夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

深川七福神

2009-12-29 22:59:17 | 七福神めぐり

 富岡八幡を起点として、江戸の絵図の上で、深川七福神を巡拝してみる。順路は、富岡八幡(恵比寿)―冬木弁天堂(弁財天)―心行寺(福禄寿)―円珠院(大黒)―竜光院(毘沙門天)―深川稲荷社(布袋)―深川神明宮(寿老人)である。

(1)富岡八幡(江東区富岡1-20)

 永代橋を渡って料理屋が並ぶ門前仲町を通り、富岡八幡に行く。富岡八幡宮は江戸最大の八幡宮であり、その祭礼は江戸三大祭りの一つに数えられている。また、八幡宮の西側にある、別当寺の永代寺には、池を中心に人工の富士や石組を設けた広い庭園があり、春には一般公開されるという(現在、永代寺は廃寺となったが、その名を継いだ子院が、深川不動尊の門前にある。また、庭園は無くなって、今は深川公園となっている)。

(2)冬木弁天堂(江東区冬木22)
 富岡八幡を出て、深川三十三間堂(現在は無い。江東区富岡2)の前を通り、橋を渡って水路(高速道路9号線の下にあった油堀川)に沿って左に折れる。途中で右に折れ、幕府賄方が居住する大縄地(江東区冬木)を抜けると、堀割(現在は無い)がある。堀割の向こうが冬木町で、木場の材木商・冬木弥平次の邸内に弁財天が祀られているが、私邸内の弁財天ゆえ遙拝して済ます(この弁財天が冬木弁天堂の前身だが、一般の参詣が許されたのは明治以降のことである。なお、現在の七福神巡りでは、富岡八幡の西側の道を北に行き、葛西橋通りを渡って右に行くのが順路である)。

(3)心行寺(江東区深川2-16) 
 賄方大縄地から蛤町を通って西に行き、富岡橋(現在は無い)を通る道(清澄通り)に出て右に行く。深川の閻魔で知られる法乗寺(江東区深川2)を過ぎて、心行寺に出る(現在の道順では、冬木弁天堂から葛西橋通りを西に行き、清澄通りに出て右に折れて、心行寺に行くことになる)。

(4)円珠院(江東区平野1-13)
 心行寺を出て、仙台堀川を海辺橋で渡り、そのまま進むと、浄心寺(江東区平野2)への参道がある。浄心寺の中を抜けて、本堂の裏手にある円珠院に行く。円珠院は浄心寺の塔頭で、深川の大黒天として知られる寺である(江戸時代の円珠院は、浄心寺本堂の東側にあったが、現在は、浄心寺の西側にあるので、道順は少し異なっている)。

(5)竜光院(江東区三好2-7)
 浄心寺の裏門から出て深川山本町(江東区平野2)を通り、堀割(福富川。現在は公園になっている)を渡る。水路に沿って北に行き、元加賀町の通り(江東区三好3)に出て右折し、すぐ左折すると雲光院(江東区三好2)の前を通る道(江戸資料館通り)に出る。ここを左に行き、雲光院の塔頭である竜光院に行く(当時の竜光院は、雲光院の西側に位置していたが、現在の竜光院は、雲光院の南側にあるため、現在の順路では、円珠院から北に行き、次の信号を右折。次の信号の所が竜光院である)。

(6)深川稲荷神社(江東区清澄2-12)

 雲光院を出て左に行き、右に折れ左に折れ右に折れると、小名木川の川岸に出る。ここを左に行くと高橋に出る。橋を通る道(清澄通り)を渡って、海辺船大工町(江東区清澄3)に行き、少し先の裏町を左に入って、稲荷社に行く(現在の順路では、江戸資料館通りに出て西に行き、清澄通りを渡って、清澄庭園の北側を歩き、正門の所から北に進んで、清州橋通りを渡って、深川稲荷神社に行く)。

(7)深川神明宮(江東区森下1-3)
 稲荷社から戻って小名木川河岸を西に行くと、万年橋に出る。富士が良く見えることで有名な場所である。橋を渡り、右に折れて六間堀(現在は無し)に出る。堀に沿って北に行き、中橋(現在無し)を渡って堀沿いに行き、次の角を右に入ると、神明宮に出る(現在の順路では、深川稲荷神社から西に行き、萬年橋を渡り、そのまま北に行って、芭蕉記念館の前から東に行けば、深川神明宮に出る)。帰りは籾蔵の横を通って新大橋に出る(現在なら、地下鉄の森下駅が最寄り駅になる)。

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下谷七福神

2009-12-26 16:53:53 | 七福神めぐり

 元三島神社を起点に、江戸の絵図の上で、下谷七福神を巡拝する。順路は次の通りである。元三島神社(寿老人)―真源寺(福禄寿)―英信寺(大黒天)―法昌寺(毘沙門天)―弁天院(弁財天)―飛不動(恵比寿)―寿永寺(布袋尊)。

