夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

小松左京 スペシャル

2021-10-03 20:08:40 | 私の本棚

NHKの100分de名著の中に「小松左京スペシャル」があった。そこで、本棚の中から小松左京の本を探してみた。

【書誌1】書名「地球を考えるⅠ、Ⅱ」 小松左京対談集。

小松左京ほか。新潮社。1972年初版。

この本は、地球に関しての小松左京と各界の専門家との対談集である。地球物理学の竹内教授との対談では執筆中の日本沈没の話もしている。他の対談相手は氷雪物理学の樋口教授、植物生態学の吉良教授、分子生物学の渡辺教授、哲学の上山教授と吉田教授、情報工学の坂井教授、国際経済学の大来理事長、国際政治学の武者小路教授、中国古代史の貝塚名誉教授、西洋文化の会田教授、社会人類学の梅棹教授である。小松左京は様々な分野における専門的な知識にも関心があり、また、SF小説を書く上で、それが必要なことでもあったのだろう。

【書誌2】書名「日本沈没・上、下」 カッパノベルス。

小松左京著。光文社。昭和48年3月(1973)初版。

「日本沈没」は映画やドラマにもなり、多くの人に知られるようになった。日本列島が沈没する事などあり得ないと分かっていても、ひょっとしたらと思わせてしまうのが、この小説の凄さだろう。この小説の最後に、“第一部 完”と書かれているが、作者にとって、日本列島が消滅すると仮定したら、何が起きるかという第二部に重点があったと思われる。ただ、小松左京の執筆による第二部が完成したとしても、第一部ほどの評判が得られたかどうかは分からない。沈没するのが日本列島だけというのは不自然なので、世界各地に国の沈没が起きる事も考えられるが、そうなると、土地を失った国家は消滅し、国を失った多数の人々による大移動が各地で起きることになるが、それは別の話になるのだろう。

私の本棚には、他に下記のような小松左京の小説があるが、書誌を掲載するにとどめる。

【書誌3】書名「時間エージェント」 新潮文庫。小松左京著。新潮社。昭和55年15刷。(昭和50年(1975)初版)。

【書誌4】書名「物体O」 新潮文庫。小松左京著。新潮社。昭和52年(1977)初版。

【書誌5】書名「流れる女」 文春文庫。小松左京著。文藝春秋。昭和53年(1979)初版。

【書誌6】書名「コップ一杯の戦争」 集英社文庫。小松左京著。 集英社。 昭和56年(1982)第1刷。

【書誌7】書名「遷都」 集英社文庫。小松左京著。集英社。昭和56年(1982)第1刷。

 

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100の思考実験・その2

2021-02-25 19:01:11 | 私の本棚

バジーニ著「100の思考実験」に掲載されている思考実験のうち、3件については2020年6月15日に投稿しているが、その続きとして、パラドックス(逆説)に相当する思考実験を取り上げることにした。パラドックスには、誤りのようで実は正しいもの、正しいようで実は間違っているもの、正しい推論のように見えて矛盾を引き起こすものが含まれており、まともに考えると難しい話になるが、この本は一般の読者向けに、パラドックスの内容を書き換え、解説も付け加えている。なお、読後のコメントには、一般の読者の一人として考え、思いついたことを記すことにした。

 

1.殺すことと死なせること・トロッコ問題

(1)概要

暴走した列車が線路を下ってくる。そのまま進めばトンネルで作業中の40人が死亡する。暴走する列車は止められないが、分岐器のレバーを引いて別の線路に切り替えることは出来る。別の線路の先には5人がトンネルで作業しておりレバーを引けば間違いなく死ぬ。レバーを引くべきか、それとも、何もせずに40人を死なすべきか。

(2)解説

この思考実験は、イギリスの哲学者フットによる「トロッコ問題」というパラドックスがもとになっている。功利主義によれば最大多数の利益になる行いが、道徳的に正しい行為とされているので、レバーを引いて、より多くの人を助ける方が合理的で道徳的だと考えられる。しかし、救われる多くの命があるにしても、人を殺すという行為は正当化できない。一方、レバーを引かなかったら、どうなるか。その結果として、多くの人を死なすことになったとしたら、その責任がまったく無いと言えるだろうか。

(3)読後のコメント

このパラドックスでは、暴走する列車(トロッコ)は止められないことになっているが、仮に自らの命を犠牲にして列車を止めたとすると、道徳的には正しい行為ということになる。ただ、同じ事を他人には求められないので、過剰な行為ということになるらしい。

暴走した列車を運行する会社の社員が分岐器の近くに居て、トンネル内で行われている作業のことを知っていたとしよう。この社員がレバーを引けば40人を助けたことになり、道徳的には正しいことにはなる。しかし、その一方で5人を殺したことになってしまう。一方、レバーを引かなければ5人を殺さずに済むが、結果として40人を死なせることになる。この社員が列車の暴走についての責任が無ければ、5人を殺すことよりも、40人を死なした事の方が罪は軽いのかも知れないが。

一方、分岐器の近くに居たのが、この会社の社長だったとしたらどうか。何れにせよ、列車の暴走は社長として相応の責任があるわけで、暴走が起きてしまった以上は、出来るだけ死者を少なくするためにレバーを引く方を選択するかも知れない。レバーを引く行為は道徳的には正しい行為のようにも思えるが、人を殺したという事実が変わるわけではない。

このパラドックスでは、トンネル内で作業する人数だけに着目し、他の条件を同じにしている。これは、問題を明確にする上では有益なのだろうが、現実に起きる事件はもっと複雑であり、個々の事件に対して人数だけでは判断しがたいこともある。仮に、人数だけで判断することが正しいとすると、開発途上国の人口は先進国の4倍以上なので、開発途上国が最大多数になり、その幸福のために世界中の富のうちの多くを開発途上国に配分すべきことになるが、現実にはそうなっていない。また、近頃は少数の人達の幸福にも配慮するようになっており、人数だけでは判断出来なくなっている。さらに、道徳などというものは、国や宗教や文化、そして時代により異なるので、どんな行為が正しいかは一概に言えそうにない。

