夢七雑録

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東池袋四丁目から向原へ

2010-11-27 12:21:54 | 都電荒川線に沿って

 東池袋四丁目の停留所から東に行き、信号のある角を左に入ると、十字路があり、二つの踏切がⅤ字状に設けられている。旧・水久保の停留所があったのは、この辺りである。踏切を渡らずに進めば、昭和の雰囲気を持つ商店街が続いているが、今回は、電車が通り過ぎるのを待って、左の方の踏切を渡る。そのまま道なりに進んで、突き当たりを右に行き交差点に出る。左側はサンシャインシティ、右側は造幣局東京支局である。サンシャインシティの場所は東京拘置所の跡地で、北側隅の東池袋中央公園には碑が置かれている。昭和46年に東京拘置所は小菅に移転し、その跡地にサンシャインシティが建設されることになるが、これが池袋を副都心へと変貌させる契機になっている。今回は、サンシャインシティを省略して先に行く。

 交差点を右に折れて、新東京タワー(東京スカイツリー)の候補地の一つでもあった、造幣局の敷地に沿って進み、東側の角を曲がる。造幣局は予約すれば見学可能だが、今回は通りすぎるだけである。造幣局の東側は低い土地になっている。ここを、かつて、水窪川という小川が流れていた。この川は、東池袋一丁目一帯の水を集め、サンシャインシティとグリーン大通りの間を流れ、旧・水久保停留所の手前で左に折れ、造幣局の下で電車の線路の下を潜って東流し、春日通りと豊島が岡の間の谷を下り、音羽通りに沿って流れて、神田川に流れ込んでいたが、現在は全区間暗渠になっている。造幣局を過ぎて北に行き春日通りに出る。ここを右に行けば、向原の停留所である。この停留所は、大塚から鬼子母神前まで延長された大正14年の開業である。

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都電雑司ヶ谷から東池袋四丁目へ

2010-11-23 10:33:26 | 都電荒川線に沿って

 都電雑司ヶ谷の停留所の近くに蔵がポツンと残されている。今は奇妙な風景になってしまったが、昔は普通の家並みの中に蔵も溶け込んでいたのだろう。現在は、都内で蔵を見かける事も少なくなったが、都電荒川線の沿線には、まだまだ蔵のある家が残っているそうで、確か、鬼子母神の近辺にも蔵のある家が残っていたと思う。蔵はそのくらいにして、東通りという道を明治通りに向かって歩く。この道は、江戸時代に御鷹部屋から板橋道に出る道に相当している。この道を行くと、法明寺と墓地の間を抜ける小道が左手にある。ここを右に折れ、サンシャイン60に向かって歩き、江戸時代からあった本立寺の先を左に折れる。その先の南池袋公園(現在は工事中)の手前を右に行き、グリーン大通りを渡る。渡った先の角をサンシャイン方面に入った所は明治天皇御野立所跡(現在は工事中)である。グリーン大通りを左に行けば池袋駅の東口だが、今回は右に行き都電の停留所に向かう。

 この辺りは江戸時代に御鷹方組屋敷があったところで、六郷社の森という小高い丘であったという。六郷社の森は後に根津嘉一郎氏の所有となり、根津山と呼ばれるようになるが、その範囲は現在の南池袋公園から御野立所を含むグリーン大通り周辺一帯であった。昭和7年頃、この土地の開発が始まり根津山を分断する道路が作られ、昭和14年には護国寺から池袋駅前まで市電が延長される。これが後の都電17系統で、その経路は池袋駅前―護国寺―大塚仲町―春日町―神保町―八重洲口―数寄屋橋であった。根津山は、昭和20年4月にアメリカが行った城北地区大空襲の際の避難場所で、犠牲者の仮埋葬地でもあったが、今は、その形を留めていない。

 都道音羽池袋線を東に行き、都電の車庫跡であるバスの操車場を過ぎると、都電の停留所・東池袋四丁目に出る。三ノ輪橋方面のホームは道路の向こう側である。大正14年に鬼子母神まで電車が延長された際、今の停留所より北にずれた場所に停留所が設けられている。当時の停留所名は地名に由来する水久保であったが、その後、日之出町二丁目に変更され、さらに、昭和40年代に現在の停留所名になっている。都電はここから次の停留所に向かって、家と家の間をすり抜けるように走っていく。

