夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

35.大宮八幡宮道しるべ

2009-05-29 21:39:01 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政九年四月二十八日(1826年6月3日)、堀の内の妙法寺(杉並区堀ノ内3)に詣でてから、門前の道を南に行き、八幡宮の大門の通りに出る。道の出口の北側に古い墓があり、傍らに石地蔵が二体あった。誰の墓かは伝えられていないということであったが、文字が記されていない事から、嘉陵は鎌倉初期のものと推定している。嘉陵が残した墓石の図からすると、杉並区指定文化財で南北朝時代のものと推定されている旧大宮寺宝篋印塔(大宮寺は大宮八幡の別当寺)が、この墓石に該当するかも知れない(未確認)。ここから、500mほどで八幡宮の惣門に着くが、ここに鞍掛の松(図)という大樹があった。源義家が鞍を掛けたという伝説の松である。八幡宮の松は、寛永寺の根本中堂(幕末に焼失)を造営する際に伐採されたため、松の大樹で残っているのは、鞍掛松のほかは、東にある一本松(現在は枯死)と、惣門内の林の中にある松だけだと記している。なお、初代の鞍掛松は既に枯れ、現在は、代替わりの松が商店街の中に聳えている。

 大宮八幡(杉並区大宮2)の本社の正面には額があり、それには、金地に松の梢に白鷹のとまった絵が描かれていた。この額には慶安三年七月十五日とあったが、奉納者の名前は消されていた。人の話では、額を奉納した由井正雪が謀反人になってしまったため、名前を消したということであった。本来は額ごと取り外すべきだが、別当が惜しんで残したのだろうと、嘉陵は書いている。なお、額は非公開ながら、現在も神社に保存されているとのことである。

 大宮八幡には弓術の額も掛っていたが、その中に文政の始めに奉納された片見流の額があった。片見流は近頃一派を立て、浅草観音に南蛮兜を弓矢で射ぬいたものを奉納しているが、神田明神にも大沼優之助と弟子が射ぬいた南蛮兜が奉納されており、あまり自慢にならないと嘉陵は考えていたようである。また、これに関連して、筋兜も薄い板金を使っているものは貫き易いが、この事を知った上で奉納したのかとも述べている。これに加えて、日置流七派の弓術について、極めればどの派も同じで、一派を立てるには及ばないと断じ、森川貞兵衛の大和流については、人を勧誘するために流派を起こしたのではないかとの疑問を呈し、況や片見流においては、森川の流派にも劣ると述べている。嘉陵は広敷用人として、庶務的な雑務をこなしていたと思われ、また、私的には文墨に親しむ文人的側面を持ってはいたが、武士である事には変わりはなく、武術や武具に関しても、一家言持っていたのであろう。

 天保五年二月に嘉陵は、筋兜に関して、次のような事を追記している。
「文政の末に、三宅土佐守が、所持していた古い筋兜を木刀で試し打ちさせたところ、一太刀で細い鋲が飛び散って天辺がくだけ、二太刀目で兜の半ばまで鋲が抜け落ちた。筋兜は堅固ではなく、鉄の薄い場合は特にそうだという事を、大抵の人は知らない」


コメント

34.千駄ヶ谷にくつわ虫を聞く

2009-05-27 22:48:33 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政八年八月二日(1825年9月14日)、嘉陵は千駄ヶ谷に、くつわ虫の声を聞きに行っており、略図をつけ、詩も作っているが、紀行文は無い。この日の千駄ヶ谷への経路だが、略図からすると、甲州街道の角筈新町から千駄ヶ谷通りを通るか、四谷大通り(新宿通り)から焔硝蔵(国立競技場付近)の横を通るか、青山通りから来るかの何れかと思われる。ところで、虫の声を求めて郊外を歩くことを虫聞きといい、江戸では墨田川岸辺、浅草田圃、根岸、三河島、飛鳥山、王子、お茶の水、関口、広尾原が虫聞きの名所として知られていた。しかし、千駄ヶ谷はどうだったのだろう。千駄ヶ谷八幡(鳩森神社。渋谷区千駄ヶ谷1)の西側は、渋谷川上流の低地で田園地帯であったから、虫の声を聞くことは出来ただろうが、嘉陵も書いているように、人通りも稀な寂しい場所であったので、虫聞きに訪れる人は少なかったかも知れない。嘉陵が代々木八幡を訪れた時、道すがら藪キリギリスやコオロギの声は聞いたが、くつわ虫は絶えて聞かなかったと書いているので、千駄ヶ谷でくつわ虫を聞けたとすると、それは珍しいことであったのだろう。

