夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

旧中山道コースを歩く

2013-04-24 19:34:10 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「旧中山道コース」は、「染井吉野ゆかりの地散歩(駒込駅~庚申塚)」と「板橋宿場散歩(庚申塚~板橋本町駅)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は6.6kmになる。 

(1)染井吉野ゆかりの地散歩

 桜と言えばソメイヨシノ。その発祥の地は駒込の染井の里と言われ、駒込駅北側の染井吉野桜記念公園には染井吉野発祥之里の記念碑も置かれている。そこで、桜が散ってしまう前に、染井の里をめぐって駒込駅から巣鴨駅まで歩いておくことにした。歴史と文化の散歩道の案内板は、駒込駅近くの本郷通り沿いにあり、ルート図と染井吉野の説明、広重の「江戸名勝図会・染井」の部分図を載せている。本郷通りを渡り、大国神社の横を線路沿いに進むと、染井橋という跨線橋を渡ってきた道に出る。この道を染井通りといい、ここを右に行く。江戸時代、この道の左側は藤堂家の下屋敷、右側には植木屋が並んでいた。

 染井通りの途中に「私の庭みんなの庭」という庭がある。その先の角を右に曲がった先に、「門と蔵のある広場」がある。植木屋であった丹羽家の跡地を広場としたもので、藤堂家の裏門を移築したとも伝えられる江戸後期の門と、戦前の蔵が残されている。この門の前を北に行き、染井坂の上で標識Cにより左に曲がると、西福寺に出る。

 西福寺は、染井の植木屋の中心的な存在であり、将軍家もお忍びで訪れたという伊藤伊兵衛家の菩提寺である。伊藤家は、さつき、かきつばた、すいれん等を植えた庭園を公開していたが、その中には拝領した朝鮮人参も植えられていた。西福寺から先に進むと、染井よしの桜の里公園がある。その角を左に曲がった先に、場所を移動したらしい標識Cがある。その先に進むと、また、染井通りに出るので、ここを右に行き染井霊園に出る。入口には、十二地蔵が置かれている。ここから左に行き、その先の園路を右に入るのがルートである。桜の時期は、普段と違って、霊園内を歩く人が多いようである。園内を通り抜けてから、霊園沿いの道を左へ行き、その先の角を左に曲がって、霊園の境界沿いに進むとT字路となる。左に曲がり直ぐ右に折れて先に進むのがルートで、黄色のカタツムリ・マークのガードレールが目印となる。この道を進むと、道の角に標識Bがあり、ここを右に行くと真性寺に出られるが、今回は直進して巣鴨駅まで行く。

 巣鴨駅から真性寺に向かう。この寺には、江戸六地蔵のうち現存する五地蔵の一があり、修復を終えた地蔵が中山道を見守るように置かれている。真性寺を出て、旧中山道に相当する、巣鴨地蔵通り商店街を歩く。とげぬき地蔵・高岩寺を過ぎると、人通りも幾分少なくなってくるが、ウオーキングの積りで歩くのは場違いな感を免れないので、ペースを落として歩く。やがて折戸通りとの交差点に出る。

 折戸通りは、大塚方面から王子に向かう、江戸時代からの道である。その交差点の右手の角には猿田彦大神の祠があるが、ここには庚申塚も祭られている。江戸時代、庚申塚の前は休憩地として賑わっていた場所で、江戸名所図会にも取り上げられている。交差点を渡って先に進むと都電の庚申塚駅に出る。サブコースはここで終わりとなる。

(2)板橋宿場散歩


 都電の踏切を渡って旧中山道を進む。やがて、右側に大正大学の“さざえ堂”が見えてくると、まもなく明治通りに出る。左手すぐの千川上水公園は、玉川上水から分水して流れてきた千川上水の沈殿池があった場所で、ここから上水を江戸の各所に配っていた。千川上水は板橋宿の近くから、旧中山道の南側を流れていたのだが、今はその姿を見ることができなくなっている。明治通りを渡って旧中山道を進み、埼京線の踏切を渡って板橋駅の駅前に出ると、歴史と文化の散歩道の案内板が旧中山道沿いに置かれている。その内容は、ルート図、中山道と板橋宿についての説明、それと、英泉が描いた「木曾街道板橋之駅」の図である。

