夢七雑録

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音羽富士と白山富士

2016-10-29 09:31:52 | 富士塚めぐり

(1)音羽富士

音羽富士と呼ばれる富士塚は、有楽町線護国寺駅直ぐの護国寺の中にある。護国寺の仁王門を入り正面の石段に向かって進むと、境内案内図には記されていないが、石段の右方に鳥居が見えてくる。寺院には珍しい富士浅間神社・音羽富士の鳥居だが、この富士塚に登るのは後回しにして、石段を上がり不老門をくぐって護国寺の本堂に行き、参拝を済ませる。

本堂の裏手にある、西国三十三所写の標柱を見に行く。江戸時代の音羽富士は、護国寺本堂の西側、西国三十三ケ所の札所を再現した場所にあった。この標柱の銘に寛政3年(1791)とある事から、西国三十三所写は、この頃には概ね完成していたと思われる。この場所は、明治になって陸軍の埋葬所となったため、西国三十三所写は消滅し、本堂の裏手に標柱を残すのみになっている。

「護持院日記」の文化14年(1817)6月10日の項に、“富士山再建に付き開元之儀を願い出候に付き・・”とあるので、文化14年に富士塚が築かれたと考えられる。「江戸名所図会」の挿絵によると、西国三十三所写は、西に向かって傾斜している土地を造成して、一番から三十三番に至る札所の堂宇を各所に配置していた。挿絵には、傾斜地の少し下の方に、独立した塚として富士塚が描かれているが、恐らくは富士山を遥拝できる高さがあったと思われる。

音羽富士は、明治18年に西国三十三所写の場所から現在地に移され、再築される。築いたのは、身禄の直弟子である藤四郎が開いた丸藤講の枝講、丸護講で、富士塚の高さは6m。斜面を利用して築かれている。鳥居の前には橋があるが池があったのだろう。富士塚の前に池を設けるのは、下谷坂本や千駄ヶ谷の富士塚にも例がある。

鳥居をくぐって先に進むと、土留めのため丸石を積んだ場所があり、ここが一合目となる。合目石には文化14年の銘があるので、江戸時代の音羽富士にあったものを移したと思われる。ただ、講紋が丸護講とは異なるように見える。調べた範囲では、この紋に近いのは丸藤講のようだが、江戸時代の音羽富士は丸藤講が築造に関わったのだろうか。

丸石の石段を上がると胎内のような洞があり、中に木花咲耶姫の像が刻まれた石板がある。昭和2年とあるので新しいものである。音羽富士には石造物が多いが、江戸時代の音羽富士から移したものと、明治の再築後に立てられたものが混在している。

この富士塚は平成元年に修復されているので、さほど荒れたところは無い。石造物を一つ一つ見て回るのは省略し、ジグザグの登山路を適当に選んで一気に頂上に上がると、奥宮があった。平成の改修の際に造られたものらしい。山頂の周辺を見ると、大師堂に続く踏み跡のようなものが見える。昔は頂上と大師堂の間を苦も無く行き来できたに違いない。しかし、今はフェンスによって遮られているので、足元に注意しながら、もと来た道を戻る。

 

(2)白山富士

白山富士と呼ばれる富士塚は、三田線白山駅から近い白山神社にある。白山神社の本殿と社務所の間を通り、渡り廊下をくぐると、右側に富士塚があり浅間神社の鳥居がある。しかし、6月中頃の“文京あじさいまつり”の時以外は、入ることが出来ないので外から眺める。

見上げると頂上に祠が見える。以前、あじさいまつりの時に入った事はあるが、鳥居をくぐり紫陽花の中を上り、祠に頭を下げて、紫陽花の中を下って、そのまま外に出たという記憶しかない。富士塚というより、紫陽花の丘という印象であった。

