夢七雑録

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100の思考実験・その2

2021-02-25 19:01:11 | 私の本棚

バジーニ著「100の思考実験」に掲載されている思考実験のうち、3件については2020年6月15日に投稿しているが、その続きとして、パラドックス(逆説)に相当する思考実験を取り上げることにした。パラドックスには、誤りのようで実は正しいもの、正しいようで実は間違っているもの、正しい推論のように見えて矛盾を引き起こすものが含まれており、まともに考えると難しい話になるが、この本は一般の読者向けに、パラドックスの内容を書き換え、解説も付け加えている。なお、読後のコメントには、一般の読者の一人として考え、思いついたことを記すことにした。

 

1.殺すことと死なせること・トロッコ問題

(1)概要

暴走した列車が線路を下ってくる。そのまま進めばトンネルで作業中の40人が死亡する。暴走する列車は止められないが、分岐器のレバーを引いて別の線路に切り替えることは出来る。別の線路の先には5人がトンネルで作業しておりレバーを引けば間違いなく死ぬ。レバーを引くべきか、それとも、何もせずに40人を死なすべきか。

(2)解説

この思考実験は、イギリスの哲学者フットによる「トロッコ問題」というパラドックスがもとになっている。功利主義によれば最大多数の利益になる行いが、道徳的に正しい行為とされているので、レバーを引いて、より多くの人を助ける方が合理的で道徳的だと考えられる。しかし、救われる多くの命があるにしても、人を殺すという行為は正当化できない。一方、レバーを引かなかったら、どうなるか。その結果として、多くの人を死なすことになったとしたら、その責任がまったく無いと言えるだろうか。

(3)読後のコメント

このパラドックスでは、暴走する列車(トロッコ)は止められないことになっているが、仮に自らの命を犠牲にして列車を止めたとすると、道徳的には正しい行為ということになる。ただ、同じ事を他人には求められないので、過剰な行為ということになるらしい。

暴走した列車を運行する会社の社員が分岐器の近くに居て、トンネル内で行われている作業のことを知っていたとしよう。この社員がレバーを引けば40人を助けたことになり、道徳的には正しいことにはなる。しかし、その一方で5人を殺したことになってしまう。一方、レバーを引かなければ5人を殺さずに済むが、結果として40人を死なせることになる。この社員が列車の暴走についての責任が無ければ、5人を殺すことよりも、40人を死なした事の方が罪は軽いのかも知れないが。

一方、分岐器の近くに居たのが、この会社の社長だったとしたらどうか。何れにせよ、列車の暴走は社長として相応の責任があるわけで、暴走が起きてしまった以上は、出来るだけ死者を少なくするためにレバーを引く方を選択するかも知れない。レバーを引く行為は道徳的には正しい行為のようにも思えるが、人を殺したという事実が変わるわけではない。

このパラドックスでは、トンネル内で作業する人数だけに着目し、他の条件を同じにしている。これは、問題を明確にする上では有益なのだろうが、現実に起きる事件はもっと複雑であり、個々の事件に対して人数だけでは判断しがたいこともある。仮に、人数だけで判断することが正しいとすると、開発途上国の人口は先進国の4倍以上なので、開発途上国が最大多数になり、その幸福のために世界中の富のうちの多くを開発途上国に配分すべきことになるが、現実にはそうなっていない。また、近頃は少数の人達の幸福にも配慮するようになっており、人数だけでは判断出来なくなっている。さらに、道徳などというものは、国や宗教や文化、そして時代により異なるので、どんな行為が正しいかは一概に言えそうにない。

ここで、話を少し変えて、車のブレーキが故障して暴走している場合を考えよう。前方の横断歩道を子供達が大勢渡っている。道の両側は崖でハンドルを切れば車は崖下に転落するだろう。運転手の安全を最優先に考えるなら直進することになるが、それが許されるだろうか。一方、人数だけで判断するなら、運転手は自分の身を犠牲にして崖下に転落する方を選ぶべきだろうが、それを強制できるだろうか。では、両側が崖の坂道を下っている観光バスのブレーキが途中で故障した場合はどうか。坂の下には子供達がいるが、人数的には観光バスの方が多いので、崖下に転落する危険を冒さずに、そのまま進む方が良いのだろうか。

