夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

4.綾瀬・千住・花又村鷲明神詣の記

2008-11-27 22:27:54 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十年八月二十八日(1813年9月22日)。嘉陵(村尾正靖)は、午前10時に浜町の家を出て、浅草から千住に至り、ここで昼食をとっている。そのあと、四家村(足立区弘道)の平蔵の所に立ち寄って少し休み、午後2時に出立。綾瀬川の西岸に沿って北に向かう。綾瀬川の下流部は新たに開削されたため直線的に流れているが、嘉陵もこの点について言及するとともに、綾瀬川は用水と水運を兼ね、水位は千住川(墨田川の上流部)より高いと記している。北に進むと花又村(足立区花畑)に出るが、川端に大きな紺屋が二軒あり、飲食の店や紙漉きの家も数軒あって、貧しそうな家はないと書いている。

 さらに行くと鷲大明神社、現在の大鷲神社(写真。足立区花畑7)に出る。嘉陵は、四家村の平蔵の話として、「昔は、祭礼日の酉の日には、人出で道を自由に歩けないほどだったが、今は祭礼日でも人出が多いということはない」と記している。実は、「酉の市」は花又の鷲大明神から始まったのだが、後に浅草の鷲神社でも「酉の市」を始めるようになり、浅草の方が繁盛するようになったのである。この神社は、江戸名所図会にも取り上げられており、「鷲大明神社祭」には付近の農家から奉納された鶏の様子が描かれ、「鷲大明神社」には参詣客がこの社を訪れる様子が描かれている。現在の大鷲神社周辺は、昔の雰囲気を多少は残しているように思えるが、近辺では「花畑北部土地区画整理事業」が進行中で、何年かあとには、新しい市街地に飲み込まれてしまうかも知れない。

 嘉陵は、十二、三の時に、今は亡き父に連れられて鷲大明神を訪れている。今年、数えで五十四歳での再訪。昔を思い出して感慨も深いと嘉陵は書いている。帰りは板屋橋(足立区西綾瀬1。伊藤谷橋)から二つ上の、そだ橋を渡って綾瀬川の東岸を歩く。現在の綾瀬川は、江戸時代には無かった荒川(放水路)により、荒川に沿って南流し中川に合流する流路と、旧綾瀬川として墨田川に流れ込む綾瀬橋付近(足立区千住曙町)の流路に分断されている。今の綾瀬川に沿って南に向かえば、荒川に行く手を遮られることになるのだが、江戸時代は、そのまま南に向かえば梅若塚(墨田区堤通2)の裏手に出られた。灯火の点る頃ここを通過し、6時過ぎには家に帰り着いている。この日は千住と四家で休んだだけ、途中でお茶も飲まなかったと、嘉陵は書いている。

(注)この紀行文の文末には文政十年四月という記述があり、紀行文中に記載されている日付とは食い違いがあるが、あとで書き直した時の日付かも知れない。嘉陵の紀行文の文末等に書かれている日付が、執筆日であったとしても、旅行日との差が、あまりないのが普通と思われる。ただ、時間をおいて後から書き加える場合もあったのだろう。

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3.2 府中道の記(2)

2008-11-25 21:44:18 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 染屋を出たあと、八幡宮を過ぎて府中宿に到着。早速六所明神(大国魂神社。写真)を参詣する。六所明神の名は、六神を祭ったことから出ているが、嘉陵は、六社の縁起について記述するとともに、榎槻の並木の外側が馬場であること、家康が建立した石鳥居が地震で倒壊したままになっていること、境内に鉄仏があったことを記している。この鉄仏については、右の脇腹が破れて文字を鋳つけてあったこと、恋ヶ窪の重忠松の下にあったこと、造大工藤原助近慶長五年とあったことを記している。現在、この鉄仏は善明寺(府中市本町1)にあり、鉄造阿弥陀如来座像として重要文化財に指定されている(文化の日に特別公開された)。嘉陵は、このほか、随身門を建てた川崎平右衛門について、代官に取り立てられた経緯や、象の見世物で得た金銭と浄財で随身門を修復したことについて記している。また、府中の源助についてもふれている。

 一行は、同行した蔭山弥八の所縁の者という、万右衛門の亭で昼食をとったあと、店主の翁の案内で御茶屋街道を通り、宿から八丁ほどの玉川(多摩川)に出る。茶屋街道の由来は聞けなかったようだが、嘉陵は家康や吉宗がこの地を訪れたときに川原に茶屋を作らせたからではないかと推測している。玉川(多摩川)では、一の山、二の山、大丸山からなる向山と、水際まで迫っている屏風岩を眺め、川原で石を拾ったりして過ごす。また、川上には関戸の渡しがあり、川下に仮橋ありと記している。そのうち日も暮れてきたので、万右衛門の亭に戻り、夕食をとってから帰途につく。上高井戸を通り過ぎたのが午後6時頃、家に戻ったのは午後8時を過ぎていた。往復の距離は60数km。時に嘉陵53歳。いまだ健脚衰えずといったところか。
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3.1 府中道の記(1)

