夢七雑録

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改作民話「子猫と遊ぼ」

2009-12-13 14:14:58 | 民話伝説の世界
 名古屋市の東にある名東区に、猫ヶ洞と言うへんてこな地名があります。こんな風変りな地名には大抵いわれがあるものです。

 むかしむかし、尾張の国猪高の里に長吉という若者が住んでおりました。ある日長吉が、普段は人も通らない山道を歩いていると、猫の鳴き声が聞こえたので、不思議に思って付近を探すと、洞穴の中で子猫が鳴いており、傍らで母猫が死んでいました。可愛そうに思った長吉は子猫を家に連れて帰りました。

 時がたち、猫も年を取り、人も年を取りました。長吉はソノエと言う嫁を迎え、やがて男の子が生れました。生活は楽でなかったので、長吉は人づてに頼んで、阿部の利兼と言う殿様の屋敷で働く事にしました。長吉は良く働き、屋敷での評判も良かったのですが、大変な事が起きてしまいました。長吉に会いに来た老母が誤って庭に入り込み、殿様が大事にしていた松の枝を折ってしまったのです。長吉は自分が身代りに自首しようとしましたが、ソノエがそれを止めました。ソノエは老母の様子が最近おかしいと村の者に言いふらしました。半信半疑だった村人も、老母が夜中に起きて台所でピチャピチヤ水を飲んでいる姿が猫そのものだったと、そノエが言うに及んで、ひょっとしたらと思うようになりました。そこで、村人のなかの屈強なものが、老母が寝込んだのを確かめて、部屋に入り布団をはがしてみました。何とそこには老母の姿は無く、代りに猫がのうのうと寝ていました。実は、ソノエが老母をそっと逃し、代りに猫を布団の中に入れておいたのでした。

 村人に思いきり叩かれ、深手を負った猫は必死で逃げ出しました。跡を追っていくと、猫が拾われて来たあの洞穴に逃げ込んだ様子です。中を覗くと、猫はもう死んで居ました。村人は一部始終を、阿部の利兼の家来に話をし、これで一件落着と言うことになりました。それ以来、洞穴のあった場所の辺りは猫ヶ洞と呼ばれるようになりました。

 ところで長吉の母親は、それからは人前に出る事が出来なくなりました。長吉は人里離れた場所に庵を作って母親を住まわせました。ソノエの方は口うるさい姑が居なくなったのを幸い、のんびりと暮しておりました。そんなある日、ソノエの息子が、子猫を拾って来ました。洞穴の中で母猫が死んでおり、傍らで子猫が鳴いていたのを、可愛そうに思ったからだと言うのです。

 猪高車庫から池下行きのバスに乗ると、平和公園の周辺を半周して坂を下り、猫ヶ洞通りに入ります。今では猫ヶ洞は住宅地になってしまい、洞穴が何処にあるのか探しようもありません。或いは、灌漑用に掘られた猫ヶ洞池の水底にあるのかも知れません。探すのを諦めて、バス通りのカフェレストランで、アメリカンを畷っていると、足許で猫の鳴き声がしました。見ると可愛い子猫です。大事に飼ってさえいただければ、差上げますよと、マスターは言いましたが、止めることにしました。何故って、誰かさんが人前に出られなくなると困りますから。

<参考文献> 小島勝彦「東海の民話」
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改作民話「大きく、大きく、大きくなあれっと」

2009-12-11 22:36:10 | 民話伝説の世界
 昔、昔。尾張の国に子供の居ない百姓夫婦が居りました。ある日、表で大きな音がしたので、出てみると、畑の中に誰かがうずくまっていました。良く見ると、それは子供の雷様でした。子供なら大丈夫だと思ったお百姓は、鍬で威かしながら、子供を授けてくれたら許そうと云いました。そんな事は雷様に出来ない相談でしたが、黙って何度かうなずき、そのうち隙を見て逃げ出しました。でも、あんまり慌てたので、大事な木槌を落としてしまいました。お百姓は、その木槌を家に持って帰りました。

 さて、暫くすると、どう云う訳か、そのお百姓の家に子供が生れました。玉のように可愛いい男の子でした。お百姓は、大きく育てと云う願を込めて、ダイダラボッチと云う名前を付けました。お百姓は楠で桶を作り、竹の葉を2枚敷いて、ダイダラボッチを、一日に何回も湯に入れました。そうすれば、丈夫に育つような気がしたからです。

 ダイダラボッチが1才になった時、お百姓は、試しに雷様の木槌を振りながら、大きくなぁれ、大きくなぁれと唱えてみました。すると、気のせいか少し大きくなったように思いました。それからは、時々、その木槌を振って、大きくなぁれ、大きくなぁれと、唱えるようになりました。ダイダラボッチはすくすく育ち、やがて村一番の大男になりました。ダイダラボッチは、ただ大きいだけでなく、良く仕事をしました。川の水をせき止めていた岩をどけたり、切り通しを開いたり。ダイダラボッチは村一番の人気者でした。

 ダイダラボッチは、その後も、育ち続けました。近くを歩いただけで、家が傾いたり、足跡に溜まった水で子供が溺れかけたり。こうなると、村人も良い顔をしなくなりました。仕方なく、ダイダラボッチは村を出ることにしました。

 それからの、ダイダラボッチは、人里離れた山野を住み家にして暮しました。夏が始りかけた、ある日の事、伊吹山に腰掛けて、ぼんやりと考え事をしていると、麓の方からダイダラボッチを呼ぶ声が聞こえました。どうやら助けて欲しいと言っているようでした。何でも、駿河の国に大きな穴が開いて火が吹出し、人々が難義をしているというのです。