(1)元三島神社(台東区根岸1-7)
 不忍池から、茶店などが並ぶ上野の山下を抜けて、寛永寺の子院が続く辺り(現在は鉄道の敷地になっている)を左に見ながら、車坂町(台東区上野7)を経て、下谷坂本町(台東区下谷1)に出る。直進する道(金杉通り)は、千住まで町屋が続く奥州街道の裏道である。下谷坂本町から左に行き、要伝院(台東区根岸3)の前を過ぎ、山裾に沿って進むと、山の麓にある元三島神社に出る(現在は、鴬谷駅北口からすぐの場所)。この神社は、大三島の大山祇神社を上野山中に分霊したことに始まる。江戸の世になると、上野の山の麓に移って三島社と称するが、のちに浅草に移転、さらに、熊野権現社と合祀して元の土地に戻り、元三島神社を名乗ったという。

(2)真源寺(台東区下谷1-12)


 元三島神社から、もと来た道を入谷坂本町まで戻り、奥州街道の裏道(金杉通り)を渡り、折れ曲がりの道(現在は言問通り)を行けば、真源寺に出る。真源寺は、恐れ入谷の鬼子母神と狂歌に歌われた寺であり、朝顔市でも知られている。

(3)英信寺(台東区下谷2-5)


 入谷坂本町に戻って千住方面に(金杉通りを)少し行くと、英信寺の入口がある。中に入って、三面大黒天を参拝する。

(4)法昌寺(台東区下谷2-10)
 英信寺を出て、次の角(根岸三の信号付近)を右に入ると法昌寺に出る(現在は、英信寺の横からも行くことができる)。

(5)朝日山弁天院(台東区竜泉1-15)
 法昌寺から折れ曲がりの道を抜け、その先、東に向かって真っすぐな道を歩く(現在の道でいえば、昭和通りを渡って、金美館通りを歩くことになる)。左側にあるのは、水谷家の屋敷である。不忍池に弁財天社を建立した備中松山藩主・水谷勝隆は、屋敷内の池にも弁財天を祭っていたということだが、屋敷内の弁財天ゆえ、今回はパスして次へ行く(朝日山弁天院のもとになったのは、この弁財天である。水谷家の屋敷は、現在の金美館通りの北側にあったが、明治になると、屋敷の跡が原っぱとなり、池は関東大震災のあと埋め立てられる。現在の朝日山弁天院は、戦後、池のあった場所に建てられたものである。現在は、大正小の手前の道を北に向かえば、弁天院に行くことが出来る)。

(6)正宝院・飛不動(台東区竜泉3-11)
 水谷家の屋敷に沿った道(金美館通り)を東に進み、溝口家の屋敷の先を左折し、鷲神社、長国寺、西徳寺、大音寺を過ぎて、下谷竜泉寺町の四つ辻に出る(現在の道順では、朝日山弁天院を参拝したあと、弁天院から東に行き、西徳寺横を国際通りに出て左折、次の信号の所が、下谷竜泉町の四つ辻に相当する)。ここを右に行けば飛不動に出る。

(7)寿永寺(台東区三ノ輪1-22)
 竜泉寺町の四つ辻に戻って北に行き、金杉村(台東区三ノ輪1)に出て、田地の間を抜けて寿永寺に出る(現在の道順では、飛不動から北に向かう道をたどって、寿永寺に出ることになる)。この寺での参拝を終えると、これで下谷七福神めぐりは終了となる。帰りは、奥州街道の裏道(金杉通り)を戻る(現在なら、日比谷線三ノ輪駅が最寄り駅である)。

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山手七福神

2009-12-23 09:22:38 | 七福神めぐり

 この七福神は元祖を名乗っているが、江戸で最初の七福神としているからである。巡拝の順序だが、誰が言い出したか、覚林寺から巡るのは、無病息災長寿祈願で、瀧泉寺から巡るのは商売繁盛祈願だという。ここでは、江戸の絵図により、次の順路で巡拝する。瀧泉寺(恵比寿神)―蟠龍寺(弁財天)―大円寺(大黒天)―妙円寺(福禄寿・寿老人)―瑞聖寺(布袋尊)―覚林寺(毘沙門天)。

(1)瀧泉寺(目黒区下目黒3-20-26)
 瀧泉寺・目黒不動尊は関東最初の不動霊場で、江戸三拝所の一つとされ、いつも多くの参詣客で賑わっている。瀧泉寺への参詣道には、白金の大通りを通る道のほかに、中原街道を通る道、品川宿を経由する道、広尾から爺が茶屋(三田2)経由で目黒に出る道などがある(現在は、東急目黒線不動前駅が最寄り駅である)。茶店や土産物の店が並ぶ門前町を過ぎ、仁王門をくぐって石段を上がると本堂がある。境内には、このほかに、書院、鐘楼、前不動堂、勢至堂など多くの堂宇がある。

