夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

41.3 八幡もうでの記

2009-06-30 22:04:41 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 相模橋(四の橋)を渡り、中道寺を右に見て進み、三田の魚籃観音(港区三田4)を参拝してから、白銀台町(伊皿子台町。港区三田4)を横切り、伊皿子坂の長応寺(移転)の前を過ぎて泉岳寺(港区高輪2)に至り、四十七士の墓と堀部安兵衛の妻の墓に詣でる。次に、如来寺(移転)に詣でるが、この寺を造った木食且唱について、嘉陵は人から聞いた話を付記している。ここから牛町の大木戸(高輪大木戸。港区高輪2)を通り、六番目の田町の八幡宮(御田八幡神社。港区三田3)を参詣する。社は高い所にあり、海の眺めも素晴らしく、しばし暑さを忘れる心地であったという。

 ここを出て、札の辻から北に行き、赤羽橋(港区芝3)を渡って土器町(港区東麻布1、麻布台2)を上り、七番目の西の窪八幡宮(西久保八幡神社。写真。港区虎ノ門5)に詣でる。その時、芝増上寺の鐘の音が聞こえてきた。嘉陵は子供の頃、この近くに住んでいて、毎年八月十五日に、この社前に若者が集まってきて相撲をとっていたのを、何時も見ていたのである。あれから、もう、60年余りになる、と嘉陵は書いている。

 ここから、天徳寺(港区虎ノ門3)の前を過ぎ、昔住んでいた田村小路(港区西新橋2付近)の松平小十郎屋敷の近くを通り過ぎる。屋敷内には榎が二本あり、その根元には弁財天が鎮座していた。嘉陵は、そのまま通り過ぎる気になれず、塀の外から弁財天を伏し拝んでいる。この弁財天は、愛宕山の麓から海へかけて葦原になっていた頃から此処に鎮座していて、榎は葦原だった頃のまま、池は昔の縁で残していると、子供の頃に聞いたことがあり、その事を今も忘れてはいないと嘉陵は書いている。

 このあと、嘉陵は八番目の深川八幡宮(富岡八幡宮。江東区富岡1)を参詣している。着いたのは午後5時頃のことである。ある人は、八幡詣では渋谷と田町を除いて今戸と浅草御蔵前の石清水を入れると言っていたが、嘉陵は今戸と浅草を除く八か所の八幡宮を参詣したことになる。嘉陵は、一時に二里半歩くとして(時速5km)、八幡もうでの道のりを十五里(60km)と見積もっている。帰途、竹橋の御門を過ぎる頃、六の大太鼓(午後6時)が鳴る。ここから、三番町の家はそう遠くない。

 72歳になった嘉陵だが、思いのほか歩けた事が嬉しかったのか、一首詠んでいる。 「思うよりとみこそ来つる富か岡 牛の歩みの淀みなけれは」

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41.2 八幡もうでの記(2)

2009-06-28 15:32:31 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 大宮八幡の大門を出て東に行くこと6km余、上り下りが2か所、途中に庵と社があった。北に曲がれば幡ヶ谷で、さらに北に曲がって幡ケ谷不動(荘巌寺。渋谷区本町2)に出た、と嘉陵は記している。大宮八幡から東に行くと、神田川を渡り、宝福寺と多田神社(中野区南台3)のそばを通って、低地に下って南に折れると幡ヶ谷で、ここから東に行けば幡ヶ谷不動(荘厳寺。渋谷区本町2)に出る。嘉陵の記述と略図は、これとは異なっているが、単なる勘違いだろうか、それとも、東の積りで南に行き、甲州街道に出て北の積りで東に行き、幡ヶ谷から北の積りで東に行き幡ヶ谷不動に出たのだろうか。

 幡ヶ谷不動を参詣したあと、少し行って甲州街道の新町(角筈新町。新宿区西新宿)を通り、浄土宗の寺の先にある天満宮(甲州街道沿いの箒銀杏の下に祠あり。渋谷区代々木3)を参拝する。その傍らの小道を行き、代々木への道を分け、制札の立つ四辻(参宮橋付近)を左に行き、井伊屋敷(明治神宮付近)の垣に沿って進み、坂を下って畑の中道を行くと千駄ヶ谷道(渋谷区代々木2、1)に出る。ここを南に少し行き、四番目の千駄ヶ谷八幡宮(鳩森八幡神社。写真。渋谷区千駄ヶ谷1)を参詣する。この八幡宮は最近焼失したばかりだったが、近く再建を始める予定なのか仮屋根を作っていた。社殿の近くには富士浅間の塚があったが、このほかに見所はなかったと記す。