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鬼子母神前から都電雑司ヶ谷へ

2010-11-17 20:27:58 | 都電荒川線に沿って

 鬼子母神前(きしぼじんまえ)の停留所から、鬼子母神(きしもじん)に行く。江戸の代表的行楽地の一つであった鬼子母神の門前町は、料亭や茶店が軒を並べていたといわれるが、今は、昔ほどの繁盛ぶりは見られない。停留所から少し先、右側に鬼子母神の参道がある。直進する道は、江戸時代に板橋道と呼ばれていた道である。参道は欅並木の道で、途中には観光情報の提供などを行う雑司ヶ谷案内処がオープンしている。この裏手には手塚治虫が住んでいた並木ハウスもある。

 参道の突き当たりを左に行くと、正面に鬼子母神堂が見える。鬼の字は、正確には上の点が無い字である。左手の武芳稲荷の鳥居の横には、元禄時代に始まる川口屋を継承した駄菓子屋が今も健在である。なお、鬼子母神の名物であった、すすき細工のミミズクは、作っていた店が残念ながら閉店になってしまったが、幸いにして保存会の手で今後も作り続けられるということである。鬼子母神堂を出て法明寺に行く。花見の頃なら絵になる風景の寺である。寺の南側の道は、池袋駅西口にあった丸池を水源として、江戸川橋近くで神田川に流れ込んでいた弦巻川という小川の跡である。この道を東に行き、東京音大を過ぎた少し先が、鎌倉橋の跡という。旧鎌倉街道中道の東回りルートは、この鎌倉橋を渡って、東京音大の敷地内を通りサンサヤインシティ方向に向かっていたとされるが、その道筋は既に失われている。弦巻川跡の道を先に進むと大鳥神社があり、その少し先に都電の踏切がある。そのまま進む道は弦巻通りである。踏切を渡って直進し、道が少し右に曲がる所で、左に折れて道なりに行くと、宝城寺と清立院の下の四つ角に出る。正面の登り坂は斎場に出る道である。右の坂は御岳坂で、この坂を上がり雑司ヶ谷霊園の外周を通って行くと都道音羽池袋線の小篠坂に出る。ここでは、四つ角を左に行き、都電荒川線では唯一のガードの下を潜る。

 江戸時代、法明寺から護国寺の裏門に出る道があったが、法明寺からガード下を通って御岳坂を上がる道は、この道に相当している。法明寺の前を流れていた弦巻川は、江戸時代から明治の終わり頃まで、現在の大鳥神社の辺りから少し北に向かったあと、この道に沿って流れ、宝城寺や清立院の下、台地の裾を南に流れていた。江戸名所図会には、宝城寺や清立寺とともに、その下を流れる弦巻川と石橋も描かれている。御岳坂の下にあった石橋を木村橋といい、本納寺を経て鬼子母神に向かう参道が通っていたが、現在は弦巻川も暗渠化され石橋も消滅している。大正時代になると弦巻川の流路が変わり、大鳥神社の辺りから直接、宝城寺に向かって流れるようになる。大正14年に大塚から鬼子母神まで延長された時の電車の軌道も、この流路を渡っていたと思われる。その位置は、現在の大鳥神社先の踏切より少し北側の位置であったと考えられる。昭和7年に弦巻川は暗渠化されるが、その記念碑の一つが大鳥神社境内に残されている。暗渠化の際、蛇行部分を直線化するなどの流路の変更はあっただろうが、電車が弦巻川を渡る場所はほぼ同じ位置のままと思われるので、現在の弦巻通りは、弦巻川の右側に作られた道という事になる。

 ガードを潜って、都電に沿って進むと都電雑司ヶ谷の停留所に出る。この停留所は、大正14年に大塚から鬼子母神前まで延長された時の開業で、停留所名は「雑司ヶ谷」であったが、副都心線の雑司ヶ谷駅が開業し、連絡駅が都電の鬼子母神前になったことから、現在は「都電雑司ヶ谷」に変更されている。停留所の東側は江戸時代に御鷹部屋のあったところで、今は雑司ヶ谷霊園になっている。周辺は閑静な場所であったが、現在は、目白通りからグリーン大通りに抜ける道路の拡幅工事が進行中で、完成すれば、近辺の雰囲気が一変するかも知れない。

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学習院下から鬼子母神前へ

2010-11-14 14:04:25 | 都電荒川線に沿って

 学習院下の停留所から都電の線路に沿って明治通りを上がる。少し行くと、昭和7年に竣工し翌年に開通した立体交差橋・千登世橋に出る。その東側は千登世小橋で、都電はその下を潜っている。千登世橋の付近は、南から谷が入り込む地形になっていて、その谷合を通る道が江戸時代にも存在していたようだが、台地の近くでは急傾斜であったと思われる。明治通りを開設するに際し、清戸道(現・目白通り)と平面交差する案も検討されたが、傾斜が急すぎる等の理由から取りやめとなり、切通しを掘って明治通りを緩傾斜とし、千登世橋を架け清戸道と立体交差させる事にしたという。なお、現在の千登世小橋は、千登世橋を架橋する際に架けられたものである。

