夢七雑録

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池田山公園とねむの木の庭

2017-01-14 17:45:05 | 公園・庭園めぐり

(1)池田山公園

目黒駅を東口に出て目黒通りを東に進み、上大崎の交差点で首都高の下を潜り南側の歩道に移って次の角を右に入る。300mほど進むと信号のある五差路に出る。左側の細い方の道に入ると少し先で右から来る道と合して坂の上に出るが、その右側に池田山公園の入口がある。坂の北側は谷になっているが、明治の迅速図を見ると、この谷の支谷が池田山公園に相当し、支谷の入口辺を通って台地に上がる急坂が、現在の公園北側の坂に相当している。

公園内に入って谷底の池を見下ろす。暗い池と石橋。池に落ち込む斜面には、この時期の風物詩でもある雪吊が造られ、庭園の景観を引き締めている。

奇妙な形の冬囲いに誘われて幅広の園路を下っていくと、公園のもう一つの出入口に出る。その手前には釣瓶井戸があった。いつ頃のものか、また現在も使用可能かどうかは分からないが、この庭園には相応しいものではあるのだろう。

ひょうたん形の池に沿って進み、くびれの部分に架けられた石橋を東側と西側から眺める。橋のそばには雪見灯籠も置かれている。

池の西側には滝が造られていて、池の水を循環して流している。池には今も湧水があるとも言うが、池の水位を維持する程の水量ではないようである。

池には鯉が泳いではいるが動きは鈍い。そろそろ餌を取らず動きを止めて冬眠のような状態に入る頃なのだろう。ここを訪れたのは年末で、庭園に彩が少ない時期であった。次回は季節を変えて来てみたいと思っている。

 池田山公園の南側、東五反田五丁目一帯は備前岡山藩池田家の下屋敷(大崎屋敷)があった場所で、幕府から拝領した屋敷と、周辺の農地を買い上げて抱屋敷とした敷地面積を合わせると3万7千余坪の広さがあったという。ただし、現在の池田山公園の場所は、「御府内場末往還其外沿革図書」に上下大崎村入会地と記されているので、下屋敷の外のように思える。また、池田家下屋敷の図面にも奥庭のような記載は無い。明治以降、池田家の下屋敷は池田侯爵邸として継承されるが、池田山公園のある場所の扱いについては良く分からない。ただ、昭和2年の大崎の地図で現在の池田山公園の位置に池が記されているので、昭和以前には庭園が造られていたかも知れない。昭和60年、品川区はこの土地を購入し、庭園を整備して池田山公園を開設している。

 

(2)ねむの木の庭から五反田へ

池田山公園から五反田駅までのルートは、池田家下屋敷跡をたどる道になっている。池田山公園を出て左へ行き、直進する五差路への道を見送って左に入る。この道の左側は池田家下屋敷の一部だったところで、明和9年(1772)の「大崎御絵図」によると、富士見山と呼ばれる塚が築かれていた。弘化3年(1846)の「御府内場末往還沿革図書」では、その土地に南部信濃守中屋敷と記されているが、これは名目上の事で実際は池田家の所有地であったらしい。この塚は明治42年の地図にも記されているが今は見当たらない。先に進み突き当たった辺りに池田家下屋敷の目黒門があった。池田家下屋敷の殿舎などで使用する水は、「大崎御絵図」によると、目黒門から引き入れ敷地内を開渠で殿舎まで引いていた。また、目黒門までは五差路の北側で三田用水から分水し、地下の樋で引き入れていたと考えられる。

突き当りを左へ次の角を右に折れて、インドネシア大使館の横の広い直線道を進めば、“ねむの木の庭”という公園に出る。江戸時代、ここの南側には小書院や長局のある池田家の殿舎があったが、明治になって下屋敷跡が池田侯爵邸になると西洋館や和館が建てられる。また、建物に付随して庭園も造られ、玄関の前には円形の小庭園を中心とした車まわしも作られる。昭和に入ると、この土地は手放されたようで、分譲地として整備されることになる。旧正田邸はこの分譲地にあったが、建物が老朽化のため取り壊されたあと、平成15年に品川区が譲り受けて、公園として整備したのが“ねむの木の庭”という公園である。

