」でも砂村の海辺に元八幡宮ありとして挿絵を載せているので、天保の頃までには元八幡宮の名が定着していたと思われる。弘化や安政の「御江戸大絵図」によると神社の前は寄洲で、「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」に描かれているように、海の眺めは良かったに違いない。

神社裏手の富士塚を見てから、南砂元八幡通りの交差点に戻って東に向かい、次の信号で左に折れ、葛西橋通りに出て交差点の手前を右に行く。荒川の土手に上がり、右側の歩道で葛西橋を渡るが、歩いて楽しいとまでは言い難い。その日の天候次第では、渡るのを止めた方が良いかも知れない。それでも何とか、橋を渡り終えて、葛西橋東詰の交差点を渡り、標識Bにより左に折れて船堀街道を北に向かうと、行船公園に出る。公園に沿って先に進み、その先の角を右に折れて公園内に入ると、左側に案内板がある。

公園を通り抜ける前に、左側の平成庭園を見ておく。今回は割愛したが、公園内には入場無料の動物園もあって、規模の割には中身の充実した公園である。公園から宇喜田通りに出て右に折れて葛西橋通りに出る。ここを渡って左に行き、右前方の新田仲町通りに入るのがルートだが、歩道橋を渡ってもよい。新田仲町通りを左側の歩道で進むと、西葛西駅に出る道を右に分ける丁字路に出る。“砂町しおかぜ散歩”はここで終わりとなり、“葛西さざなみ散歩”と“古川せせらぎ散歩”に分岐する。その事を示す標識Aが丁字路の近くに置かれている。

(2)葛西さざなみ散歩

丁字路を右に折れ、虹の道と呼ばれる通りを左側の歩道で進んで行くと西葛西駅に出る。駅北口の広場の右側に置かれている案内板を確認し、駅の南側に出て先に進むと、西葛西六第三の交差点に出る。交差点を渡って右に行き、江戸川区球場に沿って進み、都道450号を信号で渡るのが本来のルートだが、ここは、交差点の手前で右に渡って、江戸川区球場前歩道橋を渡る方が良い。

歩道橋を渡り終えた先は、敷石を敷き詰めた緑道が南に向かって続いており、その左側は自転車専用道になっている。左手の江戸川区球場の横を通る、都道450号・新荒川葛西堤防線は昔の海岸線に相当しており、その西から南に広がる清新町や臨海町は、海を埋め立てて土を盛った造成地という事なる。それゆえ、これから先は、以前、海だった場所を歩いて行く事になる。

緑道を南に進み、途中の標識Bを確認して先に進むと、左側にトイレがある。すぐ先を左に入る道があり、ここを入って下っていくと新長島川親水公園に出る。ここは長島川の河口にあたり、清新町が造成された時、一時的に入江の様になっていた場所だが、これを改修して新長島川親水公園としたという。

新長島川親水公園を先に歩いて行くと新左近川親水公園に出てしまうので、その手前を右に上がり、緑道・自転車道に戻る。南に進み、右に下って行く新左近橋への道と分かれて、左側の道をたどり、葛西かもめ橋を渡る。橋の上から眺める新左近川は池のようだが、清新町と臨海町を造成した時に、残された右近川河口の西側の海面を水路とし、周辺を親水公園として整備したもので、川とは言うが、実は川ではない。

葛西かもめ橋を渡り終え、その先で、右側の臨海町緑道の方に移る。この緑道を南に進み、臨海球技場に上がる階段を過ぎた先で左に行き右に上がって臨海橋に出る。橋を渡り京葉線の下をくぐると葛西臨海公園に出る。大観覧車に向かって進み、標識Bの手前の広い道を左に行く。ホテルを右にして先に進めば、右側に案内板が置かれている。

案内板の先を左に行けば葛西臨海公園駅で、葛西さざなみ散歩は終わりとなるが、御用とお急ぎのない方は、海を眺めながら散策するも良し、水族園や鳥類園に行くのも良し、観覧車に乗るのも良しである。

(3)古川せせらぎ散歩

丁字路で西葛西駅方面への道を右に見送り、十八軒川の跡という新田仲町通りを進んで、葛西中央通りを渡ると、その先、葛西親水四季の道という緑道に出る。妙見島近くの旧江戸川から流れてきた長島川の跡を親水緑道としたもので、十八軒川はこの地点で長島川に合流していた。標識Bにより四季の道を左に進んで行くと、長島一号公園に出る。ここを過ぎて五差路を左に行くが、この通りを三角葛西通りといい、新川から分かれた三角川の跡という。

葛西橋通りを歩道橋で渡り、その先の角を標識Bにより左折すると、南北に細長い宇喜田東公園に出る。公園に入って北に進み、公園が終わったところで右に行き、三角葛西通りに出て左に行くと、新川に架かる新川橋に出る。新川は行徳の塩を江戸に運ぶための航路で、大正時代になるまで川には橋が無く、舟で対岸に渡るようになっていた。新川橋の西側にあったのが三角の渡しで、三方に渡る事から三角の名が出たという。

この地を文政5年に訪れた村尾嘉陵の紀行文によると、三角の渡しを渡って南に進んだところに堤があり、堤の内側には百余戸の家が見えたが、堤の外は芦が生い茂って海も見えなかったという。この堤は、新川から分かれて海に注いでいた宇喜田川の分流である十八軒川の堤と、それに続く堤と思われる。「葛西筋御場絵図」によると、この堤は江戸川沿いの堤につながっており、本来は海岸堤防の役割をしていたようである。現在の新田仲町通りは、この堤があった位置に相当している。
(注)当ブログのカテゴリー「江戸近郊の小さな旅」のうち、29に関連記事あり。

新川橋を左側の歩道で渡って、通りを右に渡り、右側の道を入って先に進むと古川親水公園に出る。古川は、新川橋から東側の水路が開削される以前の航路で、戦後はドブ川と化していたが、その後、水路全体を庭園風に整備し、旧江戸川から取水して濾過した水を流すことによって生まれ変わり、日本最初の親水公園となる。

