夢七雑録

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東京文化財ウイーク2021・豊島区・その2

2021-11-12 19:24:00 | 東京の文化財

(2)雑司ヶ谷旧宣教師館

鬼子母神前の踏切を渡って左へ、都電沿いに道を北に向かうと弦巻通りに出る。途中に踏切があった筈だが見当たらない。閉鎖されたのだろう。弦巻通りを東に向かう。通りの名は弦巻川が由来だろうが、暗渠化されているので、どこを流れていたかは分からない。児童遊園の先の角を左に入り、急坂を上がると雑司が谷霊園に出る。霊園に沿って右へ行き、保育園の角を右に入って、幼稚園の手前を左に行くと豊島区立雑司が谷旧宣教師館に出る。

雑司が谷旧宣教師館は、アメリカ人宣教師のマッケーレブが明治40年に建てた居宅で、昭和16年まで居住していたという。昭和57年に豊島区がこの建物を取得して、当初の姿に復元するとともに保存修理工事を行い、平成元年に開館。平成11年には旧マッケーレブ邸として、都の有形文化財(建造物)に指定されている。昨年度は大規模修繕のため閉館していたが、工事も終り今年4月から開館している。入館料は無料である。

ホールでスリッパに履き替え中に入る。1階の西側は居間、東側は食堂、南側は教会事務室として使われていた。写真は食堂で、階段の見える東側から南側にかけて広縁になっている。

北側の階段を上がる。向こう側に広縁が見えている。その左側は浴室である。2階は、東側と西側が寝室、南側が書斎として使われていた。

写真は書斎で、左側には暖炉がある。暖炉は1階と2階、合わせて6室に設けられていた。書斎の向こう側には広縁が見えている。

各部屋と展示を見たあと、庭に出て建物を一周する。写真は南側で、1階と2階で形の異なるベイウィンドウ、すなわち出窓になっている。

東側の庭から建物を見る。ガラス窓なので庭から部屋の様子が見える。広縁から庭を眺めるのも良さそうである。建物の周りを一周し、それから宣教師館の外に出る。宣教師館を横目に右へ行き、その先を左に、次の突き当りを右に進み、その先の突き当りを左に行くと、雑司が谷霊園に出る。霊園沿いに右に行けば日出通りに出る。坂の名は小篠(こざさ)坂。昔、この坂を都電が通っていたが、今は首都高が頭上を覆い隠すように通っている。

首都高を潜って日出通りを渡り左に行く。次の交差点で右に入る道は、護国寺の裏手を通って鈴木信太郎記念館に行く近道だが、今回はこの道を通らず、日出通りから分かれて北に向かう道を歩く。実は、この道、豊島区と文京区の境の道なのである。先に進むと左側つまり豊島区側に“鎮守の森”という名の小さな広場があった。鎮守とは言うが、神社があったわけではないらしい。この辺りでは、このような小広場を辻広場と呼び、他にもあるという。

鎮守の森を過ぎて直ぐ右に道を折れ、三つ目の左側の角を左に入る。児童遊園を過ぎて先に進むと、道の角に小さな広場があった。ここも辻広場で太陽広場と呼ばれているらしい。ここを右に行くと、いつの間にか文京区側に入ってしまう。

 

(3)鈴木信太郎記念館

大塚六丁目の交差点に出て、右に行く。少し歩くと開運坂の交差点に出る。押しボタン式信号機のボタンを押し、暫く休んでから渡る。渡った先の道を北に向かって進み、右に曲がるとようやく区境の道となる。道の左側には斜面の崩壊を防ぐ大谷石の擁壁が続くが、その途中に鈴木信太郎記念館の入口がある。この記念館は、旧鈴木家住宅として豊島区の有形文化財(建造物)に指定されている。なお、当ブログでは鈴木信太郎記念館について2018年10月31日にも投稿している。

入口を入って石段を上がると、先ず右側の書斎棟が目を引く。昭和3年の建設で蔵書を火災から守るため鉄筋コンクリート造りになっている。設計は鉄筋コンクリートに詳しい大塚泰。幾何学模様に対し日本瓦の唐破風を組み合わせている。

鈴木家住宅は、茶の間ホール棟を中心に右側の書斎棟と左側の座敷棟からなる。写真は茶の間ホール棟で、粟谷鶉二の設計による昭和21年の建築である。戦後の住宅不足対策として、限りある建築資材で多くの棟数を確保するため、昭和21年に臨時建設制限令が出され、木造住宅の床面積が50㎡(15坪)を超える新築や増改築は原則として禁止されることになった。そのため、茶の間ホール棟も50㎡以下に抑えられている。

茶の間ホール棟の玄関でスリッパに履き替えて書斎棟に行く。天井まで届く本棚に圧倒される。知っている本があるかどうか探そうかと思ったが、すぐにあきらめる。書斎棟には、多くの書物を机に並べて仕事するのに適した机と椅子がある。今はカーテンにより室内は暗くなっているが、仕事をしている時にはカーテンを開けていたかも知れない。

書斎棟には鈴木信太郎自身のデザインによるステンドグラスが、5枚はめ込まれている。黄金色の光の中で、鰐、鳩、鹿、獅子、犬が本を開いている図柄で、マラルメが語った言葉「LE MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU  LIVRE」(世界は一巻の美しい書物に近付くべく出来ている)を5分割したものを組み合わせているということだが、文字はよく分からない。上の写真はその中の1枚で、S.Mというのはステファヌ.マラルメのことだろう。

書斎棟からホールに戻ろうとして段差があるのに気付く。フランス文学の研究者として書斎で過ごす時間が多かったとすると、書斎は職場であり、家人が自由に入れる場所ではなかっただろう。ホールを通り抜け、スリッパも脱いで座敷棟に行く。北葛飾郡富多村の実家には明治20年代に建てられた書院があったが、座敷棟はこれを昭和23年に移築したもので、臨時建設制限令下でも移築は許可されたらしい。次の間から座敷を眺める。以前来た時は床の間に何も無かったが、今回は掛軸が架かっていた。これでこそ床の間である。掛軸は高森碎巌の穐景山水図で複製のようだが、それでも掛軸があった方がいい。