 千登世橋に上り目白通りに出る。橋の上の記念碑の横から南側を暫く眺めたあと、西側の信号を渡って北側の歩道を歩き、今度は千登世小橋から北の方を眺める。坂を上がった電車が、ちょうど今、鬼子母神前の停留所に到着したばかりのようである。都電沿いには道路工事が進められていて、その横を通って行くこともできそうだが、今回は目白通りを東に次の信号まで行く。南から上ってくる坂は宿坂である。ここを北に入り商店街を抜け、鬼子母神前の停留所に出る。南の方を見ると、都電がS字カーブを描きながら、千登世小橋の下を潜って行くのが見える。鬼子母神前と面影橋間の電車は、明治通りに先だって昭和3年に開通しているが、傾斜を緩やかにするため、切通しを堀って、清戸道(現・目白通り)の下を潜るようにしたのだろう。

 江戸時代、江戸川橋から目白坂を上り練馬方面に向かう道(現・目白通り)と、宿坂を上がって鬼子母神方面に向かう旧鎌倉街道とが交差する付近を高田四谷町と呼び町屋が並んでいた。当時は、物見遊山を兼ねた多くの参詣客が、この町並みを通って鬼子母神に向かっていたのだろう。参詣客にとって交通の便が格段に良くなったのは、王子電気軌道が大塚から延長されて鬼子母神近くに停留所が設けられた、大正14年になってからである。現在は、地下鉄副都心線・雑司ヶ谷駅が開業し、鬼子母神の最寄り駅になっており、また、都電の鬼子母神前の乗換駅にもなっている。

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面影橋から学習院下へ

2010-11-11 20:10:18 | 都電荒川線に沿って

 神田川を面影橋で渡ってすぐ右手、オリジン電気の門前に山吹の里の碑がある。石碑は墓石を再利用したものらしい。山吹の里が何処かについては諸説あるが、太田道灌が蓑を所望したところ山吹を渡されたという話自体が伝説の域を出ないので、まともに議論するような事ではなさそうだ。なお、面影橋のすぐ先は砂利場と呼ばれた砂利採取場だったようだが、今は跡かたも無い。

その先、左手に高田村の鎮守である氷川神社がある。また、道の右側にある南蔵院は、怪談乳房榎の舞台となった寺であり、南蔵院で龍の絵を描いていた絵師の菱川重信が、妻の情夫であった浪人に蛍狩りに誘いだされて殺されるという筋立てになっている。江戸時代、氷川神社の北側から南蔵院の前へ流れる用水があり、この用水に架かっていた橋を姿見の橋と呼んでいた。昔、この辺りは池のようになっていて、架かっていた橋の上から、池に姿を映したという事があり、これが姿見橋の名の由来だというのである。ただし、これには異説もあって、姿見の橋は面影橋の別称だともいう。面影橋には、於戸姫の悲話伝説などもあるが、遥か昔の橋の名の由来など、詮索しても仕方のない事かも知れない。江戸時代、南蔵院の北側にも橋があり、道が右に折れ曲がる場所にあったので右橋と呼ばれていた。今は、姿見の橋や右橋、それに用水も失われてしまったが、道は昔のように折れ曲がったままである。

 道を先に進むと宿坂の下に出る。面影橋を渡って宿坂を上がる道は、旧鎌倉街道の中道で奥州への街道筋にあたり、関所も設けられていたという。右に入る道は、幕府の祈願所で、明治になって移転してきた根性院への参道である。根性院には田安家の下屋敷から受け継いだ池が戦前まであったらしいが、今は宅地になっている。宿坂の左手は金乗院で、境内には戦後に目白坂から移された目白不動の堂がある。寺内には丸橋忠弥の墓所があるが、後の世に建てられた墓のようだ。金乗院から西に行く道は江戸時代からあり、台地の裾を通って落合の薬王院に通じていた。この道を行き、大正時代に作られた急坂、のぞき坂を横に見て先に進めば、学習院下の停留所に出る。

 江戸時代から明治にかけて、金乗院から薬王院に通じる道の南側は田圃が広がっていた。大正時代になると田地にも人家が建ち始め、昭和に入ると市街地が田地を浸食するようになる。昭和3年、神田川に鉄橋が架けられ、鬼子母神前から面影橋まで王子電気軌道が延長される。学習院下の停留所も、この時に設けられている。やがて、王子電気軌道の鉄橋の隣に高戸橋が架けられ、昭和7年に明治通りが開かれる。当時、高戸橋近くの低地には大小の工場が進出しており、人口も過密であったという。昭和17年、王子電気軌道は市電に統合され翌年には都電と改称する。戦後、高戸橋の手前から左に分かれる軌道が作られ、高田馬場駅前に出る都電15系統の電車が通るようになるが、この系統も昭和43年には廃止され、軌道も撤去されている。