親水公園内の案内板を確認して先に進むと環七に出る。歩道橋を渡って左に行き、親水公園の続きを歩くと、やがて、園内に流す水を浄化する浄水場で親水公園は終わりとなる。浄水場の先にある標識Bにより左に折れるのがルートだが、この付近にあった筈の区指定文化財の宇田川家長屋門が見当たらない。いつの間にか取り壊されてしまったらしく、プライスレスの価値は消滅してしまっている。仕方が無いので、標識Bに従い左に行き、その先の角を標識Bにより右に行く。程なく、洪水対策として開削された新中川に出て、古川せせらぎ散歩も終わりという事になる。

(4)一之江名主屋敷散歩

新中川に沿って歩き、新今井橋の下を潜ってから上がり、先に進むと瑞江大橋となる。左へ行けば一之江駅に出る。橋近くの信号を渡れば橋際に案内板が置かれている。新中川沿いに進んで、右側の歩道で明和橋を渡る。この先の信号で左側の歩道に移るのが本来のルートだが、今回は右側の歩道を歩く。少し先の右側に瑞江公園があり、その先の信号を渡ると役者寺とも呼ばれた大雲寺がある。

大雲寺の前を左に折れて、椿通りと言う名の道路を右側の歩道で北に向かい、高速道路を潜る。左側の歩道に移って、その先のスーパーの手前を左に入り、突き当りを右に行くと一之江名主屋敷に出る。一之江新田を開拓し代々名主を務めた田島家の屋敷で、都指定の史跡になっている。この地区は、椿が多かったため椿と呼ばれ、明治になると村名も椿村となる。今は地名も春江町に変わったが、通りの呼称に椿の字を残している。

一之江名主屋敷は公開されているので、長屋門のほか、曲り屋造りの主屋、屋敷林や堀跡などを見てから外に出る。屋敷に沿って北に行き、角を右に行き椿通りに出て左折、次の信号を右折して弥生公園を過ぎ、その先の信号を渡って右折し、瑞江駅西通りを左側の歩道で進む。高速道路の下をくぐり、先に進んで、標識Bにより瑞江駅の交差点を左に入ると、瑞江駅南口に出る。これにて、コースは終了となる。

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西新井竹の塚コースを歩く

2014-03-30 14:04:11 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「西新井竹の塚コース」は、「島根六月寺めぐり散歩(大師前駅~竹の塚駅)」、「伊興寺町散歩(竹の塚駅~古千谷橋)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は6.8kmになる。

(1) 島根六月寺めぐり散歩

西新井駅で改札を通り一駅だけの大師線に乗る。大師前駅は無人駅で改札もフリーパス。参道を通って山門に出るべきなのだろうが、ここでは、ぼたん園と思しき区画に沿って進み、山門に行く。案内板は山門の少し手前に設置されている。

本来のルートは、山門の前を通り過ぎて寺の西側の境界沿いに寺の北側に出るのだが、今回は山門を入って大本堂に行き、裏門から寺の北側に出て右に行く。水路跡という道を進むと車道に突き当たる。この道を七曲の道といい、千住から本木新道を経て西新井大師に至る大師道に続く道で、赤山街道に出て鳩ヶ谷に至る鳩ヶ谷道でもあった。七曲の道沿いには水路があり本木新道へと続いていたようだが、今は姿を消している。この道路を車に注意しながら渡り、左側の道に入って、その先の大師線の下をくぐる。尾竹橋通りを信号で渡って先に進むと、道は線路の近くで右に折れて環七の通りに出る。

左手の階段で西新井陸橋に上がり、環七沿いに歩いて線路を渡り、その先で階段を下りる。住宅公園の前を過ぎて信号を渡り、次の角を左に折れる。先に進んで四つ角を右に折れて島根小に沿って進み、その先の信号で竹の塚センター通りに出る。ここを左折、北に向かって進み、次の信号で環七北通り渡って、右側の歩道に移る。その先の四つ角を標識Cと標識Bに導かれて右に入って進むと、右側に北厨子公園がある。ここは、赤羽家長屋門の家の裏手に当たるだろうか。この公園を過ぎ二つ目の角を左に入り突き当りを左に次の角を右に行くのがルートだが、分かりにくいので、公園の先すぐを左に行き、突き当りを右に行き、次の角を左に入って鷲神社に出る。

鷲神社の前を東に行くと、旧日光街道に出る。ここを左に行き、二つ目の信号で左に入る。先に進んで竹の塚センター通りを渡り、突き当りを右に行くと交差点に出る。標識Bの前の横断歩道を渡り、左に折れて西に向かって進み、次の角を右に折れると、少し先の左側に一茶の句碑がある炎天寺があり、その隣に八幡神社がある。

八幡神社の前を北に行き、突き当たって左へ、次の信号を右に折れ、その先の信号で赤山街道に出て左に折れ、左側の歩道で先に行く。赤山街道は、関東郡代の伊奈氏の赤山陣屋(川口市赤山)に通じる街道で、この道を進んで行くと、竹の塚駅の踏切が見えてくる。竹の塚駅付近が高架になるのは、もう少し先のことなので、ルート通りに歩こうとすると開かずの踏切を渡ることになる。今は、踏切の北側の跨線橋を渡るのが望ましいので、踏切の手前にある交差点で右側の歩道に移り、踏切から右に行き跨線橋を渡る。渡り終えて右に折れ、次の信号で左側の歩道に移り、赤山街道を先に進むと車道側に案内板が設置されている。

(2)伊興寺町散歩

赤山街道を先に進み、伊興町前沼の交差点を渡って右に折れ、尾竹橋通りを左側の歩道で北に向かう。この歩道の途中には、歴史と文化の散歩道の車止めポールが随所に置かれている。伊興白幡の交差点に出たところで左へ折れ、保木間堀親水水路を歩く。親水水路沿いには、関東大震災後に移転してきた寺が並んでいて、寺町を形成している。