東側から富士塚を眺めるべく、社務所の東側の道を入る。確かに、この辺りからは富士塚らしい姿に見える。富士塚に付きものの富士講の石碑も、社務所の東側にある。上の写真は丸白講の石碑で文政5年(1822)の銘がある。この石碑から丸白講は指ケ谷壱二丁目と南片町による地元の富士講だったことも分かる。「寺社書上」によると、この塚には昔から小さな祠があったが、文化13年(1816)に、富士信仰の人たちが高さ三丈の山の上に富士浅間大明神の石祠を安置したという。大正時代の調査では古墳があったと判断されているので、白山富士は古墳を利用して築かれたと思われる。ただし、丸白講が富士塚の築造に関わっていたかどうかは分からない。

社務所の東側には、上の写真に示す山水講の石碑もあった。山水講は木更津の人が始めた千葉県の富士講である。明治後期の「東京年中行事」によると、白山の富士神社祭では、山水講による拝みも行われており、山水講が富士神社祭を仕切っていたようである。どのような縁があったのだろうか。明治時代の富士神社祭では、露店や見世物が多数出ていたとあり、参詣客も多く富士塚も健在だったと思われるが、大正時代にはかなり崩れていたらしい。現在の富士塚が当初の姿をどの程度残しているかは分からないが、それはそれとして、昭和60年頃から始まった“あじさいまつり”では、見所の一つになっている。

 

<参考資料>「富士塚考続」「江戸の新興宗教」「富士信仰と富士塚」「日本常民文化研究所調査報告2、4」「江戸名所図会」「ご近所富士山の謎」「東京名所図会・小石川区之部」「寺社書上」「東京年中行事」

 

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鳩森八幡の千駄ヶ谷富士

2016-10-19 18:09:45 | 富士塚めぐり

千駄ヶ谷駅から300mほど南に行った所に鳩森八幡神社があり、その境内に千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚がある。高さ6m径25m。関東大震災後に修復されているが、旧態を留めていて、都内に現存する富士塚の中では最古のものとして、都指定の有形民俗文化財になっている。登山路は幾つかあるようだが、鳥居のある場所を正面とみなし、ここから入る。

参明藤開山の碑に導かれて登山路を上がる。自然石を階段状に並べた道で、手すりもあって歩きやすい。この富士塚は土を円墳状に積み上げ、全体をクマザサで被っている。他の草も茂っているが目障りではない。先ずは、くの字状の急坂を上がって頂上を目指す。

頂上には黒ボク石に囲まれた奥宮がある。その周囲には、富士山頂の名所である、金明水、銀明水、釈迦の割れ石(釈迦ヶ岳の割れ石)が設えられている。頂上からは、神社の境内が見わたせる程度だが、昔はもっと眺めが良かった筈で、富士山を遥拝する事も出来たと思われる。

頂上から下を見ると里宮があった。本来は里宮を参拝するのが先で、順序が逆になってしまったが、一旦下って浅間神社里宮を参拝し、それから改めて富士塚をめぐってみる。途中、小御岳石尊大権現の石碑があったが、ここが五合目という事になるのだろう。先に進むと、七合目に当たる烏帽子岩と身禄の像があった。

江戸時代の中頃、富士信仰の行者であった身禄が、富士山の烏帽子岩で断食し入定したあと、その教えが江戸を中心として庶民の間に急速に広まり、身禄派の富士信仰の団体である富士講が数多く結成され、この富士講による富士塚が各地に築かれる。千駄ヶ谷富士を築いた烏帽子岩講もそうした富士講の一つで、千駄ヶ谷を拠点にしていたらしい。

富士塚を下りて、千駄ヶ谷の富士塚の図を見る。この図によると、登山口は三カ所あるようだが、今回は右側の登山口の道は歩いていないので、途中の石造物は見ていない。そのほか、亀岩や須走りも見落としているが、それはまたの機会ということにしたい。千駄ヶ谷富士の前面には池があるが、富士塚を築くための土を掘ったあとを池にしたという。大名庭園でも池を掘った時の土で築山を造っているので、それと同じ事である。下谷坂本富士も、昔は池があったそうで、掘ったあとを池にしていたようである。なお、高田富士のように古墳を崩して富士塚を築いたり、また、斜面地を利用して築いている事例も少なくない。

