夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

お知らせ

2014-06-22 14:26:21 | Weblog
わが家の花暦、今回はビョウヤナギ(未央柳)を取り上げます。ビョウヤナギはオトギリソウ族の半落葉低木で、江戸時代に中国から渡来したということです。今の季節、あちこちでビョウヤナギの黄色い花を見かけるようになりました。

当ブログは2007.11.16に開設しました。その内容は、散歩、旅、紀行文、雑文(ショートショートなど)、その他(音楽、歴史など)で、これまでの記事の合計は、441ページになっています。当ブログのカテゴリーは20あり、先月後半のアクセス解析によると、ページ閲覧数が最も多いカテゴリーは、「歴史と文化の道」。これについで、「江戸近郊の小さな旅」、「あの町この町(錦糸町)」、「巡見使の旅」、「歴史メモ帳」の順になっていました。当ブログのカテゴリーと、その内容を以下に示します。

(1)Weblog
 このカテゴリーは、「お知らせ」の類のほか、種種雑多な記事を扱っています。今は、昭和の遺品、富士山世界遺産登録記念、大正時代の貯金箱が入っています。
(2)稲荷百社詣
 このカテゴリーには、都内の稲荷神社百社の巡拝記が入っていますが、ゲーム仕立ての物語の形にしてあります。
(3)古いアルバムめくり
 戦前戦中のモノクロ写真、半世紀前のモノクロ写真(仙台周辺と陸中、黒山三滝、海底ケーブル敷設船)、半世紀前のカラースライド(白馬、みずがき山、阿蘇九重、その他の旅写真)のほか、オリンパス・ペンの思い出がおさめられています。
(4)巡見使の旅
 江戸幕府が各藩の情勢監察のため各地に派遣した巡見使のうち、陸奥・出羽・松前に派遣された享保の巡見使の道中記をもとに、巡見の旅の道筋を追ってみました。
(5)江戸近郊の小さな旅
 文化文政の頃に江戸近郊を歩き紀行文(「江戸近郊道しるべ」あるいは「嘉陵紀行」)を書いた村尾嘉陵の足跡をたどっています。もとの紀行文は方面別に整理されていますが、老年を迎えた嘉陵の人物像が浮かび上がるよう、原作を年代順に並べ替えています。
(注)今まで、嘉陵が誤って嘉稜になっていた事に気付き、稜を陵に訂正しました。
(6)気ままに百人一曲
 クラシックの作曲家100人を選び、勝手気ままに各々1曲を選んでみました。
(7)神田川橋めぐり
 神田川を上流から橋めぐりをした紀行文ですが、余計な事ながら一工夫しています。
(8)民話伝説の世界
 民話を改ざんして別の話にしてみました。一種のショートショート。
(9)寺社巡拝
 都内の寺社の巡拝記ですが、現在のところ、都内の七福神巡り、虎の門・新橋付近の神社巡り、妙法寺・新井薬師・長命寺の参詣道を取り上げています。
(10)しょーとしょーと
 ショートショート(掌編小説)もどきです。
(11)あの町この町
 あちこちの町について思い付くままに書いた雑記。今は錦糸町と亀戸だけです。
(12)千川上水花めぐり
 千川上水路図や明治の迅速図などを参考に、千川上水跡を歩いてみました。
(13)絵葉書で海外の旅
 欧米の絵葉書で大正時代の旅を思い描いてみました。斎藤茂吉の日本帰航記の抜粋付。
(14)都電荒川線に沿って
 都電荒川線に沿って早稲田から三ノ輪橋まで一駅散歩をしてみました。
(15)神田川支流散歩
 善福寺川、妙正寺川、桃園川(跡)を歩いてみました。
(16)東京の文化財
 東京文化財ウイークの対象となる文化財など、都内の文化財の見て歩きです。
(17)歴史メモ帳
 歴史に関し気になる事のメモ。都内に源頼義・義家の縁起が多いのは何故?オトタチバナヒメの伝説が各所にあるのは何故?感応寺が突如廃寺になったのは何故?
(18)江戸名所
 江戸最初のガイドブック「江戸名所記」に取り上げられた名所を見に行きました。
(19)歴史と文化の道
 東京都制定の歴史と文化の散歩道を歩いてみました。
(20)緑と水辺の散歩道
 今のところ、ここで取り上げているのは、文京区の緑のウオークラリーだけです。

上記のほかにフォトチャネルとして5種類、合計319枚の写真(各カテゴリーの記事中に使用した写真を含む)を投稿しています。
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高尾八王子コースを歩く