 旧中山道は、この先、現中山道によって分断されている。現中山道を渡って、旧中山道板橋宿のうち平尾宿を歩く。板橋七福神の観明寺の先を右に入ったところが脇本陣の跡である。縁宿広場を過ぎると、平尾宿と仲宿の境となる交差点に出る。右へ行く道は明治になって開かれた王子新道である。仲宿に入ると道は次第に下り坂となる。ライフの角を右に入る道は御成道と呼ばれる道で、この道を入ったところに板橋七福神の文殊院がある。また、この道を入ったところに、板橋宿の本陣があったという。旧中山道を進むと石神井川に出る。板橋の地名の起こりは、ここに架かっていた橋に由来すると言われている。

 石神井川を渡ると板橋宿のうちの上宿となる。板橋宿の脇本陣は、ここにあったという。この先、旧中山道は上り坂となり縁切榎の横を通っていく。さらに進むと環七に出る。旧中山道は直進しているが、このコースのルートは、ここを左に折れて現在の中山道に出る。左側すぐのところに板橋本町駅の入口があり、ここがコースの終点となる。歴史と文化の散歩道の案内板は中山道沿いに置かれており、ルート図、板橋の地名由来と縁切榎の説明、江戸名所図会による板橋の図が載っている。


(注)当ブログの、「都電荒川線に沿って」の巣鴨新田から庚申塚、「寺社巡拝」の板橋七福神、「千川上水」の千川上水花めぐりに関連記事がある。

【お詫びして訂正】
 4月24日投稿の記事の中で、英泉の図について白黒が反転していると書きましたが、光の当たり具合で白黒が反転して見える事が分かりましたので、該当する文章を削除しました。 5月7日、夢七。 


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飛鳥山コースを歩く

2013-04-15 20:15:31 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「飛鳥山コース」は、「田端文士芸術家村散歩(田端~飛鳥山公園)」と「日光御成道散歩(飛鳥山公園~岩淵水門)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は8.9kmになる。

(1)田端文士芸術家村散歩

 江戸時代、上野は花見の名所ではあったが、何かと制約があったため、飛鳥山まで花見に繰り出す人も多かったという。そこで、今回は、桜がまだ咲いているうちに、飛鳥山公園まで歩いてみることにした。出発地は田端駅。北口を出て左へ行く。ただし、サブコースのタイトルからすると、最初に、駅近くの田端文士村記念館に立ち寄った方が良いのかも知れない。入場無料で、展示スペースも広くはないので、それほど時間はかからない。

 駅から東台橋を潜り、カタツムリ・マークのガードレールに導かれて坂を上がっていき、信号のすぐ先の道を右に入ると、仁王像に赤札を貼る風習のある東覚寺に出る。寺の前を通る道は赤札仁王通りと呼ばれ、江戸時代に流行した六阿弥陀詣での参詣道に相当する道でもあるが、現在は、幅の広い新しい道路により分断されている。本来のルートでは、赤札仁王通りを右に進んで、少し先で右に折れて幅広の新しい道路に出る事になるが、東覚寺からすぐ、新しい道路を右に進んでも差し支えはない。この道路を先へ先へと進んでいくと、T字路になる。ここを右に行くと田端高台通りに出るので、左に折れ富士見橋でJRの線路の上を越える。昔は橋ではなく、線路が通り抜けるトンネルの上を道が通っていたそうだが、大正5年の地図を見ると、確かに、トンネルの上に道がある。

 富士見橋から先に進む。田端高台通りとそれに続く道は、江戸時代からの道であり、武蔵国府(府中)から豊島郡の役所である郡衙を経て下総国府(市川)に至る、古代官道にまで遡る可能性すらある道である。この道を進むと、幅の広い西ヶ原大通りとなり、標識Bが置かれている。左側の歩道で先に進み、本郷通りに合流したところで、歩道橋を渡ると旧古河氏庭園の前に出る。園内に入り、コンドルの設計による洋館、西洋庭園、それに低地の日本庭園が併設された園内をしばし散策してから外に出る。