ここで、話を少し変えて、車のブレーキが故障して暴走している場合を考えよう。前方の横断歩道を子供達が大勢渡っている。道の両側は崖でハンドルを切れば車は崖下に転落するだろう。運転手の安全を最優先に考えるなら直進することになるが、それが許されるだろうか。一方、人数だけで判断するなら、運転手は自分の身を犠牲にして崖下に転落する方を選ぶべきだろうが、それを強制できるだろうか。では、両側が崖の坂道を下っている観光バスのブレーキが途中で故障した場合はどうか。坂の下には子供達がいるが、人数的には観光バスの方が多いので、崖下に転落する危険を冒さずに、そのまま進む方が良いのだろうか。

「トロッコ問題」は、車の自動運転に関連して議論がされているようだが、国や文化などが異なれば、考え方に違いが出てしまう。人によって考え方が異なる事柄にまで自動化が入り込むのは、如何なものだろうか。自動運転に関連して、AIについても気になることがある。

昔から、東は東、西は西と言われてきたが、東洋と西洋では考え方に違いがあるとすると、AIに地域差があってもおかしくない。例えば、日本版のAIがあっても良い。

 

2.ビュリダンのロバ。

(1)概要

ビュリダンは、何かを決めるとき完全に合理的であるべきだと決心していた。ビュリダンは空腹だったが食糧は底をついていた。自宅から等距離のコンビニが2軒、その一方に行く理由が決められなかった。餓死は不合理なので、コイン投げで決めようとしたが、これは不合理な行為なのではないか。

(2)解説

コイン投げで決めるのは合理的ではないが不合理でもなく、合理性が入り込まない過程である。白ワインより赤ワインを好むのは理性ではなく趣味であり、不合理でも合理的でもないのと同じである。何かを決める際には合理的でないやり方が合理的な場合があり、理性で決められないなら、とにかく決めてしまうのが理にかなう。パラドックスは生じない。

(3)読後のコメント

ビュリダンは空腹で食糧も無かったので、食料を買いに急いでコンビニに行くことにした。これは合理的判断である。しかし、等距離にある二軒のコンビニのどちらに行くか、合理的に判断しようとして、決められぬまま無駄に時間が過ぎてしまった。これは、今すぐ食料を必要としていることからすると、不合理な行動にあたる。これを避ける方法の一つがコイン投げである。コイン投げで決めるのは不合理のように思えるし、実際、間違った判断になる可能性もあるのだが、今回の場合は、どちらのコンビニを選んでも差が生じないので、判断を急ぐためには、コイン投げで決めるのが合理的な判断のようにも思える。

この本では、フランス中世後期の哲学者ジャン・ビュリダン作の「ビュリダンのロバ」がもとになっているとするが、合理的な考え方のビュリダンを批判する別人のものとする説もある。内容は、ロバが等距離にある干し草のどちらにも行けず餓死するという話である。

等距離かどうかを厳密に測定するのは簡単ではない。陸地は年々僅かながら動いているので、干し草の位置も僅かに移動しており、距離も時間と共に変動する。ただ、ビュリダンのロバの話では正確な距離など必要なく、ロバが等距離だと思っていれば、それで十分である。

ロバがどちらに行くかは、分かれ道に来た時の次の一歩が右足か左足かによるかも知れず、また、ロバの経験や好みによるかも知れないが、ロバにとっては餓死しない事が最優先であり、取り急ぎ、どちらかの道を選ぶのだろう。ロバは合理的な理由があって道を選んだのではないと思われるが、さりとて、自由意志で選んだと言える程でもなさそうである。

ロバがコンピュータによって動作するロボットだったとする。このコンピュータのプログラムの内容が合理的であれば、ロバの動作も合理的になる。ロバの電池が減ってきた時、一番近くの充電器に移動するようなプログラムになっていたとして、二カ所の充電器が等距離だった時にどう処理するか、書かれていなかったとすると、ロバのロボットはどちらにも行けず電池切れとなって、動作停止つまり餓死することになり、不合理な結果がもたらされることになる。この場合、正常に動作させるには、プログラムを修正する必要が生じる。

距離が等しい時、どちらを選んでも同じ結果が得られるので、人間ならば、気ままにどちらかを選べば良い事になるが、コンピュータの場合は気ままに選ぶことが出来ないので、どちらを選ぶかについての指示をプログラムに書いておく必要がある。ビュリダンのロバは現代にも通じる問題なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

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銀河鉄道の夜について考える

2020-08-28 17:32:07 | 私の本棚

NHKの100分de名著には、「銀河鉄道の夜」と「宮沢賢治スペシャル」の2回にわたって宮沢賢治が取り上げられている。賢治の童話はむかし読んだことがあるが、私の本棚にはすでに無い。そこで、100分de名著の別冊「宮沢賢治」を新たに本棚に加えることにし、「銀河鉄道の夜」については図書館で借りて読むことにした。「銀河鉄道の夜」は、ますむら・ひろしにより、原作の登場人物を猫の擬人化により表した漫画となったが、これをもとに杉井ギサブローが監督し細野晴臣が音楽を担当したアニメ映画が作られ、その内容が評価されて文部省特選の映画になっている。そのレーザーディスクを持っていたのだが、すでに処分してしまい、今はジャケットが残るだけである。

【書誌】

別冊NHK100分de名著・「集中講義・宮沢賢治」。山下聖美著。NHK出版。2018年。

宮沢賢治の五感は鋭敏で共感覚も有していたという。独特な表現もそのことに由来するのかも知れない。賢治の童話には分からないところがあるが、それは作者も承知していた事であり、いろいろな読み方が出来る点も魅力の一つになっている。「銀河鉄道の夜」は幻想文学に分類されることもあるが、小学生にも読める物語であり、童話に分類されることもある。分類はややこしいが、大人向けでもある児童文学といったところだろうか。