寺町の先に伊興遺跡公園がある。この付近は、縄文から古墳時代にかけての遺跡地で、公園内には展示館があり竪穴住居が復元展示されている。遺跡公園から先に進み、毛長橋通りを渡る。その先、はんの木橋の交差点で赤山街道に出る。ここを右に、左側の歩道で進み、古千谷橋の交差点を渡って、見沼代親水公園に入ると、右側に案内板が置かれている。コースはここで終りになっているが、折角なので見沼代親水公園を先に進み、尾久橋通りの、日暮里舎人ライナーの見沼代親水公園駅まで延長したい。

江戸時代、農業用溜池として使用されていた見沼溜井を干拓し、灌漑用水の代替えとして見沼代用水が開削される。この用水は東縁と西縁に分かれて流れるが、そのうちの東縁の下流部は毛長川を越えて足立区内に至っている。その水路跡のうち神領堀分岐点から古千谷橋までを親水公園としたのが見沼代親水公園である。明治の地図を見ると、見沼代用水は古千谷橋の下流で西新井堀が南に分かれ、はんの木橋の手前で本木堀が南に分かれて途中から七曲の道に沿って流れ、はんの木橋で保木間堀が東に分かれたあと、赤山街道沿いに流れて、途中から千住堀と竹の塚堀に分かれて流れていたようである。

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井の頭深大寺コースを歩く

2014-03-08 09:05:13 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「井の頭深大寺杉並コース」は、「成蹊けやき並木散歩(井の頭恩賜公園~三鷹駅)」、「三鷹連雀散歩(三鷹駅~野崎八幡)」、「武蔵野おもかげ散歩(野崎八幡~調布駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は12.3kmになる。

(1) 成蹊けやき並木散歩

 はじめに、“かいぼり”が行われた時の井の頭池の写真を載せておく。“かいぼり”は、池の水を抜いて、池底を天日に干して水質を浄化する事と、外来種を駆除し在来種を保護する事が目的だという。池の底が露出した井の頭池や、家康が茶を点てたという井戸に水が無い風景は今しか見られない。天日干しのあと水を入れても、大半の水は池底から漏れてしまうそうなので、多少の時間はかかるだろうが、それでも、花見の頃までには元の水位に戻るだろう。この池が、小魚の泳ぐ姿が見える池として蘇った暁には、もう、自転車なんぞを放り込む輩は現れないだろう、多分。それと、井の頭池での“かいぼり”の結果が良ければ、他の池でも“かいぼり”の機運が高まるかも知れない。

 コースの起点となる井の頭自然文化園は、動植物と彫刻の取り合わせが面白く、長崎の平和祈念像の原型など見るべきものもあるのだが、今回はパス。出発の前に道路側に置かれている案内板を確認するが、汚損がひどく読めない。読めない案内板は無視して、武蔵野吉祥七福神のルートに従い吉祥寺通りを北に、それから、五日市街道に出て左折する。車の流れの横を歩くのは楽しくないが、致し方ない。

 歩けば、そのうち目印の歩道橋が見えて来る。ここを右に入り、けやき並木の道を歩く。正門を左に、その先を右に曲がり、けやき並木の道を直進する。突き当りを左に行き、陸上競技場のところを左に曲がる。左側の歩道で浄水場を右手に南に向かい、信号を渡って先に進むと、左側に図書館がある。

 図書館の横の通りは、文化会館通りという通称を持っているが、今では、景観に配慮した道になったことを機に、“かたらいの道”という名称が与えられている。コンサートの感想などを語らいながら歩く道という訳だが、そのコンサートが開催される市民文化会館は、五日市街道を渡ったところにあり、その前には案内板も置かれている。かたらいの道を先に進んで井の頭通りを渡り、左側のグラウンドを過ぎる。その先の角を右に、武蔵野警察署の方に進み、三鷹駅北口に出る道路を左側に見送って、三鷹通りを左に折れる。けやき橋の交差点を渡り、玉川上水を渡り、JRのガードを潜り終えれば、この区間は終わり。左に行けば三鷹駅に出る。

(2) 三鷹連雀散歩

 JRのガードをくぐった先を南に向かう。明暦の大火のあと、神田連雀町の住人が移住して開拓したという下連雀と、後に開発された上連雀の間の三鷹通りを、ただひたすら歩く。やがて、左側に八幡大神社が見えてくる。この地の開拓を始めた時、まだ、神社や寺がなかったため、住民が願い出て創建したのが八幡大神社と禅林寺だという。禅林寺は神社の隣にあるが、墓マイラーではないので省略して先に進む。

 八幡大神社の前の案内板を確認し、連雀通りを渡る。ひたすら南に向かって歩けば、やがて三鷹市役所前の交差点に出る。ここを右折。左側の歩道で人見街道を西に向かう。人見街道は、武蔵国府であった府中と大宮八幡を結ぶ道で、古代の道筋とする説もある。この道を進んで行くと野崎の交差点に出る。ここで人見街道は、拡幅工事中の武蔵境通りと交差する。交差点の南西の角にある標識Bを確認し、右側の歩道で南に進むと東八道路に出る。左側に野崎八幡が見えたところで、三鷹連雀散歩はこれにて終了となる。なお、武蔵境通りの前身というべき道は、調布から野崎経由で田無に至る深大寺参詣道に相当し、中世の軍道とも言われる古道であったが、境浄水場の開設により分断された結果、今の武蔵境通り(調布田無線)は武蔵境の北で、境浄水場の西側を通るルートにより田無に向かっている。

(3)武蔵野おもかげ散歩

 東八道路を渡り、武蔵境通りを右側の歩道で南に向かうが、途中で左側の歩道に移る。野崎の交差点から左側の歩道を歩く方が正解だったかも知れない。ところで、武蔵野吉祥七福神で歩いた伏見通りと武蔵境通りは、現在接続されていて、都市計画道路・調布保谷線として通行出来るようになっており、そのうち、東八道路から先、中央自動車道までの区間は、ほぼ完成している模様である。調布保谷線は片道二車線、歩道は広く自転車とも分離されているので、歩きやすい道になっている。