 この先、本来のルートは左側の歩道を進むのだが、右側の歩道に移って豊島氏の城館跡と伝えられる平塚神社や、豊島郡衙跡と推定される滝野川公園に立ち寄った方が良さそうである。西ヶ原一里塚を過ぎ、その先を右に旧渋沢家飛鳥山邸の庭園に入って、晩香廬や青淵文庫を外から眺め、庭園を抜ける。飛鳥山公園には、渋沢史料館、紙の博物館、北区飛鳥山博物館があり、飛鳥山碑もあって、花見を兼ねて散策するには良いところである。

 歴史と文化の散歩道の案内板は、本郷通りに面した交番の近くにある。全体的に汚れているのが残念だが、ルート図と、飛鳥山公園及び旧古河庭園の説明、それと、広重の「江都名所飛鳥山はな見」と思われる図が載っている。飛鳥山公園から先のルートは、左側の歩道で音無橋に出るのだが、今回は、王子駅まで行き、これにて本日の終わりとする。

(2)日光御成道散歩

 王子駅の北口を出て音無親水公園を歩き、音無橋をくぐって石段を上がり、左側の歩道で音無橋を渡る。どちらかと言えば、右側の歩道を進み、王子神社、王子稲荷、名主の滝公園を経由してから本町通りに戻ってくる方がコース的には良さそうに思えるが、今回は、所定のルートに従い、本町通りの左側の歩道をひたすら進む。やがて、本町通りは左に曲がっていくが、日光御成道のルートは、本町通りと分かれて直進する。

 暫くの間は、車に注意を払いながらの単調な歩行が続き、中十条二の信号を過ぎる。その先、左側に十条富士塚があり、右側の西音寺を過ぎると、間もなく環七通りとなる。ここを渡ると、交差点の北西の角に標識Bが置かれている。先に進むと、道は下り坂となり、八幡山児童遊園の前に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。内容はルート図と、御成道の説明、御成道を含む周辺の絵図である。

 その先、埼京線のガードをくぐり、標識Cを確認しながら赤羽に向かう。途中、稲付城跡という静勝寺が左側にあるが、今回はパスして先に行く。赤羽駅北側のガード入口に標識Bがあり、左側の歩道でガードを抜けると、その先に歴史と文化の散歩道の案内板がある。内容は、ルート図と稲付城の説明、江戸名所図会による静勝寺の図である。

 案内板から東に進み、その先の広い道路を左に曲がる。この道を進んでいくと赤羽岩淵駅の交差点に出るので、ここを北に渡って右に行き次の角を曲がって北に向かう。八雲神社を過ぎると土手の下に出る。ルートでは、土手下を右に行き志茂橋に出るのだが、ここは、土手を上がり新河岸川を岩淵橋で渡って荒川の土手に出たい。ここまで来て、ようやく開放的な気分になれるだろう。このコースの終点となる、赤い色の旧岩淵水門も、間近に見えている。なお、旧岩淵水門から志茂橋方面に行くと、荒川知水資料館の前に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。内容は、ルート図と岩淵水門の説明と写真である。帰路は志茂橋を渡るルートなど幾つか考えられるが、土手の上を引き返す方が快適だろう。


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谷中コースを歩く

2013-04-06 15:03:03 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「谷中コース」は、「上野のお山散歩(湯島天神~根津神社)」と、その途中の谷中霊園から分岐する「日暮らしの里散歩(谷中霊園~西日暮里駅)」、および、「駒込寺町散歩(根津神社~駒込駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は7.3kmになる。

(1)上野のお山散歩

 「池袋コース」の途中、湯島天神の西側にある標識Aが、このコースの起点となる。湯島天神は、梅の季節も終わって、今は参詣する人も少なめになっているが、その分ゆっくりと、お参りすることが出来る。この神社、菅原道真を祭る天満宮としての創建は14世紀中頃と伝えられるが、この地に天之手力雄命を祭ったのはそれより古く、古代にまで遡るとする説すらある。天之手力雄命は地主神として境内の戸隠神社に祭られているが、現在は湯島天神の祭神に加えられているようである。湯島天神の横の坂は切通坂と呼ばれ、昔は急な坂だったそうだが、今はさほどでも無い。坂を下って交差点を左に渡ると標識Bがあり、さらに進んで道路を渡り上野公園に入る。ここの入口にも標識Bがある。