 

「銀河鉄道の夜」は、病床にあった宮沢賢治が四次稿に及ぶ改稿を行ったものの、未完のまま終わった作品である。残された草稿などをもとに、三次稿までを初期形、四次稿までを最終形として出版されているが、仮に賢治が病から回復していたとしたら、少なくとも五次稿までは改稿していた筈である。この作品については多くの文献があり様々な解釈がされているようだが、今回は自分なりの解釈で読んでみることにした。

 

この物語はケンタウル村で行われた銀河の祭での話になっている。ケンタウル村はケンタウルス座の見える南の場所のようだが、実在する地名ではなさそうである。物語の主人公ジョバンニの父親は北方に漁にでたまま、今も帰って来てはいなかった。ジョバンニは家が貧しく放課後には活版所で仕事をし、病身の母のいる家に行ったあと牛乳を取りに行き、牛乳の準備が出来るまで牧場の後ろの丘に上がる。その途中でクラスの皆と会った時、ザネリがジョバンニをからかい、皆もそれに同調する。ただ一人、親友のカムパネルラだけは、黙って気の毒そうにジョバンニを見ていた。ジョバンニは天気輪の柱の下で草に寝転んでしまうが、ここまでが物語の序になっている。汽車の音が聞こえてきたり、夜空が小さな林や牧場や野原のように見えたのは、既に夢の中だったからだろう。ジョバンニは星座図にも関心があったので、白鳥座の近くにある琴座を見つけたとしてもおかしくはない。ジョバンニはケンタウル村から、遥か北にある白鳥座の近くまで、夢の中で来ていた事になる。

 

宮沢賢治は岩手県花巻の生まれ。東京から先には行っていないので、ケンタウルス座は一部しか見ず、南十字星は見ていない。そして、この物語の主人公ジョバンニは、賢治に成り代わって、白鳥座の北から北十字星を経て南十字星へと、星座図による想像の旅をするのである。「銀河ステーション」という不思議な声が聞こえてくると、いつの間にかジョバンニは軽便鉄道の車内に居た。車内にはカムパネルラも乗っていて、ここからは二人で銀河鉄道の旅をすることになる。ジョバンニは汽車が石炭をたいていない事に気が付くが、カムパネルラはアルコールか電気だろうと言う。初期形ではここで、「銀河鉄道は蒸気や電気で動いているのではなく、動くようにきまっているから動く」という声が聞こえてくるのだが、この声は最終形ではカットされている。車窓からは様々な三角標が見えてくるが、未知の星を探す際に頼りとなる星や、星座を構成する星などは三角標になっているのかも知れない。星座図による旅では季節を決めなければならないが、カムパネルラが「りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねぇ」と言っていることや、白鳥の停車場の場面に、さわやかな秋の時計という記述がある事から、季節は立秋以降の8月か9月と思われる。

 

カムパネルラがいきなり「お母さんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」と言いだした。事情の分からないジョバンニは、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙色の三角標のあたりにいらっしゃって・・と思い、ぼんやりしてだまっていた。橙色の三角標とはケンタウルス座のα星の事と思われるので、ジョバンニはケンタウル村に居る母の事を考えていたのである。カムパネルラは「誰だって本当にいいことをしたら、いちばん幸なんだねぇ、お母さんは、ぼくをゆるして下さると思う」と言い、何か本当に決心したように見えたとある。

 

銀河鉄道は十字架に見立てた北十字星から南十字星へと向かうことになるが、キリスト教にかかわる内容が多くなっている。賢治は法華経の信者であったが、キリスト教にも関心があり調べてもいた。賢治は海外に関心があり、果たせはしなかったが海外渡航すら希望していたらしい。キリスト教の記述が多いのは、この作品で扱っているテーマが人類共通のものであり、この作品が世界中で読まれる事を希望していたからなのだろう。

 

列車は定刻かっきりに白鳥の停車場に到着する。ジョバンニとカムパネルラは20分の停車時間を利用して、プリオシン海岸に化石の発掘の様子を見に行き、定刻までに戻っている。プリオシンとは地質時代の鮮新世のことで、この物語では120万年前の事としている(現在では、地質時代の更新世(285万年前~1万年前)の前期から中期と考えられている)。賢治は北上川の河畔で足跡やクルミの化石を発見したことがあり、東北大の助教授を案内した事もあったが、その記憶が少し形を変えて銀河の上に再現されていると思われる。

 

白鳥の停車場からは鳥捕りと燈台守が同乗する。燈台守は渡り鳥が群れて灯りの前を通過したため、燈台の点滅の時間が変わったという苦情が来たと話しているが、実際にあったことかも知れない。それを受けてか、この物語では天の川の分岐点に櫓を立てて、渡り鳥の交通整理をするようになっている。アルビレオの観測所(はくちょう座のβ星という二重星)が見えてくると白鳥区も終りで、車掌が切符の確認に来る。カムパネルラは鼠色の切符を見せたが、ジョバンニはポケットから折りたたんだ緑色の紙を取り出した。車掌は「三次空間からお持ちになったのか」と聞き、鳥捕りはその切符を見て、幻想第四次の銀河鉄道ならどこまでも行ける切符だと驚く。三次空間とは時間が瞬間にしか存在しない現実の世界のことであり、幻想第四次とは時空を自由に通行できる幻想の世界のことで、亡くなった人に会えたり、過去に戻れたりする。また、瞬間移動も可能なようで、ジョバンニもプリオシン海岸から戻る時、風のように走りいつの間にか車内に戻っていた。鳥捕りはこの辺りで鳥を捕る商売をしていたが、一瞬にして車内から外に出て鳥を捕り、一瞬にして車内に戻っている。

 