玄関から外に出て座敷棟を眺める。その背後には、昔は無かった筈の高層建築が、鈴木家の住宅を見下ろすように立ち並んでいる。仮に座敷棟に住むことになったとしたら、多少なりとも気になるのかもしれない。

室内から庭を眺める。住居だった頃の庭については、よく分からないが、現在の庭はすっきりした庭になっている。芝生に踏み石が置かれただけで座敷棟の前は和の庭になる。敷地東側の書斎棟の前は芝生が広がる洋の庭で、入口近くのクスノキがシンボルツリーとなって、敷地の南側全体を一つの庭にまとめている、そんな気がする。

記念館内を一通り見てから、外に出て新大塚駅に向かう。途中、記念館の外から書斎棟を眺める。背後には高層建築も見えているが、建物の風格と云う点からすれば格段の差がある。それにしても、個人の住宅の一部として、よくぞ、このような書斎棟を建てたものだと思う。

 

 

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東京文化財ウイーク2021・豊島区・その1

2021-11-06 20:59:13 | 東京の文化財

東京文化財ウイーク2021で、豊島区は6件の企画事業を行っているが、その中に自由学園明日館100周年記念・洋風建築ぬりえ散歩という企画があり、自由学園明日館、雑司ヶ谷旧宣教師館、鈴木信太郎記念館の3館を対象として11月28日まで行われることになっていた。そこで、ぬりえはともかくとして、3館に加えて豊島区の文化財をめぐる散歩をしてみる事にした。

(1)自由学園明日館

池袋駅を西側に出てメトロポリタン通りを南に向かう。途中、交差点の角に元池袋史跡公園があり、この付近に弦巻川の源流でもある丸池があったということだが、今は池や流れの跡形もない。ホテルメトロポリタンに沿って先に進み、次の交差点を渡って右手の角を入り、上り屋敷通りに出る。通りの名は平成になってからの通称のようだが、通り自体は古くからあったらしい。ここを道なりに進んで案内標識により右に入ると、国指定重要文化財(建造物)の自由学園明日館に出る。道路の右側には中央棟と西教室、東教室が並んでいるが、背後の高層建築に負けない存在感がある。設計は帝国ホテルの設計のため来日していたF.L.ライトで、遠藤新が助手を勤めていた。竣工は中央棟と西教室が大正11年、東教室が大正14年だが、自由学園の創立は大正10年なので完成前の教室を使用して開校したらしい。この建物は文化財を使用しながら保存する動態保全を採用しており、集会などで使用することが可能になっている。また、有料だが内部を見学することもできる。

中央棟や東西の教室はすでに入館したことがあるので、今回は道路の左側にある講堂に行く。講堂も重要文化財(建造物)で設計は遠藤新。昭和2年の竣工である。今年は11月3日まで館内で「文化財の中で文化財を知る」という無料の展覧会を行っていたので入ってみた。講堂は関東大震災後の建築であり、中央の床に対して両脇の床を高くする耐震も考慮した設計になっている。講堂は平成26年から3年かけて保存修理工事が行われ、耐震診断の結果に基づいた耐震対策のほか防火対策も行われたというが、見た目は工事前と変わらなかったようである。文化財である講堂の中で、豊島区の文化財についての展示を見て回り、縄文時代後期の貝塚が池袋にあることに気付く。文化財ウイークには茂呂遺跡も公開されている筈だが、発見された黒曜石の産地は同じなのだろうか。

講堂を出て講堂沿いの道を歩き、南側の入口付近から講堂をしばらく眺め、それから、上り屋敷通りに出る。通りは線路沿いの道となるが、この辺にあった筈の開かずの踏切の場所が分からぬまま、西武池袋線の下をくぐる。上り屋敷通りもここ迄で、この先は線路沿いに目白駅に向かう道となる。平成も終りの頃、目白駅から明日館に向かう道をF.L.ライトの小路と呼ぶようになったらしく、そのルートは上り屋敷通りと重複する区間があったようである。開かずの踏切が廃止された後、代わりに設けられた歩道橋でJRの上を越える。歩道橋の名は“花のはし”。線路敷内の土手に花々が咲き誇ることを願ってのことらしい。 

歩道橋を渡って左へ行き、西武池袋線のガードは無視して、車に注意しながら曲がりくねった道を先に進む。この道は鬼子母神に通じる江戸時代からの道でもあった。明治通りを渡って、鬼子母神西参道を先に行くと鬼子母神の裏手に出る。裏口から入るのも気が引けるので左側の道を進んで横から境内に入る。雑司ヶ谷鬼子母神堂は国指定の重要文化財(建造物)で、本殿は寛文4年、拝殿は元禄13年の建立。江戸時代には浅草寺や目黒不動と並んで多くの人が参詣に訪れた場所でもある。

鬼子母神の境内には、都指定の天然記念物であるイチョウがある。幹囲6.6m、樹高32.5mの大木で、御神木として扱われているようである。

鬼子母神の境内を出て、鬼子母神表参道を歩く。参道の途中に、雑司が谷案内処のある並木ハウスアネックスがあるが、この建物は砂金家長屋(いさごけ ながや)として国登録の有形文化財(建造物)になっている。この建物は昭和7年に建てられた昭和モダンの長屋建て店舗兼住宅で、1階は仕事場として2階は和室として使われていたという。

並木ハウスアネックスの裏手にある並木ハウスは、砂金家が昭和28年に建てた上質な木造賃貸アパートで、この建物も国登録の有形文化財(建造物)になっている。手塚治虫が都内で最初に入居したのはトキワ荘だが、その後、並木ハウスに転居している。並木ハウスは現在も入居者があり、立ち入ることは出来ない。