(2)蟠龍寺(目黒区下目黒3-4-4)
 瀧泉寺から、門前町を通って蟠龍寺に行く。寺に入ると、左側に銅製丈六の阿弥陀如来像(今は無い)があり、池を渡ると本堂がある。その右手の洞窟内には弁財天が祀られているが、この寺が岩屋弁天と呼ばれるようになったのは、この弁財天に由来する。

(3)大円寺(目黒区下目黒1-8-5)

 蟠龍寺を出て、民家の点在する下目黒村の道を進み、目黒川を太鼓橋で渡る。正式には一円相唐橋という石橋である。橋から少し先の右手に明王院がある。昔は楓が多かったこともあって、夕日の岡と称される景勝の地であったが、すでに楓も見られなくなっている(現在、明王院は無く、その境内は目黒雅叙園の敷地になっている)。明王院から行人坂を少し上がった右側が大円寺の跡地である。この寺は、行人坂火事の火元であったとされ、幕府から再建を許されなかったが、その跡地に、焼死者を供養するため五百羅漢の石像が造られるようになった(大円寺は幕末に再建されて、現在に至っている)。

(4)妙円寺(港区白金台3-17-5)
 行人坂を上がると、三田用水に出る(三田用水は、北沢で玉川上水から分水して、台地の上を通って、麻布などに給水していた。その水路は目黒駅の西側を回って目黒通りに沿って流れていたが、現在は無い)。用水を渡り、六軒茶屋町(上大崎3)を過ぎて、目黒不動参詣道の一つでもある白金の大通り(目黒通り)を歩く。道の左側に続くのは、讃岐高松藩の屋敷(自然教育園及び庭園美術館)である。次の目的地、妙園寺(妙円寺)は、道の右側にあり、白銀(白金)の妙見堂として知られている。寺は白金通りに面しているが、本堂は、道から少し下がったところに位置している(境内は昔より狭くなっている)。

(5)瑞聖寺(港区白金台3-2-19)

 妙園寺を出て、白金台町を歩いていくと、右側に瑞聖寺が見えてくる。江戸における黄檗宗の中心となる寺である。参道は東側の桑原坂から上がっていくようになっており、広い境内の中程に大雄宝殿が東に面して建っている(現在は目黒通りに面した側に入口がある。境内は当時より狭くなっているが、瑞聖寺大雄宝殿は現存しており、重要文化財の指定を受けている。なお、文化財ウイークには、内部が公開されている)。

(6)覚林寺(港区白金台1-1-47)
 白金台町から日吉坂を下っていくと、右手に覚林寺がある。加藤清正所縁の寺で、白金の清正公さまとして親しまれた寺である。寺の前を流れる細流は、少し先で樹木谷(港区高輪1)と称する谷となるが、帰途は、その横を通り、松秀寺(港区白金2)の横を進めば、四ノ橋近くの麻布田島町に出る(現在は、都営三田線の白金高輪駅が最寄り駅である)。

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隅田川七福神

2009-12-20 16:59:20 | 七福神めぐり

 墨田七福神は向島七福神ともいい、江戸時代の文人墨客によって始められたという。江戸の絵図により、次の順路で巡拝する。三囲神社(恵比寿、大黒)―弘福寺(布袋尊)―長命寺(弁財天)―白髭神社(寿老人)―向島百花園(福禄寿)―多聞寺(毘沙門天)。

(1)三囲神社(墨田区向島2-5)

 吾妻橋を渡り、北十間川を渡って、隅田川沿いに北に行く。右手の水戸藩邸(墨田公園付近)を過ぎると、堤に沿って桜の木が続くようになる。花見の頃を思い浮かべながら、堤の上を歩いて行くと、右側に三囲稲荷社(三囲神社)の参道が見えてくる(参道は現在も残っているが、堤防を広げたため、かなり短くなっている)。この参道は神社の裏手にあたるので、気になる人は南側の正面にまわるとよい。なお、別当寺は延命寺(現在は移転)で、東側にある。

(2)弘福寺(墨田区向島5-3)

 三囲神社を出て隅田川の堤に戻り北に向かう。途中に料理屋があるが、その先の牛ノ御前(牛島神社。現在は墨田公園内に移転)の角を右に入る。幅広の道を行くと左側に弘福寺がある。参道の入口は南側にあり、本殿も南向きである(現在は、山門が東側の道路側に移り、本殿も東向きになっている。現在の本殿は関東大震災後の建造である)。

(3)長命寺(墨田区向島5-4)
 長命寺へは、牛ノ御前の境内を通っても行けるが、弘福寺の参道の途中から分かれて、裏手にある長命寺に行く道がある。この寺の名物は桜餅だが、その時期になったら、また来たいところだ(現在も、隅田川寄りに桜餅を売る店が健在である)。

