夢七雑録

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明治神宮御苑

2014-12-27 20:03:39 | 公園・庭園めぐり

明治神宮の敷地は70ヘクタール。江戸時代の初めは加藤家の屋敷地であったが、後に井伊家の下屋敷となり、明治時代に代々木御料地(南豊島御料地)となる。大正時代になって、この地が明治神宮の建設地に定められるが、当時は敷地の大半が農地か草地で、林地は全体の五分の一程度だったため、まず、神宮の森を造成することから始めなければならなかった。森の造成を担当した学者たちは、永遠の杜とするためには、この土地に適合する常緑広葉樹の森にする必要があると考え、杉の植樹を主張していた総理大臣大隈重信をも説得したという。神宮の森の造成にあたっては、50年後、100年後、150年後の林相の遷移を想定し、全国から集められた10万本の献木を計画的に植樹したが、90年余を経過して今や自然林と見紛うばかりの森になっている。

 

神宮橋を渡り、明治神宮内苑の地図を確認してから、第一鳥居を潜って南参道を下る。大正時代に植樹されたシイ、カシ、クスノキの常緑広葉樹は頭上高くそびえ、玉砂利を踏む音だけが辺りに響いている。

南参道を下り終えて神橋を渡る。橋の左側からは、御苑の南池から下ってくる流れが見える。ここは、カエデなどを植樹して風致林とし、筑波石を配して庭園風に見せている。橋の右側に行ってみると、わずかに水面が見えている。その向こうはJRの線路で、水路は暗渠となって下を潜り、竹下通りの方向に流れていくらしい。

神橋から少し上ると左側に御苑の東門がある。今は閉鎖されているが、門から谷沿いに左に行く道が見える。文化館を過ぎて南参道を先に進み、左に折れて大鳥居をくぐり、正参道を進むと左側に御苑北門がある。御苑内の地図を確認し、入口で500円支払って中に入る。

入口から南に進み、戦後に再建された隔雲亭の横を過ぎる。その南側は芝生の斜面になっている。御苑の中では一番の日溜りの場所だろうか。日向ぼっこを楽しみたい気分だが、そうもいかない。斜面の下には南池が横たわり、濃密な樹林が外界の騒音を遮断しているせいか、静寂が辺りを支配している。

南池に沿って右に行き、十字路を左に折れて池の畔に出る。現在の池の形は南豊島御料地だった頃の形とほとんど変わっていない。恐らくは、井伊家の下屋敷だった頃の池の姿を、今もそのまま留めているのではなかろうか。明治神宮の造営の際に、御苑はあまり変えていないので、落葉広葉樹による林の風景も当時のままなのだろう。

池から北は菖蒲田になっている。菖蒲の頃に比べれば、今の季節の彩は地味ではあるが、その代わりに、湧水によって形作られた谷戸の昔ながらの姿を見て取ることが出来る。菖蒲田に沿って進むと四阿がある。しばし休んで谷戸を見渡し、それから、谷戸の水源となる清正井を求めて谷戸の右側をたどる。道はすぐに下りとなって崖下の井戸へと導かれる。

以前は井戸の近くに柄杓が置かれていたので、この水は飲めた筈なのだが、今は飲用禁止になっている。この井戸は横井戸と言われているが、社殿の西側から流れて来る水脈が井戸枠の横から湧き出している事のようである。井戸は古代からパワースポットとして認識されていたが、それでも、この井戸は特別な存在として評判が立ち、今では訪れる人が絶えない。加藤清正が掘ったという伝説も、それに拍車をかけているのだろうか。

清正井から南池に戻り御釣台に向かう。池の畔にカメラマンが何人か。野鳥を撮りにきているのだろう。神宮御苑は野鳥の楽園のようなところで、手乗りのヤマガラは今も健在である。御釣台に出て池を眺めながら、鳥の声に耳を澄ます。

小さな水路を二度渡ると、四阿のある場所に出る。ここは四方を水面に囲まれているので島ということになるが、東門近くの谷からの流れが二つに分かれて南池に注いでいるため、島のような地形になっているとしか見えない。南池には、この水路と清正井を水源とする水路のほか、代々木公園を水源とする水路が流入している筈だが、ここからは様子が分からない。

御苑を出て正参道を左に行き社殿へと向かう。初詣の時は大混雑となるが、今は比較的すいていて、ゆっくり参拝ができる。明治神宮は大正9年の創建で、建築様式については種々議論があったようだが、結局、一般的な流造りが採用されている。なお、大正時代の社殿は戦災で焼失したため、現在の社殿は昭和33年の再建である。

東門を出て先に進むと参道に出る。突き当りの垣の向こうは窪地になっている。ここには東池がある筈だが、参道からは良く見えないので、多くの人は東池の存在に気付かないかも知れない。垣に沿って東に向かうと、垣の間から東池が見えて来る。東池から先の水路は暗渠となり、JRの下を潜って南に流れているらしい。