コメント

33.岡の秋風

2009-05-23 11:14:51 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政八年七月十五日(1825年8月28日)、今日明日と盂蘭盆会で、御殿の飛騨の匠も出仕せず、朝から暇だったので、嘉陵は寺詣に出掛けている。その途中、仙台坂(港区元麻布1)の上にある茶屋で休んでいるが、昔、この付近で起きた、大名伊達美作守と旗本岡八郎兵衛との争いについて、以前から関心があったのか、わざわざ取り上げて、この一件についての経緯を書いている。「徳川実紀」による事件の概要は次のようなものである。

 「徳川実紀」の元禄十二年九月二十六日の記事は、この日、伊達美作守村和が逼塞(謹慎処分)となり、小姓組番士岡八郎兵衛孝常が小普請入り(実質的な免職)、逼塞(謹慎処分)となったとし、その経緯を次のように記している。

 元禄十二年九月九日、岡八郎兵衛が登城の途中、伊達美作守の行列と行き合ったが、八郎兵衛が行列を横切ったとして、美作守の従者が駆けつけ八郎兵衛に組みついた。八郎兵衛が刀を抜いて討ち払おうとしたところ、後から五六人が駆け集まり、刀を奪ってしまった。美作守はその事を知らなかったのか、駕籠を早めて自邸に急ぎ帰り、狼藉した従者も八郎兵衛を捨ておいて、主人の後を追った。八郎兵衛は大いに怒り、槍を持って屋敷まで駕籠を追いかけた。美作守の家人は慌てふためき大騒ぎとなったため、八郎兵衛は目付あてに事の次第を報告させた。そこで、番頭や目付が美作守の屋敷に行き、八郎兵衛をなだめて帰した。その後、裁決があり、美作守の従者の挙動に問題ありとして、従者三人については美作守屋敷において処刑し、美作守も処理の仕方が良くないとして逼塞処分となり、八郎兵衛も美作守の行列を突っ切ったとして、小普請入りとし、逼塞を命ぜられた。

 茶屋を出た嘉陵は、このあと麻布四の橋の西福寺(港区南麻布2)に詣でている。森銑三の「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」によると、西福寺は村尾家の墓所であったらしい。つまり、嘉陵は先祖の墓参りに西福寺を訪れたのだろう。そのあと、まだ日が高いので、渋谷川を渡って爺が茶屋を通り、目黒不動に向かっている。爺が茶屋は、家光を始め将軍が度々立ち寄ったという茶屋である。茶屋の名は一軒茶屋・彦四郎であったが、実際には、爺が茶屋と婆が茶屋の二軒あったという。確かに、広重の名所江戸百景「目黒爺々が茶屋」を見ると、茶屋が二軒あるようにも見える。現在、茶屋の跡地(目黒区三田3)付近に、説明板が置かれているが、当然のことながら往時の面影は無い。

 道を下って少し行くと目黒不動(写真。目黒区下目黒3)である。昔は、目黒の不動尊、雑司ケ谷の鬼子母神、浅草寺の三か所を江戸の三拝所と言い、何れ劣らぬ活況を見せていたが、今は目黒と雑司ヶ谷は寂しくなってきているようだと、嘉陵は書いている。浅草観音の賽銭も、宝暦や明和の頃には、月々、かます20袋もあって金や銀も混じっていたのが、天明になると10袋に足らないこともあった。まして、目黒や雑司ヶ谷ではその十分の一が相場だろうという。この日は、明日の斎日に備えて全ての末社が扉を開けていたので、嘉陵は仏像を拝観して回っている。目黒には甘薯先生(青木昆陽)の墓があるが、今回は詣でるのは止めて、祐天寺(目黒区中目黒5)に向う。この寺は明日が千部経の始めということで、準備を進めており、周辺には仮茶屋が並んで、明日を待っていたという。