2014-06-08 08:56:36 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「高尾八王子コース」は、「多摩御陵・銀杏並木散歩(高尾山口駅~真覚寺)」、「関東武士ゆかりの地散歩(真覚寺~片倉駅)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は10.7kmになる。今回は、片倉駅を起点に逆コースで歩くことにした。

(1)関東武士ゆかりの地散歩

横浜線の片倉駅で下車、北側に出る。この駅は初めてではないが、記憶には何も残っていない。駅前広場の北側、歴史と文化の散歩道の標識Aが散歩の始まり。この地点の標高は100m余、ここから上り下りを繰り返し徐々に高度を上げてゆく。次の角を左に行き、東京環状という道路を渡って、車の流れに沿って左側の歩道を歩く。今日は片倉城跡に行く予定は無いが、片倉城跡公園には入ってみる。片倉城は、朝廷の官僚で後に鎌倉幕府の政所別当となる大江広元の子孫、大江氏か長井氏の築城とする説があるが、確かなことは分からない。山の下には池が幾つか。その昔、湯殿川を堰き止めて造ったという大沼の名残だろうか。池近くの広場には彫像が並んでいて、ここが公園である事を主張しているかのようである。

続きの道を歩き湯殿川を渡る。片倉町の交差点で北野街道を渡り、右側の歩道に移って坂を上がる。京王高尾線をくぐるが、坂はまだ続いている。坂の上の水準点は標高133.8m。片倉町の交差点から20mほどの上りである。子安町の信号で東京環状の騒音と分かれ、とちの木通りを歩く。標識Aがあり、ここから山田川まで20m余りを下る。程なく八王子駅南口の交差点。その手前の案内板でルートを確認し、左に折れる。

左側の歩道で南大通りを進む。前方に見える山並みに少し気分を良くして、市立第三小の信号で東京環状を渡る。本立寺を過ぎ、その先の信号を渡り、道の角に置かれた標識Bの指示に従って左に折れる。左に曲がっていく幅広の道と分かれ、狭い方の道を上がり、標高133mの富士森公園前の交差点を渡る。上り坂の途中、右手の富士森公園に入って小休止。公園内には浅間神社があり、その裏手には富士塚も築かれている。富士登山の代替えというより、霊峰の遥拝所であったのでは。そんな気がする。

公園横の坂を上りきって、標高153mの交差点を過ぎると、今度は眺めの良い下り坂となる。喜び勇んで坂を下るうち、道は左に曲がって行く。道の向きが右に変わる少し手前に、広園禅寺の石柱が建っている。ここを右に入り、寺の森と思しき辺りに向かって直進すれば、ほどなく広園寺の総門の前に出る。この辺りの標高は138m。15mほど下ってきたことになる。広園寺は文化財ウイークの時の公開事業にも参加しているが、あくまで修行道場としての寺である。総門は開いているが、人影はなく、森閑としている。この寺には、静寂が似つかわしい。

広園寺総門の、向かって右の方に置かれている案内板を確認。寺から先のルートは分かりにくそうなので、今回は、総門の前を南に行き、山田川を山田橋で渡る。京王高尾線のガードらしいものが向こうに見えるが、確かめに行く気は無く、橋を渡ってすぐ右へ、もう一つ橋を渡って、山田小に沿って坂を上がる。上がりきって左に行くと、幅広の道路に出る。この道路を右に行くルートなら、迷う事は無いだろう。

ゆるやかな坂を上がる。高度にして広園寺から15mほど。ここからは本来のルートに合流して坂を下る。次の信号で左に道路を渡り、その先の曲がりくねった道をたどると、左側に大室神社の祠があり、その下に標識Aがある。先に進んで左に曲がると真覚寺の前に出る。今はカエルの合唱もなく、至って静かである。

(2)多摩御陵・銀杏並木散歩

真覚寺から標識Aのところまで戻って、北に向かって進み、JRの線路に突き当たって右に行く。線路の向こう側に出るルートを探して少し迷ったが、結局、車道の横の歩道で線路をくぐる。甲州街道との交差点に出ると、交番の横に標識Aが置かれている。交差点付近の水準点の標高は144.4m。ここを左に折れ、銀杏並木の甲州街道を左側の歩道で進む。甲州街道は緩やかな上りとなり、やがて多摩御陵入口の交差点に出る。先ほどの交番から高度差にして10mほど。北西の角に置かれている案内板を確認し、この交差点を右に行く。