 神代植物公園の信号まで行き、正門から神代植物公園に入ってみたい気もないではないが、今回はルート通りに、その手前の神代植物公園北の信号で左に折れ、神代植物公園通りを東に進む。左側に絶滅危惧植物保護の拠点として開設された植物多様性センターがあり、入園無料なので西門から入って植物の屋外展示を見てまわり、正門から外に出る。標識Bを確認し芝生の広場を歩いて、総合体育館前の信号で右に入る。植物公園の間を抜ける道を南に向かい、神代小橋という名の橋をくぐると、ほどなく神代植物公園の深大寺門の近くに出る。

 今回は神代植物公園は割愛して、北門から深大寺の中に入り、元三大師堂を経て本堂に出る。深大寺は天平5年創建と伝えられる古刹で、江戸時代には元三大師の縁日に近郷近在から参詣客が集まった寺でもある。深大寺の名物は蕎麦で、深大寺領に産する蕎麦を深大寺蕎麦と称していたが、「江戸名所図会」によると、佳品といえるのは寺の裏門近くの畑でとれた蕎麦だけだったという。江戸から明治にかけて深大寺の門前には十軒ほどの店があり、そのうちの一軒では蕎麦を出していたそうだが、大正時代に田山花袋が訪れた時には深大寺も荒廃して食事が出来るような店も無かったという。深大寺に参詣客が戻ってくるのは戦後暫くしてからで、蕎麦の店が増え始めるのは神代植物公園が開園した昭和30年代の後半以降の事である。現在は、深大寺一帯が鬼太郎の助けも借りて半ば観光地化している。

 山門を出て案内板を確認し、門前を南に向かい、バス停から右に折れて、深大寺の信号を渡る。坂を上がって修道院を過ぎると、池上院沿いの下り坂となる。「江戸名所図会」に深大寺蕎麦についての挿絵があるが、描かれている人物は住職と客人の様であり、その場所も門前の茶店ではなく、丘の上の懸崖造りの建物である。その位置だが、描かれている川を野川とし、遠くに見える家並みを甲州街道と考えると、池上院近くの丘の上のように思える。

 坂を下って標識Cにより右折し、次の角を標識Bにより左折。中央自動車道をくぐり野川を渡る。次の交差点を渡り、左側の歩道で先に進むと、小公園の先から道は右に曲がっていく。次の交差点を渡り、標識Cにより左折。右側の歩道を進み、スーパーを過ぎて、次の信号で右に入ると布多天神の横に出る。参拝ののち、南側の鳥居から外に出て、大正寺を左に先に進む。甲州街道を渡り、天神通りを抜けると旧甲州街道に出る。ここを右に行き交差点を渡って左に行けば調布駅に出る。調布駅の地下化に伴う駅前再開発が、目下進行中である。

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世田谷コースを歩く

2014-02-07 19:11:52 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「世田谷コース」は、「松濤駒場ギャラリー散歩(渋谷駅~淡島通り)」、「松陰太子堂散歩(淡島通り~上町駅)」、「ボロ市木もれ陽散歩(上町駅~砧公園)」、「静嘉堂わき水散歩(砧公園~二子玉川園駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は15.8kmになる。

(1) 松濤駒場ギャラリー散歩

 渋谷駅をハチ公口に出て交差点を渡り、道玄坂を少し歩いて、109の右側の文化村通りを左側の歩道で上がる。東急百貨店本店のビルに沿って左に行きBunkamuraの入口を過ぎて、次の角を右に折れる。その先、標識Bを目印に、左に入る細い道を進むと、道は左に曲がって通りに出る。ここを右に行けば鍋島松濤公園に出る。明治時代、紀伊徳川家下屋敷跡の払下げを受けた鍋島家が、地名の由来にもなった松濤園という茶園を開いたが、この茶園が廃止になった後、その一部を児童遊園として公開したのが、この公園の始まりという。この池は渋谷川支流の宇田川の水源の一つで、現在も湧水があるらしい。明治の地図を見ると、三田用水からの分水により水車を回していたようで、今も池の畔には水車が設置されている。

 鍋島松濤公園の池を半周して上がり、公園の外に出て左に行き山手通りに出る。山手通りを右に行き、次の信号で左側の歩道に移る。先に進んで、北に向かう山手通りと分かれて西に向かうが、この道をコスモス通り(旧航研通り)というらしい。山手通りからコスモス通りに続く道は江戸時代からの道で、道の左側には三田用水が流れていたが、今は暗渠になっている。上原二の信号で左に入り南に向かうのがルートで、今回は二番目の角を右に入り東門から駒場公園に入る。入ってすぐ左側の和館に入り庭を眺めながら小休止。近代文学館と洋館は外観を見るだけにして先を急ぐ。この区間のタイトルからすれば、コース途中の美術館や博物館をじっくり見て回るべきかも知れないのだが。

 駒場公園を南門から出て、その先を左に行き、本来のルートに戻って右に行くと、右側に京王井の頭線の踏切が見えてくる。踏切を渡って駒場野公園の前に出ると、入口近くに案内板が置かれている。公園内に入りケルネル田圃や池を眺め、園内を散策したあと、南門から外に出て先に進み、突き当たって左、直ぐ右に曲がって、駒場野公園の拡張部を左に見ながら南に向かえば、淡島通りに出る。通りの名は森巌寺境内にある淡島神社に由来するが、この道は甲州街道に出る滝坂道でもあった。

 上の図は、村尾嘉稜(当ブログのカテゴリー“江戸近郊の小さな旅”参照)が、この道を通って淡島神社を参詣した時の紀行文に添えられた略図で、道の南側には御用屋敷と幕府の薬園、北方には鷹狩で使用される駒ケ原(駒場)が記されている。将軍家の鷹狩の場は六ケ所の筋に分かれていたが、駒場のほか世田谷領の村々は目黒筋の鷹場に含まれていた。「鷹場惣小絵図」によると、目黒筋の鷹場のうち、江戸城から遠い場所は、徳川御三卿のうちの清水家に貸し与えられていたようである。