「江戸名所図会」の千駄ヶ谷八幡宮という挿絵に、千駄ヶ谷富士も描かれている。現在の富士塚と少し違うようにも見えるが、長年の間に多少の変化はあり得るのだろう。鳩森八幡(千駄ヶ谷八幡)の表門の前の通りは、鎌倉路と呼ばれる古くからの道で、江戸時代にこの道を通る人からは、千駄ヶ谷富士は目立つ存在であったと思われる。

 千駄ヶ谷富士は小御岳石尊大権現の銘から、寛政元年(1789)の築造と考えられているが、水盤や石灯篭や狛犬の銘に享保とある事から享保の築造とする説もある。「寺社書上」には、八幡宮に奉納された狛犬(石獅子)が後に移されたとあり、水盤や石灯篭も他から移されている可能性があるので、築造年代の決め手にはならないだろう。また、富士浅間築山については、天正年間とあるが確かではないとし、神体は富士山形の石と記しているが、万治3年(1660)の「古縁起写」に、天正年間(1573~1592)に富士峰を築いたとあるので、万治3年には富士塚が存在していた可能性がある。さらに、寺社の縁起は変更される事もあるが、富士塚の有無のような事柄は三世代ぐらいはまともに伝わると思われるので、天正年間の築造もあり得ると考えられる。万治3年以前の富士塚は、身禄派の富士塚ではないが、中世にも富士塚が存在していた事は知られており、神体が富士の形の石だとすると富士信仰に関わる塚と考えられる。例えば、富士山南麓の村山を拠点とする修験道、村山修験に関わりがあるのかも知れない。富士塚は改修される事があり、大きさや形、石造物も変わる。時には場所を移動する再築のような事もあり得る。江戸時代の中頃、千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡)にあった富士塚が、身禄派の富士講によって改修または再築された可能性もあるのではないか。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「寺社書上」「富士塚考」「富士山文化」「ご近所富士山の謎」「江戸名所図会」

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練馬の富士塚めぐり

2016-10-08 13:18:47 | 富士塚めぐり

練馬区に現存する富士塚は5カ所で、そのうち江古田富士は投稿済み、もう1カ所は個人の邸内にあるので除外し、残りの3カ所、八坂神社境内の大泉富士(中里富士)、大松氷川神社の富士塚、下練馬の富士塚をめぐる。何れも練馬区の有形民俗文化財に指定されている。

 (1)大泉富士(中里富士)

大江戸線の光が丘駅から西に向かい、高松六の交差点で笹目通りを渡る。ここから土支田通りまでは、大江戸線の延伸計画と関連する補助230号線の通行が可能になっているので、南側の旧道(長久保道)は次の機会にして、今回は補助230号線の方を選ぶ。市街化される前の風景を楽しみながら歩いていくと、途中に新駅の予定地があった。大江戸線の延伸により、土支田、大泉町、大泉学園町の3駅(何れも仮称)が設置されるという事だが、ここには、土支田駅ができるらしい。この辺りは田柄用水が流れていた低地で、この先は少し上り坂になる。さらに進むと土支田通りに出るが、この先の補助230号線の開通は先のことなので、信号を渡って右に行き、次の信号で左に入る。この道は旧道(長久保道)の続きで、少し先で右に下っていくと、坂の下に長久保道の説明版がある。白子川を別荘橋で渡って左に行くと、右側に八坂神社の参道がある。光が丘からここまでは少し遠いが、大江戸線が延伸されれば、大泉町が最寄り駅になるので、距離はかなり短縮される。

参道を進み2番目の鳥居の手前を右に入ると、八坂神社の末社、富士浅間神社の鳥居があり、その先に富士塚がある。現地の説明板によると、南側からの高さ12m直径30mの大規模な富士塚という。大泉富士は、麓に近い部分に植栽を、頂上に近い部分に黒ボク石を置いて、富士山の姿を巧みに写している。北側の比高は低いので、南向きの斜面を崩して築いたのだろうか。この富士塚は明治の初めに築かれたと伝えられているが、文政5年(1822)の富士仙元浅間大神の石碑があるので、すでに原形があったと考えられている。富士塚の改修は珍しい事ではなく、明治7年の石造物が多く丸吉講の碑も多い事から、明治7年に丸吉講という富士講により大規模な改修が行われ、ほぼ現在の形になったという事かも知れない。

