夢七雑録

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クリスマスに聴く洋楽

2017-12-24 17:07:05 | 音楽、映画など

 

 

以前、クラシックの作曲家100人について一人一曲を選んで、クラシック百人一曲のカテゴリーで投稿したことがあり、クリスマスの曲として次の5曲を選んでいた。

①シュッツ「イエスキリスト降誕の物語」

②コレルリ「合奏協奏曲8番クリスマス」

③トレルリ「合奏協奏曲6番クリスマス」

④チャイコフスキー「くるみ割り人形」から第一幕。

⑤アダン「オ・ホーリーナイト」

今回はこの中からシュッツの曲を選び、これに加えてクラシックから1曲とポピュラーから3曲を、手持ちのレコード、CD、LDの中から選んでみた。

 

(1)シュッツ「クリスマス物語」

むかし聴いていたレコード(ZRG671)の邦題は「イエスキリスト降誕の物語」になっていたが、いま聴いているミュンヘンレジデンツ管弦楽団の演奏によるCD(36CD10032)の邦題は「クリスマス物語」になっている。ハインンリッヒ.シュッツ(1585-1672・ドイツ)は、ドイツ・プロテスタント教会音楽最大の巨匠でJ.Sバッハより100年前の人である。この作品はシュッツ晩年の1664年の作で、導入合唱と終結合唱の間に、福音史家によるレチタティーヴを挟んで多声の間奏曲が続く構成になっている。

(2)オネゲル「クリスマス・カンタータ」

ペシェク指揮のチェコフィルハーモニー管弦楽団・合唱団と児童合唱団によるCD(33CO1090)で。オネゲル(1892-1955)はフランス6人組の一人で、この作品の完成は1953年、オネゲル最後の作品になる。この曲の前半は重苦しいが、やがて、児童合唱による天使の歌声が始まり、様々なクリスマスの歌が重なり合い、そして、曲は静かに終わる。

(3)「ホワイト・クリスマス」

アーヴィング・バーリンの作詞作曲。この曲は、マイケル・カーティスの監督で、ビング・クロスビーとダニー・ケイが主演した、1954年の映画「ホワイト・クリスマス」の主題歌として使われている。LD(SF098-0137)で視聴。この映画は、待望の雪が降ってホワイト・クリスマスとなるラストで終わっている。

(4)「メリー・リトル・クリスマス」

この曲はヒュー・マーティンとラルフ・ブレインの共作で、1944の映画「若草の頃」の中でジュディ・ガーランドが歌っていた。この映画自体は見ていないが、「ザッツエンタテインメント2」(FY080-35MG)の中で、この歌の場面が紹介されていた。

(5)「サンタが街にやってくる」

アーティストが所属会社の枠を超えボランティアとして制作した「クリスマス・エイド」というCD(D32Y3183)の中から、クリスマス・ソングの定番「サンタが街にやってくる」を取り上げる。ヘヴン・ガレスビーとフレッド・クーツが書いた1934年の曲である。

 

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無原罪特別保護区と経堂五丁目特別保護区

2017-12-17 17:53:05 | 公園・庭園めぐり

世田谷区では、樹林地や水辺地、動物生息地が一体となった土地でなどで、特に保全が必要な民有地を特別保護区に指定している。そのうち無原罪特別保護区と経堂五丁目特別保護区について特別公開されていたので行ってみた。

 (1)無原罪特別保護区(世田谷区深沢8-13)

桜新町で下車し、サザエさん通りを南に行き、交番のところを右に、長谷川町子美術館を過ぎて、その先の四つ角を左に玉川通りを渡る。先に進むと左側に無原罪聖母宣教女会がある。無原罪特別保護区の対象となる池は敷地内にあり、特別公開日には入ることが出来る。