銀河鉄道は鷲の停車場に近づく。気が付くと鳥捕りの姿はもう無かった。次に乗車して来たのは少女と少年を連れた青年で、青年は、ランカシャイヤ(イングランド西北部のランカシャー州か)か、コンネクテカット州(アメリカ合衆国北東部コネチカット州か)に来たのかと迷うが、天上の印に気付き、天へ行くことをさとる。1912年4月、イギリスのサウサンプトンを出航しニューヨークに向かったタイタニック号は、北大西洋で氷山と衝突して沈没した。賢治はその事を知っていたので、銀河鉄道の乗客に加える事にしたのだろう。鷲の停車場と北大西洋とは距離も離れており季節も違うのだが、幻想第四次ではその事は問題にならない。青年は家庭教師で、二人の子を助けるのが義務だと思っていたが、他の子を押しのけてまで助けることは出来なかった。ジョバンニは、遭難はパシフィックでの事と思ったらしく、太平洋の北の果てで働く人達の方に関心を寄せている。その後、燈台守がりんごを配り、この辺りでは農業もあるが、この先に進めば農業は無いという。この辺りは天上に至る道の中間に当たり、鳥捕りや燈台守は、未だ、この地に居続けることになるらしい。

 

やがて、川下の向こう岸に青く茂った橄欖の林が見えてくる。橄欖とはオリーブのことで、その実は熟すにつれて緑から赤に変わる。その林の辺りからは讃美歌も聞こえてくる。讃美歌を唄いながらオリーブ山に上がる情景が見えてくるようである。この先、列車は崖の上を走るようになり、とうもろこし畑の中を進んで小さな停車場に止まる。新世界交響曲が聞こえてくるのは、アメリカ合衆国に来たことを示していると思われる。場所はコロラドで、とうもろこしの撒き方や川までの高さが話の中に出てくるが、賢治がコロラドについて調べたことが元になっているのかも知れない。列車は出発すると急な下りになり、星の形とつるはしを描いた旗が見えてくる。工兵が架橋演習をしているらしく発破の音がすると書かれているが、賢治の記憶の中のものが、形を変えて銀河の上に現れているようにも思える。列車が南に向かうにつれて、南の星座に命が与えられて車窓に現れる。孔雀、インディアン、鶴、双子の星、サソリがそれである。

 

列車がケンタウル村を過ぎると、鷲の停車場から乗って来た青年と子供達は下車の準備を始める。ここで、こども達の間に本当の神様か嘘の神様かの言い争いが起きる。十字架が見えてくると程なく南十字の停車場となる。ここで青年と子供たちは下車して天上へと向かう。南十字を出発した列車の中でジョバンニは「本当の幸は一体何だろう」と問い、カムパネルラは「僕わからない」と答える。やがて天の川の中に大きな真っ黒い穴、石炭袋が見えてくる。石炭袋の存在は古くから知られていたが、ガスや塵によって背後の星が見えなくなる暗黒星雲と考えられるようになったのは後のことである。ジョバンニは何があるか分からない石炭袋を見ながらも、「暗闇でも怖くない。本当の幸を探しに一緒に行こうと」と誘い、カムパネルラも同意はするものの、人の集まっている野原の方が気になるらしく、「あそこが本当の天上だ。あそこにいるのは母さんだ」と答える。しかし、ジョバンニには何も見えない。そして、振り返るとカムパネルラの姿はもう無かった。

 

この後、初期形では次のような内容になっている。カムパネルラとの突然の別れに泣き出してしまったジョバンニに声をかけた人がいた。黒い帽子の大人で、カムパネルラは遠くに行ったので探しても無駄だと言い、それより、あらゆる人の一番の幸福を探しに行けという。そして、自分の切符をしっかり持って、一心に勉強しなければいけないと諭す。さらに続けて、信じる神様の違いや、考え方の違いがあっても、実験で本当の考えと嘘の考えを分けられるならば、信仰も化学も同じようになる。ただ、昔は正しいと思っていた事も、時代が変われば変わるので、難しいことではあると話す。そのあと、空を見上げて、あのプレシオス(プレアデス星団)の鎖を解かなければならないと話す。これは、ヨブ記の中でヨブに対するヤハウェ(神)の諭しの中に、“まとまりの悪いプレヤデス星団を締め付けたり、オリオン星座の鎖をゆるめる事が出来るか。”とある事に由来するのだろうが、鎖を解くというのは、どういう事なのかは分かりにくいが、この星団について科学的に本当のことを調べるということだろうか。ジョバンニはマジェラン星雲を烽火と考え、本当の幸福を探す覚悟をすることになる。ジョバンニはブルカニロ博士と会って、実験だったことを聞き、その後、目を覚ます。

最終形では上記の部分は削除されている。確かに、物語としては、その方がすっきりとまとまるように思われる。この物語では、ジョバンニが目を覚まし、丘の草の中で眠っていたことに気付くところから、現実の世界に戻ってくる。銀河鉄道のことは夢だったのだ。ジョバンニはとび起きて丘を下り牛乳を受け取る。それから家に帰る途中、カムパネルラが川に落ちたザネリを助けようとして溺れたことを知らされる。ジョバンニは本当の幸を共に探そうと思っていた親友を失ったことになったが、それでも、一つだけ良いことがあった。北方の漁に出たまま帰らなかった父親が、近く帰ってくるという話を聞いた事である。

 

「銀河鉄道の夜」では、みんなの幸と自己犠牲がテーマになっている。さそり座のアンタレスという赤色の星のことを蠍の火と呼び、蠍がみんなの幸のために自分の体を燃やして夜の闇を照らしているという話が、このテーマを表しているが、そんなに簡単な話ではないことを作者は分かっていたに違いない。カムパネルラはザネリが川に落ちたとき、自己犠牲などを意識していたら間に合わなかった筈で、咄嗟に飛びこんだのだろう。結果としてザネリは助かったが、カムパネルラは溺れて亡くなり「おっかさんは、ぼくを許してくださるだろうか」と、後悔をすることになった。しかし、「誰だって本当にいいことをしたら、いちばん幸なんだねぇ、お母さんは、ぼくをゆるして下さると思う」と考え直してもいる。沈没した船に乗っていた家庭教師の青年の話も自己犠牲がテーマになっているが、預かっていた二人の子を助けるのが義務だと思っていたにもかかわらず、他の子を押しのけてまで助けることはしなかった。それで良かったのかどうか。