 千駄ヶ谷八幡の東の門を出て、坂を下り左手の如意輪観音堂のある聖輪寺(渋谷区千駄ヶ谷1)を参拝する。その続きの高松院と立法寺を過ぎ、青山の熊野社(渋谷区神宮前2)の横に出て、青山通り百人町を通り、伊勢野(渋谷区東1)を左に渋谷に至り、五番目の渋谷八幡宮(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)を参詣する。ここへは、文政二年と三年に訪れており、渋谷金王丸の旧跡について、嘉陵としての見解を述べてもいる。文政二年の時は伊勢野にも行っているが、今回は止めにして、ここより坂を下って渋谷川に出ている。

 渋谷川沿いに進むと小橋があり、渡れば目黒不動尊へ行く道に出るが、ここは渡らず、次の橋も通り過ぎて、その次の橋を渡る(渋谷区恵比寿1付近)。渋谷川の南側を少し歩き、水車を眺め、橋(水車橋。現在の山下橋付近)を北側に渡り返す。この水車は、江戸名所図会にも取り上げられた広尾の水車と思われるが、その場所は現在の臨川児童遊園(現在は閉鎖中。渋谷区広尾5)の付近とされる。渋谷川には複数の水車が設けられていたが、そのうち、嘉陵の記述や略図に記されているのは、広尾と、金王下の橋の上流、浅野家の隠田屋敷の裏手と、その上流の四か所の水車である。さて、水車橋を渡ったあと、渋谷川沿いの広尾町を行くと、堀留橋(新豊沢橋付近)というやや大きな橋があった。この橋を南に行けば二子通り大山の街道、北へ行けば麻布市兵衛町(港区六本木3)に出るということであった。嘉陵は、この堀留橋について、新堀を掘削した際に設けられた橋ではないかと推量し、はじめは掘削工事の引受手がなかったという話を書いている。そのさき、嘉陵は道を間違えて、白金御殿跡(五代将軍綱吉の時に建てた麻布御殿の跡。港区南麻布4)に出てしまい、上の町(麻布本村町。港区南麻布1、3)から南に行き、相模橋(四の橋)に出ている。嘉陵は、笄川(天現寺付近で渋谷川に合流していたが、現在は暗渠)を渡ったときに、渋谷川と笄川を取り違えたのではなかろうか。

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41.1 八幡もうでの記(1)

2009-06-26 21:17:30 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年六月九日(1831年7月17日)。嘉陵すでに72歳。老人の足ではと、心配もあったが、あえて八幡詣に出掛けることにした。八所八幡詣ともいい、8ヶ所の八幡宮を巡るのである。ほのぼのと明ける頃、三番町の家を出て、最初に市谷八幡宮(市谷亀ヶ岡八幡神社。写真。新宿区市谷八幡町)を参詣する。

 それより神楽坂を上り榎木町(榎町)を過ぎ、とどめき(轟橋?)なんど(納戸町?)という所を通って、二番目の高田の八幡宮(穴八幡神社。新宿区西早稲田2)に詣でる。楼門の前に麻疹避けの氷室の社があり、楼門を入ると、本社、鐘楼、改修したばかりの東照宮の社殿、御輿納置堂、観音堂があった。時刻は午前8時。穴八幡の謂れともなった、神が出現した横穴(金銅製の阿弥陀如来が発見された)を拝し、山裾の御手洗を覗いてから、ここを出る。

