夢七雑録

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清澄庭園

2015-02-13 19:14:17 | 公園・庭園めぐり

本所深川絵図を見ると、現在の清澄庭園の地は久世大和守の屋敷と小屋敷、清澄公園の地は伊奈家などの武家地で、仙台堀沿いは伊勢崎町になっていた。明治になると、武家地の所有者は次々とかわり、土地も荒廃していったらしい。明治11年、岩崎家が現在の清澄庭園と清澄公園を含む3万坪の土地を買い上げて造園し、接待と社員親睦を目的とした深川親睦園を開設するが、完成までには時間を要したようである。深川親睦園の正門は清澄公園の南西側に位置し、北西側にはコンドル設計の西洋館があり、清澄庭園の大正記念館付近には日本館が建っていた。池は仙台堀から水を引いた潮入りの池で清澄公園と清澄庭園にまたがり、現在の倍ほどの広さがあったらしい。しかし関東大震災で被害を蒙った為、岩崎家では深川親睦園の西側を震災復興のために利用し、東側を東京市に寄付することにした。東京市は寄付された土地を整備したうえで昭和7年に清澄庭園として開園し、現在に至っている。一方、西側は昭和52年に清澄公園として開園しているが、往時の面影を留めてはいない。清澄庭園は明治を代表する回遊式林泉庭園であり、東京都の名勝に指定されている。

 

庭園に入ってすぐの辺りは日本館の坪庭だったらしく、当時の手水鉢が置かれている。その先は大正記念館で、大正天皇の葬場殿を移築したのが始まりだというが、この庭園に違和感もなく収まっている。大正記念館の南側は明るい芝生地で、飛び石を伝って歩く。日本館があった頃は、東側に大広間、西側に茶屋があったらしいが、一面の芝生の方が、気分がいい。

 

今の季節、庭園内に彩があまり見られないが、形の面白い霜除けが彩の代行を務めているようである。大泉水は潮入りの池ではなくなっているが、水の出入りが無い割には汚れていない。池には島が四カ所、干満により眺めがどう変わっていたのかは分からない。池の対岸には涼亭が見える。この建物が無かったら、池の景観は間延びしたものになっていただろう。

 

大磯渡りを歩く。近くの石の上にはユリカモメ。その向こうは松島で、雪見灯籠が置かれている。橋を渡ると無名の島に出る。島の北側の池には長瀞峡という名が付いている。池を峡谷に見立てたのだろう。それに続く水面は、深川親睦園だった頃には、清澄公園側の池と繋がっていたらしい。先に進むと傘亭に出る。しかし、傘の形の屋根は失われてしまっている。

池に沿って進み涼亭を過ぎて富士山の麓に出る。ここに枯滝の石組がある。この枯滝は日本館から眺める事を想定して組んだらしいが、今では大正記念館前の芝生から、この枯滝を眺める人は居ないだろう。富士山という名の築山の背後には樹林が茂っていて、頂上が目立たなくなっている。昔の写真を見ると樹林は無く、この築山が目立つ存在であった事が分かる。せめて上からの眺めだけでもと思うのだが、現在は上がる事も出来ない。中の島に渡る橋は工事中のため先に進むと、程なく大正記念館の前で、これにて、庭園散歩は終わりとなる。

今回は園内の名石を素通りしてしまったが、清澄庭園は各地から名石を集めて造った庭園なので、次回は石にも関心を持って歩きたいと思っている。この庭園は探鳥スポットの一つでもあり、毎月第三土曜の午後には探鳥会も開かれている。季節にもよるが、20種ぐらいの野鳥は観察できるようである。清澄庭園には、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡という言い伝えが定着している。明治時代ならいざ知らず、江戸時代に幾ら金を積んだところで、広い屋敷を構える事が出来るとは思えず、また、元禄時代の古地図に紀文の屋敷が書かれているわけでも無いが、話としては面白いので、いつか、取り上げてみたいと思っている。

<参考資料>「清澄庭園」ほか。

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