2008-11-24 21:18:44 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化九年一月十七日(1812年2月29日)、府中の六社(大国魂神社)に詣でるため、嘉陵(村尾正靖)は友人と連れ立って夜明け前に出発している。四谷から内藤新宿(新宿)を過ぎ青梅街道と分かれて南に折れ、甲州道中(甲州街道。ただし、上高井戸~仙川、及び金子(国領)~府中は旧甲州街道)を進み、新町通り、牛窪、地蔵窪を経て代田に着く。築山のある茶店や饅頭を売る店、酒飯を商う店が並んでいたという。このあと、荻窪(萩久保)を経て下高井戸に出るが、その途中、六十頭ほどの馬を引いた馬子と次々にすれ違っている。その総数、およそ五百頭。甲州道中を利用する公用の旅は多くなかったが、物資の流通経路として、この街道は賑わっていたという。広重の江戸名所図会「内藤新宿」は、馬の尻が画面の半分を占めているが、当時は内藤新宿といえば馬という印象が強かったのだろう。ところで、下高井戸では、高い柱の上の三方に丸餅をのせている様子が見られた。小正月の道祖神の祭事ということだが、土地によって、それぞれの風習があったらしい。

 下高井戸から、甲州道中(甲州街道)を先に進み、上北沢、上高井戸、烏山、給田、下仙川、金子(国領)、下布多、下石原、上石原を過ぎるが、特段の眺めはなく、下染屋、上染屋(府中市白糸台)に至ってようやく展望が開けてくる。そこで嘉陵は民家の軒先に腰掛け、ここの風景を写生している(図)。ただ、北西の風が吹いて、寒さに手も凍えたと書いている。

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2.牛の御前に詣でる記

2008-11-17 22:29:07 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化八年閏二月十五日(1811年4月7日)、嘉陵(村尾正靖)は、牛島の牛御前が開帳の時に参詣している。文化四年のあと暫くの間、嘉陵は紀行文を残していないが、社寺を参詣することはあっても、多忙のため記録を残していなかったのかも知れない。嘉陵は縁起印行本により、「牛頭を載て諸悪災難をはらへ」との神託により牛御前と称したことや、清和天皇第七皇子(貞辰親王)をこの地に葬ったことなど、縁起のあらましを記しているほか、慈覚大師が刻んだ釈迦の石仏(図)や、国分庄司千葉五郎藤原胤道の旗を写している。当時の牛御前は、江戸名所図会の「牛御前宮 長命寺」に描かれているように、長命寺に隣接していたが、現在は場所を墨田公園に移し(墨田区向島1-4)、呼称も牛嶋神社と変えている。

(参考)牛嶋神社は十二年に一度、丑の年の年頭に、撫で牛に因んで、郷土玩具のような「牛のお守り」を出す。来年は十二年に一度の年なので、入手できるかも知れない。

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1.3 下総国府台・真間の道芝(3)

2008-11-15 12:20:15 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 弘法寺(市川市真間4)は裏門から入り、遍覧亭の板縁に腰かけて辺りを見渡すが、さほどの眺めは得られない。坊の門を出ると、本堂や祖師堂があるが、その堂の柱に嘉陵は自分の名前を見つけている。嘉陵は寛政4年(1792年)に、ここを訪れているが、その時に書きつけたものである。現在なら許されない行為だが、江戸時代は、社寺の柱や板障子に名前や詩歌を書きつけることは、場所にもよるが、許容範囲だったのだろう。その時、嘉陵と共にこの地を訪れたのは三人。そのうちの一人は西城(将軍の世継が住む)の小姓として今も勤めているが、一人は亡くなり、一人は禄を辞して武者修行の旅に出ている。生死浮沈は常なるとは知りながら深い憂いを感じると、嘉陵は書き記している。