 高田馬場(跡地は新宿区西早稲田3)を過ぎて西に行くと分れ道に出る。文化十三年に上高田の氷川神社を訪れた時は北側の道を通ったが、今回は南側の諏訪明神(諏訪神社。新宿区高田馬場1)の前を通ったと思われる。途中で雨が降りだしたが、そのまま進むと、入口の道に地蔵尊が建つ寺があった。嘉陵は寺の名は忘れたとしているが、観音寺(新宿区高田馬場3)であろう。嘉陵は、上高田の橋(小滝橋)で井の頭の水(神田川)を渡るが、この辺は玉川上水の分流が井の頭の水(神田川)に合流しているため、水勢は強かったと記している。橋を渡って左に折れて御成山(中野区東中野)の麓の小道を行くが、また雨が降ってきたので木の下でしばし休息する。少し歩いて、中野法泉寺の塔(宝仙寺。塔は現存せず。中野区中央2)の傍らから青梅街道に出る。午前9時過ぎ、しがらきと言う飲食店で朝食をとり、しばらく休む。そのあと、妙法寺(杉並区堀ノ内3)を参詣し、三番目の大宮八幡宮(杉並区大宮2)に詣でる。嘉陵は文政十二年(1829)にも大宮八幡に詣でたことがあり、その時に詠んだ歌を社前の石燈篭に書き付けておいたのだが、すでに半ば消えて読めなかったと書いている。

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40.2 六阿弥陀道のり(2)

2009-06-21 11:55:16 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 延命寺から、もと来た道を700mほど戻り、沼田の渡しを渡る。川に沿って少し行くと、六阿弥陀一番西福寺(写真。北区豊島2)に出る。次の寺へは田の畦道を行くが、道は曲がりくねっていて、方向も分からなくなるほどであった。山の方に向かっていくと、坂があり、上がると平塚明神の社(平塚神社。北区上中里1)に出た。王子道(本郷通り)を横切って、六阿弥陀三番無量寺(北区西ケ原1)の裏門から中に入った。

 無量寺から西行庵(廃寺)を通り、六阿弥陀四番与楽寺(北区田端1)に行く。それから東南に行き、一条の道を進んで、三崎の大通り(さんさき坂)を東に向かい、谷中門(台東区上野桜木2)から寛永寺に入り、黒門(台東区上野公園)から出て、五番長福寺(常楽院。移転)に行く。六阿弥陀最後の寺である。嘉陵によると、六阿弥陀の道筋は、隅田川の白髭社の辺から千住までの間の風景以外に見所はなく、千住から先の川沿いは木や茅が茂って眺めはなかったという。

 嘉陵は、文政年間に出版された一枚物の地図「六阿弥陀独案内」を持っていたようで、その中に記載されている距離を、紀行文の中に引用している。すなわち、日本橋から一里十五丁(5.6km)で亀戸の常光寺。亀戸から一里半(5.9km)で千住。千住から本木性翁寺を経て一里半(5.9km)で沼田の延命寺。沼田から十五丁(1.6km)で元木の西福寺。元木から二十五丁(2.7km)で西ケ原の無量寺。西ケ原から三十丁(3.3km)で田端の与楽寺。田端から二十五丁(2.7km)で下谷の長福寺。下谷から三十一丁(3.4km)で日本橋。合計で七里三十三丁(31.1km)となる。

 六阿弥陀の縁起は、「むかし、足立の庄司が、身を投げた娘のことを悲しんで、行基に依頼して、霊木をもって六体の阿弥陀如来像を造ったが、これが六阿弥陀であり、余った木の根で造ったのが性翁寺の木余りの阿弥陀如来像である」となっている。嘉陵は性翁寺で縁起を入手しているが、他の寺には縁起がなかったと言い、縁起の内容については、取るに足らず、信用すべきにはあらずと記している。なお、狂歌師の蜀山人が文化三年(1806)に巡拝した時には各寺に縁起があったが、登場人物は寺により違いがあったという。

 嘉陵はまた、六阿弥陀の仏像についても、行基の作ではなく凡作であるとしている。嘉陵によれば、千住四家の平蔵(文化九年に鷲明神を参詣した時に立ち寄っている)が、庵に安置していた地蔵尊は、行基の作と言い伝えられており、浅草観音堂の荒痛の文殊仏(痛いと叫んだという伝承あり。焼失)と同じ造りで、凡作ではなかったと記している。なお、性翁寺の木像阿弥陀如来坐像(木余りの如来)は、現在、都指定の有形文化財になっている。