「トロッコ問題」は、車の自動運転に関連して議論がされているようだが、国や文化などが異なれば、考え方に違いが出てしまう。人によって考え方が異なる事柄にまで自動化が入り込むのは、如何なものだろうか。自動運転に関連して、AIについても気になることがある。

昔から、東は東、西は西と言われてきたが、東洋と西洋では考え方に違いがあるとすると、AIに地域差があってもおかしくない。例えば、日本版のAIがあっても良い。

 

2.ビュリダンのロバ。

(1)概要

ビュリダンは、何かを決めるとき完全に合理的であるべきだと決心していた。ビュリダンは空腹だったが食糧は底をついていた。自宅から等距離のコンビニが2軒、その一方に行く理由が決められなかった。餓死は不合理なので、コイン投げで決めようとしたが、これは不合理な行為なのではないか。

(2)解説

コイン投げで決めるのは合理的ではないが不合理でもなく、合理性が入り込まない過程である。白ワインより赤ワインを好むのは理性ではなく趣味であり、不合理でも合理的でもないのと同じである。何かを決める際には合理的でないやり方が合理的な場合があり、理性で決められないなら、とにかく決めてしまうのが理にかなう。パラドックスは生じない。

(3)読後のコメント

ビュリダンは空腹で食糧も無かったので、食料を買いに急いでコンビニに行くことにした。これは合理的判断である。しかし、等距離にある二軒のコンビニのどちらに行くか、合理的に判断しようとして、決められぬまま無駄に時間が過ぎてしまった。これは、今すぐ食料を必要としていることからすると、不合理な行動にあたる。これを避ける方法の一つがコイン投げである。コイン投げで決めるのは不合理のように思えるし、実際、間違った判断になる可能性もあるのだが、今回の場合は、どちらのコンビニを選んでも差が生じないので、判断を急ぐためには、コイン投げで決めるのが合理的な判断のようにも思える。

この本では、フランス中世後期の哲学者ジャン・ビュリダン作の「ビュリダンのロバ」がもとになっているとするが、合理的な考え方のビュリダンを批判する別人のものとする説もある。内容は、ロバが等距離にある干し草のどちらにも行けず餓死するという話である。

等距離かどうかを厳密に測定するのは簡単ではない。陸地は年々僅かながら動いているので、干し草の位置も僅かに移動しており、距離も時間と共に変動する。ただ、ビュリダンのロバの話では正確な距離など必要なく、ロバが等距離だと思っていれば、それで十分である。

ロバがどちらに行くかは、分かれ道に来た時の次の一歩が右足か左足かによるかも知れず、また、ロバの経験や好みによるかも知れないが、ロバにとっては餓死しない事が最優先であり、取り急ぎ、どちらかの道を選ぶのだろう。ロバは合理的な理由があって道を選んだのではないと思われるが、さりとて、自由意志で選んだと言える程でもなさそうである。

ロバがコンピュータによって動作するロボットだったとする。このコンピュータのプログラムの内容が合理的であれば、ロバの動作も合理的になる。ロバの電池が減ってきた時、一番近くの充電器に移動するようなプログラムになっていたとして、二カ所の充電器が等距離だった時にどう処理するか、書かれていなかったとすると、ロバのロボットはどちらにも行けず電池切れとなって、動作停止つまり餓死することになり、不合理な結果がもたらされることになる。この場合、正常に動作させるには、プログラムを修正する必要が生じる。

距離が等しい時、どちらを選んでも同じ結果が得られるので、人間ならば、気ままにどちらかを選べば良い事になるが、コンピュータの場合は気ままに選ぶことが出来ないので、どちらを選ぶかについての指示をプログラムに書いておく必要がある。ビュリダンのロバは現代にも通じる問題なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

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