 ここから田圃の中の道を北に行くと、目切り坂(目黒区若葉台1)を上がった先に二つの富士がある。そのうち東の峯(新富士)の麓には蕎麦を売る店があった。最近、近藤十蔵(近藤重蔵守重)が戻ったと聞いていたので、垣根を作っている男に聞いたところ、時々ここにも来るという。今はすっかり貧しくなったが、相変わらず喧しいという事であった。近藤重蔵は、蝦夷地探検家として知られる人物だが、性格が災いして文政二年に書物奉行から大坂御弓奉行に転出。さらに文政四年には、その職も解かれて謹慎を命ぜられていたのである。新富士は重蔵の屋敷内に築いたものだが、標柱に置かれていた鶴の造り物は、落ちて無くなっていた。千年不死鳥を願ったのだろうが、それも虚しかったわけで、児戯に等しい事と嘉陵は書いている。

 まだ日が暮れぬうちに、嘉陵は青山百人町(港区南青山3、北青山3)を通り過ぎるが、近辺の同心の家々で、高灯籠を掲げているのを見る。長い竿を数本つないで、樅や杉の梢に結び付け、細い糸で灯籠や提灯を吊り下げるようにしたものである。盆会の時に、日光の御宮に奉納する気持ちで掲げていたものだが、今も、上意を受けて続けているという事であった。この日、家に帰り着いたのは、午後6時頃であった。

コメント

32.藤稲荷に詣でし道くさ

2009-05-20 21:58:58 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政七年九月十二日(1824年11月2日)。落合の七曲りに虫の音を聞きに行こうと、同僚に誘われてから、すでに15年も経つ。年を取るのはあまりに早く、もう一時も無駄には出来ない。若い頃は寸暇を惜しんで働いたが、老いてからは、今の楽しみに心を傾け、人生の最後をより良いものしたいと思っている。移り住んだ先の障子や襖も放置したままで、もうすぐ冬なのにと家内が言うのも、今は知らぬふりを決め込んでいる。今日のような麗らかな日は、家に居る気分になれない。これも老後の心を豊かにする為と思い、落合に出かけることにした、と嘉陵は書いている。途中、老中水野忠成の高田の下屋敷を見に行くが、水稲荷(旧地は新宿区西早稲田1)の東側に、人目につかない隠れ家のような屋敷があって、竹の垣根を回らし、ひっそりと門を建ててあるだけだったという。このあと嘉陵は、高田馬場(馬場跡。新宿区西早稲田3)に出て、落合の藤稲荷に向っている。

 嘉陵が藤稲荷に来たのは40年も前のことだが、今も昔の面影が残っていて、もの寂しい雰囲気であった。ここには、別当の姿は無く、40歳ほどの女と女童が、明日の月見の準備か、臼を挽いていたという。江戸名所図会の「藤森稲荷社」を見ると、田圃から少し上がった所に社があり、山の上には祠が見える。前は一面の田圃で、後ろは山が続いている。嘉陵も、近辺に住人が居るのだろうか、風雨の強い日にはどんなに侘しい思いであろうか、と書いている。現在の藤稲荷(東山藤稲荷神社。新宿区下落合2。写真)は、山の下に社は無く、山上に鎮座する社だけになっている。その背後は、おとめ山公園で、僅かながら湧水もあり蛍を養殖している。実は、落合の辺りは、蛍の名所として知られたところだったのだが、虫の音を聞きに来る人も居たのかもしれない。