 不忍池に沿って右に行き、蓮見茶屋を過ぎる。その先、下町風俗資料館近くの人込みの中に標識Aを見つける。ここは、千住コースの起点にもなっているのだが、そんな事に関心があるのは少数だろう。資料館への入館はまたの機会にして先に進むと、十字路に出る。左へ行けば弁天堂だが、ここは右に行き道路を渡って石段を上がり、桜通りに出る。

 桜通りは上野の花見の中心となる通りだが、ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、寛永寺と上野公園の説明、江戸時代の寛永寺境内の地図である。桜通りから石段を上がると清水観音に出るが、今回はパスして桜通りを左に行き、大仏パゴダのある大仏山の先を左に入る。東照宮への参道を見送って先に進むと、動物園の表門となり、その先に標識Bがある。湯島天神からここまでは、人通りが多く、見どころも多いので、ルートにこだわらずに、自由に散策した方が良さそうである。

 動物園から先に進むと東京都美術館の前に出る。ここを左に行く。行き止まりのような道だが、道は突き当たって右に曲がり、動物園と美術館の間の閑散とした道となる。その先、角に旧博物館動物園駅の建造物がある交差点を渡ると、左側に黒田記念館があるが、現在は耐震改修工事中で休館している。その隣の国際こども図書館の方も改修工事中である。先に進み、角を標識Cにより左に曲がると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、現代および江戸の地図上にルートをプロットしたもの、江戸名所図会による東叡山寛永寺の全体図、上野寛永寺の説明、広重による「上野東叡山ノ図」である。広重の図は、現在の桜通りに相当する道を描いているが、右側の山上に清水観音を描き、中央に山門とも呼ばれた文殊楼(現存せず)を描いている。その位置は大仏パゴダのある大仏山の下あたりになる。

 寛永寺の本堂に相当する根本中堂は、上野公園の噴水池の辺りにあった。幕府は、根本中堂の造営にあたり、天皇の筆になる勅額の拝受を願い出たが、東山天皇が受けなかったため、上皇(霊元天皇)が受けることになった。完成した勅額は京都から陸路で運んだが、途中の運搬に手間取って、落慶法要には間に合わなかった。そればかりか、勅額が江戸に到着した日に大火が発生し、寛永寺の本坊や霊廟も類焼した。根本中堂は何とか防ぎとめることが出来たが、幕府は、勅額の複製を作って根本中堂に掲げることとし、本物の勅額は土蔵に保管することにした。この火事が世に言う勅額火事である。根本中堂は、官軍と彰義隊が戦った上野戦争の際に、他の多くの建造物とともに焼失してしまったが、滋賀県石津寺から移した本尊の薬師如来と、山形県立石寺から移された日光菩薩・月光菩薩は無事に運び出されている。この三体の仏像は、現在、秘仏の扱いになっているが、国立博物館の特別展の時に公開されたことがあり、その折に拝観したことがある。

 案内板から先に進むと、右手に寛永寺の根本中堂が見えてくる。川越喜多院の本地堂を移設したもので、瑠璃殿の勅額は、土蔵に保管されていたものであれば、本物という事になる。寛永寺から言問通りを渡ると、江戸六地蔵の一と称する浄名院に出る。江戸六地蔵とは、宝永年間に地蔵坊正元の発願で鋳造され、江戸の六ケ所の出入口に配置された六体の地蔵の事を言うが、そのうちの一体、深川の永代寺の地蔵が明治になって破却されたため、浄名院が、明治時代に日清日露の戦没者供養のため建立した地蔵を、その代替えと称したのだが、これには、異論も出ているらしい。浄名院の右側、霊園の道に入り、次の角を左折、浄名院の塀に沿って先に行き、標識Cにより右に折れると、その先で道幅が広くなる。塀に沿って進むと谷中霊園中央園路に出るが、ここでは、左側の歩道に移り、少し先の標識Aを確認し、右に分岐する「日暮らしの里散歩」のルートを見送って先に進む。