ところで、賢治が療養中であった時、農民が肥料について相談に訪れることがあった。家人は病気だからと断ったが、賢治は起き上がって相談に応じていたという。仮に、その事で病状が悪化したとしても、賢治は自己犠牲とは思ってなかっただろう。もし、病だからと言って断っていたとしたら、その事をずっと後悔していたに違いない。

 

ところで、病床にあった宮沢賢治は、手元に「銀河鉄道の夜」の原稿を置き、推敲を続けていたものの完成には至らず、この原稿は私の迷いの跡だから適当に処分して下さいと伝えたという。賢治にとって、本当のことは何なのか、まだ答が見つからなかったのかも知れない。昭和8年9月、賢治は37年という短い一生を終えた。通夜の席での父親の言葉どおり、短い時間に激しく働いて、そして燃え尽きた、そんな生涯だった。

 

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五輪書

2020-07-24 08:55:51 | 私の本棚

一度は読んだ筈だが、その後は読まなくなった本が、私の本棚にはかなり残っている。その中の一冊が「五輪書」で、NHKの100分de名著に取り上げられているのを知り、探し出してみた。

【書誌】書名「五輪書」。教育社。宮本武蔵 原著。大河内昭爾 訳。

教育社新書(原本現代訳)。1980初版。1982第7刷。700円。

「五輪書」は宮本武蔵の最晩年の著書であり、兵法についての実践、実技の書である。密教では万物が地、水、火、風、空を拠り所として生じたとし、これを五輪と呼んでいるが、五輪書の名はこれに由来するようで、兵法のあらましを地の巻、二天一流の兵法を水の巻、戦いを火の巻、各流派の兵法を風の巻、兵法にこだわらぬ道を空の巻としている。武蔵がこの書を執筆した当時、戦乱の時代は終わっており、兵法の必要性は薄れていたと思われるが、それでも、武蔵は将来のために兵法の書を残しておく必要があると感じていたのかも知れない。この本は、武術について関心のある人にとっては、読むべき本ではあるのだろう。そして、多分、スポーツに携わる人にとっても。

 

この記事を書いているのは、2020年7月24日、スポーツの日。そして、オリンピックの開会式が開催される筈だった日である。オリンピックのことを五輪とも呼ぶが、オリンピックのシンボルマークが五つの輪を用いている事に由来する。五輪という言葉は戦前の東京オリンピック招致の際に、新聞記者が考え出した略語で、雑誌に載っていた宮本武蔵の五輪書の記事を読んだことが決め手になったという。ただ、1940年に開催予定だった東京オリンピックは、戦争のため中止になってしまっている。そして今、ゲリラ戦法を仕掛けるウィルスとの戦いに、まだ終りが見えない。1度あった事が2度ある可能性は低いと信じて、当面は戦いの行方を見守るしかない。

 

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100の思考実験

2020-06-15 20:48:48 | 私の本棚

私の本棚の中に読みかけのままになっていた本があった。「100の思考実験」がそれで、今回一通り読んでみた。思考実験とは頭の中だけで想像する実験のことで、哲学や科学に関するものが多いが、この本では一般向けに具体的な内容の100の思考実験が取り上げられている。思考実験は実際には試せないことも試せる利点があり、複雑な要因を取り除いて問題の本質を見極める上で役に立つ方法でもある。この本は、読者に考えさせることを目的としており、100の思考実験について、問題の提示に続けて、考える上で参考となる事柄を解説として記しているが、正解は記されていない。

【書誌】

書名「100の思考実験」。著者 ジュリアン・バジーニ。訳者 向井和美。

発行 紀伊国屋書店。 2012年3月30日。第2刷発行。 

【読後感】

この本は、思考実験について具体的な事例をあげて説明しているので、読むだけなら、ページ数の割に時間がかからないかも知れない。ただ、個々の思考実験について考えるという事になると、そう簡単ではない。本の内容については、個人的に違和感のあるところも無いではないが、各章は独立しているので、興味の無い章は飛ばせばいいのだろう。それでも、考えるには時間がかかりそうである。とりあえず、100の中から思考実験を3件選び、その問題及び解説の要点を記すとともに、個人的なコメントを付記することにした。

 

1.自動政府

(1)問題

「コンピュータが経済を運営することで、経済成長は着実で物価は安定し失業率も低いままとなった。したがって、次の大統領には、全ての決断をコンピュータにゆだねるとした人物が選ばれる筈である。コンピュータが政治を行えば、政治家の質も大幅に向上する。」

(2)解説

「政治の最終目標は人間が指示することになるが、どのような目標を選ぶかは、そう簡単ではない。さらに、何が最善の目標かまでもコンピュータが決めるようになれば、政治家も不要となる。しかし、それは、はるかに難しいことである。」

(2)コメント

グローバル化が進み、世の中が多様化し、現状をまともに把握する事が難しくなっている時代、膨大なデータをもとに実情をより正しく掌握し、様々の政策案に対してシミュレションを行ってくれるコンピュータがあれば、政府もよりまともな政策を実行できるようになるのかも知れない。将来、理想的な政府が実現するか、独裁国家が登場するかは分からないが。

 

AIの世界的権威であるベンゲーツェルは、AIの政治への活用についての質問に答えて、いつの日か善良なAI政治家が生まれる可能性があるとし、人間は時に危険な社会を作ることがあるが、AIは物事をうまくコントロールして人間を助けてくれ、より安全な社会の仕組みを作るのに役立つと答えている(WIRED・AI特集)。AIを推進してきた人物がAIの将来に夢を抱くのは分からないでもないが、楽観的過ぎるような気もする。

 