(4)白髭神社(墨田区東向島3-5)
 長命寺の裏手から隅田川の堤に戻る。堤は少し先で東に折れ、さらに北に向かっている。桜が続く堤の上の道(現在の墨堤通り)を北にしばらく行くと、右側の堤下に白髭明神(白髭神社)がある。この神社が隅田川七福神に加わったのは、寿老人を祀る社寺が他に無かったため、この神社に祀られている白髭大明神を、寿老人の代役としたためだという。

(5)向島百花園(墨田区東向島3―18)
 白髭神社の横道を入って行くと、新梅屋敷(現在の向島百花園)に出るが、福禄寿は、この園内に祀られている。ここは、骨董商として財をなした佐原鞠塢(サハラキクウ)が、この土地に梅樹を植え、亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷と称したのが始まりとされる。その後、この地には、文人墨客が多く集まるようになったが、ある時、鞠塢の持っていた福禄寿をもとに話し合った結果、生まれたのが墨田七福神だといわれている。

(6)多聞寺(墨田区墨田5-31)
 新梅屋敷から法泉寺の横を通り、隅田川の堤に出る。堤の下、橋場の渡しに行く道を見送って、桜の木が続く堤の道を北に行く(この道は現在の墨堤通りだが、歩くのであれば東白髭公園内の方が快適である)。左手に見えるのは水神の森で、その先に木母寺(墨田区堤通2。江戸時代の位置より少し西に移動している)が見えてくる。木母寺は梅若伝説で知られた寺であり、時間があれば立ち寄りたいところである。この寺の北側は、隅田川の水が入り込んで池のようになっている風光明美な場所で、池の畔には料理屋もある。この少し先(鐘が淵陸橋北の信号の所)を右に入り、その先を左に折れて多聞寺に行く。隅田川七福神は、この寺で終わりとなる。ここから、隅田川の堤を戻って、橋場の渡しを渡れば、浅草はそう遠くない(現在は、東武伊勢崎線の、鐘が淵駅が最寄り駅)。

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谷中七福神

2009-12-17 20:43:53 | 七福神めぐり

 谷中七福神は江戸時代からあったという七福神だが、対象となる社寺は、現在と異なっていたようである。ここでは、江戸の絵図により、現在の谷中七福神を、次の順路で巡拝してみる。不忍池・弁天堂(弁財天)―護国院(大黒天)―長安寺(寿老人)―天王寺(毘沙門天)―修性院(布袋尊)―青雲寺(恵比寿)―東覚寺(福禄寿)。

(1)弁天堂(台東区上野公園2)

 最初に詣でるのは、上野不忍池の天龍山生地院・不忍弁財天(弁天堂)である。弁財天の参拝を終え、不忍池に沿った道(現在の動物園通り)を北上する。風は冷たくとも、眺めの良い道である。道の右側には、寛永寺の境界にあたる水路が続いている。やがて道は不忍池から離れるが、道なりに行けば、松平伊豆守屋敷の前に出る(鴎外荘の先の信号の辺り)。ここを右に折れ、さらに左折して、屋敷の塀に沿って清水坂(上野高の前にある坂)を上がっていく。道なりに行けば、寛永寺の清水門の前に出る(現在、清水門は無い。位置的には、護国院前の信号の辺り)。

(2)護国院(台東区上野公園10)
 護国院は、清水門を入ったすぐ右手のところにあり、正月三日は、大黒詣での参詣客で賑わうところである(現在の護国院の敷地は狭くなっているが、当時は、上野高と、芸大の一部を含む広い敷地を有していた)。護国院での参拝を終え、清水門を出て、右側の寛永寺と左側の松平伊豆守の屋敷の間の道を北に向かう。屋敷の先は善福寺前町で、その先を突き当たって右に折れ、道なりに左に折れると、谷中八軒町である(現在の道で言えば、言問通りに出て右折し、次の信号を左折することになる)。その先の右側に寛永寺の谷中門があるが(谷中門は妙雲寺の付近にあったが、現在は無い)、ここを過ぎて直進すると、谷中天王寺の表門(現在の谷中霊園の入口付近)に出る。先に天王寺を参拝しても良いのだが、ここでは後回しにして、その手前を左に新茶屋町を行き、三崎坂の上に出る。この辺りには茶屋が多いが、行楽の人が多いからなのだろう(現在は、信号のある所で、谷中霊園に行く道と分かれて左に、三崎坂の上に出る広い道ができている)。

(3)長安寺(台東区谷中5-2)
 三崎坂の上から右に入り、天王寺中門前の町を歩いていくと(朝倉彫塑館の前を通って諏訪台通りに出る道)、右側、天王寺子院の福泉院内に、かさもり稲荷(笠森稲荷)がある。福泉院の門前には水茶屋があり、お仙(笠森おせん)という評判の美女が居たということだが、今回は立ち寄らずに、もう少し先の左側にある長安寺に行く(明治になって建てられた功徳林寺の敷地は福泉寺の跡とされ、笠森稲荷が祀られている)。