 楼門を出て石段を下り継橋を渡る。近くに寺の子院(亀井院。市川市真間4)があり、その先に真間の手古名の祠(手児奈霊堂。市川市真間4)があった。寛政4年に真間を訪れた時には、真間の入り江が入り込んだ水際に祠があり、周りは芦が茂るだけで何もなく、祠も荒れ果てていたのに、暫くぶりに訪れてみれば、人の手が加わり過ぎて当時の面影はまるでなかった。昔は、真間の井も竹や草の茂る山際にあり、滴り落ちる水を溜めるための窪みがあるだけだったのに、今回、来てみると普通の堀井戸に変えられてしまっていた。真間も弘法寺も参詣する人が増え、それに応じて堂宇などが整えられていったのだろう。その様子は江戸名所図会の「真間 弘法寺」や、広重の名所江戸百景「真間の紅葉手古那の社継はし」から知ることができる。現在は、真間の入り江も失われ、宅地化が進んで、真間の継橋も形ばかりのものになっている。弘法寺も明治になってから全焼したため当時の建物は存在せず、現在の建物は、その後に建てたものか、移築したものである。

 帰りのルートは記されていないが、市川の渡し、逆井の渡しを経て浜町に戻ったとして、この日の歩行距離は40km近くになるだろう。現代人の目からすると、これは相当な距離に思えるが、長い距離を歩くことに慣れていた江戸時代の人にとっては、通常、歩行可能な距離であったようだ。実際、参勤交代でも一日40km歩くのは普通のことであった。

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1.2 下総国府台・真間の道芝(2) 

2008-11-09 22:50:33 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 佐倉道の一里塚の先に、利根川(江戸川)を小岩から市川に渡る渡し場があり、小岩側と市川側に関所が設けられていた。もっとも、嘉陵によれば、関所とは名ばかりの存在だったようである。小岩側の関所を通り、舟で利根川(江戸川)を渡る途中、嘉陵は川の水で手を洗い、口をすすいでいる。それだけ当時の水質は良かったわけで、嘉陵もこの川の水を他に例えようもない水として褒めている。利根川を舟で渡ると、市川側の関所を通ることになる。ただ、江戸名所図会の「市川渡口 根元橋 利根川」には、小岩側に関所らしきものが見えるだけで、市川側には関所のようなものが見えない。実は、関所としては小岩側が主で、市川側は補助的な役割であったという。現在、京成本線国府台駅の南側の土手に、市川関所跡の碑が設けられているが、関所の正確な位置は分らないとの事である。

 その先、坂をのぼれば総寧寺の大門である。江戸時代の総寧寺は、曹洞宗の全国総支配権を有する大寺として広大な寺域を有しており、その全体像は江戸名所図会の「国府台総寧寺」からも、うかがい知る事ができる。現在は、敷地の多くが学校や公園に変わり、今の総寧寺(写真。市川市国府台3)は、里見公園のエリアの一角を占めているに過ぎない。

 嘉陵は僧に案内を頼み、関宿から移した小笠原相模守の墓や、糧米を貯蔵した穴倉を見る。実は、子供のころ父に連れられて総寧寺を訪れたことがあり、その時は戦火に焼かれた米を掘り出すことも出来たのだが、今はもう出てこないと記している。この地、国府台は小田原の北条氏と安房の里見氏が二度にわたって戦った合戦場だったのである。ここから、さらに行くと夜泣き石があり、棺を納める箱があった。その先、懸崖の上が城址で、登ると崖の上に出る。眼下は鐘ケ淵である。その景観は、江戸名所図会の「国府台断岸之図」や広重の名所江戸百景「鴻の台とね川風景」に描かれている。嘉陵は、利根川の流れを前景に諸山の眺めを楽しんだのち、堂に戻って裏門から外に出る。すでに午後2時になっていた。このあと弘法寺に向うが、途中右手に小さな塚を二つ見ている。

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1.1 下総国府台・真間の道芝(1)

2008-11-05 22:38:25 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化四年三月七日(1807年4月14日)。嘉陵(村尾正靖)の紀行文は、この日に始まる。時に嘉陵48歳(数え年)。重沢清門を伴って、朝もまだ明けきらぬうちに浜町の家を出ている。先日からの雨も止み、風もなく温かい日であった。浜町から両国橋を渡れば竪川はすぐ。竪川沿いに東に行けば「逆井の渡し」(江東区亀戸9)まで迷う事はない。嘉陵はここで舟に乗り中川を渡るが、その風光について「川下は空も一つの霞のみして、水鳥のここら立よふさま、沖つ舟の釣りするなど、またなき景色なり」と書いている。

 現在の竪川は、大横川と交差する辺りから先は暗渠化されている。横十間川と交差する辺りから先になると、暗渠の上に造られた竪川河川敷公園となり、頭上の高速道路さえ気にしなければ、歩きやすい道が続いている。逆井の渡しは、竪川が中川に合流する地点、現在の逆井橋(写真)の辺にあったが、当然のことながら、廣重が名所江戸百景の一つとして描いた「逆さ井のわたし」の風景は失われている。それでも、一時は汚れた都市河川の一例に過ぎなかった中川も、周辺の開発に合わせて整備が進められた結果、今は、緑の多い河川敷に遊歩道が設けられ、水質も改善されて魚や水鳥も戻ってきている。

