夢七雑録

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寒のあとさき・目白庭園

2016-02-19 19:09:27 | 公園・庭園めぐり

(1)12月の目白庭園

12月。いまだ紅葉の季節。それを見に、目白庭園に出かける。

紅葉のみち。池に向かって、ゆっくりと下りてゆく。

飛び石を渡り、滝見台に上がる。流れ落ちる水は、まだ、秋の音。

芝生広場。フジのツルによる、生け花のオブジェ。三日月の写像。

池の北側に、十三重石塔。ストゥパに彩りを添えて。

六角浮き見堂から庭を見ている。美しき季節の、移ろいゆく姿。

 

 

(2)1月の目白庭園

長屋門をくぐる。赤鳥庵の径に、雪はまだ残っている。

池の眺め。雪吊り。石組の間に、白いものが見える。

芝生広場は、寒の姿。あの三日月が、ここにあれば。

一面の雪と、一面の緑と。大気は、まだまだ、冷たい。

 

 

(3)2月の目白庭園

長屋門をくぐる。出迎えてくれる梅の、満面の笑み。

カルガモが2羽。つがいだろうか。いまは、春の夢のうち。

池を眺める。まだ雪吊りはあるが、どことなく春の気配。

池に沿って歩く。梅はいまが盛り。ほかの花も、後に続くだろう。

芝生広場。微かな春の匂い。庵の近くに満開の梅の花を見る。

十三重石塔。そして、雪吊りと満開の梅と。季節の移ろいを感じつつ、暫し池を眺める。

 

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大隈庭園

2016-02-03 21:34:56 | 公園・庭園めぐり

 

 

今回は、早稲田大学を創立した大隈重信の邸宅跡である大隈庭園を取り上げる。大隈庭園のある場所は、昭和7年に東京市に編入される以前、豊多摩郡に属していた。そのため、上の図で「地図」をクリックし、表示された地図で次に古地図をクリックして明治を選ぶと、大隈庭園の場所は空白になっている。また、南から流れて来る水路(蟹川)が東京市と豊多摩郡の境界になっていた事が分かる。

大隈庭園に入って東に向かって進むと、左側に芝生が広がっている。芝生は北側のリーガ・ロイヤル・ホテルの近くまで続き、その周囲を樹木が縁取っている。そのため、全体として和洋折衷の明るい庭園という印象を受ける。焼失以前の大隈邸の建物は、芝生地の西側を占めていた筈で、主屋に相当する書院から池までの間は、近からず遠からずの程よい距離であったと思われる。芝生の中に置かれている横長の大きな石は、主屋である書院の前に置かれていた三段の沓脱石のうちの一段のようだが、この沓脱石の付近からの眺めは、当時の庭の景観に近いものがあるのだろう。

紅葉山という築山を右にして園路を進み、少し下って池を渡る。雪見灯篭も置かれていて、日本庭園によくある池のようにも見えるが、ここは流れを表現しているらしく、全体としては細長い池になっている。池の水は敷地の傍を流れていた蟹川から取水していたという事だが、今はどうしているか分からない。

池を渡って左へ、地蔵山と言う名の築山に上がる。築山としてはやや低く、上は平らになっている。地蔵山の名の由来となった地蔵の像は見当たらないが、今は、大隈夫人の像と第4代総長の像が建てられている。昔はここから目白台の森を眺める事が出来たらしく、テーブルを取り囲むようにベンチも据えられていて、休憩するには格好な場所だったらしい。

築山から下りて先に進むと北東の隅に完之荘がある。飛騨の山村の古民家だそうで、寄贈を受けて移築したものという。なお、昔はここに松見茶屋という茅葺の茶屋があったらしい。ついでに言うと、大隈邸の庭園には築山の上に稲荷神社も祀られていたようだが、その場所がどこかは分からなくなっている。帰りは暫し芝生の上を歩く。振り返ると、池を中心とした日本庭園との間に芝生が広がっている。やや間延びした感じに見えるが、広い芝生の広場は、その上で休んだり遊んだり催事を開催出来る、洋風庭園の構成要素という事なのだろう。

 

大隈庭園の歴史について少し調べてみた。「御府内場末往還其外沿革図書」によると延宝年中(1673-1680)には、大隈庭園の場所は近隣の村の入会地になっていた。天保5年(1834)からは井伊家が入会地の買い上げを順次進め、嘉永5年(1852)の時点では、入会地の東側は囲いの無い抱地、西側は井伊家の抱屋敷になっていた。この時、抱屋敷の中に庭園を造っていたとすれば、それが大隈庭園の原点という事になる。嘉永7年(1854)の大久保絵図によると井伊家の屋敷地はさらに広がっているが、安政7年(1860)、桜田門外の変により井伊直弼が倒れたあと、井伊家はこの抱屋敷を手放したようで、文久2年(1862)の分間江戸大絵図には西側に松平隠岐(松山藩主・松平勝成)、東側に松平讃岐(高松藩主・松平頼聡)の名が見える。明治23年の大隈庭園の陪覧記の前文によると、明治維新後に一時は高松藩松平氏(松平頼聡)の別荘になっていたという。ただ、幕末から明治にかけての動乱期に造園を行う余裕があったかどうか分からない。明治7年(1874)、大隈重信はこの地を別荘として入手。明治17年(1884)には本邸をこの地に移し、邸宅の建築と庭園の改修を進め、明治20年(1887)には竣工している。

 

明治26年(1893)に大隈邸を観覧した造園家の小沢圭次郎は、大隈邸の庭園について、近江八景を模した庭園を改修し、泉流を引き、長江延綿の景致を造り、花竹を増植して、小山平遠の風趣を設けたと述べている。明治16年(1883)の五千分一東京図の「東京府武蔵国北豊島郡高田村近傍」には三カ所の築山と池からなる大隈邸の庭園が記されている。この庭園は、本格的な改修以前の状態らしく、大名庭園の姿を多少なりとも残していたと思われるが、改修によって、既存の池が流れの形へと変わり、芝庭も広くとられるようになった。また、植栽にも自然さを求めた庭になったと考えられる。「名園五十種」は、この庭について、一つの庭に春夏秋冬の美を収めた名園と評している。大隈邸には和館と洋館があり、さらに温室もあって当時はまだ珍しかった植物が多く集められていた。このほか、盆栽、鉢植え等も邸内に数多く置かれていたという。大隈庭園は、和館と洋館の何れとも調和し、園芸に関心の高かった施主の意向にも沿う庭であったのだろう。

 

<参考資料>

「江戸東京の庭園散歩」「写真で見る東京の庭」「東京市史稿遊園編6、7」「キャンパスミュージアムVOL.2(大隈庭園編)」「大久保伯爵家写真帖」「東京府豊多摩郡誌」「名園五十種」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「街歩き庭めぐり(草樹舎)」。ほかに江戸の絵図及び明治の地図各種。

 

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