“ねむの木の庭”は、ねむの木をシンボルツリーとし、ガラス・スクリーンや格子垣(トレリス)を設けた洋風の庭園になっている。園内は広くはないが、手入れが行き届いた明るい庭園になっている。

アーチ状になっている出入口から外に出て東へ向かい、直角に曲がって、分譲地らしい直線的な道を南に向かう。途中に地域安全センター(旧交番)があるが、ここを東西に走る道は、相州道(現在の桜田通り)から分岐して池田家の拝領屋敷に至る道に相当している。地域安全センターの近くには表門、西側の高台には殿舎があり、南側には湧水を利用したと思われる池があった。池から南に向かう谷には長屋が並び、その先に裏門があったが、今は跡形も無い。

 下り勾配の道を南に進み、突き当りを左に、次の角を右に入ると、桜並木の下り坂となる。坂とその周辺は五反田公園という名の公園になっているが、ここは桜の名所でもあるらしい。坂の左側の高台は、池田家下屋敷に含まれていた場所で、馬場が設けられていたほか、高台の突端には眺めの良い、山の茶屋が造られていた。坂を下り、突き当りを左に行くと桜田通りで、五反田駅はすぐそこである。

<参考資料>「しながわの大名屋敷」「御府内場末往還其外沿革図書」「池田家文庫」

 

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10年目のブログ

2017-01-12 19:53:42 | Weblog

1月1日0時0分に一陽来復の御札を貼ってからが酉年の始まり。窓を開けて、耳を澄ますと微かに除夜の鐘の音。安心して眠り、夜明けを大幅に過ぎてから起きあがる。雑煮と御節は例年の如し。それから、到来した年賀状を番号順に並べる。年賀はがきのデザインも様々だが、自撮り(ジドリ)、悟り(サトリ)、千鳥足(チドリアシ)を組み合わせたインクジェット紙が面白い。午後は虎ノ門の金刀比羅宮に初詣。それから少し歩く。虎の門に新駅が出来る事を始めて知る。虎の門ヒルズの横を通って愛宕神社に向かうが、出世の石段の上から延々と並ぶ行列を見て参詣を諦める。以前はもっと少なかった筈なのに、何かあったのだろうか。結局、浅草寺は三が日を過ぎてから、地元の神社は別の日に初詣と相成る。

朝、松の内が既に過ぎ去っている事に気付く。慌てて松飾りを外し、それから、ゴミとして処分する準備を整える。連休が終わっても、正月の行事はまだ残っている。鏡開き。形だけの鏡餅に平穏の願いを込めて解体し、中身を取り出す。これにて、正月の行事はすべて終了。はや、平成29年と言う時間の3%が経過してしまっている。

暖かだった正月。もう、梅も開花している。他にも何か無いか。探してみたら、分厚い葉に隠れるようにオモトの赤い実がまだ残っていた。オモトは万年青と書く。一年中、緑を絶やさないことから縁起物として使われている。花言葉は長寿。成長は望めないにしても、せめて、退行することのない、そんな意味であって欲しい。

このブログを始める以前、フロッピディスク1枚に収まる小さなホームページを限られた範囲に公開していた。その後、より大きなホームページを一般公開することを計画し、容量の点からホームページ代わりのブログ“夢七雑録”の公開を始めてから9年と2カ月になる。このブログは、日記や随想を意図していたわけではないが、結果的には雑然とした内容になってしまったかも知れない。今にして思えば、ホームページとブログを組み合わせれば良かったような気もする。ブログを始めて2年ばかり経った時、“夢七雑録”と入力しても検索できない事態となり、大いに焦ったことがあった。取りあえず別のサイトに緊急避難場所としてのブログを立ち上げるとともに、それまではパソコンだけを対象としていたのを携帯も含めることとし、更新の通知を送るようにしたほか、このブログについてのPRも行った結果、アクセス数も次第に増加し、やがて、夢七雑録と入力して検索できるようになった。最近のアクセス解析によると、古い記事も読まれていて、一日の訪問者数は数十人位になっている。実数はこれよりかなり低いだろうが、内容的にランキングを争うようなブログではないので、見て頂く人が居るだけでも有り難いことと思っている。

 

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