特別保護区内の散策路は、反時計回りに池の周囲を歩くのが普通かも知れないが、今回は逆回りになった。入口に近い側から見下ろすと、池があり、雪見灯籠が見えた。

池に下りてみると、雪見灯籠のほか飛び石もあって、日本庭園の池になっている。無原罪聖母宣教女会の敷地は、東京電燈の社長であった若尾樟八郎の邸宅跡で、この庭園も若尾邸だった時に、自然の池を生かして造られたものなのだろう。戦前、若尾邸では園遊会が盛んに行われていたそうである。

池に沿って歩く。池の周囲は木が茂っていて、池に射し込むのは木漏れ日だけだが、それでも今の時期は秋の彩に溢れている。

この辺りの地下水位は高いらしく、池も湧水により成り立っているが、昔に比べると湧水量は減っているらしい。

池にはマガモが来ていた。ひょっとすると、カワセミも来ているのではと期待したが、この日は見かけなかった。

無原罪特別保護区を出て東に、東大通りに出て南に行くと深沢の杜緑地に出る。民家の庭だったところが整備されて、緑地として公開されている、

緑地内には湧水があり、池になっている。ここから流れ出た水は無原罪特別保護区の池の流れと合流し、もう一カ所の湧水の流れも合わせて呑川に流れ込んでいたという。

深沢の杜緑地を出て東に行き、呑川に出て左へ桜並木の道を歩く。玉川通りを渡ってサザエさん通りを桜新町に向かった。

 

(2)経堂五丁目特別保護区(世田谷区経堂5-12)

経堂駅を下車して農大通り南に進み、烏山川緑道を過ぎて、城山通りを左側の歩道で西に行く。経堂町交番前の交差点の手前の道を左に入って先に進めば、左側に経堂五丁目特別保護区があり、公開日にはボランティアがテントに詰めている。保護区内の園路を通って池の南側に出る。

特別保護区内の池は湧水によるもので、地下水位が浅いため季節変動があり、雨量によっても変化するという。この池の湧水地点はよく分からないらしい。

池の北東側の杭の周りには、枯れ葉が集まっている。風に吹き寄せられただけなのか、それとも微かな流れがあるのかは分からないが、結果として水面を広く見せている。

この特別保護区では、池周辺の樹林地による貴重な緑地を保っていくため、ボランティアによる下草刈りや剪定、落ち葉かきなどが行われているという。特別保護区内は、自然の姿を残しながらも、荒れたところは見られない。

特別保護区内には、意図して植えたかどうかは分からないが、様々な植物が存在するので、池だけではなく、植物を見て回るのも良いかもしれない。特別保護区内を出たあと、池の東側の道を歩いて帰る。道の両側が高くなっているので、特別保護区内の池の水は、この道の場所を通って、烏山川に流入していたのだろう。

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東京の古民家めぐり・一之江名主屋敷(江戸川区)

2017-12-11 20:09:07 | 東京の文化財

瑞江駅で下車し、瑞江駅西通りを北に向かう。今回は高速道路の手前を左に入ったが、高速道路を潜って、その先の角を左に入る方が分かりやすいかも知れない。一之江名主屋敷は、いなげやの横を入ったところにあり、長屋門が入口になっている。この屋敷は一之江新田を開発し代々名主をつとめた田島家の屋敷で、敷地を含めて江戸時代の姿が保存されていることから、東京都の史跡に指定されており、江戸川区の景観重要建造物にも指定されている。入館料は100円で、月曜は休館日になっている。なお、田島家初代の田島図書は、堀田姓の武家であったが、関ケ原の戦いに敗れたあと当地の田島家に身を寄せ、この地域の開発に当たったと伝えられている。

長屋門は、武家奉公人が居住する長屋と一体になった武家屋敷の門で、江戸時代の初めには武士以外の者が建てる事は許されていなかった。その後、帰農した武士については特別に許されるようになり、やがて、名主や村役人、旧家なども長屋門を建てるようになった。一之江名主屋敷の長屋門は江戸時代後期に建てられたと推定されており、屋根は寄棟造りの茅葺であったが、現在は茅葺型の銅板葺きになっている。