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40.1 六阿弥陀道のり

2009-06-18 21:50:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政十三年五月十一日(1830年7月1日)。71歳になった嘉陵は、この日が再遊となる六阿弥陀巡拝に出掛けている。六阿弥陀詣は江戸で人気のあった行事で、春秋の彼岸には多くの人が歩いたといわれている。ただ、朝早く出ても、回り終える頃には日が暮れるほど距離はあった。江戸名所図会「六阿弥陀詣」を見ると、参詣客は老若男女、中には赤ん坊を負ぶった女性も見えるので、全て回るのは大変だったと思われる。六阿弥陀とは、一般に、一番西福寺、二番延命寺、三番無量寺、四番与楽寺、五番長福寺、六番常光寺、それに番外として性翁寺を巡るものであるが、この順番に巡拝する必要はなかったようで、嘉陵も、六番の寺から始めて五番で終わるコースを歩いている。

 嘉陵が歩いたコースの起点は日本橋になっている。日本橋を出て、両国橋を渡り、竪川沿いに進んで、天神川(横十間川)沿いに行き、天神橋を渡る。天満宮(亀戸天神。江東区亀戸3)の裏手から、北十間川に沿って東に行き、香取大明神の社(亀戸香取神社。江東区亀戸3)を参詣する。ここから東に行けば六番・常光寺(写真。江東区亀戸4)である。嘉陵によると、阿弥陀詣の六番寺は、本来、正福寺(墨田区墨田2)であったが、常光寺に銭一貫八百文の質物として入れた阿弥陀像を戻すことが出来ず、常光寺が六番寺になったということである。また、常光寺の門内に竜が伏せるような形の、杉の名木があったと記す。

 そのあと、北十間川を渡り、東の森(吾嬬神社。墨田区立花1)を参詣し、白髭社(墨田区東向島3)の前の隅田川土手に出て、梅若の渡しを渡り、真崎稲荷(荒川区南千住3)から小塚原刑罪所(荒川区南千住5)の上に出て、千住の大橋を渡って宿場の内を進み、西に曲がって堤の上を少し行き、右へ行って西新井の弘法大師(総持寺。足立区西新井1)に行く。門前に酒肴を売る店が53軒あり、また、堂の工事はまだ三分の二ほどで、瓦も葺いておらず、戸も無く、仏像を安置するのは来年三月という事であったと、嘉陵は記している。寛政年間に描かれた江戸名所図会「西新井大師堂」に見られるように、もとの大師堂は茅葺であったが、第三十二世秀圓大僧都の時に、瓦しころ葺きの本堂、書院、方丈、客殿、庫裏を備えた大伽藍の造営が計画された。しかし、秀圓大僧都の存命中には実現には至らず、嘉陵が訪れた文政十三年(天保元年)になって、ようやく工事が始まったという事である。なお、後に描かれた広重の江戸名所図会「西新井」では既に瓦葺になっている。

 ここから西に行き、また東に向かって、ぐるぐる回りこむようにして、木余りの性翁寺(足立区扇2)に出る。境内には、六阿弥陀の発端となった足立姫の墓があり、菩提樹を植えていた。嘉陵は、性翁寺の開基は後北条の家臣阿出川某で、子孫は小菅の御蔵番であると記しているが、確信はなかったようである。なお、寺伝では、開基は足立の庄司で、阿出川貞次を中興の開基としている。このあと、西南の荒川の堤に出て西北に行き、堤を下って沼田の六阿弥陀二番延命寺(恵明寺。足立区江北2)を参詣している。

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39.新曾妙顕寺詣の記

2009-06-14 22:16:19 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政十一年十月(1828年11~12月)。孫娘が生まれる前に安産の符をいただいておいたところ無事に出産したので、十月のある日、嘉陵はその符を懐に新曾村の妙顕寺の参詣に出掛けている。妙顕寺は安産の妙符を出すことで知られていたが、嘉陵の元同僚の弟が住む寺でもあった。新曾村へ行くには中山道を利用することになるが、嘉陵は三番町に住んでいたので、初めは現在の春日通りの道筋を通ったと思われる。この道は、波切不動尊(現在は本伝寺内。文京区大塚4)の前を通るが、ここで嘉陵は持参した磁針を取り出し、道が北に向かっていることを確かめている。その先で、道は北北東から北に向かい、橋を渡る。谷端川(現在は暗渠)に架かる藤橋(大塚駅の近くにあった橋)であろう。この道を行き、林を抜けると、庚申塚(現在は猿田彦大神内の祠に置かれている。豊島区西巣鴨2)に出るが、ここからは中山道になる。