参道に相応しい橋で南浅川を渡り、しばし、山並みと川の流れを眺める。道は左に曲がり、けやき並木の道となる。左側の歩道で陵南公園沿いに進むと多摩御陵(武蔵陵墓地)の正門に出る。標高は170mほど。派出所の先を左に、すぐ先を右に入って、御陵の敷地に沿って下り、高くそびえる陵南大橋の下を潜る。右に行き左に折れて道なりに行けば高尾街道に出る。近くに多摩森林科学園があり、桜咲く頃はお勧めの場所なのだが、今回は立ち寄らずに、廿里町の信号で高尾街道を渡る。

先に進むと南浅川沿いの道となり白山橋に出る。この先、南浅川沿いに続く細い道で両界橋に出るのがルートだが、今日は白山橋を渡り甲州街道に出て両界橋に行く。JRの下をくぐり、その先で旧甲州街道を右に見送る。小仏川を渡る地点の水準点の標高は180.0m。やがて、高尾山の旧登山口。石の道標には高尾山ちか道入口とある。今は記憶もあやふやになっているが、ケーブルカーが運行していない時に、この辺から高尾山に登ったような気がする。案内川を渡り、京王高尾線の下をくぐれば、間もなく高尾山口駅前。標高は189m。出発地との高度差は100mにも満たない。川の近くにある案内板を確認し、これにて、高尾八王子コースは終了となる。
 
以前、片倉から高尾山口までのウオーキングに参加したことがある。その時は、ここまで来たら高尾山にもと思い、六号路のびわ滝経由で霞台まで登ってはみたものの、空模様が怪しくなったため、諦めて下山した事を覚えている。今は、気力体力とも衰えて、続けて山に登ることなど選択肢にも入っていない。高尾山は、またの機会があったならという事にして、この日の予定はすべて終了。東京都の制定した「歴史と文化の散歩道」全23コース240.5kmも、今回をもって完歩となる。「歴史と文化の道」というカテゴリーはこれで終りというわけではないが、今回をもって一区切りという事にしたい。
 

東京都の「歴史と文化の散歩道」のほかにも、同じような趣旨のコースが各区市町村などでも設けられており、各種のイベントでも様々なコースが歩かれているので、東京都のコースが決定版という訳ではなさそうである。今回は、ガイドブックや現地の案内板・標識を参考にして、概ね東京都の設定したコースを歩いたが、距離の点からすると、ウオーキング・コースとしての利用を想定していると思われる。ただ、歴史と文化に触れあう散歩道という視点は多少なりとも薄れているような気もする。「歴史と文化の散歩道」をもう一度歩くとすれば、コースを再構成し、歴史と文化に関わる見所をなるべく多く、時間を掛けて見て回りたいと思う。

参考までに、歴史と文化の散歩道の案内板と標識についてまとめておく。
(1)案内板

東京都の「歴史と文化の散歩道」の各コースには、案内板が設置されている。その内容はルート図のほか、各地の歴史と文化についての解説が、写真や絵とともに掲載されている。ただ、かなり時間を経過しているため汚損が目立つ案内板も見受けられる。今回のブログ記事中では、コース途中の案内板を出来るだけ写真として取り上げる事にしたが、見落としているものがあるかも知れない。

(2)標識A.B.C



各コースの途中に、道標の役割をする標識が置かれている。写真は上から順に標識A、標識B、標識Cである。標識Aはコースの分岐点に置かれることが多く、ルートの方向とルートの概略図を示している。標識Bは標識周辺の道順を示すもので、数多く設置されており、有用な標識ではあるが、迷いやすい場所に置かれていない場合もある。標識Cは道路に埋め込まれる標識で、カタツムリのシンボルマークが使用されているが、知らない人には何のマークか分からないだろう。標識Cには矢印が有るものと無いものがある。矢印はルートの方向を示しており、写真は曲がり角に設置される標識である。この標識は、道路工事等に伴って設置場所や向きが変わると、道標の意味をなさなくなる。

(3)その他の標識








写真は、歴史と文化の散歩道の標識で、上から順に、文字付きのガードレール、カタツムリのシンボルマーク(黄色)付きのガードレール、文字付きのポール1、同2、文字付きの車止め、カタツムリの形を付けたポール、カタツムリのマーク付き角柱、文字の書かれた標柱である。これ以外にも、歴史と文化の散歩道の標識があるかも知れない。

 
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