長屋門をくぐると、その先に中庭をはさんで、寄棟造り茅葺屋根の東向き部分と、入母屋造り茅葺屋根の南向き部分を、L字型に組み合わせた曲り屋(中門造り)のような主屋がある。最初に建てられたのは、住まいとして使われていた東向きの部分で、直屋(すごや)と呼ばれる長方形の棟だけであったらしい。この棟には、安永3年(1774)の棟札があったと伝えられているが、それ以前にあった主屋の部材を利用した再建だったようである。

土間として使われている南向きの部分は、天保9年(1838)より前に増築されたと考えられている。この増築により主屋は、母屋と厩を一体化した南部の曲り屋のような形態になったが、田島家では直屋から直角に突き出した角屋(つのや)と考えていたようである。受付への入口は東側にあり、入ると土間になっている。手前の土間は農作業用として使用されドマと呼ばれていた場所で、大黒柱から先にはカマドのあるカッテ、その先は土間と板間があるダイドコロになっている。

田島家の屋敷は、名主としての接客の場と、日常生活の場に分かれている。生活の場は土間のほか、イタノマ、ナンド、ナカノマ、ホトケマから成る食い違い四間取りで、ナカノマ以外は板間になっている。写真は囲炉裏のあるイタノマで、その奥にナンドが見える。

接客の場は、ゲンカン、ツギノマ、オクザシキ、イリカワ、コザから成り、畳敷きである。写真は次の間(ツギノマ)から式台が設けられた玄関(ゲンカン)方向を見たもので、4畳の玄関には2畳の小座が付属している。外に見えているのは長屋門である。

8畳の次の間(ツギノマ)から、2畳の床の間が付いた8畳の奥座敷(オクザシキ)を見る。

上の写真は外縁(濡れ縁)と座敷の間の廊下、イリカワ(入側)で、畳敷きになっている。ここからは南側の庭が見えるようになっている。

外に出て、江戸末期の様子を復元したという池泉回遊式の南庭に行ってみる。池はそれほど大きくはないが、築山をつくり、州浜を設け、雪見灯籠や三重塔を置いている。

屋敷の北側と西側には、防風林として植えられたケヤキやムクノキなどが茂っている。林の中の道を歩いていくと、屋敷の北西側に屋敷神が祀られていた。

屋敷の西側と北側には堀がある。今は空堀になっているが、以前は水が溜まっていたらしい。一之江名主屋敷がある春江町は低湿地で、中世には集落も無かったようなので、江戸時代になって田島家が最初に屋敷を構えたのだろう。中世の土豪屋敷のように堀をめぐらした名主屋敷の例は他にもあるが、田島家としては何よりも水害対策として堀を掘り、堤を築く必要があったと思われる。堀が東側と南側にもあったかどうかは分からないが、今は東側の敷地内に内堀が造られていて、水が溜まっている。

北側の堀を渡ると、以前は無かった広場があり、展示棟が建てられていた。北側にあった公園を敷地内に取り込んだらしい。堀を渡り返し、屋敷畑を通り、長屋門へと急ぐ。明治24年に建てられた蔵は見ていないが、すでに日は傾いている。今回は割愛して外に出る。

 

東京9区文化財古民家めぐりの記事は、今回をもって一先ず終わりとするが、古民家は他にもあるので、折を見て取り上げたい。

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東京の古民家めぐり・旧大石家住宅(江東区)

2017-12-07 18:20:31 | 東京の文化財

南砂町駅で下車し南砂三公園に出て北に向かう。公園内を通り抜け、南砂三公園入口の交差点で元八幡通りを渡り、先に進んでトピレックプラザのイオン館の横を通り、葛西橋通りを渡ると仙台堀公園の横に出る。この公園は大正から昭和にかけて開削された砂町運河の跡で、公園に入って北に行くとすぐ、園内に移築復元された旧大石家住宅があり、土日祝日に公開されている。上の写真は南東側から見た外観で、右側が正面にあたり土間の入口がある。建物の向きは、移築以前と同じ東向きになっている。