北参道を北に向かい北口の広場に出る。ここを左に宝物殿への道を辿ると北池に出る。池の水源は西側にあるらしく池から水路が伸びているが、今は水が流れていない。北池から流れ出る先の水路は見えないが、暗渠となって渋谷川に通じているのだろう。宝物殿の前は起伏のある芝生になっている。芝生の下は北池、その向こうには神宮の森が続いている。

明治神宮の森について、平成23年から25年にかけて行われた総合調査によると、40数年前に比べて目通り周30cm以上の樹木では針葉樹がかなり減少している一方、常緑広葉樹は微増している。ただ、目通り周30cm未満の幹の細い樹木は全体として大幅に減少しており、将来的には後継樹不足の可能性があるという。哺乳類ではタヌキ、ハクビシン、ドブネズミの生息が確認されている。池ではカエル、カメ、魚類の調査が行われたが、絶滅危惧種のミナミメダカが見つかっている。昆虫では都内で初めて見つかった種が幾つかあったという。明治神宮では毎月探鳥会が開催されており、ヤマガラのほか、オオタカ、カワセミ、モズ、エゾビタキ、キビタキなどが記録されている。

明治神宮の森が自然林に近い森として存続できたのは、第一に100年後、150年後を見据えた計画的な植樹であり、第二はこの土地に適した樹木を選んでの植樹であり、そして第三に人間と森の領域を区分し、必要な場合以外は林地に立ち入らないようにした事である。今後も明治神宮の森を散策する機会はあると思うが、林地には立ち入らないようにしたい。

<参考資料>「大都会に造られた森・明治神宮の森に学ぶ」「グリーン・エージ 2014.7」「東京の公園と原地形」ほか。

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殿ケ谷戸庭園

2014-12-04 20:50:48 | 公園・庭園めぐり

都立殿ケ谷戸庭園は、三菱合資会社の営業部長だった江口定條が大正2年から4年にかけて、この地に別荘を構え、赤坂の庭師・仙石荘太郎に依頼して庭園を造り随宜園と名付けたことに始まる。後に三菱合資会社の副社長となる岩崎彦彌太は昭和4年にこの別荘を買い上げ、昭和9年に和洋折衷2階建ての邸宅に建て替えるとともに紅葉亭を設け、庭園の改修を行って回遊式庭園として完成させた。昭和40年代、駅周辺の開発計画が持ち上がり庭園の存続が怪しくなるが、住民運動の結果、昭和49年に東京都が買い上げ、園内を整備した上で開園し現在に至る。この庭園は、武蔵野の別荘庭園の中でも当時の風致景観を最もよく残しており、芸術上の価値も高いとして、平成23年に国の名勝に指定されている。

国分寺駅の南口から道路を渡り左に折れると殿ケ谷戸庭園の入口がある。アプロ-チを進んでいくと、この庭園の概要と園内地図を記した案内板が正面に見えて来る。別荘だった頃は現在とは異なり北東側の低地に入口があって、表門から玄関まで馬車道が上がってきていた。案内板の左側から来る道がその道である。当時の国分寺駅には南口が無かったという事情もあるが、玄関までのアプローチを長く取る意図があったのかも知れない。案内板の右側は正門(中門)で、傍らには季節の草花を置く台が設けられている。

案内板で庭園の地図を確認して門を入ると、左側に売札所がある。岩崎家別荘の本館の玄関をリフォームしたものという。売札所の前は前庭に相当するが、中ほどに野草や樹木が植え込まれているので今は広さを感じない。入口からここまで常緑樹のモッコクが多く見られるが、この庭園には300本ほどのモッコクが植えられているそうである。モッコクは地味ではあるが丈夫で形がまとまり易いため、庭木として植えられる事の多い樹木である。 

前庭を抜けると明るい大芝生の庭に出る。道は左右に分かれるが、ここでは右に進む。振り返ると岩崎家別荘の本館が芝生の向こうに見えている。江口家別荘の時代の建物は現存しないが、岩崎家別荘の建物のうち、本館の一部や紅葉亭、それと敷地北西に倉庫が残されている。この別荘地は台地と斜面と低地から成り、台地は建物と広い芝生が特徴的な明るい洋風庭園、低地は池を中心とした日本庭園、そして斜面は武蔵野の景観を残す林になっている。

先に進んで、都立庭園として整備された時に作られた萩のトンネルを抜けると、別荘の時代からあった藤棚に出る。今はあまり眺めが良くないが、戦前の地図によると、もう少し南側の斜面も敷地の内だったので、雑木林の間から野川の先の方まで眺められたかも知れない。藤棚の近くに国分寺崖線とハケについての説明版がある。国分寺崖線とは、武蔵野段丘と立川段丘の間の崖(斜面)の連なりを言うようだが、崖は直線的に続いているわけではなく、後方に引っ込んだり前方に出たり凹凸がある。そのうえ、雨水や湧水などによる浸食で開析谷と呼ばれる多数の谷が段丘に入り込んで複雑な地形になっている。