(4)天王寺(台東区谷中7-14)

 長安寺の向いにある西門(現在無し)から天王寺に入り、表門からの参道に出て、ここを左に折れ、五重塔の前を通って、天王寺の本堂に行く(現在の道順では、長安寺を出て、ぎんなん通りから、さくら通りに出て、駐在所のある場所を左に折れ、焼失した五重塔の跡地の前を通って、本堂に行く)。天王寺本堂で本尊の毘沙門を参拝したのち(現在は毘沙門堂を参拝)、長安寺の前まで戻り、北へ寺町を行くと四つ辻に出る。右に行くのは経王院(経王寺)や本行寺への道(日暮里駅に出る道)で、直進する道は諏訪台の通りである。この四つ辻を左に折れ、七面の社(別当寺は延命院)の前の七面坂を下るが、坂の上の門から七面の社に入り境内を下って坂の下の門から出てもよい(現在なら、夕やけだんだんを下るのが便利)。下りたところは、六阿弥陀道(六阿弥陀通り)である。

(5)修性院(荒川区西日暮里3-7)
 六阿弥陀道に出て右に折れる。右側は西向きの斜面で寺が続き、左側は田畑で民家が点在している。しばらく歩くと、修性院に出る。この辺りは、日が暮れるのを惜しむほど景色が優れていたため、日暮里と呼ばれるようになったという景勝地で、各寺院は傾斜地を利用して庭を作り、花木を植えていたが、そのうち、きりしまつつじで知られていたのが修性院である。

(6)青雲寺(荒川区西日暮里3-6)
 修性院を出て、隣の青雲寺に行く。青雲寺は花見寺と称された寺で、船繋松という名松でも知られた寺である。参拝を終えて、北に向かうと、佐竹右京大夫の屋敷(西日暮里4)の門の前に出る。門の前の道(道灌山通り)を左に行き、屋敷の垣根に沿って北に行く。そのまま進めば、田端村(北区田端1)で、西側一帯は畑地である。さらに行くと、六阿弥陀詣での四番寺である与楽寺(田端1)に出る(六阿弥陀詣でとは、江戸時代に流行した巡拝の一つで、西福寺、延命寺、無量寺、与楽寺、常楽院、常光寺を巡るものである)。六阿弥陀詣での、与楽寺から常楽院までの経路は、佐竹右京大夫屋敷の横を通り、青雲寺、修性院の前を通る六阿弥陀道を行き、三崎坂を上がって、谷中門から寛永寺内に入り、寛永寺を黒門から出て、常楽院に向かうものだが、今回のコースと一部分が重なっている。彼岸の時は、大勢の老若男女が巡拝するため、道はかなり混雑するらしい。

(7)東覚寺(北区田端2-7)
 与楽寺から左に折れ、田畑の中を行くと十字路があり、ここに、石造の仁王像が立つ東覚寺がある。右に入る道は、東覚寺が別当をつとめる八幡神社への道である。谷中七福神は東覚寺で終わりとなるが、帰りは、ここから南に行き、千駄木を経て不忍池に戻る(現在は、JR田端駅が最寄り駅)。

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お知らせ

2009-12-15 21:20:36 | Weblog
 我が家の花暦、今回はヒメザクロの実です。今年は、ヒメザクロの花が一輪だけ咲き、そして実がなり、楓の葉が散り始めるまで、枝から離れようとはしませんでした。

 さて、今年もあっという間に12月。そろそろ、初詣のことを話題にしても、笑われない時期となりました。そこで、当ブログでは、今まで歩いたことのある七福神巡りを10コース取り上げ、江戸の絵図の上で紙上散策を試みてみました。ただ、それだけのことですが。 では、次回。   夢七。
  
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改作民話「子猫と遊ぼ」

2009-12-13 14:14:58 | 民話伝説の世界
 名古屋市の東にある名東区に、猫ヶ洞と言うへんてこな地名があります。こんな風変りな地名には大抵いわれがあるものです。

 むかしむかし、尾張の国猪高の里に長吉という若者が住んでおりました。ある日長吉が、普段は人も通らない山道を歩いていると、猫の鳴き声が聞こえたので、不思議に思って付近を探すと、洞穴の中で子猫が鳴いており、傍らで母猫が死んでいました。可愛そうに思った長吉は子猫を家に連れて帰りました。