鬼子母神表参道の鬼子母神大門ケヤキは都の天然記念物に指定されている。地元の人たちの努力もあって、ここまで維持されてきたのだろう。

さて、この先を続けて歩くことも可能ではあるのだが、途中、思いのほか時間を要してしまったため、日を改めて歩くことにした。

 

 

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東京文化財ウイーク2021・中野区

2021-10-28 18:16:55 | 東京の文化財

東京文化財ウイーク2021で、中野区は特別公開事業として哲学堂公園と三岸家住宅アトリエを、企画事業として歴史民俗資料館の特別展と山崎家庭園茶室を対象にしている。

(1)哲学堂

哲学堂は、哲学者で東洋大学の創立者である井上円了博士が、精神修養の場として開設した公園で、戦後は都立公園となるが、現在は中野区立哲学堂公園になっている。哲学堂公園は国指定の名勝であり、哲学堂内にある明治から大正時代の古い建築物、すなわち、哲理門、四聖堂、六賢台、絶対城、宇宙館、三学亭、常識門、髑髏庵、鬼神窟、無尽蔵は中野区指定の有形文化財になっている。特別公開事業の期間は10月30日~11月7日だが、哲学堂ではすでに古建築の内部公開を始めていた。まずは、文化財ウイークの幟が立つ事務所で資料を入手する。

哲理門から中に入る。門のうちにある幽霊は心の不思議、天狗は物の不思議を表しているという。今日は建築物の方に関心がある故、天狗の横を通り抜けて時空岡という広場に出る。

広場の中ほどには四聖堂があり、孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四人の哲学者が祀られている。四聖堂の中には入れないが、扉が開いているので内部を覗くことは出来る。球体の燈火の下に吊り下げられた香炉、その下には南無絶対無限尊の円柱が見える。堂内には釈迦涅槃像が祀られているが、これは昭和になって置かれたらしい。

石段を上がって、三角錐の築山の上に建てられた三学亭に行く。ここには、神道の平田篤胤、儒教の林羅山、そして仏教からは鎌倉時代の学僧である釈凝然、この三人の碩学が祀られている。三学亭は三本の柱で三角錐の屋根を支える小さな四阿で、一休みする場所にはなるが、眺めはさほど良くない。石段は三方にあるが、この日は、もと来た石段を戻る。

講義室として建てられた宇宙館に行く。宇宙の真理を研究する学問として哲学をとらえていたのが名の由来らしい。館内には昭和になってから設置された聖徳太子立像もある。宇宙館内で哲学堂のビデオ映像の一部を視聴してから外に出る。

図書室として使われていた絶対城に行き、スリッパに履き替えて中に入る。あらゆる書を読みつくせば絶対の境地に達すると言うのが名の由来のようだが、蔵書は全て他で保存されているらしく、今は空っぽの本棚が並ぶだけである。2階にも上がってみる。ここは閲覧室になっていて、天窓から射し込む光で本を読んでいたらしい。婦人用の閲覧室も別に設けられていた。絶対城の外側には屋根の上にまで続く梯子が架かっている。登り切ったところは観望台になっていて富士山も望めたという。

六賢台は三層六角形の塔で、哲学堂では一番目を引く建物だが、今日は内部の公開はされていなかった。この塔は、道教の荘子、朱子学の朱子、仏教の龍樹、バラモン教の迦比羅仙(カピラ)、そして日本から聖徳太子と菅原道真を賢人として祀っているという。

無尽蔵という古建築も公開されていたので、スリッパに履き替えて中に入る。井上円了は国内だけでなく世界各地を訪れているが、その時の蒐集品を納めたのが無尽蔵であったらしい。1階の展示を見てまわったあと、2階にも上がってみる。

集会場として利用されている霊明閣の建物は鬼神窟でもあり、髑髏庵から入ることになるが、当然のことながら入れないので常識門から外に出る。

 

(2)山崎家庭園・茶室

中野区立歴史民俗資料館の展覧会「はかる道具」を見る。そのあと、併設されている山崎家庭園・茶室が公開(10月1日~10月31日)されていたので行ってみた。山崎家は醤油製造業で隆盛を誇り、江古田村丸山組の名主をつとめた家柄で、歴史民俗資料館は山崎家から寄贈された土地にある。

歴史民俗資料館の横から、山崎家の庭に入る。山崎家の庭には、これ見よがしのようなところは無い。部屋から眺めるのも良く、また、庭を歩くのも良い、そんな庭である。

山崎家の書院は離れとして天保12年に建てられたという。現在の書院は、江戸時代そのままではないだろうが、当時の様子を少なからず残しているのかも知れない。書院は左側の八畳の座敷と六畳の次の間からなり、板襖で仕切られていたようである。

書院の横には洋館があるが、大正時代に洋館付の和風住宅が流行したことから、山崎家でも洋館付の住宅に改修したのではないかと思う。

書院の前の庭には、寒山拾得の石像が置かれていた。左側が寒山で、右側の箒を持っている方が拾得になるのだろう。寒山拾得の図は多いようだが、石像は少ないらしい。それにしても、この石像は変わっている。見方によっては談笑する老夫婦のようにも見えてくる。

庭の片隅には椎の木の巨木があった。街道からも目立つ樹木だったようで、醤油屋のしいの木と呼ばれていたらしい。この樹木は、中野区の文化財(記念物)に指定されている。

庭から茶室に向かう。説明書きには、茶室に炉がなく本格的な茶室というより最上級の客間を兼ねていたと思われるとある。太田蜀山人も泊まっていたらしく、その書が残されている。

 

 

 