藤棚から花木園に沿って歩き、モウソウチクと紅葉との対比を眺めながら斜面を下っていく。殿ケ谷戸庭園の東側は殿ケ谷戸と呼ばれる谷間になっている。開析谷のうち湧水により湿地が出来ている場所は谷戸と呼ばれることがあるが、殿ケ谷戸もそのような場所であり、戦前の地図を見ると、田圃もあったようである。谷戸も時には崖を形成する。ただ、谷戸の出口近くになると国分寺崖線と谷戸の崖との境目は不明瞭になる。殿ケ谷戸庭園の斜面が、国分寺崖線に該当するか、谷戸の崖に該当するかは、決めの問題なのだろう。

斜面を下りて竹林に沿った竹の小径を歩く。仰げば、斜面が影と光でまだらになっている。竹の小径は踏み分け道ということだが、富士の溶岩で斜面を土留めしており、日本庭園に相応しい園路に仕上がっている。別荘だった頃には、武蔵野の林の中を散策する趣向の、踏み分け道のようなものが存在したのだろうか。

先に進むと次郎弁天の池に出る。池の上の木々の梢はまだ光の内にあるが、池はすべて影の内に沈み水面は黒みを帯びている。人の姿が画面に入り込まぬようカメラを構えるが、中々うまくいかず、結局、池の全体像が分からぬ写真を1枚撮って諦める。池には島が一つ。飛び石で渡れるようになっている。池の名の由来となった次郎弁天の所在は不明だが、島には祠を置けるスペースぐらいはありそうである。

池に沿って左へ行くと、斜面を上がって行く道がある。ともかく上がってみると、大芝生の端で行き止まりになり、小休止できそうな場所が設けられている。その近くに、馬頭観音の石碑が置かれている。馬頭観音とは馬の頭をした観音菩薩のことで、江戸時代には馬の守護神として民衆の信仰を集めていたという。この石碑は、飼っていた馬が死んだ時に百万遍の念仏を唱えて供養した石碑と思われるが、国分寺村にあったものを移したものとされている。石碑は、別荘地の一部に馬捨て場があったという話と何か関係があるのかも知れない。

池まで下りて先に進むと、湧水のある場所に出る。このような湧水のある場所や湧水による窪地の事をこの辺りではハケと呼ぶらしい。関東から東北にかけて、崖をハケまたはそれに似た言葉で呼ぶことがある。特に丘陵の端の崖をハケと呼ぶことが多いので、国分寺崖線をハケと呼んでも間違いではなさそうである。ただ、国分寺崖線については湧水との関わりで捉えている為か、湧水や窪地を特に区別してハケと呼んでいるようである。狭義のハケと広義のハケがあるわけだが、ハケという言葉は通称なので、厳密に考える必要はないのだろう。

湧水の場所から先に進むと、四段の滝がある。江口家の別荘だった頃からあった滝らしいが、この滝の水源には井戸が使われていた。現在は井戸水をポンプで鹿おどしの場所まで送り、小さな池を経て流し、その先で滝として池に落としている。ただ、水量が不足するためか、池の水を還流して加えているらしい。

池の辺りからイロハモミジに囲まれた紅葉亭を見上げ、それから急な道を一気に上がる。紅葉亭の南側は休憩所のようになっている。裏手には座敷があり、借りる事もできるようだ。紅葉亭からの秋の眺めは素晴らしい。次郎弁天の池の暗い空間とイロハモミジの輝くばかりの色彩とが見事なコントラストをなしている。昔は、この場所から殿ケ谷戸の先の野川の辺りも眺められたのかも知れないが、今の眺めは庭園の内だけに留まっている。

紅葉亭の西側に鹿おどしが設えられている。ここに、井戸の水がポンプで送られて来て、鹿おどしの竹が石を打つ音を間欠的に響かせ、流れ出た水は池となり、さらに小さな流れとなって、滝として池に落ちる。鹿おどしは農作物を荒らす鹿などを脅かすための仕掛けだが、その音が風流だとして庭園にも設けられるようになった。ただ、雨の時は深夜であっても音が鳴り続けてしまう。今は風鈴の音ばかりか幼稚園の音すら騒音になってしまう時代である。住宅地では鹿おどしの音も騒音扱いされかねない。

紅葉亭から先に進み、七草を植えている場所を過ぎて大芝生に出る。この辺りから眺めると芝生の庭園もどこか日本庭園の趣がある。岩崎邸の本館の一部は展示室として公開されているので入ってみる。展示品を見ながら各部屋を見て回るが、思いのほか質素な部屋である。旧岩崎邸庭園を見た後だからかも知れない。ここ迄で、殿ケ谷戸庭園を一周した事になるが、今回は樹木や草花については立ち止まって見る事はしなかった。次回は、そのへんに留意しながら、この庭園を回ってみたいと思っている。

<参考資料>「殿ヶ谷庭園」「東京の公園と原地形」ほか。

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