(2) 松陰太子堂散歩

 淡島通りを左側の歩道で西に向かい、駒場学園高の前の信号で左に折れる。下りきったところのT字路を右に行くと北沢川緑道に出る。北沢川は上北沢を源流とする目黒川の支流であったが、今は暗渠化されて緑道になっている。この緑道を横切り、その先の突き当りを左に、次の突き当りを右に行くと、烏山川緑道が見えてくる。烏山川は烏山寺町を源流とする目黒川の支流だが、この川も今は暗渠となり緑道に代わっている。信号を渡った先から烏山川緑道に入って進むと、案内板が置かれている。地名の由来となった円泉寺の太子堂は割愛して先に進むと、人通りの多い茶沢通りに出る。ここを渡り緑道を先に進むのがルートだが、今回は、茶沢通りを左に行き、三軒茶屋の交差点に出る。

 玉川通りと世田谷通りが分岐する三軒茶屋の角に、江戸時代の道標が置かれている。この道標は、大山参りで賑わった大山道の新道と旧道の分岐点に置かれていたものという。現在の道でいうと、大山道の新道は、玉川通りを新町一まで進み、そこから桜新町を経由するルートをたどり、瀬田で玉川通りに戻って二子の渡しに出るのが道筋であり、大山道の旧道は、世田谷通りを進んで円光院の前で左折、ボロ市通りに出て西に行き、世田谷通りを少しはみ出して左に曲がり、世田谷通りを経由する登戸道を分けたあと、直線的に進んで用賀で新道に合流するのが道筋ということになる。

 三軒茶屋から茶沢通りを戻って、烏山川緑道に入り先に進むと、やがて環七通りに出る。左側の若林踏切の信号で環七を渡って右に行き、左側の烏山川緑道の続きの道を進む。ほどなく、道幅の割には車が多い松陰神社通りに出る。緑道左側の標識Bを確認して、この道を左に行くと右側に松陰神社がある。「世田谷領二十ヶ村絵図」によると、この場所には長州藩の抱屋敷があった。抱屋敷とは百姓地を買い上げて屋敷地としたものだが、明暦の大火のあと、長州藩でも災害に備えて、八王子千人同心頭の志村氏の知行地であった若林村に抱屋敷を設けることにしたのだろう。ただ、屋敷地といっても実際は田畑と林ばかりで、耕作も従来通り行われていたらしい。幕末、刑死した吉田松陰を小塚原の回向院から、この抱屋敷に改葬することが行われたが、蛤御門の変の結果として、長州藩の江戸屋敷が没収され、松陰の墓所も壊されてしまった。そして、明治。松陰の墓所は修復され、松陰神社が創建されることとなる。

 松陰神社を出て、隣の若林公園に行くと、道路側に案内板が置かれている。先に進んで、世田谷区役所前の交差点を過ぎると、やや下りとなり、突き当たって右に、すぐに左に折れて進み、江戸時代に品川橋が架かっていた場所で烏山川緑道を渡る。その先の信号で左折、先に進むと右側に世田谷城址公園がある。入口近くに城址公園の説明版があり、近くには標識Bも置かれている。世田谷城址公園の交差点を渡って南に進むと、世田谷線の上町駅に出る。


(3) ボロ市木もれ陽散歩

 踏切を渡って左側にある標識Aを確認し、通りを渡って先に進むと世田谷通りに出る。歴史と文化の散歩道の車止めポールがある交差点を渡って、やや細い道を上がっていくと、大山道の旧道であるボロ市通りに出る。ここを左に行き、右手の世田谷代官屋敷に入る。ここは、彦根藩世田谷領の代官を務めた大場家の役宅で、主屋と表門が重要文化財に指定されている。大場家は彦根藩の代官であったが、世田谷領の村々が将軍家の鷹場になっていた為、幕府の役人で駒場の役宅に詰めていた鳥見の支配を受けていたようである。鳥見は、鳥の生息環境の維持という点から、家屋の修理や参詣客のための出店にも干渉していたらしい。代官屋敷の敷地内には、世田谷郷土資料館があり、常設展のほか企画展も開催されている。入館は無料。館外に、大山道の旧道と登戸道との分岐点にあった道標も展示されている。

 代官屋敷を出て左に行き、すぐ西側の道を入って南に進み、突き当りを右に行く。その先の突き当りで左に行き、駒留通りを信号で渡って、その先の四つ角を右に折れ、松丘小と実相院との間を先に進むと教育センター通りに出る。左側にある標識Bを確認して左に行き信号を渡って、歴史と文化の散歩道のガードレールがある道に入る。この道は目黒川支流の蛇崩川が流れていた場所でもある。この道を進むと左側に大山道児童遊園があり、大山道旅人の像が置かれている。この児童遊園の西側の道が、大山道の旧道であることに因んだものなのだろう。文化2年の「目黒筋御場絵図」を見ると、大山道旧道が蛇崩川を渡る場所に八幡橋が記され、近くには八幡の祠も記されている。また、八幡橋の西側には、蛇崩川の水源となる水溜(溜池)も書かれているので、この辺りは一休みしたい場所であったかも知れない。なお、同図には、蛇崩川のもう一つの水源として、現在の桜新町駅の北方と思われる地点に水溜が書かれている。

 児童遊園西側の案内板でルートを確認し、大山道旧道を渡り、左側の道を進む。右側の松丘公園に沿って上がり、四つ角に出て左に、右手にJRA弦巻公園を見ながら進んで、その先の角を左に上がって行くと弦巻五の交差点に出る。西北の角の標識Bを確認して右に、馬事公苑の外壁に沿って進む。今は姿を見る事が出来ないが、馬事公苑の東側の境界沿いには、玉川上水から分水し千歳通りを経て流れてきた品川用水の水路があった。馬事公苑の北側、登戸道(現在の世田谷通り)が品川用水を渡る場所には喜多見(北見)橋が架かり、大山道旧道が品川用水を渡る場所(現在の陸上自衛隊交差点)には下之橋が架かっていた。下之橋から先の品川用水は、桜新町を経由して東流し、目黒田園調布コースで歩いた目黒不動道と碑文谷道の分岐点(後地の交差点)を通って流れていた。