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板橋区の文化財ウィーク2021

2021-10-22 18:13:13 | 東京の文化財

猛暑が突然のように終りを告げ、コロナ禍も下火になって、ようやく気ままに散歩できるようになった。気が付いたら、今年も文化財ウイークの関連行事が始まっていた。その中に、板橋区による東京都文化財ウィーク2021への参加事業として、いたばし文化財ふれあいウィーク2021という行事があり、東光寺、観明寺、遍照寺、茂呂遺跡が対象になっていた。申込不要で無料、解説ガイドは配置せず解説カードの設置にとどめるということだったが、茂呂遺跡以外は行った事が無かったので、とりあえず三カ所の寺に出かけてみた。

下板橋駅の北口から旧中山道に出て左へ行き中山道を渡る。左斜め前方の旧中山道は後回しにして右手の道に入り、室町時代創建という浄土宗の東光寺に行く。入って左手に享保4年造立の石造地蔵菩薩座像がある。板橋区登録有形文化財(歴史資料)の像で、もとは平尾の一里塚に安置されていたが、明治時代に塚が取り壊されたため、東光寺に移されたという。この寺には板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文二年庚申塔や、板橋区登録有形文化財(歴史資料)の宇喜多秀家供養塔もある。

旧中山道を先に進むと右側に真言宗の観明寺があり、その入口に板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文元年庚申塔がある。青面金剛が刻まれた庚申塔としては都内最古という。

旧中山道を先に進み王子新道との交差点を渡る。板橋区登録有形文化財(建造物)になっている築100年の米屋商家、板五米店を過ぎると、その先に遍照寺の参道がある。この寺は、江戸時代には天台宗の寺院であり、宿場の馬つなぎ場としても利用されていたというが、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。参道の先の本堂はまだ新しいので建て替えたものらしく、参道とそれに続く庭園も手入れが行き届いている。この寺は「遍照寺参詣図絵馬」をはじめ多数の絵馬を所有しており、板橋区指定の有形文化財(歴史資料)になっている。

旧中山道の板橋宿跡周辺には文化財が多く、本来なら見て回りたいところだが、すでに日が傾きかけているゆえ、この辺りで一区切りということにした。

 

 

 

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紅葉の旧朝倉家住宅

2019-12-16 19:08:06 | 東京の文化財

代官山の駅から近い旧朝倉家住宅(渋谷区猿楽町29-20)は、東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎氏が大正8年(1919)に建てた住宅で、その後、旧農林省や経済企画庁などを経て現在は文部科学省(文化庁)の所有となり渋谷区が管理している。旧朝倉家住宅は、関東大震災以前の和風住宅として貴重であることから、主屋と土蔵が重要文化財に指定され、復元された車庫と庭門が付属指定されている。

旧朝倉家住宅の観覧料は100円、60歳以上は無料というのは少々申し訳ない気もする。門と主屋の間は前庭に相当するのだろうが、余分なものは見当たらない。大正時代、市街地の周辺部に位置していた朝倉家にとって、車は必須だったので車庫は設けられていた。

下足箱に靴を入れ番号札は持ち歩く。スリッパは禁止。決められた順番に従い左に行くと、床の間のある来客用の応接間がある。ここから順序通り2階に上がる。大正時代からの建物ゆえ、歩けば多少はきしむので、静かに階段を上がる。

階段を上がり、東側にある二間の和室を見てから、西側の広間に入る。15畳の広間と12畳半の次の間から成る格式のある部屋で、会合があった時に使用されていたという。二階南側の廊下からは庭が見下ろせるほか、昔は富士山を望む事が出来たらしい。

階段を下りる。北側にも部屋があるが、家族や使用人が使っていた部屋で見学は出来ない。廊下を南に行けば角の杉の間に出るが、順序通り中庭に沿って右に行く。

中庭を南側から見る。手前の蹲の先に小さな池がある。中庭の北側にも部屋はあるが公開はされていない。中庭の西側には土蔵があるが非公開になっている。

中庭に沿って先に進むと、突き当りの右手に円窓の部屋がある。隙間から少しだけ見える外の景色が面白い。その左側は茶室ということだが、四角形の額縁のような窓が気になる。

奥の杉の間に入る。松の一枚板を使用した踏み込み床があるが、素人目には床の間に見えない。遊び心で造った床の間の変形なのだろうか。

表の杉の間に行く。杉の木目を意匠とする数奇屋座敷というが、それはそれとして、座敷から眺める庭の景色に心癒される部屋でもある。

角の杉の間を見てから、第一会議室に行く。ここは、仏間、中の間、寝間があった所で、朝倉家の日常生活の場だったのだが、朝倉家住宅が官庁の所有になった時に会議室に改造したという。ただ、ここから眺める庭の景色は、昔の面影を残しているのだろう。

第一会議室から洋間に向かう。大正から昭和にかけて、玄関脇に洋間のある和洋折衷の住宅が建てられるようになるが、朝倉家住宅も玄関脇に洋間を設けており、商売に関わる来客との対応や執事の事務室として使われていたという。

玄関を出て復元された庭門から庭園に入り、主屋の前の庭に行く。朝倉家住宅は崖線に位置し、庭園は北側の主屋付近の平坦地と、南側の目切坂に至る斜面地から成っている。

朝倉家の庭園は大正時代の作庭の特徴を示す庭だという。斜面全体は自然の雑木林のようにも見えるが、それでいて、随所に石灯籠などが配された庭になっている。

この庭園には、笹塚の辺りで玉川上水から分水して東南の方向に流れていた三田用水から水が引かれており、時には小さな滝となって斜面を流れ落ちるようになっていたようだが、今は水が流れていない。朝倉家の庭園は、眺める庭ではなく、散策するための庭のようである。