 時がたち、猫も年を取り、人も年を取りました。長吉はソノエと言う嫁を迎え、やがて男の子が生れました。生活は楽でなかったので、長吉は人づてに頼んで、阿部の利兼と言う殿様の屋敷で働く事にしました。長吉は良く働き、屋敷での評判も良かったのですが、大変な事が起きてしまいました。長吉に会いに来た老母が誤って庭に入り込み、殿様が大事にしていた松の枝を折ってしまったのです。長吉は自分が身代りに自首しようとしましたが、ソノエがそれを止めました。ソノエは老母の様子が最近おかしいと村の者に言いふらしました。半信半疑だった村人も、老母が夜中に起きて台所でピチャピチヤ水を飲んでいる姿が猫そのものだったと、そノエが言うに及んで、ひょっとしたらと思うようになりました。そこで、村人のなかの屈強なものが、老母が寝込んだのを確かめて、部屋に入り布団をはがしてみました。何とそこには老母の姿は無く、代りに猫がのうのうと寝ていました。実は、ソノエが老母をそっと逃し、代りに猫を布団の中に入れておいたのでした。

 村人に思いきり叩かれ、深手を負った猫は必死で逃げ出しました。跡を追っていくと、猫が拾われて来たあの洞穴に逃げ込んだ様子です。中を覗くと、猫はもう死んで居ました。村人は一部始終を、阿部の利兼の家来に話をし、これで一件落着と言うことになりました。それ以来、洞穴のあった場所の辺りは猫ヶ洞と呼ばれるようになりました。

 ところで長吉の母親は、それからは人前に出る事が出来なくなりました。長吉は人里離れた場所に庵を作って母親を住まわせました。ソノエの方は口うるさい姑が居なくなったのを幸い、のんびりと暮しておりました。そんなある日、ソノエの息子が、子猫を拾って来ました。洞穴の中で母猫が死んでおり、傍らで子猫が鳴いていたのを、可愛そうに思ったからだと言うのです。

 猪高車庫から池下行きのバスに乗ると、平和公園の周辺を半周して坂を下り、猫ヶ洞通りに入ります。今では猫ヶ洞は住宅地になってしまい、洞穴が何処にあるのか探しようもありません。或いは、灌漑用に掘られた猫ヶ洞池の水底にあるのかも知れません。探すのを諦めて、バス通りのカフェレストランで、アメリカンを畷っていると、足許で猫の鳴き声がしました。見ると可愛い子猫です。大事に飼ってさえいただければ、差上げますよと、マスターは言いましたが、止めることにしました。何故って、誰かさんが人前に出られなくなると困りますから。

<参考文献> 小島勝彦「東海の民話」
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改作民話「大きく、大きく、大きくなあれっと」

2009-12-11 22:36:10 | 民話伝説の世界
 昔、昔。尾張の国に子供の居ない百姓夫婦が居りました。ある日、表で大きな音がしたので、出てみると、畑の中に誰かがうずくまっていました。良く見ると、それは子供の雷様でした。子供なら大丈夫だと思ったお百姓は、鍬で威かしながら、子供を授けてくれたら許そうと云いました。そんな事は雷様に出来ない相談でしたが、黙って何度かうなずき、そのうち隙を見て逃げ出しました。でも、あんまり慌てたので、大事な木槌を落としてしまいました。お百姓は、その木槌を家に持って帰りました。

 さて、暫くすると、どう云う訳か、そのお百姓の家に子供が生れました。玉のように可愛いい男の子でした。お百姓は、大きく育てと云う願を込めて、ダイダラボッチと云う名前を付けました。お百姓は楠で桶を作り、竹の葉を2枚敷いて、ダイダラボッチを、一日に何回も湯に入れました。そうすれば、丈夫に育つような気がしたからです。

 ダイダラボッチが1才になった時、お百姓は、試しに雷様の木槌を振りながら、大きくなぁれ、大きくなぁれと唱えてみました。すると、気のせいか少し大きくなったように思いました。それからは、時々、その木槌を振って、大きくなぁれ、大きくなぁれと、唱えるようになりました。ダイダラボッチはすくすく育ち、やがて村一番の大男になりました。ダイダラボッチは、ただ大きいだけでなく、良く仕事をしました。川の水をせき止めていた岩をどけたり、切り通しを開いたり。ダイダラボッチは村一番の人気者でした。

 ダイダラボッチは、その後も、育ち続けました。近くを歩いただけで、家が傾いたり、足跡に溜まった水で子供が溺れかけたり。こうなると、村人も良い顔をしなくなりました。仕方なく、ダイダラボッチは村を出ることにしました。

 それからの、ダイダラボッチは、人里離れた山野を住み家にして暮しました。夏が始りかけた、ある日の事、伊吹山に腰掛けて、ぼんやりと考え事をしていると、麓の方からダイダラボッチを呼ぶ声が聞こえました。どうやら助けて欲しいと言っているようでした。何でも、駿河の国に大きな穴が開いて火が吹出し、人々が難義をしているというのです。