上の写真は南側から見た旧大石家住宅で、座敷が二間あり縁側がある。旧大石家住宅は寄棟造り茅葺屋根の木造平屋で、水害の際の避難場所として屋根裏を広く取っている。創建年代は、安政2年(1855)の大地震でも倒壊しなかったと伝えられている事や、屋根裏にあった御札から、19世紀半ばと推定されている。旧大石家住宅は、区内唯一の茅葺民家であり、江戸近郊農家の姿を今に残す貴重な存在であることから、江東区の有形文化財(建造物)に指定されている。

旧大石家住宅は北側をドマ(土間)とし、中央の板間を6畳のザシキと四畳半のチャノマに、南側の畳の部屋を8畳のオクと6畳のトコノマとする田の字型の間取りになっている。ザシキには囲炉裏が切られている。上の写真は土間から見たもので、手前が6畳のザシキ、向こう側は8畳のオクになっている。

江戸時代の南砂一帯は、江戸への野菜の供給地で促成栽培も行っていた。大石家でも野菜を栽培していたようだが、海も近いことから、半農半漁で生計を立てていたらしい。大石家は大正時代に海苔の養殖を始めており、土間などには日常使用していた道具のほかに、海苔養殖に必要だった道具も保存されている。

葛飾郡西葛飾領新田筋の八郎右衛門新田(現・江東区東砂8)は、深川村名主の深川八郎右衛門が開拓した土地で、村の北側を流れる境川から南に分かれる舟入川によって、耕地が東と西に分かれていた。明治の初め頃には、舟入川の両岸に50軒余りの民家が並んでいたが、大石家住宅はそのうちの一軒で、舟入川南端の堀留に近い東側にあった。その主屋は舟入川を背にして東向きに建てられ、その東側には畑があった。時が流れ、境川は清洲橋通りに変わり、舟入川も四十町通りとなって、昔の農家のまま残っていたのは大石家だけになっていた。そして、平成6年、大石家住宅は解体され、平成8年に仙台堀公園内に移築されている。

 

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東京の古民家めぐり・旧栗山家主屋(目黒区)

2017-12-03 11:41:59 | 東京の文化財

都立大学駅の南口を出て直ぐの角を東に向かい、坂を上がって先に進む。酉蓮社の先の角を左に行き、平町1の交差点で環七通りを渡ってやや下ると、すずめのお宿緑地公園が右手にある。目黒区指定の有形文化財(建造物)である旧栗山家主屋は、この公園の北側にある。

栗山家主屋の旧所在地は、旧・荏原郡世田谷領衾村谷畑(現・目黒区緑が丘)で、主屋のほかに長屋門もあったが、主屋だけが現在地に移築復元され、長屋門は解体保存されている。栗山家の主屋は安政4年(1857)に大改築した記録があり、建築様式の特徴から江戸時代中期の創建と推定されている。屋根は寄棟造りで本来は茅葺であったが、現在は防火の点から銅板葺きとしている。栗山家の先祖は吉良氏の家臣で、江戸時代は村役人を歴任していたということだが、新編武蔵風土記稿に記されている衾村の旧家に該当するのだろうか。

栗山家主屋の間取りは、ヒロマを中心に、東側にダイドコロ、西側にザシキ及びナンドを配置した広間型で、比較的古い形式になっている。ヒロマは板間で囲炉裏が切られている。写真は上から順に、ヒロマから南側の門の方を見たもの、囲炉裏から東側のダイドコロ(土間)の方を見たもの、囲炉裏から北側を見たものになっている。

栗山家主屋のザシキは西南側にあり、その北側は広いナンドになっている。建物の南側は日当たりが良いとまでは言えないが、竹林を抜けてきた光がザシキまでは届く。ヒロマの暗闇と、程々の明るさのザシキと、外界の翠と。その対比が面白く暫しの時を過ごす。

栗山家主屋の南側と西側は外縁になっている。西側の縁に出ると、もう、夕日が差し込んでいた。短い滞在時間だったが、そろそろ、帰途に就く時間である。

 

 

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