 逆井橋から少し東に行ったところに、江戸時代には存在しなかった荒川が、ゆったりと流れている。江戸時代の道は、逆井の渡しから700mほど行ったところで、市川へ向かう佐倉への道と行徳への道の分岐点に出る事になるが、この分岐点も今は荒川にのみこまれている。嘉陵は、この分岐点で何故か行徳へ向かう道を選び、一之江、二之江を過ぎて利根川(旧江戸川)の川端に出ている。向こうは行徳であると記しているが、金井の渡し(金井橋付近)に出たのだろうか。嘉陵が行徳道を選んだ理由は不明だが、結局は市川の渡しへと向かっている。途中、一里塚らしきものを見ているが、今は交差点にその名を残す佐倉道の一里塚(江戸川区東小岩6)と思われる。

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次回連載予告

2008-11-03 22:03:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 我が家の花暦、今回はホトトギスです。この花もそろそろ終わり、代わりにツワブキが黄色の花を咲かせ始めています。
 
 さて、図書館で借りた「江戸叢書」の中に、「嘉陵紀行」というのがありましたが、興味をそそられる内容であったので、次回の連載として取り上げることにしました。この書の著者である村尾正靖(1760-1841)は、徳川清水家に仕え、奥向きの用事を行う御広敷用人をつとめていましたが、多忙な仕事の合間に、時には友人を伴い、あるいは単身で江戸近辺の山水、名所旧跡を訪ねることを無上の喜びとしていました。正靖は文墨に親しんでいたため、江戸近郊を旅して歩いた記録に、和歌や漢詩、それに写生した画を添えて、紀行文としてまとめていました。正靖の紀行文にはもともと表題がありませんでしたので、竪斎守興の写本にもとづく紀行文を出版する際に、正靖の雅号である嘉陵に因んで「嘉陵紀行」というタイトルが付けられました。正靖は70歳を過ぎても、江戸近郊の見て歩きを続け、紀行文の筆を置いたのは数えで75歳になってからでした。

 正靖の紀行文は、「嘉陵紀行」のほか、村尾義遠・義郷の写本と原著をもとにした朝倉治彦編「江戸近郊道しるべ」(東洋文庫)が出版されており、欠落や誤りのある「嘉陵紀行」に比べ正確だとされています。また、その現代語訳(ただし全訳ではない)である阿部孝嗣訳「江戸近郊ウオーク」(小学館)も出版されています。今回の連載にあたっては、これら三冊の文献を参考とさせていただくことにしましたが、地域別に分けるのではなく、年月日の順に並べる事に致しました。

(注)村尾正靖について、以下、嘉陵とよぶ。年齢は数え年で表記している。距離は正確ではなく目安である。時刻は定時法により換算し、季節による補正は行っていない。

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40.終りに

2008-11-01 09:24:13 | 巡見使の旅
(168)享保2年10月15日(1717年11月7日)
 この日、陸奥出羽松前の巡見使、有馬内膳、小笠原三右衛門、高城孫四郎の三名は、将軍吉宗に拝謁し、帰着の報告を行っている(「徳川実紀」)。

 享保の巡見使がどのような報告をしたかは不明だが、ありきたりの報告をした関八州巡視の巡見使が罷免されたという事からすると、時の将軍吉宗の巡見使に対する期待は、少なくはなかったと思われる。実際、御料(幕府の直轄地)を巡視した御料巡見使の報告については、これをもとに、不正な代官を処分したり、機構の見直しを行ったりもしたのである。ただ、各藩の情勢を観察する諸国巡見使の報告については、幕政を進める上で参考となる情報が含まれていたとはいえ、領主権の尊重という建前もあり、藩政にまで立ち入ることは難しかったようである。

 享保以降、将軍の代替わりごとに巡見使の派遣は続けられるが、次第に形式化して単に将軍の威光を知らしめる為だけのものになっていった事は否めない。そして、安政の頃になると、巡見使を受け入れる各藩から、出費が多い事を理由に派遣延期の願が出されるようになり、幕府もこれを認めざるを得なくなってくる。かくて、天保の巡見使派遣を最後に、巡見使の派遣は取りやめという事になった。時は幕末。幕府は崩壊への道をひた走る。

(追記)
 今回をもって、「巡見使の旅」の連載を終了することと致しました。長い間、閲覧いただき、ありがとうございました。本来なら各地の地方史関係資料を詳しく調べ、また現地調査を行った上で、投稿すべきでしたが、今回はそこまで出来ませんでした。誤りなどありましたら、御指摘いただければ幸いに存じます。 夢七。
 
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