ホーキングは、AIの潜在的恩恵は大きいとしながらも、人間を超えるAIが、人類の意思と対立する意思を持つようになれば、人類はAIに太刀打ちできず、危険を回避する方法を持たない限り、人類は終りを迎えるとしている(ホーキング「ビッグ・クエスチョン」)。人間には不合理なところがあるが、それが人間らしい点でもあり、合理的な判断をするAIとは相いれないことが起きる可能性がある。たとえば、地球に永遠の平和をもたらす事が正義だとすれば、AIが人類を滅亡させるかも知れないのだ。

 

2.好都合な銀行のエラー

(1)問題

「ATMで100ポンドおろしたら1万ポンド紙幣が出てきた。銀行口座の引落額は100ポンドになっていて、銀行からの電話もなかったので、1万ポンドは自分の懐に入れた。」

(2)解説

「小さな店で釣銭を多く受け取ったら返すが、1万ポンドは銀行にとって小さな損失に過ぎないので返さなくても良いと考えてしまう(自分に都合の良い考えに傾いてしまう)。」

(3)コメント

中学生の頃だったか、近所の本屋で雑誌を買い、帰宅してから釣銭が多い事に気付いて返しに行ったことがある。ただ、電車に乗って行くような本屋だったら、そのままにしていたかも知れない。ある時、銀行の窓口で多少まとまった金をおろしたことがあった。外に出て歩いていると、銀行の人が追いかけてきた。紙幣が1枚落ちていたというのである。こんな事は初めてだった。一方、紙幣が余分に入っていた事は、これまで無かったと思う、多分。仮に、ATMで1万円下ろした筈が機械のミスで100万円出てきたらどうするか。とりあえず、銀行に電話するだろう。遺失物扱いになって、晴れて自分のものになる事を期待して。

 

3.わたしを食べてとブタに言われたら

(1)問題

「信念から肉を食べなかったベジタリアンが祝宴の席でやっと肉を食べられる事になった。その肉は遺伝子操作で話すことが出来、人間に食べられることを望んでいた豚の肉だった。」

(2)解説

「動物を育てて殺すのは間違いだとする主張には、飼育環境の悪さのほか、殺す行為への反感もある。言葉を話す動物を食べるのはたじろぐとしても、除脳した動物ならどうなのか。」

(3)コメント

「100の思考実験」の原著のタイトルは「食べられる事を望む豚ほか99の思考実験」であり、タイトルにつられて本を購入した人もいるかも知れない。この思考実験は、SF(アダムス「宇宙の果てのレストラン」)に出てくるもので、品種改良の結果として人に食べてほしいと願い、それを言葉で言えるようになったウシ型動物の話が元になっている。人間は、植物については抵抗なく食の対象とするのだろうが、人間と同じように言葉を話す動物を食べる事は、生理的に受け付けにくいのかも知れない。

 

何を食の対象とするかは、宗教上のほか地域や時代によっても異なるので、一律に論じることは出来ない。また、動物の尊厳についても考え方の違いは残るだろう。今後、培養肉や植物肉が一般に提供されるようになったとすれば、ベジタリアンも安心して肉の味を楽しめるようになるかも知れないが、自然を変えることが許されるかという問題は残ってしまう。食についての思考実験としては、複雑な要因が残ったままなので、例えば次のような思考実験に変えてみたらどうだろう。「あなたは、宗教上の理由もあって、これまで肉食をしなかった。会食の時、培養肉と植物肉が出されたが、あなたならどうする。」

 

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テレワーキング革命

2020-05-12 19:32:47 | 私の本棚

近頃、テレワーク(テレワーキング)という言葉をよく聞くようになった。そこで本棚の中を探してみたら、「テレワーキング革命」という本が置き去りになっていた。昭和の終わり頃に入手した本が、まだ捨てられずに残っていたのである。

【書誌】

書名「テレワーキング革命」。大沢光著。日本実業出版社。昭和63年8月初版。

この本では勤務の形を5つのパターンに分けている。

①セントラル・オフィス通勤型(テレワークではない)

②サテライト・オフィス通勤型(通勤時間は短くなる)

③サテライト・オフィス通勤/在宅勤務併用型

④在宅勤務型

⑤オフィスレス勤務(セールスマンなど外勤者。顧客先などに直行し直帰。モバイルワーク)

この本が出版された昭和63年(1988)、インターネットはまだ無かったが、文字を送受信するパソコン通信は存在し、メールボックス、電子掲示板、チャットのほか、リアルタイムではないが電子会議も行えた。このほか、ファクシミリもあった。テレビ会議が試験的に行われたのは1970年代のことで、例えば電電公社が東京と大阪の間で行った画面分割並列表示によるカラーのTV会議がそれに該当する。1984年にはTV会議システムのサービスが開始されたが、費用的な面もあり一部で利用されるにとどまっていた。携帯電話は登場していたが当時は重く大きかったため、外出時にはポケベルが利用されていた。平成になってからだったと思うが、職場で在宅勤務を提案する人が居た。しかし、部外秘の資料を持ち出す必要があったため、採用にはならなかった。

それから30余年が経過し、TV会議より簡易なWeb会議も登場して、テレワークは導入しやすくなった。テレワークの導入にはメリットとデメリットがあるが、上記の本を参考に、在宅勤務型の場合について、主なメリットとデメリットをまとめてみた。

1.会社側のメリット

(1)オフィス(中央)の社員を少なくできるので、オフィスを広くする必要が無く費用が削減される。

(2)オフィス(中央)に通勤する社員が少なければ、通勤費補助が少なくて済む。

(3)オフィス(中央)の社員が少なければ、庶務総務などサービス部門の人員も削減が可能。

(4)在宅が必要な女性や身障者など通勤が困難な人も雇用しやすい。

2.働く側のメリット

(1)通勤の必要が無いので余裕ができる。個人の自由時間が増える。

(2)会社から遠い場所に、安くて広い自宅を持つことが出来る。

3.会社側のデメリット

(1)社員の仕事や服務の管理がしにくい。ただし、テレワークを導入するのであれば、主観的な評価から、成果や結果などの客観的な評価に変える必要がある。

(2)セキュリティ上の問題が生じることがある。

(3)社員同士の付き合いが薄くなり、会社全体としてのまとまりがなくなる。

4.働く側のデメリット

(1)他の社員との、きめ細かいコミュニケーションが行えない。

(2)自宅に仕事場のスペースを確保するのが難しいことがある。

(3)家族との関係に問題が生じやすい。

 