斜面を上がって行くと、主屋の西側にある土蔵が見えてくる。さらに先に進むと、再入場不可の出口があった。住宅も庭園も一通り見たので、今回はここから外に出る。

ヒルサイドテラスの敷地を抜け、旧山手通りを左に行くと、左手に猿楽塚が見える。ここには古墳時代末期の円墳が2基あり、そのうちの大きい方が猿楽塚で、高さは5mほどである。ヒルサイドテラスを含む一帯は朝倉家の敷地だったところで、大正時代に朝倉家によって塚の上に猿楽神社が建立されている。なお、小さい方の円墳は立入禁止の場所にある。

 

 

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東京文化財ウイーク:醸造試験所、茂呂遺跡、旧吉岡家

2019-11-08 18:54:08 | 東京の文化財

東京文化財ウイークの期間、通常は非公開の文化財も特別公開されている。以下、特別公開された文化財の中から、旧醸造試験所第一工場、茂呂遺跡、旧吉岡家住宅を取り上げる。

 

(1)旧醸造試験所第一工場(北区滝野川2-6-30)

旧醸造試験所第一工場は、酒類の醸造を研究するため明治37年(1904)に設立された醸造試験所の中核的建造物で、国の重要文化財である。設計監督は横浜赤レンガ倉庫などを建てた妻木頼黄で、竣工は明治36年。現在は赤煉瓦酒造工場とも呼ばれ、日本醸造協会が管理している。醸造試験所は印刷局王子抄紙部附属工場跡地を敷地としているが、幕末には大砲製造を目的とした滝野川反射炉があった場所で、千川上水公園の位置にあった千川上水の元舛(分配堰)から堀割で水を引いていた。

都電を飛鳥山で下車して音無橋へ。橋の手前を左に行き醸造試験所の門を入る。先に進むと醸造試験所跡地公園の広場に出る。この辺りは研究室や講習の教室などがあった場所で、南側には第一工場が見える。広場を先に進み西側から工場内へ。

最初に入った場所は旧ボイラー室で、現在は講習室として使用されている。ここで資料を受け取り、次の原料処理室に入る。白米を洗って蒸すまでの工程を行う場所という。

次に入った部屋は旧麹室で、施釉白煉瓦を用いた麹室であったが、麹室としては不向きな事が分かったため、冷蔵庫として使用されていた。

旧麹室を出て先に進む。通路の床面は床と天井を一体化した耐火床になっている。通路や部屋の入口には煉瓦によるアーチも見られる。廊下を進むと麹室がある。ここではスリッパに履き替えて中に入る。

建物は地上3階、地下1階で、丸窓のある階段があり、ほかに荷物用エレベータもある。

階段を上がって2階へ。ここには第一第二第三の醗酵室が並んでいた。3階は倉庫として使われているという。

地下に下りる。ここは試験室・貯蔵室として使われており、日本酒の保存も行われている。工場内の見学はここまで。この工場は、平成27年まで清酒造りを学ぶ施設として使われており、現在も酒類の保存や講習の場として利用されているようである。

 

帰りに、通年公開の重要文化財(歴史資料)、「スタンホープ印刷機」を見に、王子駅から近い場所にある「お札と切手の博物館」に立ち寄った。18世紀末にスタンホープ伯によって発明された平圧式手引印刷機で、嘉永3年に長崎のオランダ商館長から将軍に献上されたと伝えられ、洋書の印刷などに用いられたという。

 

(2)茂呂遺跡(板橋区小茂根5-17)

板橋区と練馬区との境界は、大山高の敷地内を抜け城北中央公園を横切っているが、もとは上板橋村と下練馬村の境界になっていた旧道の跡である。昭和になって、石神井川の独立丘のオセド山を切り通しとして、栗原橋を通る栗橋新道ができると、旧道は不要になって消滅したが、その跡が区境として残ったという事になる。昭和26年、栗橋新道の切通しから中学生によって黒曜石の石器が発見され、国内2例目の旧石器時代の遺跡と認められたことから、オセド山の東側は茂呂遺跡として都指定史跡となる。なお、オセド山の西側半分も遺跡地の可能性はあったが、大山高の造成工事の際に消滅している。

茂呂遺跡は、遺跡地を保存するため通常は非公開になっているが、文化財ウイークの期間中には公開されている。ただし、発掘後は元の状態に戻されているので、遺跡を思わせるものはなく、解説を聞きながら、数万年前の旧石器時代の暮らしぶりを想像するしかない。

茂呂遺跡で発掘調査が行われたのは3カ所ある。最初に石器が発見された道路側と、東側の平坦な土地の辺り、そして、個人の敷地内である。ほかの場所も発掘すれば何かが見つかる可能性はあるが、敢えてそうしないらしい。ところで、昭和26年頃の写真を見ると、遺跡地の辺りは畑か荒地で樹林もあまり見られない。

以前、茂呂遺跡で地層のはぎとり標本が展示されることがあった。茂呂遺跡の石器はその特異な形状から茂呂型ナイフ形石器とされ、出土した地層は立川ローム層(第Ⅳ層またはⅥ層)とされる。なお、茂呂遺跡から近い、城北中央公園内の練馬区側にある栗原遺跡でも、旧石器時代の黒曜石の石器が出土しているので、この辺り一帯には旧石器時代から人が住んでいたようである。

 

(3)旧吉岡家住宅(東大和市清水3-779)

国登録有形文化財の旧吉岡家住宅は画家・吉岡堅二の旧宅で、今は東大和市の所有になっている。東大和郷土美術園(仮称)としての公開も検討されているようだが、現在は東京文化財ウイーク期間中を含む年2回、特別公開されている。武蔵大和駅から歩いて5分ほどで、旧吉岡家住宅の長屋門の前に出る。この長屋門は東村山市にあった他家の長屋門の解体部材により、昭和37~38年に現在地に再建したもので、路面電車の敷石が敷かれている。

旧吉岡家住宅は、一代名主の池谷藤右衛門が明治前期に建てた農家を、画家の吉岡堅二が土地ごと買い取って昭和19年に転居した家で、昭和37年頃に、主屋の屋根を茅葺から瓦葺に変えるとともに増改築を行っている。