 ここから西に行くと薬王院(新宿区下落合4)に出る。門を入ると右に鐘楼と宝塔があり、向いに客殿、左に庫裏があった。嘉陵は、坊の垣根に沿って、けもの道を上がっている。上は広い畑で、向こうに四家町から上板橋に行く道(旧清戸道。現在の目白通り)があったが、その先は鼠山であろうと記している。御府内沿革図書附図では、現目白通り北側の長崎村の一角(豊島区目白4)が鼠山と表記されている。嘉陵が文化十三年に書いた略図でも、椎名町を通る道(現目白通り)の北側に鼠山を記している。しかし、文化十二年に書いた略図では、道の南側に、鼠山二万坪と書かれている。鼠山はもともと、付近一帯をさす漠とした地名だったのかも知れない。結局、この辺は眺めが良いわけでもなく、道もはっきりしなかったので、嘉陵は、もと来た道へと戻っている。家へ帰る途中、牛込あたりに来ると、月が隈なく照っていたと記し、歌を詠んでいる。

 ところで、薬王院の垣根に沿った道について、嘉陵は、これも七曲りかと書いているが、本来は、氷川神社(新宿区下落合2)の近くから上る道を、七曲りの道と呼んでいた。嘉陵は、藤稲荷で七曲りの場所を聞いているのだが、要領を得ない返事であったため、本来の七曲りの道を見落としたのかも知れない。現在の薬王院は、牡丹の寺として知られ、花時には訪れる人も少なくない。寺の東側には野鳥の森公園の横を通る道があり、西側には石段の道がある。嘉陵が七曲りの道の一つと思って上った道の、今の姿かも知れない。

コメント

31.谷中に遊ぶ

2009-05-18 21:21:25 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政六年三月十二日(1823年4月22日)、嘉陵は、谷中の天眼寺(台東区谷中1。写真)を訪れ、儒者の春台太宰純の墓に詣でる。表に春台太宰先生之墓と刻み、裏には服部南郭の文を記す。書は松下烏石である。近くに書肆嵩山房の小碑も建っていた。太宰純(1680-1747)は春台と号し、荻生徂徠門下の儒者であった。このあと、玉林寺(台東区谷中1)を訪れ、中村蘭林の墓に詣でる。中村蘭林(1697-1761)は、幕府儒官の室鳩巣の門下で、医者から儒者に転じた人物である。ここに将軍家光が訪れたことがあり、当時は不忍池が見えたので望湖山と名付けたという。次に訪れたのは、領玄寺(台東区谷中4)である。この寺には亨師桜という桜があり、十月の御会式の時に花を咲かせるが、春にも花が咲いていた。その次に、瑞輪寺(台東区谷中4)を訪れる。寺の門から本堂まで200mほどの間、大樹の桜並木が続いていたという。

嘉陵の紀行文に登場するコースは、長い距離を歩くものが多いが、今回は谷中の狭い範囲を巡るだけであり、ちょっとした散策といったところである。

コメント

30.2 石神井の道くさ(2)

2009-05-16 11:24:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は、中荒井村への道を分けて、左に馬道を行き、鷺宮を経て伊草(井草)に出る。ここから北に行き、関の溜池(武蔵関公園の富士見池)を水源とする川(石神井川)を石橋で渡る。渡った先は石神井だが、行き来する人もいなかったという。道の突き当たりの寺が禅定寺(練馬区石神井町5)で、ここから山に沿った田圃の縁を行くと、道常寺(道場寺。練馬区石神井台1)に出る。その西隣の三宝寺(練馬区石神井台1)は大門を閉じていたので、坊の門から入る。鐘楼、庫裏、本堂があって境内は広いが人影はなかった。西に行くと氷川社(練馬区石神井台1)があり、その西側の天満天神の小社の少し先を、北に下って行くと弁財天の社(写真。練馬区石神井台1)があった。社の周りは三宝寺池で、雁や鴨が無数に居た。嘉陵は、三宝寺の後ろが豊島権頭の居所で城山と呼ばれている事を聞き、訪ねてみたところ、掻き上げの堀切があり、池の水源付近は堅固に固められており、西は山を堀り切って境とし、東はなだらかで民家があり後ろは山畑になっていたと記している。また、寺の裏門近くに小さな山があったと記している。