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早稲田から面影橋へ

2010-11-07 17:12:20 | 都電荒川線に沿って

 早稲田の停留所から西に行き、清水家下屋敷跡の甘泉園公園に入る。その名は、お茶に適した水が湧いていたことに由来するという。園内はさほど広くないが、手入れの行き届いた庭園で、入園は無料である。

 甘泉園公園の上の水稲荷に行く。この稲荷は高田稲荷と称していたが、境内の湧水が眼病に効くと評判になったため水稲荷と呼ばれるようになったという。もともと、この稲荷は、別当寺であった宝泉寺の北側、冨塚という古墳の跡(現在は早稲田大学構内)に鎮座していたのだが、土地交換によって現在地に移転したという事である。水稲荷の裏手にあった江戸最古の富士塚も、土地交換にともない、現在の境内に移されているという話だが、通常は入れないという事なので場所を探すのは諦め、流鏑馬の会場にもなった南側の参道を歩く。ここには、高田馬場の敵討で有名な堀部安兵衛の顕彰碑が建っている。高田馬場の跡地は、早稲田通りと、その一本北側の茶屋町通りの間にあたり、高田馬場の名は越後高田藩主の生母の遊楽地を馬場としたことから出たらしい。

 茶屋町通りを西に行くと、突き当たりの手前に、北に下る坂がある。旧鎌倉街道とされる古道である。江戸名所図会にも描かれている七面明神を祀る亮朝院の前を通って坂を下っていくと、新目白通りに出る。面影橋の停留所はすぐそこである。江戸から明治にかけて、早稲田と面影橋の間は田地であったが、大正に入ると人家が少しずつ建てられるようになる。昭和3年に鬼子母神から面影橋まで王子電気軌道が延長された頃には、市街地化がかなり進んでいたようで、面影橋から早稲田まで軌道を延長するにあたっては、立ち退きが必要になったかも知れない。昭和58年に新目白通りが開かれてからは、荒川線の電車は道路の中央を走るようになるが、それまでは、人家のすぐ裏手を電車が走り抜けるような状態であったらしい。

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都電荒川線の早稲田へ

2010-11-03 18:00:18 | 都電荒川線に沿って

 地下鉄有楽町線を江戸川橋で下車し、神田川を江戸川橋で渡って、江戸川公園に入る。江戸川というのは、この辺りの神田川の昔の呼称である。公園に入ってすぐ、北側に目白坂という坂がある。この坂を上がって目白通りを通る道筋は、練馬方面からの農産物の運搬路だった道で、明治時代には清戸道と呼ばれていた。目白坂は清戸道の中では難所で、昔は、荷物の運搬を手伝って日銭を稼ぐ者も居たそうである。また、坂の上には五色不動の一つであった目白不動堂があったが、現在は宿坂の金乗院に移されている。目白坂を上がるのは次の機会ということにして、神田川沿いの道を歩き、関口大洗堰の跡に出る。江戸時代、ここで分けられた上水は水戸藩邸(現・後楽園)を経て江戸市中に飲用水として供給され、残った水は滝のように江戸川(現・神田川)に落とされていたという。その様子を想像で補いつつ、神田川沿いの遊歩道を歩いていくと、椿山荘の裏手に出る。古くは椿の名所で椿山と呼ばれていた場所だそうだが、冠木門から眺めただけでは、椿山の痕跡が残っているかどうか分からない。

 椿山荘の先に芭蕉庵がある。松尾芭蕉がこの辺りに居住し、神田川の改修工事に従事したという伝承から、後世、芭蕉堂が建てられた場所という。今は、戦後に再建された庵のほか、石碑や、湧水を入れた瓢箪池があるが、今回は中に入らない。芭蕉庵の先に駒塚橋があり、その北側に胸突坂がある。坂の途中には水神社があり、その上には細川家の名品を所蔵する永青文庫があるが、坂を上がるのは次回ということにして先に行く。駒塚橋から上流の神田川は、かつて、大きく蛇行して流れていたらしいが、昭和の河川改修によって、今は緩やかな曲線の流路に閉じ込められている。 