 やっと出番が巡って来た!ダイダラボッチは大はりきりで、土を掘っては穴にかけ、掘っては穴にかけました。そのうち、流石の火の勢いも次第に衰えていきました。人々は喜んで、ダイダラボッチの事を誉めそやしましたが、それも一時の事でした。図体の大きいダイダラボッチは、やはり邪庵なだけだったのです。その事に気付いたダイダラボッチは、何処へともなく姿を消してしまいました。

 お百姓夫婦は、もう一度ダイダラボッチに会いたくて、形見の木槌を持って旅に出ました。ダイダラボッチの噂は行く先々で聞きました。でもダイダラボッチの掛けた土が積って富士山になり、土を掘った跡が琵琶湖になったとか、手の跡が浜名湖になったとか、足跡が窪地になったのでダイダと名付けたとかの話ばかりで、ダイダラボッチの行方は分りません。夢にでも会いたい。そんな思いが通じたのでしょう、ダイダラボッチの夢を見ました。ダイダラボッチは大きく成り過ぎて、天まで届き雷様に怒られた。今度は小人に生れたいと言いました。お百姓は、持っていた木槌を逆さにして振りながら、小さくなぁれ、小さくなぁれと唱えてあげました。

 ダイダラボッチの話はこれでおしまいです。ああ、あの木槌のことですか?そうそう、お百姓が比良の山を越えようとした時に、鬼が現れて奪っていったと言う事です。その後の話は、知っている人が知って居ますよ。
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改作民話「泥棒の中の泥棒だぁ」

2009-12-09 20:11:30 | 民話伝説の世界
 神田明神の山車に熊坂人形というのがあります。熊坂というのは、平安時代の末の大泥棒、熊坂長範のこと。それが、どうして山車の人形になったのか。どうやら、長範は義賊と思われていたらしいのです。その長範についてのお話です。

 熊坂長範も、赤ん坊の時から泥棒だったわけではありません。長範が7才の時、お寺に忍び込んでお布施を盗んでから、泥棒のひとりになったのです。それから長範は手当り次第に盗み回りましたので、近郷近在に、目ぼしい財宝は無くなってしまいました。そこで長範は、木曾の街道筋の山中に根城を構えて、尾張に出稼ぎに行くことにしました。

 ある時、長範は一頭の馬を盗みました。その馬のおかげで、長範は遠くまで出かけることが出来るようになり、三河や美濃、伊勢にまで出没するようになりました。その後、長範は早そうな馬を見つけては盗んで行くようになりました。気が付くと根城の回りは馬だらけになりました。そうなると、飼葉の量も馬鹿にならず、それに、根城が見つかる危険もでてきたので、長範は馬を売る事にしました。最初は馬市で売ろうとしましたが、手下が目立たない身なりで出掛けたのに、すぐに捕まってしまいました。どうやら、馬の毛並みを見て前の飼い主が見破ったらしいのです。

 これでは馬は売れないし困ったなと長範は思いました。ところが、その晩、忍び込んだ名主の家で、毛替え地蔵にお願いすると、頭髪を変えて呉れると云う耳寄りな話を聞きました。早速、長範は毛替え地歳のところに出掛けました。そして生まれて初めて、少しばかりのお供え物を置くと、馬を売った金は貧乏な人に与えるので馬の毛並みを変えて呉れるように頼みました。本来なら大泥棒の願が叶えられる訳がありませんが、地蔵にも気紛れがあるのです。翌日、長範が起きてみると、馬という馬の毛並みが、すっかり変っていました。喜んだ長範は、手下に馬を売ってくるよぅ命じました。結局、泥棒するのに必要な馬だけを残して、ほかの馬は全部売ってしまいました。そして地蔵との約束もあったので、もうけた金のうち、ほんの少しだけを貧しい人に分けてやりました。長範が義賊だということになったのは、こんなところからきているのです。
 
 長範の話は、これでお終いではありません。続きがあるのです。長範は、あちこちで椋奪、強盗、追剥と悪行の限りをつくしましたが、そのため、ついに武士たちに狙われる羽目になりました。そこで、長範は、毛替え地蔵のところに行き、自分のもじゃもじやの頭髪を変えて呉れるように頼みました。探索の手を逃れる為に人相を変えようとしたのです。その次の日の夕方、長範はまた泥棒に出掛けました。村外れの木陰に隠れていると、誰かがやって来ました。身ぐるみ脱いで置いていけと怒鳴ると、相手は逃げ出しました。あとを追いかけた長範が刀を振下ろすと、ガチッと音がして、刀が折れてしまいました。何と地蔵の首を切ってしまったのです。何故かぞうっとして、長範はあわてて根城に戻りました。その夜、長範は恐ろしい夢を見ました。身の丈が四丈もある石の地蔵に踏み付けられている夢です。