 現在、石神井城は中世前期の標準的な規模の城館と考えられている。築城年代は定かでないが、一説に豊島泰景が正安年間に築城したともいう。城の規模は東西350m、南北350m。内郭中心部は三宝寺の裏手にあり、現在、周囲はフェンスで囲まれて都史跡として保存されている。文化の日には、土塁や空濠の残る内部が公開されるほか、城跡周辺を巡る見学会も開催されている。石神井城主であった豊島泰経は、文明九年、江古田沼袋の戦いで太田道灌に破れて敗走し、石神井城も落城したとされる。この時、城主と娘の照姫が三宝寺池に入水したという話があり、池の北側に塚もあるが伝説に過ぎない。三宝寺は、もともと禅定院付近にあったが、石神井城落城後、太田道灌により旧城域であった現在地に移転されたという。三宝寺池は、沼沢植物群落が国の天然記念物に指定されていることもあって、都市部の公園の割には、周辺環境も自然のままに保存されている。池には雁はともかく水鳥が多く飛来し、バードウオッチャーの姿も少なくない。

 嘉陵は昼を過ぎる頃、ここを出て帰路についている。もと来た道を伊草(井草)まで戻って、南に馬道を行くと、天野沼(杉並区本天沼)に出る。ここからは東に行き、沼袋を過ぎ、川(神田川)を渡って、午後6時に高田馬場(馬場跡)に出る。現在の道でいえば、早稲田通りを東に向い、小滝橋を渡って、高田馬場跡に出たということになるだろうか。ここから先は熟知の道を歩いて、午後8時には家に帰っている。この日歩いた距離は50kmほどであろうか。この年、嘉稜は63歳になっていた。

コメント

30.1 石神井の道くさ

2009-05-14 20:14:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政五年九月十一日(1822年10月25日)、石神井の弁才天に詣でようと、嘉陵は朝早く家を出ている。椎名町の慶徳屋の先に分かれ道があり、ここで上板橋への道と分れて、楢の木が植えられた馬道を行き、下って上がり、また下ると田圃があった。ここに田中屋長助という豆腐を売る店があったので、腰掛けて持って来た飯を食べたと記す。現在の道でいえば、目白通りと山手通りの交差点より手前(目白寄り)が、慶徳屋のあった椎名町で、交差点から少し先の二又交番の辺りが分かれ道の場所に相当している。ここを右へ行けば上板橋または長命寺に出られる。余談だが、交番から右の道を少し行った右手に、手塚治虫をはじめ多くの漫画家が住んだトキワ荘というアパートがあった。現在、そのアパートは跡形も無いが、最近、トキワ荘に因んだ記念碑が少し先の南長崎花咲公園に建てられたこともあって、見に来る人もいるようである。さて、もとに戻って、交番のところから左の目白通りを行き、大江戸線落合長崎駅の先から新青梅街道を辿るのが、嘉陵が歩いた道に相当する現在の道筋である。新青梅街道は、蓮華寺と哲学堂の間を通って西に向うが、旧道は蓮華寺の先で北に曲がって、妙正寺川支流の江古田川を渡っている。豆腐を売る店は、この辺にあったのではなかろうか。

 嘉陵は椰子の器を水筒代わりに持参していたが、店の人には珍しがられたらしい。また、この店の姥は親切で、酒を温めて持ってきたり、畑の芋を料理して出してくれたりした。嘉陵は酒をあまり嗜まなかったようだが、この時は少し呑んだと書いている。店の者からは、近くの山で初茸が取れるが、番人が居るので断りなしには入れないという事も聞いている。山とは和田義盛の陣場跡という和田山(現在の哲学堂付近)で、孫右衛門という農家の持ち山だという。家康が江戸に移ってきた時に、榊原康勝(徳川四天王の一人、榊原康政の子)が孫右衛門の家に立ち寄ったことがあり、それ以来、年初には必ず来て白銀三枚を贈るという話を聞いたことがあったので、地元の人に確かめたところ、その通りであったと、嘉陵は記している。この孫右衛門とは、深野孫右衛門のことと思われる。深野家は江戸時代の始めから江古田村の名主を勤め、榊原家の御用を勤めていた旧家である。