大泉富士は石造物が多いことが特徴であり、現存しないものも含め富士山の社寺や名所を対象とした、数多くの石造物が置かれている。鈴原社、御室浅間社、役行者、秋葉社、大黒神、御座石、不二森稲荷、小御岳社、泉が滝、大澤、経ケ岳、宝永山、烏帽子岩、聖徳太子、日ノ御子、龍王を守る亀岩、薬師ヶ岳、駒ヶ岳、馬背、剣ヶ峰、浅間大神と頂上石宮がそれで、他に道祖神まで置かれている。富士講の碑が多いのはよくある事だが、この富士塚には詩歌の碑まで置かれている。これらの石造物を見て回るのも良いのだろうが、今回は割愛し、ついでに御胎内を探すのも取り止めて、ひたすら山頂を目指す。

この富士塚は8月の山開きの際に清掃されているそうで、草木が繁茂して煩わしい場所も少ない方かも知れない。ジグザグの登路は歩きやすく整備されているので、割と容易に頂上に達する事が出来る。山頂には奥宮と思われる祠が中央にあり、それを囲むように馬背、剣ヶ峰、駒ヶ岳の石造物が配置されている。

頂上からは南方と東方に展望が開けているが、西側の展望は神社の森に妨げられている。富士山を遥拝することは出来ないかも知れない。富士塚を下りて、改めて八坂神社に参拝したあと土支田通りに戻り、道幅の割に交通量の多い道を東に向かう。やがて、この道は都県境界となり、笹目通りを過ぎると程なく光が丘公園につきあたる。江戸時代、土支田通りは江戸道と呼ばれ、この先を直進し川越街道に合流して江戸に出る主要道であったが、現在は光が丘公園により分断されている。公園内を通り抜け川越街道を歩いて地下鉄赤塚駅に出る。

 

(2)氷川神社の富士塚

地下鉄赤塚駅から川越街道を東に、右側の歩道を歩く。歩道橋の先、二つ目の角を右に入り直ぐ左の道に入ると、前方に氷川神社の森が見えて来る。大松の氷川様と呼ばれた神社で、参道の石段の横に、斜面を利用した富士塚がある。この富士塚は、鳥居、植栽、石碑などを配し、塚に登る道を設けて、小ぶりながら富士塚らしい姿になっている。

富士塚の高さは4m。築いたのは丸吉講で、頂上の石祠の台座に天保6年(1835)再建の銘がある事から、それ以前の築造と考えられている。参拝を終え、氷川神社の参道を南に出て左へ、突き当りを右に、その先の丁字路を左に進んで川越街道に出る。これを渡り直進すると、やがて道は右に曲がっていき、旧川越街道に出る。

 

(3)下練馬富士塚

旧川越街道を東に向かうと、左側に北町上宿公園がある。下練馬宿のうち上宿があった事に因んでの名称という。この辺りから次第に商店街らしくなり、東武練馬駅への道を左に分けると道はゆるやかに右へ曲がって行き、北町観音堂を過ぎると程なく北町浅間神社の前に出る。中に入ると、右側に境内社の天祖神社があり、左側に富士塚がある。この富士塚が最初に築造された年は分かっていないが、明治5年に丸吉講によって再築され、さらに昭和2年に場所を少し移して築造されている。高さは、南側が6mで北側が4m、大きさは南北15m東西10m。黒ボク石を要所に配し、植栽によって庭園の築山のような姿になっている。