 翌朝、長範は起き上がろうとしましたが動けません。とうとう七日の間、寝込んでしまいました。やっと起き上がれるようになって、髪を洗おうとした長範は、たいそう驚きました。水面に映った長範の顔は皺だらけで、髪は真白になっていたのです。よぼよぼの年寄りになった長範は、それからは、誰からも相手にされませんでした。そして美濃赤坂の宿屋で小銭を盗んで、牛若丸という子供に捕まってしまいました。長範は、俺は泥棒の中の泥棒だぞ、と叫びましたが、信用する人は誰もいませんでしたとさ。

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改作民話「楊貴妃伝説」

2009-12-07 22:46:37 | 民話伝説の世界
 楊貴妃を知っていますか。唐の6代皇帝、玄宗の寵妃。並ぶ者のいない絶世の美人。あの楊貴妃についての伝説が、日本にあるのです。
              
 夏の終りのある日、熱田の森の片隅にある春敲門を、ホトホト叩いている少女がおりました。神職の一人が事情を聞くと、少女は遠い唐の国から薬を探しに蓬莱に来たと云うのです。神職は、少女が何か勘違いをしているのだと思いました。何しろ唐は遠い昔の国で、今は元が中国大陸を支配していたからです。それに、この辺りは、蓬左とは呼ばれていても蓬莱ではなく、特別の薬など有る訳がないのでした。でも少女が熱心に頼むので、熱田の森の一遇にある、清水社に神意を伺うことにしました。熱田宮の神託では大げさと思ったからです。すると「ケシの実を煎じて飲ませよ」と云うお告げが出ました。早速、そのようにすると、少女は気を失って倒れてしまいました。

 気が付くと、熱田の森は消え失せ、心配そうに覗き込んでいる、家族の顔がありました。「玉環!気が付いたのね」「良かつた。もう大丈夫。」

 本当にもう大丈夫でした。玉環は、健康を取戻し、以前よりずっと美しく、利発に育っていきました。父を幼くして亡くした玉環は、叔父の養女となり、歌や踊り、行儀作法を学びまし。そして、長ずるに及んで、その才知と美貌は、並ぶものがなく、その評判は、ついに皇帝の耳にまで達したのでした。唐の第六代皇帝、玄宗は、最初は息子の嫁にと思ったのですが、会って見るとすっかり気にいって、自分の妃にしてしまいました。こうして楊一族に生れた玉環は、今は楊貴妃となり、皇帝の寵愛を一身に受け、贅沢の限りを尽くしたのでした。

 玄宗皇帝とて、決して凡庸な皇帝ではありませんでしたが、楊貴妃に溺れてしまい、国政が疎かになったばかりでなく、楊一族を重用したため、国内に不満が高まりました。そして、ついに安禄山の乱が起こり、玄宗は首都、長安を捨てて逃げざるを得なくなりました。長安の西、数十キロ行ったところで、側近の兵士が反乱を起こしました。こんなことになった責任は、楊貴妃にある。楊貴妃を殺さない限り、皇帝にはついていけない、と云うのです。玄宗も止むを得ず、それに同意しました。そして、力持の高力士が、楊貴妃の首に手を掛けました。

 熱田の森には、夕日が射していました。あれからずっと、少女は倒れたままでした。神職は手を尽くしましたが、結局、少女が息を吹き返すことはありませんでした。神職は、近くの空き地に墓を建て、身元の分からぬ少女を、ねんごろに葬ってやりました。

 さて、少女が亡くなって、何年かたつた、ある年の暮のこと。春敲門をホトホト叩いている老人が居りました。神職の一人が声を掛けると、その老人は、方士だと名乗り、蓬莱の宮に居られる楊貴妃に、皇帝からの伝言を渡す為に訪れたと云うのでした。不思議に思った神職が、少女の墓に案内すると、方士は何やらぶつぶつと独り言を云って居ましたが、そのうち、ふっと何処かに消えてしまいました。

 その翌年、文永11年のことです。蒙古の軍勢が博多沖に襲来しました。日本軍は勇敢に戦いましたが、蒙古の集団戦法の前に苦戦を強いられました。しかし不思議な事に、突然、台風が蒙古軍の船団に襲い掛り、大損害を被った蒙古軍は、早々と撤退していきました。

 その年も全国の神様が、きまりに従って、出雲に集りました。熱田の森に住んでいた、仙翁の大明神は、本当は出掛けたくなかったのですが、やむを得ません。そして、予想した通り、神々から非難の声を浴びる羽目になりました。

 「確かに、絶世の美人を送り込んで、蒙古の皇帝を訝かそうとは云ったが、唐の時代に送り込めとは、云わなかった筈だが」
 「元と唐の区別もつかないのかね」
 「神風を吹かせる事がどんなに大変か分っているのか。精力を使い果たして、倒れてしまった神様も居るのだよ」
 「引受けるといったから任せたのに」
 「・・・・・」 
        
その時以来、熱田の森には、仙翁の大明神の姿は見られなくなりました。
 
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