 ここから先に進み少し上ると、大きな蔵があった。山崎喜兵衛という醤油造りの家で、近くに分家で燈油搾りの七兵衛の家もあった。嘉陵によると、醤油は運賃込み五百銭で江戸に出しており、樽には山の形の下に上と書いた商標を付けていたという。当時の商標を付けた樽などは、現在、残っていないようだが、山崎の山をかたどった形の下に喜兵衛のキを付けた商標を用いていたとされるので、キの字が汚損して上の字に見えていたのかも知れない。なお、山崎家は名主を勤めた旧家であり、江戸時代の後期に建てられた茶室書院(中野区江古田4。写真)が、中野区立歴史民俗資料館に隣接する場所に残されている。



コメント

29.2 船堀・宇喜田・猫実(2)

2009-05-10 22:02:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 三角の渡しを南に渡って少し行くと、東宇喜田の長島村と桑川村に出る。長島村の内には清光寺(江戸川区東葛西3)があり、その門の先は二ノ江村であった。南に畦道を行き、堤に上ると農家漁家が百戸ほどあるのが見えた。西宇喜田の中割村といかづち村である。この辺は田安家の御鷹場でもあった。堤に沿って多くの松が植えられていたが、堤から磯まで一里ほどあり、その間に芦萩が生い茂って海の方は見えなかった。ここから堤の上を東に行き、北に折れると、堀江の渡しに出た。

 嘉陵はここで利根川を渡り、入堀を上って猫実(浦安市猫実)に出ている。入堀は現在の境川(浦安市堀江4)と思われるが、当時は利根川の水を分けて猫実の海に注ぐ流れの早い川であった。猫実の戸数は七八十戸、多くは漁家だが農家も混じっていた。南東には大神宮(豊受神社。浦安市猫実3)が鎮座し、橋を渡った先には薬師堂(東学寺。浦安市堀江2)があった。嘉陵の書いた略図によると、豊受神社の東側はすぐに海になっている。磯に芦が茂って展望を妨げていたとはいえ、海の方を望むことは出来たのだろう。嘉陵は、南東の方角に伊豆天城山らしき山が見えたが、他は曇って見えないと書いている。実をいうと、これは勘違いで、方角からすると、見えていたのは房総の山々の筈である。嘉陵は、海辺の眺めを見ようと、わざわざ此処まで来たのだったが、思い通りにはならなかったとも書いている。現在は埋め立てが進んで、海岸線は遥かに遠くなり、1km歩いても海辺に出ることは出来なくなっている。

 嘉陵は、ここから北へと向かうが、所々に地引網が掛け並べられ、また草の間に広げて乾かしているのが見えた。入堀も幾つかあって、漁船を繋いでいたが、御成りがある時は、漁家に命じて地引網を引くということであった。庚申堂のある場所から用水に沿って畦道を2kmほど北に向かうと、戸数百戸ほどの新居村(市川市新井)に出た。なお行けば相の川村(市川市相之川)で、その北が行徳である。新居と相の川の間にある今井の渡し(今井橋付近。市川市広尾2)で、行徳からの舟を待って乗る。利根川(旧江戸川)、船堀(新川)は流れに従って進み、船頭も櫓を推すに及ばずであったが、小奈木川(小名木川)に入ると水勢も静かになり、船頭も櫓を動かすようになった。今井を出たのは午後4時頃。家に帰り着いたのは、火点し頃であった。

コメント

29.1 船堀・宇喜多・猫実(1)

2009-05-08 21:48:07 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政五年八月三日(1822年9月7日)。この日、嘉陵は、小奈木川(小名木川)から利根川(旧江戸川)に抜ける水路を通って海を見に出掛けている。利根川(旧江戸川)から船堀、中川、小奈木川を経て隅田川に出る水路は、行徳の塩を江戸に運ぶために開かれ、その後は江戸時代を通じて物資流通の大動脈となった水路である。今は、小名木川の水運の役割も終わってしまったが、隅田川と中川の間の水路は現在も残っている。写真の手前は旧中川で、奥に見えるのが小名木川である。ところで、川の水は利根川から西に向かって流れていたが、この日は、上流で雨が降ったせいか、水量が多く水が逆巻くように流れていた。そこで、江戸から利根川に行く場合は、大小にかかわらず舟を引く必要があり、利根川に出てから帆を揚げて走ったとある。また、大平舵の舟の場合は、連尺(肩に当たる所を幅広く組んだ荷縄)をかけて数人で引いたと書いている。