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えんぴつで奥の細道

2018-09-29 08:47:58 | 私の本棚

ある日、芭蕉の代表作である「おくのほそ道」が読めて、鉛筆による習字もできるという一石二鳥の本を見つけ、さっそく買い求めた。しかし、事情があって習字は中断されたままになり、本も積んでおかれることになった。今回、100分de名著の中に「おくのほそ道」が含まれている事を知り、積んでおいた本を本棚から取り出してみた。

【書誌】

書名「えんぴつで奥の細道」。ポプラ社。書:大迫閑歩書。監修:伊藤洋。

2006年発行。 原著:芭蕉「おくのほそ道」。

この本は、「おくのほそ道」の全文と、その文字を薄くして鉛筆でなぞれるようにした文とがあり、それに加えて、現代語訳と注釈がつけられているので、鉛筆でなぞりながら、「おくのほそ道」をじっくりと読むことが出来る。「えんぴつで奥の細道」は途中までしか読んでいなかったため、通して読むのは今回が初めてということになる。

芭蕉の「おくのほそ道」の旅は、江戸の千住に始まり、各地の俳人たちの助けも借りて大垣に至る、半年近くの長旅となる。この旅において芭蕉は、「不易流行」という俳諧の理念を生み出し、さらに「軽み」の理念も考えるようになったという。100分de名著のテキストでは、「不易流行」と「軽み」は芭蕉の人生観、宇宙観でもあったとしている。

「おくのほそ道」は文学作品であり、事実とは異なる記述も見受けられる。実際の芭蕉の旅がどうであったかは、同行した曽良の旅日記により、ある程度は分かるが、これについては、別の機会に取り上げることにしたい。

 ところで、“えんぴつで”という「なぞり本」のシリーズは他にも出ており、その中には100分de名著で取り上げられている、「徒然草」「枕草子」「方丈記」「般若心経」「菜根譚」「老子荘子」などの著作も含まれている。これらの本を100分de名著のテキストと組み合わせれば、名著の内容をより理解できるようにもなるだろう。ただ、なぞり本の場合は、図書館で借りるわけにはいかない。そのうえ、鉛筆で書いたものを消せば、また習字に使えるので、読み終わったあと処分するのは勿体ない。それ故、なぞり本を購入する場合は、本棚が溢れてしまうことがないよう、不要な本は処分することも必要になる。

 

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古事記

2018-09-26 19:05:21 | 私の本棚

今回は、NHKの100分de名著のうち、「古事記」を取り上げる。私の本棚にも、次のような「古事記」の本がある。

【書誌】

書名「古事記・日本書紀」。日本古典文庫1。福永武彦訳。

河出書房新社。昭和51年初版。昭和55年七版。¥1200。

高校の音楽の時間に作曲の宿題が出たことがあった。伴奏付の曲は作れそうにないので、何かの詩に適当なメロディを付けて出そうと思い、詩を探していたところ、たまたま古事記のヤマトタケルの物語の中に歌を見つけ、幾つかを選んでメロディを付けて提出した。当時は和歌を歌詞に選ぶ人が居なかったらしく、そのせいか平均点より少し高い点を貰ったような記憶がある。ただ、どんなメロディだったかは、すでに記憶のうちにない。

昭和54年(1979)、古事記を編纂した太安万侶の墓が発見されるということがあり、遥か遠い昔の話に過ぎなかった古事記の世界が、ある日突然、身近な存在になったような気がした。それからは、古代についても少しは関心を持つようになったが、古事記を通して読んでみようと思ったのは、その翌年のことである。

 ヤマトタケルの物語について、古事記と日本書紀の内容を比べてみた。古事記では、ヤマトタケルが兄を殺した事を知った天皇が、行く末を案じて西国の熊襲討伐に向かわせたとあり、さらに、西国から戻ったばかりで直ぐ東国の征伐を命じられたヤマトタケルが、伊勢大神宮の斎宮であった叔母に「天皇は私のことを早く死ねばいいと思っている」と話して泣いたと記されている。一方、日本書紀にはこのような記載はなく、天皇はヤマトタケルの手柄をほめたと書かれている。また、古事記にはヤマトタケルがイヅモタケルを騙し討ちにした話が載っているが日本書紀には無い。ほぼ同じ時代に内容の異なる古事記と日本書紀が編纂され、かつ存続したのは何故なのだろう。日本書紀は正史として尊重されただろうが、それでも、多くの人が古事記を好んでいたのかも知れない。

古事記には万葉仮名のような表記も使われている事から、語り継がれた物語と考えられている。このような伝承は、時が経てば失われたり、変容したりする。時には別の伝承が紛れ込むこともあり、イヅモタケルの話もそうした話かも知れない。複数の人物による業績がヤマトタケル一人の業績に集約されれば、記憶されやすく伝承として残りやすいという事もあるのだろう。それにしても、古事記のヤマトタケルの物語は良くできた歴史物語である。様々な伝承をもとに必要なら補って、感動的な英雄の悲劇としてまとめ上げた、そんな作者が後世に存在したのではないかとさえ思わせる。

 

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カフカ「変身」

2018-07-21 16:37:42 | 私の本棚

むかし読んだことのあるカフカの「変身」が、100分de名著の一つに入っていることを知り、私の本棚では今や最古参になっているかも知れぬ、その本を探し出してみた。本の裏表紙にインクで書かれていた自分の名前が妙に懐かしかった。