 本来のルートは馬事公苑の周辺を回るようになっているが、午年の馬の様子を眺めるべく、今回は弦巻門から馬事公苑に入る。ただ、あまり時間を取れないので、一通り見て回ったあと正門から退出。左に下って行き、用賀中町通りに出て左に折れ、馬事公苑に沿って左側の歩道を進む。馬事公苑前駐在所の交差点で右折。用賀七条通りを右側の歩道でやや下る。桜並木の西用賀通りを過ぎれば、程なく環八通り。ここを渡れば、左側が次の目的地、砧公園である。

 砧公園に北口から入ると直ぐに案内板がある。歴史と文化の散歩道のルートは砧公園内にも設定されていて、所々に標識Bも置かれているのだが、公園ぐらいは気ままに散策したい、世田谷美術館にも久しぶりに入ってみたい、そんな気もする。ただ、今回だけは、おおむねルート通りに歩いてみる。何年前の事だったか、武蔵小金井から花を求めて野川を下り、砧公園で花見をした事があった。まさに春爛漫の一日。今年、もう一度、あの日のように歩いてみたい。今年の桜を今から待ちわびる。それも、また良きかな。

 砧公園の中を先に進むと橋がある。橋の下には小さな川が流れている。川の名は谷戸川という。品川用水が流れていた千歳通り近くの千歳台付近を源流とし、砧公園を抜けて、丸子川に合流するまで3kmほどの短い川である。この川も、砧公園の中だけは、本来の姿を少しだけ残しているように思える。それでも、公園を出れば都市部の川に変貌してしまうのだろう。橋を渡り、西口から公園の外に出る。そこには、標識Aが置かれていて、いささか中途半端ながら、季節外れの木もれ陽散歩の終わりを告げている。


(4) 静嘉堂わき水散歩

 砧公園の西口を左に公園橋を渡る。東名高速道路の行く手に、山並みの姿を期待するが、今日は無理のようだ。橋を渡って左に、標識Cにより右側の歩道で下る。下り終えた少し先に一ノ橋があり、下を谷戸川が流れている。橋の手前で右に行き、谷戸川沿いの道をたどる。一ノ橋のあとの橋の名と、所々に埋め込まれている標識Cを確認しつつ進み、六ノ橋に至って右に折れ、坂を上がる。途中、坂道を横断してさらに上がれば道は平坦になるが、それも束の間で、急な堂ヶ谷戸坂の下りとなる。下り終えた所が丸子川に架かる堂ヶ谷戸橋で、ここから左に丸子川沿いの遊歩道を歩く。丸子川の水源は付近の湧水というが、その流路は六郷用水の跡である。

 六郷用水は、和泉で多摩川から取水し、農業用水として六郷に送る用水路で、小泉次太夫により慶長16年に開削されている。この結果、それまで多摩川に流入していた筈の、野川、入間川、仙川、谷戸川などの河川は、六郷用水により分断されてしまう事になったが、工事に先だって余った水の切り落とし地点を設定しているので、分断された川の水利用についても一定の配慮はしていたのだろう。それでも六郷用水利用の要望はあったのか、後になって、途中の村々でも六郷用水が利用できるよう改修されたということである。丸子川に沿って遊歩道を先に進むと岡本公園に出る。湧水が多いらしく夏でも涼しそうな場所である。ここには、民家園も併設されているので入ってみる。

 民家園を出て岡本静嘉堂緑地に沿って進む。この辺りには湧水が多いらしく、冬でも少しは気分爽快になる。少し先、左側から丸子川に合流してくる小川がある。静嘉堂下の湧水を入れた谷戸川である。その先の信号を右に折れるのがルートだが、ここは左側の緑道のような歩道を歩く。幽篁庭園という名園の跡に建てられたマンションの公開空地を遊歩道のようにしたものという。先に進んで次の四つ角を左折するのがルートだが、ここは一旦、緑道のような歩道から下りて左に折れ、右側の歩道を進む。その先に、案内板が置かれているが、それには、公園橋から谷戸川に下りるルートとは別のルートが記されている。その方が、歩きやすいのかも知れない。

 案内板から先に進むと、右斜め前方に入る遊歩道があり、きしべの路と記されている。きしべの路とは成城学園から二子玉川に至る散歩道のことだが、ここの遊歩道は、暗渠化された谷川(やがわ)の上を遊歩道としたものだろう。「目黒筋御場絵図」には、仙川が六郷用水に合流する地点で、六郷用水から分水され、諏訪社の近くで多摩川(現在は野川)に流入する水路が書かれているが、この水路が谷川に該当しそうである。この水路は、昭和30年の地図にも記載されており、谷戸川合流点の下流で丸子川から分流した水路も合流して、きしべの路の遊歩道に相当する水路を流れていた。谷川を、六郷用水により分断された谷戸川の下流だとすると、仙川合流地点からの分水の下流として、谷戸川の下流部分を利用したという事になるだろうか。

 きしべの路の遊歩道を進んで行くと、砧線跡遊歩道に出る。ここを左に行く。東急砧線は多摩川の砂利を運ぶことを目的として大正時代に開通した、二子玉川から砧本村の間2kmほどの路線であったが、昭和40年代に廃線になっている。谷川は、この線路に並行して流れたあと右に分かれて諏訪神社の方向に流れていた。谷川緑道がその跡である。砧線跡遊歩道を先に進むと、中耕地駅跡の標柱が立っている。ここを過ぎて、厚木街道の下をくぐり、その先を右に行けば、コースの最終目的地である二子玉川駅に出る。大山道の旅人が渡ったであろう二子の渡しは、駅のプラットホームから、その方向を眺めるだけにとどめて、このコースを終わりとしたい。

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中野石神井コースを歩く

2013-12-15 10:00:15 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「中野石神井コース」は、「新宿今昔散歩(新宿中央公園~東中野駅)」、「寺町哲学堂散歩(東中野駅~中野区立歴史民俗資料館)」、「練馬すずしろの道散歩(中野区立歴史民俗資料館~中村橋駅)」、「東高野みち散歩(中村橋駅~石神井公園)」、の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は14.7kmになる。なお、当ブログのカテゴリー「江戸近郊の小さな旅」のうち、「石神井の道くさ」や「谷原村長命寺道くさ」の記事の中に、当コースに関連する記述がある。