 寺の多い三崎坂を左側の歩道で下り、不忍通りに出る。これを渡り、団子坂を上がる。坂の上に標識Cがあるが、位置移動の際に向きを変えたらしく表示がおかしいので、無視して、すぐ先の道を左に入る。この道を藪下通りといい、校舎を一段下に見ながら進む。途中で標識Cと標識Bを確認しながら歩いて行くと、根津裏門坂に出る。「上野のお山散歩」はここが終点で、道路を渡れば根津神社はすぐそこだが、今回は立ち寄らない。

(2)日暮らしの里散歩

 三崎坂の上にある標識Aを起点として、道路を渡り、北に向かって進むのが、「日暮らしの里散歩」のルートだが、その前に、右手にある谷中霊園中央園路に行ってみる。この道はもともと感応寺(天王寺)の参道であったが、今は桜が多いため桜通りとも呼ばれている。この道の入口に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、谷中寺町と霊園についての説明と、江戸時代の谷中の地図にプロットしたルート図に焼失前の天王寺五重塔の写真、観音寺の土塀の写真、広重の「道灌山虫聞之図」、江戸名所図会による感応寺(現・天王寺)の図と三崎法住寺(三崎坂の下にあった)の図を配したものである。

 本来のルートに戻って、北に進む。車一台が通れるほどの道だが、趣のある道である。この道の途中に、和風と洋風の建築を一体化した朝倉彫塑館があるが、現在は改修工事中になっている。その先、経王寺の前の通りを左に行くと、ゆうやけだんだんを経て谷中銀座に出るが、今回は本来のルートに従い、諏訪台通りを直進する。この道の途中に、江戸の六地蔵の寺である浄光寺がある。江戸の六地蔵には、宝永の頃に建てられた江戸六地蔵のほかに、元禄時代に建てられた六地蔵があり、江戸六地蔵と区別するため東都六地蔵と呼ばれている。浄光寺は、この東都六地蔵に属している。その先、諏方神社に立ち寄ったあと、標識Cに従って先に進むと、西日暮里公園に出る。公園の入口には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、道灌山の説明、広重の「道灌山虫聞之図」である。広重の図は谷中霊園の中央園路入口にあった案内板と重複している。西日暮里公園に沿って下ると、西日暮里駅に出る。ここが、サブコースの終点である。

(3)駒込寺町散歩

 藪下通りを抜け、根津神社裏門坂に出たところで、右に折れる。そのまま進めば本郷通りで、ここを右折。布袋に見守られつつ浄心寺を過ぎる。今もなお、寺町の雰囲気が感じられる道を進めば、吉祥寺の山門の前に出る。吉祥寺は、学問寺であった頃の面影はすでに無く、江戸から引き継いだ建造物も山門と経蔵だけになってしまっている。それでも、往時の風格は失われていない。寺の山門の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ルート図、本郷通り周辺の概説、吉祥寺門前の図が、その内容である。

 本郷通りを歩くのも少々飽いて、吉祥寺からは裏道を歩く。突き当たりは富士神社。閑散としている境内に入り、石段の下から頭を下げ、また本郷通りに戻り、不忍通りを渡る。そのまま進めば駒込駅。本コースもそこ迄となるが、その前に六義園に入ってみる。正門には人が溢れていて、その流れの行き先に枝垂れ桜が一樹。その華麗な姿を人々に披露している。しかし、今日のお目当ては、この桜ではない。池に沿って歩き、千鳥橋を渡り、吹上茶屋の裏手へと歩を進める。ここに、お目当ての桜の木がある。吟花亭跡にひっそりと立つ、孤高の枝垂れ桜。この桜樹が全ての花を散らし終えたあとは、その姿を仰ぐ人も、いなくなるのだろう。桜の散る音を微かに感じながら、園内を巡り歩き、裏門から外に出る。まだ昼日中。散りかけの桜を探し求めて、もう少し、この町を歩いていたい。

(注)当ブログのカテゴリー「江戸名所」の江戸名所記見て歩きの(2)と(4)に、寛永寺と吉祥寺の記事がある。

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