 川に沿って進むと、道は神田川から離れるようになる。この道を西に行くと、面影橋近くの南蔵院に出るが、江戸時代の村絵図によると、この道の南側は田地で、北側には大名の下屋敷が続いていたようである。塀にそって少し行くと新江戸川公園に出るが、この公園も細川家の下屋敷の跡で、今は無料の回遊式庭園になっている。公園の前を北に上がると昨年開園した目白台運動公園に出るが、今回はパスして西に行き、次の四つ角で左に折れて豊橋にでる。江戸時代、芭蕉庵近くの駒塚橋から面影橋までの間に橋は無く、明治になってはじめて架けられたのが、この橋ということらしい。橋から下を覗くと、河川改修により露出した地層が見えている。コンクリートの護岸はやむを得ないとして、川底をコンクリート化しなかったのは、幸いというべきなのだろう。豊橋を渡り、新目白通りに出ると、早稲田の停留所がすぐそこにある。

 江戸時代の早稲田近辺は、下屋敷の他は田圃が広がる場所であった。明治に入っても田園地帯であることに変わりはなかったが、明治も終わりの頃になると市電が飯田橋から江戸川橋まで延長され、早稲田大学の周辺に人家が次第に増えるようになる。大正10年頃になると、神田川流域にも市街が形成されるようになり、市電が早稲田まで延長され車庫も作られる。昭和5年、王子電気軌道の電車が面影橋から早稲田まで延長され、市電とは別に早稲田の停留所が設けられる。王子電気軌道は昭和17年に市電(後の都電)に統合されるが、停留所は別のままだった。線路が接続されたのは戦後になってからで、これにより、都電の15系統は高田馬場まで延長されることになった。都電15系統の経路は、高田馬場・早稲田・江戸川橋・飯田橋・神保町・大手町・日本橋・茅場町であった。しかし、都電の財政再建のため、昭和43年に15系統が廃止され、早稲田と三ノ輪間の都電のみ存続することとなる。昭和58年には、道路の拡幅工事が行われ(現・新目白通り)、都電の専用軌道が道路中央に設けられ、停留所も新しく作られている。

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都電荒川線について

2010-11-01 17:22:21 | 都電荒川線に沿って
 都電荒川線は現在まで唯一残った都電の路線で、三ノ輪橋から早稲田まで12.2Km、30か所の停留所を、一両編成のワンマンカーが50分ほどかけて走っている。その沿線には、一昔前の懐かしい風景が広がっている。電車に揺られながら窓の外を眺めるのも良し、途中下車して周辺を散歩するのも、また楽しからずやである。次に都電荒川線の路線図を示しておく(東京都交通局のパンフレットより)。

 都電荒川線のルーツは、明治44年に王子電気軌道株式会社が大塚・飛鳥山間の電車を開業したことに始まる。その後、王子から三ノ輪への路線、王子から赤羽への路線が開業し、昭和5年には三ノ輪・早稲田間の直通運転が開始される。昭和17年、王電と呼ばれて親しまれていた王子電気軌道株式会社が東京市電に統合され、翌年には都電に改称される。戦後、都電は庶民の足として発展し路線の総延長が200kmを越えるまでになるが、やがて都電が交通渋滞の一因とされるようになり、また都電が赤字事業であったことから、昭和40年代になって都電の廃止が進むようになる。その中で、早稲田・三ノ輪間については専用軌道の区間が多いこともあり、バスによる代替えも難しく、住民の要望も強かったことから、都電のなかで唯一存続することが決定され、都電荒川線として現在に至っている。以下に略年表を記しておく。

・明治43年4月。王子電気軌道株式会社創立。
・明治44年8月。大塚~飛鳥山で電車開業(大塚線)。
・大正2年4月。三ノ輪~飛鳥山下で電車開業(三ノ輪線)。
・大正4年4月。飛鳥山から王子まで延長。
・大正12年9月。関東大震災で被災するが、8日後には復旧。
・大正14年2月。飛鳥山下から王子駅前まで延長。
・大正14年11月。大塚から鬼子母神まで延長。
・大正15年3月。王子駅前~神谷橋で電車開業(赤羽線)。
・昭和2年12月。神谷橋から赤羽まで延長。
・昭和3年5月。三ノ輪~鬼子母神が直通運転。
・昭和3年12月。鬼子母神から面影橋まで延長。
・昭和5年3月。面影橋から早稲田まで延長。三ノ輪~早稲田が直通運転。
・昭和17年2月。王子電気軌道㈱は東京市電気局に統合。王電から東京市電へ
・昭和18年7月。東京都交通局に改称。市電から都電へ。
・昭和24年2月。戦災路線の復旧完了。
・昭和42年12月。都電撤去開始。
・昭和47年11月。三ノ輪~早稲田以外の都電撤去終了。
・昭和49年10月。都電荒川線の存続決定。
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