(1)新宿今昔散歩

 新宿中央公園の水の広場からスタート。公園東側の公園通りを北に向かうのがルートだが、今回は人工の滝の裏手に出て公園西側にある熊野神社に行く。この神社は、紀州熊野の十二の社を勧請したことから十二所とも呼ばれ、付近には料理屋の立ち並ぶ弁天池や玉川上水から神田川への助水路が作る渓流もあって、広重の名所江戸百景にも取り上げられるほどの行楽の地であったが、今は池も埋め立てられ、助水路も姿を消して、往時の景観は失われてしまっている。

 熊野神社から公園の北東側に行き、案内板を確認してから外に出る。新宿中央公園北の交差点を渡って左側の歩道で北に向かうと、道はやや下りとなって右に曲がっていく。まもなく青梅街道に出るので、ここを渡ると、新宿グランドタワーの前に出る。ここを右に行き成子坂下の信号で左に入る。この辺り一帯は、再開発されて様変わりしてしまっている。先に進むと、ビルの下を通り抜けられるようになっているが、その前に、右へ行き、境内の超高層マンションに見下ろされている成子天神の富士塚を見に行く。

 ビルの下を通り抜けるとガーデンエリアとなる。ここを抜けると税務署通りで、ここを左に行き次の信号で右に折れる。信号を渡った先の標識Bの左側の道を入って北に行くのがルートで、ガードレールのポールに歴史と文化の散歩道とあるのが目印となる。この道を進むと蜀江坂の上りとなり、坂の上で道は二分される。右側の道を進むと、少し先の右側、小公園の前に標識Bが置かれている。ここを左に折れ、突き当りを左に、すぐ右に折れると、大久保通りに出る。ここを渡って、先に進むと道は二つに分かれる。右に曲がっていくと鎧神社に出るが、直進して坂を下るのがルートで、すぐ先の右側に円照寺がある。

 この寺には、武蔵国絵図にも描かれた桜の名木、右衛門桜があったが、すでに枯れて今は代わりの桜が植えられている。寺を過ぎて塀に沿って右に曲がると、道は二分される。ルートは左側の道で、道なりに下っていくと神田川に出る。万亀橋を渡って直ぐ右側に案内板が置かれている。

 神田川の下流に向かって遊歩道を歩き、JRのガードをくぐる。その先の大東橋で左に折れて坂を上がり東中野本通りに出る。ここを左に行き、JRの線路に出て右折、右側の歩道で坂を上がる。坂の上、東中野駅西口には標識Aが置かれているが地図は無い。

(2)寺町哲学堂散歩

 東中野駅から山手通りを渡り、斜め前方の東中野ギンザ通りを進み、商店街を抜けて青原寺駐在所前の信号を渡る。左側の歩道で下り、下り終えた先の信号で右側の歩道に移る。功運寺の先の交番で道は2分岐するが、ここは右側の道を進み、次の信号で右折して桜ヶ池通りを下る。桜ヶ池不動院を過ぎ、西武新宿線の踏切を渡り、上高田運動施設を右に見て進み、上高田公園の先で妙正寺川を北原橋で渡り、左折して川沿いに進めば、哲学堂通りに出る。通りを渡ると哲学堂の四村橋口があるが、右に哲学堂通りを上がって公園の正面口から入るのがルートである。入口近くには案内板がある。

 江戸時代、この地は和田山と呼ばれ、和田義盛の陣屋跡とも言われていた。和田義盛は鎌倉幕府の初代侍所別当(長官)で、相模国の和田を根拠地とし、屋敷は鎌倉にあった。明治になると、東洋大学の創始者である井上円了が、この地に精神修養の場として哲学堂を開設。現在は、運動施設を含めて中野区の公園になっている。正面入口から入って、右側の野球場に沿って先に進むと、右手奥に特徴ある建造物が見えてくる。“杉並コースを歩く”で述べた野方の配水塔である。その先、哲学関から中に入る。

 哲学堂には、四聖堂や六賢台など往時の建物が保存されており、昔の景観を残していることもあって、都指定の名勝になっている。園内を見て回り、哲学の庭を経て梅林口から外に出る。中野通りを右に行くと新青梅街道に出るので、ここを左折し、左側の歩道で西に進むと左側に江古田公園がある。

 この辺りは、豊島氏一族と太田道灌が戦った古戦場の跡で、江古田公園内には江古田原・沼袋古戦場の碑が立っている。豊島氏は、この合戦に敗れて石神井城に退くが、石神井城も陥落し、遂には没落するに至っている。公園を出て西に向かい、妙正寺川に合流する江古田川を渡るが、思いのほか水量は少ない。左側の歩道で新青梅街道を進んで坂を上がる。坂の上に歩道橋があり、その手前の交差点を右に折れて北に向かうのがルートで、渡った先の歩道に標識Aが置かれているが地図は無い。今回は、ここから右側の歩道で新青梅街道を西に進み、中野区の歴史民俗資料館に行く。

 中野区の歴史民俗資料館は入場無料で常設展のほか企画展や特別展が随時開催されている。資料館に隣接して旧名主の山崎家の邸宅があり、東京文化財ウイークを中心とする期間に庭園内を公開している。


(3)練馬すずしろの道散歩

 表題の“すずしろ”とは大根の異名で、これから向かう練馬は大根の産地でもあった。歴史民俗資料館と山崎家の間を抜け、資料館の裏手に出て右に行き、T字路を右に行くと、通りに突き当たる。この通りが本来のルートである。ここを左に下って行き、二つ目の信号で左に折れる。東福寺と氷川神社を過ぎると、やがて道は下りとなり、下徳田橋に出る。橋の右側には江古田川の水路が見られるが、橋の左側から先は暗渠になり、川の名称も中新井川に変わる。暗渠の上の緑道を進むと、途中に案内板が置かれている。