【書誌】

書名「審判・変身・流刑地にて」。現代世界文学全集7。カフカ著。

大山定一ほか訳。新潮社。1954発行。¥350。

この本には、カフカの作品である、「審判」「観察」「変身」「兄弟殺し」「流刑地にて」「断食行者」「支那の長城がきずかれたとき」「橋」「或る犬の回想」が収められているが、「変身」以外の作品の内容は覚えていない。「変身」は、家族を養うために働いていた主人公が、こんな仕事は辞めてやろうと思ったのがきっかけで、虫に変身してしまい、家族からも見捨てられるという話だが、この小説を最初に読んだ時には、死んだ主人公を虫として処分したあと家族が久しぶりに出かけ、今後の生活について話し合うラストが大事なのだろうと思っていた。この本にはカフカの作品についての解説もあるのだが、当時は、この解説を読まなかったかも知れない。

今回はまず、 この本の解説を読んでみた。この解説では「変身」の主人公が虫に変身した理由について、次のような説明をしている。“現代社会は人間を職業人という歯車の一つとして扱っている。人間が自己自身であることは許されていない。これは掟であり、仕事を辞めてやると思った主人公は、掟破りの罪人として、虫けらのように締め出されてしまう”。カフカは、存在するとは所属する事だと考えていたが、掟を守らなければ社会への所属は許されず、人間として存在すること自体も否定されることになる。

カフカの小説には明瞭なテーマが無さそうに思える。そのせいかどうか、カフカの小説は様々に解釈されているらしい。多様な解釈が可能であれば、その小説は時代や地域を越えて読まれることが容易になる。たとえば「変身」を、現在の日本の状況に合わせて、介護される側と家族、引きこもる側と家族の物語として読むことも出来るだろう。ただ、この小説には救いが無い。カフカは始まりであり、答はもう少し先にあるのかも知れない。

「変身」の主人公とその家族は、カフカとその家族の投影のようになっている。無論、カフカが引きこもり状態になったわけではなく、虫に変身する訳も無いのだが、カフカの書いていた私小説が、人間が虫に変身すると言う着想を得たことで、普通の小説に変化したようにも思えてくる。カフカは繊細で責任感も強かったという。恐らくはストレスもかかえていただろう。ひょっとすると、小説を書く事でストレスを解消していたのかも知れないが。

この本に収められている「観察」はカフカの初期の小品集だが、内容はほとんど忘れていたので再読してみた。この作品は、日ごろ観察したものをかなり変容させたうえで、散文詩のような形にしたものだが、日記の類をブログで公開する際に、個人に関わる部分を出さないようにする場合の範例としても使えそうで興味深かった。

 

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レム「ソラリス」(ソラリスの陽のもとに)

2018-07-15 12:49:59 | 私の本棚

図書館の雑誌コーナーを見ていて、ソラリスという見出しに気が付いた。手に取ってみると、“100分de名著”というNHKの特番のテキストだった。放映は既に終わっていたので、とりあえずテキストを一読したあと、自宅の本棚の片隅に長らく放置されていた文庫本の「ソラリスの陽のもとに」(ロシア語版からの翻訳を後に改版したもの)を探し出して、久しぶりに読んでみた。あらすじについては未だ記憶に残っていたが、個々の文章については、始めて見るような気がした。

 100分de名著のテキストは分かりやすく簡潔に書かれている。ただ、古いテキストの中には品切れのものもある。

【書誌】

書名「ソラリスの陽のもとに」。ハヤカワ文庫SF。早川書房。

スタニスワフ・レム著。飯田規和訳。1979年七刷(1977出版)。¥360。

 

ポーランド語による「ソラリス」が出版されたのは1961年。スターリン死後の雪どけの時代になってからで、この年にはガガーリンが人類初めての宇宙飛行を成し遂げており、宇宙に対する関心が高まった時期でもあった。レムはロシア語版への序文において、人類は宇宙に飛び立とうとしているが、宇宙は地球とは似ても似つかぬ現象で満ちていると思うとし、「ソラリス」を予想や仮定や期待を超えた未知のものと、人類との遭遇のモデルケースの一つとして書いたとしている。

 この小説には、未知の惑星ソラリスについての学問とその歴史について、実際にそのような学問があったかのように、詳細な記述がなされている。多少煩わしいところもあるが、作者が造り上げた仮想の学問なので、理解しようと思わずにそのまま読むしかないのだろう。この小説で多くのページが割かれているのは、ソラリスの海が人の心の内を探って造りだした、“お客さん(人間のそっくりさん)”に関わる話だが、中でもクリスとハリーの物語には心を動かされるところがある。この小説の最後の章では、当時のソ連では使う事がはばかれたという神という言葉が、ソラリスの海に対して使われているが、何故そうしたのか少々気にはなる。

 ソ連の映画監督タルコフスキー(1932-1986)は、この作品を「惑星ソラリス」として1972年に映画化している。タルコフスキーはドストエフスキーの作品の映画化など幾つかの企画を持っていたが、国家映画委員会によって次々と却下され、残ったのは青少年向けの無害な作品と思われていたSF映画(ソラリス)だけだった。タルコフスキーは地球でのシーンを主体とするシナリオを書いたが、これにはレムが反発した(「タルコフスキーの世界」による)。結局、小説の大筋を変えないということで折り合いがついたが、出来上がった映画にはレムの作品に無いものが持ち込まれていたため、レムとタルコフスキーは喧嘩別れすることになった。「惑星ソラリス」は、以前、映画館で見たことがあり、未来都市の設定で日本の高速道路が使用されている事に驚いた記憶があるが、このシーンはレムの小説には無いものである。また、この映画のラストは、主人公の父親の家のシーンになっているが、これもレムの小説には無い。ただ、映画の最後を、レムの小説に沿った映像にしていたら、映画的には、盛り上がりの無いラストになっていた気もする。

 私の本棚には、他のレムの作品として「泰平ヨンの航星日記」「枯草熱」「すばらしきレムの世界2」の三冊があるが、いつか再読することにして、今回は取り上げない。

 

 

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