 中山道を北に向かい、滝の川三軒屋を過ぎて、板橋宿に入る。宿場の左手に乗蓮寺(現在は板橋区赤塚5に移転)があるが、先を急ぐため通り過ぎている。中山道をさらに進み、小豆沢、蓮沼を過ぎ、志村に出て、隠岐殿坂(清水坂)を下る。右手には清水薬師(現在は跡地が薬師の泉庭園となる)があるが、そのまま通り過ぎる。さらに行くと丸池(板橋区東坂下にあった池)があり、茅を刈る原がある。この辺りからは西に富士、北西に秩父、武甲山が見渡せる。嘉陵は、武甲山の謂れについて、発禁となった斎藤鶴磯の「武蔵野話」に記載された、武光の庄ゆえ武光山と称したという説を取り上げている(武甲山は、古くは知々夫ケ嶽と称したが、後に武光山となり、近世以降は武甲山と称した)。また、享保の頃の柔術家、武光平太左衛門は武光の庄の出身ではないかと記している。

 戸田の渡しには二艘の舟があり、一艘に馬が五、六匹、人三十人ほど乗せるということであった。ここを渡って堤を越え、子安釈迦仏の標石がある所から西に折れて、妙顕寺(戸田市新曾。写真)に行く。参拝を終えて、安産の符を納めてから外に出る。既に午後2時である。帰る途中で観音寺(戸田市新曾)を参詣し、古碑を見て回るが、じっくり調べる時間は無い。

 戸田の渡しを渡って志村に着いたのは午後4時。また来られるかどうか分からないため、熊野権現(板橋区志村2)に立ち寄る。ここへは文政元年(1818)にも訪れているが、当時に比べて木が茂っていて、眺めはよくなかったと記す。また、一夜塚について地元の人に尋ねると、権現の鳥居の真向かいが一夜塚で、この城を攻める時に一夜で塚を築き、城に大砲を打ち込んだ跡ということだった。嘉陵は、この点については疑問を抱いていたようである。また、この山の東に最近出来た庵があり、入口に古碑があったと記している。古碑は板橋の乗蓮寺にもあったが、既に日も暮れていたので、今回は見ないで通り過ぎている。

(注)この紀行文には、正靖(村尾嘉稜)、時に六十七歳とある。嘉陵の生まれを宝暦十年とすれば、文政十年には数えで六十九歳の筈で、食い違いがある。ここでは、文政十年、六十九歳を正しいとした。

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38.2 千束の道しるべ(2)

2009-06-10 22:55:52 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 法蓮寺門前の茶店で道を聞き、千束村の池(洗足池。写真。大田区南千束2)に行く。江戸名所図会「千束池 袈裟掛松」には茶店が何軒か描かれているが、嘉陵によると、池の縁に商いを兼ねた民家が五軒ほどあり、南側にも酒、菓子を売る店が数軒あったという。池の東縁を巡って御松庵(妙福寺。大田区南千束2)に行く。嘉陵はここで、庵主の僧から縁起を見せてもらっている。また、門の傍らには、石工の仮小屋があったが、宗祖の遠忌に間に合わせるためだろうと記している。御松庵の近くに、広重の名所江戸百景にも取り上げられ、日蓮が袈裟を掛けたという伝説の袈裟掛松がある。この松について、嘉陵は、根から4mのところで二股になり、高さは15mほど、枝は四方に垂れていて、南側の枝は池の水に洗われていたと記している。現在、この松はすでに枯れ、何代目かの松が妙福寺内の垣に囲まれた場所に立っている。また、七面の社があり、その傍らに吉祥天の祠があった。嘉陵は矢立硯を出して後ろの羽目板に、今日ここに詣でた事を書き付けている。当時は、こんな行為も許されていたのだろう。七面の社には、この地の八景を歌に詠んだ額が掲げられていた。八景とは、「袈裟掛松の夜雨」「久我原落雁」「千束秋月」「小山夕照」「雪が谷の暮雪」「八幡山晴嵐」「土道橋帰帆」「池上晩鐘」であった。
 