 中川から船堀(新川)に入ったところに、北から小松川が流入していて、その川口に一つ家の渡しがあった。女はこの渡しを渡って北に行き逆井の渡しを渡って江戸に出るということであった。小奈木川と中川の合流点にあった中川船番所(跡地は江東区大島9)の目を避けるためなのだろう。また、利根川の手前に、三方に渡ることから名が付いた三角の渡しというのがあった。ここに、元利根の掘割という堀があった。元は利根川に通じていた堀なのだが、入口で舟を損傷する事が多かったため、利根川に直線的に出る新掘を開削し、元利根の掘割は行き止まりの堀になっていた。現在は、船堀と新堀を合わせて新川という名になっており、その川沿いには遊歩道が作られている。三角の渡しは、この川に架かる三角橋(江戸川区北葛西5)付近にあったとされる。また、元利根の掘割は古川親水公園(江戸川区江戸川6)として残されている。

コメント

28.明王院に楓を訪う

2009-05-02 22:18:45 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政四年十月二十四日(1821年11月18日)。この秋、道宮の君(教宮)が清水家の殿舎に移られたので、その手伝いのため星の出ている時分に家を出て、星が出てから帰宅するという日々が続いていた、と嘉陵は記している。伏見宮貞敬親王の姫宮であった教宮英子女王は、徳川清水家第四代斉明と婚約していたが、この年の九月に京都を立って、清水家の屋敷に移っている。そのため嘉陵も多忙な日々を過ごしていたというわけだが、それも十月には終わり、のどかな日々を送れるようになった。そこで嘉陵は、紅葉が綺麗だと本で読んだ事のある目黒の明王院(廃寺。跡地は目黒区下目黒1の雅叙園内)に、紅葉を見ようと出掛けている。

 途中、白金台の高松藩下屋敷(自然教育園付近。港区白金台5)の向かいに、前庭の左右に竹を植え、茶室を二ヶ所造った竹の茶屋というのがあった。庭は南を前に、なだらかな山を築き、裾の池に橋を架け、紅葉もあちこちにある。ことさら奇をてらった近頃の庭とは違い、緑も紅葉も自然のままで、嘉陵には好ましく思えたのだろう。清水家の庭にも、このような所があったら良かったのにと書いている。

 嘉陵は、行人坂(目黒区下目黒1)を三分の二ほど下った所の茶店で、明王院の場所を聞いている。茶店の向いは大円寺だったが、明和九年二月二十九日の大火の火元であったため、当時は廃寺となっていた。その跡地で五百羅漢の像を作り始めていた事を嘉陵は知っていたようだが、中には入らなかったようで、完成したかどうか分からないと記している。大円寺(目黒区下目黒1)は後に再興し、五百羅漢石像(写真)ともども現存している。明王院(廃寺。目黒区下目黒1)はその並びにあり、大黒天を祀る堂の傍らからは、西に目黒不動の山が見え、南には夕日の岡が続き、裾には田圃が見渡せた。嘉陵は紅葉を探して境内を見て歩くが、一本も見当たらない。仕方なく、茶店に戻って休み、庭の一本の紅葉を眺めただけで、この日は終わっている。

 嘉陵は、「江戸砂子」という書物を読んで、明王院に紅葉を訪ねたのだが、結局、空振りに終わったということになる。嘉陵は文政三年三月にも、道永寺から園照寺に行く途中、西向天神の続きにある七面社の桜についての「江戸砂子」の記述が、実際とは違うことに気づかされていたのだが、また欺かれたわけで、人に尋ねもしないで、書物に書かれていることを本当の事と信じてしまったからだと書いている。実は、明王院の裏手の岡が夕日の岡と称されたのは、楓が多く夕日に映えていたからで、「江戸砂子」が書かれた当時は、明王院は楓の名所であったのだろう。

コメント