土間はアトリエとして使用され、改築の際に天窓を設けている。また、昭和40年代後半に、アトリエに隣接して寝室を増築している。

長屋門が設けられる以前に使われていた表門は、主屋の西側に移築されて中門となり、主屋の西側に和風住宅に相応しい小さな庭が造られた。

敷地の西側には明治17年に建てられた蔵があり、藤に山の紋はこの蔵が池谷藤右衛門の蔵である事を示している。この蔵は、最初は土蔵であったというが、関東大震災後にモルタル洗い出し石蔵風に仕上げ防火戸を設けている。

公開期間中、堅二と親交のあった画家たちの作品が主屋内に展示されていた。また、庭では演奏会も行われていた。

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板橋区の旧粕谷家住宅を訪ねて

2018-12-02 07:54:31 | 東京の文化財

都指定有形文化財(建造物)で板橋区登録有形文化財(建造物)である旧粕谷家住宅については、当ブログでも東京の古民家めぐりの記事として既に取り上げているが、当時は修復工事中であったため入れなかった。その工事も既に終了し一般公開されているということなので再訪してみた。旧粕谷家住宅(板橋区徳丸7-11-1)は月曜と年末の休園日を除き無料で公開されており、最寄り駅は都営三田線の高島平駅になる。

旧粕谷家住宅は徳丸脇村名主粕谷家の浅右衛門が隠居した時に建てられたと伝えられているが、柱の墨書から建立年代が享保8年(1723)であることが明らかで、関東では最古級の古民家と考えられている。この家には粕谷家の別家が、必要な改修を行いながら平成に至るまで代々住み続けており、敷地の範囲は時代により変わってはいるものの、家の位置は当初のままと考えられている。今回の修復工事では建築当初の形に復元することを目的としており、以前の旧粕谷家にあった縁側も撤去されている。旧粕谷家は茅葺屋根で、南側と西側には軒が深く出ている。建物正面にある竪格子付のしし窓は、この民家の古さを物語るものという。

旧粕谷住宅は南向きで、建物の東側はダイドコロと呼ぶ土間になっている。写真は土間の天井である。土間にはカマドや水場が置かれている。井戸は建物の外、南東側にあったそうである。

建物の中心にあるヒロマ(広間)は3間四方の広い板敷きで、土間との境には三本の大黒柱が建っている。写真は土間から見たもので、板敷きのヒロマの向こうには、畳敷きのツギ(次)の間が見える。

ヒロマの北側には板敷のオカッテ(お勝手)があり、囲炉裏が備えられている。写真の左、ヒロマの北西側にあるオシイタ(押板)には、祈祷札などが取り付けられていたらしい。

12畳の畳敷きのザシキ(座敷)には床の間が設けられ、この家の格式を示している。天井は棹縁天井で長押を回し、ツギ(次)の間とは襖と欄間で仕切っている。

ザシキ(座敷)から10畳の畳敷きのツギ(次)の間を見る。庭には屋敷神の祠が祀られている。旧粕谷家住宅は村のほぼ中心に位置し、西側には安楽寺、南には天神(北野神社)がある。

旧粕谷住宅からの帰途として、安楽寺から北野神社にまわり、徳丸通りを南に行けば東武練馬駅に出られるが、今回は前谷津川の跡をたどり水車公園を経て下赤塚駅に向かう。水車公園には日本庭園が造られており茶室もある。公園内にはその名の通り水車が造られていた。

 

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成城・旧山田家住宅を見に行く

2018-11-27 19:28:29 | 東京の文化財

大正14年(1925)、成城学園が雑木林の土地を買収してこの地に移転し、学園用地以外を住宅用地として分譲したのが成城の街の始まりという。この分譲地に隣接し国分寺崖線にある神明の森みつ池特別保護区の上に位置する、旧山田家住宅(世田谷区成城4-20-25)が公開されているのを知り、見に行くことにした。成城学園駅を北口に出て左へ、小田急線に平行する道を西に進むと、不動橋から来る道に突き当たる。ここを右に行き、左に下って行く道を見送って先に進むと、左側に旧山田家住宅が見えて来る。

旧山田家住宅は昭和12年(1937)頃に建てられた洋館を始まりとする。建築主は楢崎定吉という実業家らしい。戦後はGHQによる接収を経て、昭和36年(1960)に山田家の住居となる。この建物は成城学園住宅地の雰囲気を残すものとして価値が高いことから、平成28年(2016)に世田谷区の有形文化財(建造物)に指定され、耐震補強やバリアフリー化の改修工事が行われたうえで、一般公開されている。入園は無料、月曜休である。

建物は南向きで、門に近い南東隅に玄関がある。中に入って受付でパンフレットを貰い見て回る。食堂の階段を上がると客間がある。この部屋はGHQに接収されていた時に壁が青色に塗られたという。2階にはバルコニーに面して寝室が2カ所ある。この日はバルコニーには入れなかったが、公開されている時もあるらしい。

二階の北東側には、八畳の日本間があり床の間と違い棚がある。洋館ではあっても客間として和室が必要であったのだろう。障子を開けると狭い廊下があり、その外側は洋風の窓になっていて、洋館としての外観を保っている。

階段は2か所にある。今回は東側の階段で上がり西側の階段を下る。旧山田家住宅の洋間や廊下は寄木の床になっていて、様々な模様を見せているが、これが見所の一つであるらしい。

階段を下りて居間に出る。左側はベランダだったところで、今は部屋のようになっている。なお、西側に入口がありバリアフリーで中に入れるようになっている。

旧山田家住宅は洋館ではあるが煙突が無い。この住宅では地階に石炭を焚くボイラーを設け邸内をセントラルヒーティングで暖房していた。居室や廊下には今も一部のラジエーターが残っている。