この富士塚の麓にある石造物の配置を示す平面図を眺め、それから登り始める。最初に富士講の開祖とされる角行の像に迎えられるが、この富士塚には定番の猿や天狗の像もある。登路は歩きやすく容易に頂上に達する。頂上は平坦で、奥宮の祠の前には標高37.76mと記した標識が埋め込まれている。遊び心で、富士山の100分の一の標高になるよう富士塚の高さを決めたのだろうか。頂上には富士山の方向を示す表示もある。折角なので、見えない富士山を遥拝してから、富士塚を後にする。

<参考資料>「練馬区の富士塚」「ご近所富士山の謎」「富士講と富士塚―東京・神奈川」「新駅予定地周辺マップ」「下練馬の富士塚現況測量調査報告書」「富士山ガイダンス2016」

 

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新宿の富士塚めぐり

2016-10-01 11:43:11 | 富士塚めぐり

前回に引き続き新宿区内の富士塚(跡)として、花園神社の三光町富士、西向天神の東大久保富士、稲荷鬼王神社の西大久保富士の3カ所をめぐってみた。

 

(1)花園神社の芸能浅間神社・三光町富士

靖国通りから花園神社に入り参拝したあと、境内の北東隅にある芸能浅間神社に行く。昭和3年、花園神社の境内に三光町富士と呼ばれた富士塚が築かれたが、昭和39年には取り壊される。その後、昭和56年に三光町富士の塚の石などを利用して建立されたのが芸能浅間神社で、三光町富士に比べると、現在の塚はかなり小ぶりになっている。

三光町富士を築いたのは、少なくとも天明の頃には活動していた内山講という富士講で、藤圭子の歌碑の裏側にその講碑がある、芸能浅間神社内には、このほかに富士参明藤開山碑や題目石、講碑が置かれている。

(2)西向天神の富士塚・東大久保富士

花園神社を出て北に行き新宿六の交差点を右に、文化センター通りを進む。天神小の先を右に行き突き当りを左に折れると、右手前方に西向天神の富士塚、東大久保富士が見えてくる。右に坂を上がり下から富士塚を眺めるが、手前に小御岳石尊大権現の石碑が見えるものの、頂上辺りは陰になって良く見えない。富士塚を左に見ながら坂を上がり、左側の天神山児童遊園に入る。遊具が置かれているが人影は無い。ここは西向天神の境内地では一段高い位置にあり、西から南にかけては急斜面で、児童遊園とはフェンスで仕切られている。

東大久保富士は斜面を利用して築かれているので、児童遊園から見ると低い塚にしか見えないが、下から眺めると大きな富士塚に見えるようになっている。この富士塚は開山記念碑に相当する参明藤開山碑から天保13年に丸谷講という富士講が築いた事が分かっている。江戸名所図会はこれより前なので大窪天満宮(西向天神)の挿絵には富士塚は描かれていないが、嘉永年間の大久保絵図には不二として記されている。この富士塚は大正14年に改修再築されているが、その事を示す丸谷講の記念碑もある。富士塚はフェンスで囲まれているので登るのは止め、西向天神を参拝してから次の富士塚に向かう。

(3)稲荷鬼王神社の富士塚・西大久保富士

 

抜け弁天から左に職安通りを進み、鬼王神社前の信号で左に入ると稲荷鬼王神社がある。この神社は、当ブログでも取り上げたことがある新宿山ノ手七福神の一社で、恵比寿神を祀る神社でもある。稲荷鬼王神社にお参りしてから左側に入ると、裏門に通じる参道があり、道の両側に分割された富士塚が築かれている。この神社が明治27年に浅間神社を合祀したあと、昭和5年になって丸谷講により境内に富士塚が築造される。この富士塚は、昭和24年に道路拡張工事のため取り壊されるが、昭和34年に社務所建設に際して現在の形に改築される。現在の富士塚は昔の姿を留めていないが、裏門の鳥居を潜って、北側に築かれた塚を一合目から四合目まで目でたどり、引き返して南側の塚を五合目から目でたどり頂上奥宮に達すれば、視覚による富士登拝の疑似体験が出来ることにはなる。

<参考>「新宿区の民俗2、3」「新宿区文化財総合調査報告書4」「ご近所富士山の謎」「富士塚ゆる散歩」

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