 暗渠の上の緑道はまもなく終わり、その先、道路中央の暗渠上はグリーンベルトとなって歩くことが出来ない。歩道を歩き、左側の徳殿公園で小休止する。徳殿は徳田で、税をまけてもらって得をした田だからという話がある。徳殿公園を出て右側の歩道を進み、その先の角を、標識Bを頼りに右折して北に向かう。

 豊玉南小に沿って北に進み、その先の信号を渡って左に行く。正覚院と氷川神社を過ぎると環七に出る。ここを渡り、楠の大木がある富士稲荷を過ぎて、学田公園入口の信号で右に入ると、少し先に練馬区の変遷を説明した案内板がある。

 学田公園に沿って北に向かう。野球場ばかりが目立ってしまう公園だが、お花見の名所でもあるらしい。昔、ここには中新井川の水源となる池があり、千川上水からの分水を加えて中新井川流域の水田を潤していた。後に、この池を水田に変えて学校の運営費をまかなったことがあり、そこから学田と呼ばれるようになったという。

 学田公園の北側に置かれている案内板を確認し、その先の角を左に行く。なお、北に向かう道は、千川上水から分かれて学田公園にあった池に流れ込んでいた中新井分水の跡である。左に行くと南蔵院に出るが、寺の南側の道を塀に沿って進むのがルートである。先に進み、塀に沿って右に曲がると、右側に鐘楼門がある。

 鐘楼門から直ぐ、道は左に折れるので、その道を進み信号を渡って中村小と農園の間の道を西に進む。坂を上がるとすぐ平坦な道となる。少し先、道の角に置かれている標識Bを目印に右に曲がり、千川通りまで一直線の道を、右側の歩道で北に向かう。昔みその醸造元の左手に稲荷の祠があり、ここを左に入り、道なりに進むと中村公園に出る。

 中村公園から北に向かうと千川通りに出る。ここから稲荷の祠に至る道は千川上水から分かれた中村分水の水路跡で、南蔵院近くの水田を潤したあと、学田公園にあった池に流れ込んでいたという。千川通りに出て左に行き、中杉通りとの交差点で千川通りを渡って中村橋駅に出る。

(4)東高野みち散歩

 中村橋駅から中杉通りの商店街を歩き、コンビニの角で標識Cにより左に折れていくと、練馬区立美術館の北側に出る。歩道に置かれている案内板を確認し、先に進むと道は下り坂となる。スーパーの角を右に折れ、銭湯の先を左に折れると、貫井川跡の緑道に出るので右に折れ、緑道を北に進んで目白通りに出る。ここを左側の歩道で左に進み、ガソリン・スタンドの手前で左斜め方向に入る。ここからは昔からの東高野山・長命寺への参詣道となる。道なりに進むと須賀神社の先で道は二分されるが、右側の道を選ぶ。なお、手前の右側の歩道に標識Bがある。先に進んでいくと、道は環八により分断されている。富士見台四の信号で環八を渡り、南光幼稚園を右に見て西に進むと左側に地蔵の祠がある。ここの三叉路を左に、直ぐ次の三叉路を右に行き、テニスコートを右に見ながら西に向かい、突き当りを左に折れる。その先、1番目か2番目の角を右に折れて、次の角を左に折れても差し支えないが、「ねりまの文化財」の記述に従えば、3番目の角を右に行き、突き当たりを左に下ることになる。下り終えたところが神社の裏手で、T字路になっている。ここを右に行き石神井川を渡る。その先を標識Bにより右折、石神井東中の先を左に折れると笹目通りに出る。通りの向こうが長命寺で、押しボタン式の信号で笹目通りを渡る。
(注)当ブログのカテゴリー・寺社巡拝の「参詣道を歩く」に関連記事がある。

 東門から長命寺に入り、江戸時代の景観を今に残すという奥之院など、境内を見て回る。長命寺は武蔵野観音巡礼の第一番の札所でもあるので、ここからは、第二番札所の道場寺と第三番札所の三宝寺への巡拝を兼ねて、この先の道を歩くことになる。南大門を出て右に、江戸時代からあったと思われる道を進んで行くと、やがて西武池袋線のガードに出る。ガードを潜って南に行くのがルートで、ガードを出た先を右に行くと石神井公園駅に出る。現在は駅が高架化されたことによる、周辺の再開発が進行中である。ガードを出て南に進むと稲荷神社があるが、その前の標識Bにより右へ行き、坂を下って石神井公園通りを渡ると石神井池に出る。

 石神井池のボート乗り場の前を左に行き、池に沿って進む。石神井池は人工の池で、もともとは三宝寺池から流れ出て石神井川に合流する水路があったところである。池の水が暗渠の中に流れ落ちていくのが見えるが、暗渠は石神井公園通りの東側に続いており、その上は和田堀緑道になっている。石神井池に沿って進んでいくと、中の島に架かる太鼓橋や、野外ステージがある。その先、池の近くに案内板が置かれている。当コースは、ここで終わりになるのだが、、もう少し歩いてから、石神井公園駅に戻ることにする。

 石神井池から道路を渡って、西側の三宝寺池に行く。三宝寺池も都市化による湧水量の激減により、今は地下水の汲み上げに頼っている。水質の悪化は、国の天然記念物である沼沢植物群落にも影響を与え、消滅してしまった種もあるようだが、復元の努力の結果もあって、幾分持ち直してきているらしい。池の周囲の木道を歩くと、まだまだ自然が残っているようにも思える。

 三宝寺池を渡る橋の際から、石神井城跡のフェンス沿いに進み、三宝寺の北側の道を左に下っていくと、旧名主役宅の長屋門の前に出る。ここを右に折れ、道場寺と三宝寺の間を南に向かい、車道に出て左に行き道場寺に入る。三重塔が印象に残る寺である。その後、西側の三宝寺に行き、根本大塔の先の大観音を仰ぎ見る。

 旧名主役宅の長屋門まで戻って右に行き、通りを渡って石神井公園ふるさと文化館に行く。その後、東側に隣接する池淵史跡公園に行き、移設された旧内田家住宅を見る。ここを出て石神井公園に沿って東に進み、野球場のあるエリアを抜け、記念庭園の池を見て、石神井公園通りを通って石神井公園駅へと向かう。

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