旧山田家住宅は改修工事によって変えられてしまった箇所もあるが、当初の姿に戻そうという努力もなされている。例えば照明器具は古い器具を探し出して入れ替えることもしているらしい。この住宅の当初の敷地は崖下まで及んでいたようだが、今は崖の上だけになっている。神明の森みつ池の様子がうかがえるかどうか。上から覗いてはみたものの、池や流れの様子は分からない。昔は山田家住宅から富士が見えたらしいが、今はそれも難しそうである。行きか帰りに富士見橋か不動橋に寄れば、天候次第で富士を見る事が出来るかも知れないが。

 

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大沢の里の古民家を訪ねて

2018-11-19 19:49:03 | 東京の文化財

調布飛行場からも近い、大沢の里の水車経営農家と古民家を訪ねてみた。最寄り駅は西武鉄道多摩川線の多磨駅である。多磨墓地前駅だったころには、この駅を利用したこともあるが、現在の駅名に代わってからは初めて下車することになる。

 

(1)武蔵野の森公園

現在の多磨駅の改札は西側にしか無いが、近く駅舎が改装される予定で、東口も造られるようである。駅の東側に回ってみると、すでに駅前広場が出来ており、東に向かう道路が作られていた。東に向かって進み東京外国語大学に沿って先に行くと、武蔵野の森公園に出る。公園内には池も造られていたが、その向こうは調布飛行場で管制塔も見えている。

公園内で暫く待っていれば離着陸する小型飛行機を見ることが出来る。この飛行場は東京都港湾局の管轄で、大島など離島へのプロペラ機が発着する空港である。飛行場の開設は1941年で太平洋戦争中にも利用され、その跡である戦闘機用の掩体壕が今も残っている。

 

(2)大沢の里・水車経営農家

武蔵野の森公園を抜けると水車通りで、案内表示により入っていくと都指定有形民俗文化財の「大沢の里水車経営農家」がある。峯岸家はこの地にあって、文化14年(1817)から代々水車経営をしてきたが、洪水対策として野川の川幅を広げ川底を低くする改修工事が行われた結果、野川の水を取り入れて水車を回すことが困難になり、昭和43年(1968)に水車を停止している。峯岸家は三鷹市に母屋や水車などの建造物を寄贈したが、三鷹市では敷地を買い上げるとともに建造物などの整備を行って、「大沢の里水車経営農家」として、一般公開している。「大沢の里・民家」との共通入館券は200円で、火曜休みである。

旧峯岸家の母屋は東向きで、伝承では文化10年(1813)代に建てられたという。母屋は寄棟造り茅葺の屋根で、座敷、広間、部屋、板の間からなる四間取りになっている。母屋の北側は大正の末に建てられたカッテで、その東側には水車小屋があり、さらに北側には明治時代の土蔵と大正時代の物置がある。

峯岸家の水車は文化5年(1808)の創設といい、その後も度々改造されて多機能な水車になっている。この水車は、玄米や大麦を精白する杵や搗き臼と、粉にする挽き臼を水輪の両側に有する両袖形である。以前は、野川の水を引き入れて差蓋という仕切り板で水量を調節して水輪を回していたが、現在は野川の水を使えないため、敷地内で水を循環させて水車を動態保存しているらしい。

大沢の里水車経営農家を出て野川を飛橋で渡る。写真は飛橋から野川の上流方向を見たもので、左側に旧峯岸家の建物が見える。上流に見える相曽浦橋の西詰(左側)には、箕輪家の水車があったという。この水車は天明4年(1784)の建造で、この辺りでは最も古く、大車と呼ばれていた。峯岸家の水車が新車と呼ばれるのは、大車より後に建造されたからのようである。大車は昭和22年頃までは使用されていたそうだが、現在は無い。

 

(3)大沢の里・古民家

飛橋を渡って野川を上流に向かって少し歩くと、相曽浦橋の手前に「大沢の里古民家」があり、今年11月から公開されている。ここにあるのは旧箕輪家住宅主屋で、創建されたのは明治35年(1902)。三鷹市に寄贈されて三鷹市有形文化財に指定されている。屋根は扠首構造の茅葺屋根だが現在は銅板で覆っている。

旧箕輪家住宅主屋の基礎は礎石の上に土台を載せる工法だが、耐震補強のため現在の工法により復元している。主屋の土壁は荒塗りだけで簡素な仕上げになっている。また、創建当時は釘や金物も使わなかったようである。母屋の間取りは四間取りで、養蚕用の屋根裏部屋が設けられていた。

旧箕輪家の縁側には、現在、ガラス戸があるが、もともとはガラス戸が無く雨戸だけだったようである。なお、箕輪家は湧水を利用して代々わさび栽培を行ってきており、縁側の先にはわさび田があったという。今は、その復活に向けての活動も行われているらしい。

 大沢の里・古民家を出て、人見街道を西に向かえば多磨駅に戻れるが、今回は野川公園を通り二枚橋から東大通りに出て東小金井駅に出た。

 

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目白から中井までアトリエめぐり

2018-11-08 19:23:27 | 東京の文化財

文化財ウイークに公開されていた旧島津家住宅アトリエを見に行ったが、これに中村彝アトリエ記念館、佐伯祐三アトリエ記念館、林芙美子記念館を加えて、旧アトリエをめぐる散歩道を考えてみた。

(1)中村彝アトリエ記念館

目白駅から目白通りを西に進み、目白三の交差点を左に折れ、駐在所のある角を右に折れる。道がやや下がりかけたところで、右斜め前方に行く道に入る。この道の左側は林泉園とよばれていた谷の跡で、道の途中の崖際に彝桜と呼ばれる桜の老木があったが、既に枯れてしまっている。道を先に進むと、中村彝アトリエ記念館(新宿区下落合3-5-7)があり、中村彝(なかむらつね)のアトリエが当初の姿に復元されている。