 嘉陵は、午後2時過ぎに七面の社を出て、池の縁を回って八幡山に行く。新田義興の主がしばらく住んでいたという場所である。石段を上がると八幡宮(千束八幡神社。大田区南千束2)の拝殿があり、さらに上がると本社があった。社の四面に古松が生い茂り日差しもない。傍らの藁葺きの家に痩せた法師が一人。こんな場所でも住めば住めるというのが不思議だと嘉陵は書いている。夕暮れも間近になったので、嘉陵は本道(中原街道)を通って帰路につくが、途中、秋の草花を手折って、みやげにしている。戸越を過ぎ、土道橋を渡ると、ちょうど、川下から舟が上がってきていた。八景の一つ「土道橋帰帆」の風景である。嘉陵は、往路とは別の道を帰ろうと、白金台(高輪台)を北西に折れて、樹木谷(港区白金台1)を下り、相模橋(四の橋)を渡り、一本松(港区元麻布1)を経て、鳥居坂(港区六本木5)から氷川明神(港区赤坂6)の前を通って赤坂に出ている。この日、家に帰り着いたのは、午後6時前であった。ところで、嘉陵は、樹木谷から先、磁針で方向を見ながら歩いたが、赤坂までは真北に向かっており、往路よりは少し短かったと記している。

 嘉陵は、此の頃、雨が降りしきり、厚木の渡しは今朝より止まっていると追記し、後で聞いた話として、次の日に無理して厚木の渡しを渡ろうとした舟が沈んだため、大勢が死んだと書いている。最近は洪水も多く、富士や大山は特に荒れているということであった。

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38.1 千束の道しるべ(1)

2009-06-08 21:35:27 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政十一年七月二日(1828年8月20日)。月末から昨日にかけて、南東の風が昼も夜も雨を交えて吹き荒れていたが、今朝はよく晴れて、名残の南西の風が吹いていると記しているので、台風が通過したものと思われる。雲の流れはまだ早かったため、嘉陵は雨が降るかもしれないと思い、爪占いをしたところ、雨は降らないようなので、草鞋を履き笠を付けて午前9時に三番町の家を出ている。行き先は中延の八幡宮である。

 平川天神(平河天神。千代田区平河町1)の前から虎ノ門に出て、金毘羅権現(金刀比羅神社。港区虎ノ門2)の前を過ぎ、西の窪(港区虎ノ門5)から赤羽橋(港区芝公園4)に至り、聖坂(港区三田4)を上って白金台(高輪台。港区高輪2)を行く。二本榎(港区高輪3)を過ぎ、折れ曲がった道を西に行き、猿町(港区高輪3)の坂を下って、雉子の宮(雉子神社。品川区東五反田1)を参拝する。嘉陵は何の神を祀っているか分からないと書いているが、家光が鷹狩をした際に白い雉が境内に入ったのを見て、雉子宮と名付けたという社で、もとは荏原宮と称し祭神は天手力雄命であった。嘉陵は、岡の上から西南に青田が広がるのが見えたとし、また、岡の下の高野大師堂の向こうに、別荘らしい二階家があったと記している。高野大師の堂というと、二本榎の高野寺(高野山東京別院。港区高輪3)が思いつくが、場所的には少々離れている。嘉陵の略図で、雉子の宮から分かれる道の先に書かれた弘法大師堂の方が該当しそうに思える。江戸名所図会で、雉子宮の岡の下には、確かに、宝塔寺(品川区東五反田1)の大師堂が描かれている。ただ、祀られているのは元三大師であって、弘法大師ではない。嘉陵は宝塔寺を参詣していないようなので、取り違えたのかも知れない。なお、元三大師堂は現在も雉子宮の下に位置している。このあと嘉陵は下大崎に出るが、途中、山沿いの高所に名主の家があったと記している。そのさき、目黒碑文谷と品川の分かれ道を過ぎて、馬道を南西に行き、用水路(目黒川)にかかる土道橋を渡る。この橋までは舟で上がってくると記しているが、現在の大崎橋(品川区西五反田1)付近にあった橋と思われる。