新進の画家であった中村彝(1887-1924)が支援者の援助を受けて、この地にアトリエ兼住居を新築して移り住んだのは1916年のことである。中村彝は芝生の庭に花壇を設け藤棚を造らせたりしていたという。

記念館には管理棟があり展示品や解説パネルが置かれている。管理棟の中を見てからアトリエ棟に入る。建物は当時の部材を利用して復元され、家具や調度品も当時の品の複製品が置かれているという。アトリエの南側は彝の居間で、西側には身の回りの世話をしていた岡崎きいの部屋と台所があった。

アトリエの北側は広い窓で、天窓もあった。中村彝は結核を患っていたため、外出も思うにまかせず、このアトリエで療養を続けながら、制作に励む日々であったらしい。中村彝アトリエ記念館の前の道は、佐伯祐三アトリエ記念館とを結ぶ、芸術にふれる散歩道ということでアートの小路と呼ばれている。

 

(2)佐伯祐三アトリエ記念館

中村彝アトリエ記念館を出て西に向かう。二つ目の角を右に、次の角を左に、その先を右に次を左に行く。小路と呼ぶのが相応しい道を西に進み、下落合公園の横を通り、左に第六天の祠を見て先に進んで右に折れ左に進むと、聖母坂通りに出る。横断歩道を渡って右へ、次の角を左に行くと、佐伯公園への道に出る。今だけだが、左側に佐伯祐三アトリエ記念館と公園の全景が見えている。

佐伯祐三(1898-1928)は、1921年、当地に自宅兼アトリエを新築して住むようになる。その場所は公園となり、佐伯祐三アトリエの地として新宿区の史跡に指定されている。現存するアトリエは修復され佐伯祐三アトリエ記念館になっており、展示室として公開されている。

アトリエの隣にある小部屋は佐伯祐三自身が建てたもので、現在は展示室になっている。アトリエの南側には母屋が隣接していたが現存せず、テラスがその位置を示している。母屋には東屋風の建物が付属していたが、現在は復元されて管理棟になっている。佐伯公園を出てもとの道に戻り、西に向かって進み山手通りに出る。

 

(3)旧島津家住宅アトリエ

山手通りを南に進み、交差点で新目白通りと山手通りを渡って、新目白通りを左側の歩道で少し行き、道標により左斜め前方に入る坂上通りを歩く。一の坂、二の坂を過ぎて三の坂の道標により左側の細い道に入る。二つ目の角を右に行くと、国登録有形文化財(建造物)の旧島津家住宅アトリエに出る。通常は非公開だが、文化財ウイークに日時を限って特別公開されることがある。公開されていない時は、坂上通りを先に進んで四の坂を左に行けば林芙美子記念館に出られる。

旧島津家住宅アトリエは、島津製作所三代目の島津源吉が、長男で洋画家の島津一郎のアトリエとして建てたもので、昭和7年以前の建築という。設計は吉武東里と考えられている。建物の所有者は何代かの変遷はあるものの、建物は当時の姿を残しているようだ。アプローチを通り、門を入って直ぐのところが玄関で、鉄の装飾金具を付けた板扉があるが、特別公開の時はここからは入らず、南側の庭から入るようになっている。

建物の西側を先に進むと南側の庭に出る。南側の庭は手入れが行き届いており、流れも造られているので人工の庭には違いないのだが、別荘地の自然の一部を切り取ってきたような庭になっている。木漏れ日の中でベンチに座っていると、何となく心が落ち着いてくる、そんな庭である。

旧島津家住宅アトリエは、正面に大きな切妻破風を見せる木造平屋建ての桟瓦葺きだが、屋根に煙突があり洋風のように見える。外壁はモルタル仕上げだが上部は板壁になっている。

建物の中央部分は広いアトリエになっている。南側はベランダで、ガラス格子戸で仕切られ、その上部には中二階がある。北面には大きな採光窓が設けられている。

 建物の東側には書斎と風呂が配置されており、中二階に上がる階段がある。中二階からはアトリエ全体を見下ろすことができる。

西側には玄関のほか、応接室と洗面所・トイレがある。応接室には南側に窓があり、西側には暖炉がある。ほかにホリコタツもあるらしい。

 島津家がこの辺りに所有していた1万坪程の土地は後になって売却されたが、林芙美子も島津家から土地を買い受けた一人であったという。

 

(4)林芙美子記念館

旧島津家住宅を出て西に行くと四の坂通りに出るが、ここを左に下ったところに林芙美子記念館がある。記念館への入口は勝手口に近い北側にあるが、林芙美子を訪ねて来る客は、南側にある門を入って、少し上がったところにある玄関から中に入った。

この家を建てた当時は建坪に制限があったため、林芙美子名義の生活棟と、画家で後に夫となる手塚緑敏名義のアトリエ棟として建て、勝手口でつないでいた。写真の右側は生活棟で、左側がアトリエ棟になっている。林芙美子はこの家を建てるに当たってかなり勉強していたようで、設計者の山口文象にとっては注文の多い施主であったろう。

今回の散歩道はアトリエめぐりなので、ここではアトリエに注目する。林芙美子の家は数寄屋造りの京風と、おおらかな民家風をあわせもつ住いという事だが、アトリエ棟のうち書斎、寝室と次の間、書庫についてはこれに合致する住居になっている。問題はアトリエである。林芙美子も油絵を描いていたから、画室としての条件は要求しただろうが、和風の住宅と調和することも求めたのだろう。結果として、アトリエがあまり目立たない設計になっている。

現在、アトリエは展示室になっていて、林芙美子に関する資料を展示している。展示室内を覗いて見ると、北側は広いガラス窓で天窓も設けられている。

アトリエの外観は敷地北側の斜面の上から見る事が出来るが、大きな窓と天窓もあり、建物も他より高くなっているが、裏手にあたるので問題がないという事なのだろう。帰りは中井通りを東に向かい、山手通りの手前を右に行けば中井駅の入口になる。

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