 さらに進んで、制札場がある戸越を通る。ここまでは中原街道をたどったと思われる。現中原街道の中原口交差点の少し先から、旧中原街道が分かれている。ホテルルートイン五反田の横を上がる道が旧街道である。この道を行くと平塚橋の手前で現中原街道に合流する。平塚橋は品川用水にかかっていた橋だが、既に橋は存在せず、交差点の名でそれと知るのみである。嘉陵は、石橋のある場所で中原街道から分かれて左に折れると記しているが、石橋とは平塚橋のことではなかろうか。道はその少し先で品川への道と分かれ、中延村の道(仲通り)を通る。道なりに進めば、中延八幡宮(旗ケ岡八幡神社。写真。品川区旗の台3)に出る。嘉陵によると、八幡宮の拝殿と本社はまだ新しく欅造りであったという。八幡宮を参拝したあと、嘉陵は別当寺の法蓮寺に行き、門前の茶店で休息して、持参した弁当を食べている。

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37.若宮八幡・旗揚八幡・正福寺参詣略記

2009-06-04 22:35:58 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政十年閏六月三日(1827年7月26日)、嘉陵は若宮村八幡宮(現在は隅田川神社に合祀)を参詣したようだが、具体的な記述はない。正福寺は文化十三年にも訪れているので、今回は再遊ということになる。隅田村旗揚八幡宮については、文化三年六月に渡辺周助から聞いた、次のような話を記すにとどめており、その跡地と思われる場所を訪ねることもしていない。

「隅田村の農家源右衛門は、昔から織田家と縁があった者だが、その屋敷の稲荷のそばにあった榎の大木が枯れたので、掘り返してみたところ、30cmほどの長さの石が出てきた。数日後に洗ってみたところ、表には『文治二年日月清明 旗揚八幡宮 征夷大将軍源頼朝』と彫付けてあり、裏には『金森判官元茂 安西兵衛光造』と彫られていた。そこで、中川飛騨守に訴えたのだが、いまだに音沙汰が無い」

 この紀行文には、七十二翁 正やす(村尾嘉陵)として、次の一首が添えられている。
「幼き昔思えば咲く花を背に負れて枝を手折りし」
文政十年の嘉陵の年齢は数えで68歳であるので、年齢に食い違いがある。72歳になった時に追記したものかも知れない。

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36.阿佐ヶ谷村神明宮道の記

2009-06-02 20:38:45 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政九年十月四日(1826年11月3日)。青梅街道を通り、石神井・谷原への道を分けた先で右に入り、阿佐ヶ谷神明(杉並区阿佐谷北1。写真)への道を行く。林の先に田があり、また林の先に田がある。道の東の方に稲荷の小社があったので行って拝礼し、幼子のみやげに松の実を拾っていく。さらに行くと田があり、木立の中に茅葺の長屋門のある軒の高い家があった。相澤喜兵衛という名主の家という。阿佐ケ谷村の神明宮は、この家の後ろにあり、社は茅葺で板張り、鳥居は杉丸太で、左右には杉が植えられていた。その西には実相院という寺もあった。この日は、眺めの良い所もなかったが、それでも、このような鄙びた土地を歩くのは、山林の静けさを好み、飾らぬものに心惹かれる、自分のような者にとって、楽しくないわけではないと、嘉陵は書いている。

 嘉陵の略図を、現在の道に当てはめると、青梅街道から、すずらん通りに入り、パールセンターを通って阿佐ヶ谷神明宮に行く道になるだろう。参拝した稲荷が馬橋稲荷(杉並区阿佐ヶ谷南2)であったとすると、往復1kmほどの寄り道となる。阿佐ヶ谷駅のガードをくぐって右に行けば、相澤家の屋敷跡に出る。神明宮はその裏手にある。相澤家の屋敷森は現存しており、欅屋敷(杉並区阿佐谷北1)の名で都指定の旧跡になっている。

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