 やっと出番が巡って来た!ダイダラボッチは大はりきりで、土を掘っては穴にかけ、掘っては穴にかけました。そのうち、流石の火の勢いも次第に衰えていきました。人々は喜んで、ダイダラボッチの事を誉めそやしましたが、それも一時の事でした。図体の大きいダイダラボッチは、やはり邪庵なだけだったのです。その事に気付いたダイダラボッチは、何処へともなく姿を消してしまいました。

 お百姓夫婦は、もう一度ダイダラボッチに会いたくて、形見の木槌を持って旅に出ました。ダイダラボッチの噂は行く先々で聞きました。でもダイダラボッチの掛けた土が積って富士山になり、土を掘った跡が琵琶湖になったとか、手の跡が浜名湖になったとか、足跡が窪地になったのでダイダと名付けたとかの話ばかりで、ダイダラボッチの行方は分りません。夢にでも会いたい。そんな思いが通じたのでしょう、ダイダラボッチの夢を見ました。ダイダラボッチは大きく成り過ぎて、天まで届き雷様に怒られた。今度は小人に生れたいと言いました。お百姓は、持っていた木槌を逆さにして振りながら、小さくなぁれ、小さくなぁれと唱えてあげました。

 ダイダラボッチの話はこれでおしまいです。ああ、あの木槌のことですか?そうそう、お百姓が比良の山を越えようとした時に、鬼が現れて奪っていったと言う事です。その後の話は、知っている人が知って居ますよ。
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改作民話「泥棒の中の泥棒だぁ」

2009-12-09 20:11:30 | 民話伝説の世界
 神田明神の山車に熊坂人形というのがあります。熊坂というのは、平安時代の末の大泥棒、熊坂長範のこと。それが、どうして山車の人形になったのか。どうやら、長範は義賊と思われていたらしいのです。その長範についてのお話です。

 熊坂長範も、赤ん坊の時から泥棒だったわけではありません。長範が7才の時、お寺に忍び込んでお布施を盗んでから、泥棒のひとりになったのです。それから長範は手当り次第に盗み回りましたので、近郷近在に、目ぼしい財宝は無くなってしまいました。そこで長範は、木曾の街道筋の山中に根城を構えて、尾張に出稼ぎに行くことにしました。

 ある時、長範は一頭の馬を盗みました。その馬のおかげで、長範は遠くまで出かけることが出来るようになり、三河や美濃、伊勢にまで出没するようになりました。その後、長範は早そうな馬を見つけては盗んで行くようになりました。気が付くと根城の回りは馬だらけになりました。そうなると、飼葉の量も馬鹿にならず、それに、根城が見つかる危険もでてきたので、長範は馬を売る事にしました。最初は馬市で売ろうとしましたが、手下が目立たない身なりで出掛けたのに、すぐに捕まってしまいました。どうやら、馬の毛並みを見て前の飼い主が見破ったらしいのです。

 これでは馬は売れないし困ったなと長範は思いました。ところが、その晩、忍び込んだ名主の家で、毛替え地蔵にお願いすると、頭髪を変えて呉れると云う耳寄りな話を聞きました。早速、長範は毛替え地歳のところに出掛けました。そして生まれて初めて、少しばかりのお供え物を置くと、馬を売った金は貧乏な人に与えるので馬の毛並みを変えて呉れるように頼みました。本来なら大泥棒の願が叶えられる訳がありませんが、地蔵にも気紛れがあるのです。翌日、長範が起きてみると、馬という馬の毛並みが、すっかり変っていました。喜んだ長範は、手下に馬を売ってくるよぅ命じました。結局、泥棒するのに必要な馬だけを残して、ほかの馬は全部売ってしまいました。そして地蔵との約束もあったので、もうけた金のうち、ほんの少しだけを貧しい人に分けてやりました。長範が義賊だということになったのは、こんなところからきているのです。
 
 長範の話は、これでお終いではありません。続きがあるのです。長範は、あちこちで椋奪、強盗、追剥と悪行の限りをつくしましたが、そのため、ついに武士たちに狙われる羽目になりました。そこで、長範は、毛替え地蔵のところに行き、自分のもじゃもじやの頭髪を変えて呉れるように頼みました。探索の手を逃れる為に人相を変えようとしたのです。その次の日の夕方、長範はまた泥棒に出掛けました。村外れの木陰に隠れていると、誰かがやって来ました。身ぐるみ脱いで置いていけと怒鳴ると、相手は逃げ出しました。あとを追いかけた長範が刀を振下ろすと、ガチッと音がして、刀が折れてしまいました。何と地蔵の首を切ってしまったのです。何故かぞうっとして、長範はあわてて根城に戻りました。その夜、長範は恐ろしい夢を見ました。身の丈が四丈もある石の地蔵に踏み付けられている夢です。

 翌朝、長範は起き上がろうとしましたが動けません。とうとう七日の間、寝込んでしまいました。やっと起き上がれるようになって、髪を洗おうとした長範は、たいそう驚きました。水面に映った長範の顔は皺だらけで、髪は真白になっていたのです。よぼよぼの年寄りになった長範は、それからは、誰からも相手にされませんでした。そして美濃赤坂の宿屋で小銭を盗んで、牛若丸という子供に捕まってしまいました。長範は、俺は泥棒の中の泥棒だぞ、と叫びましたが、信用する人は誰もいませんでしたとさ。

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改作民話「楊貴妃伝説」

2009-12-07 22:46:37 | 民話伝説の世界
 楊貴妃を知っていますか。唐の6代皇帝、玄宗の寵妃。並ぶ者のいない絶世の美人。あの楊貴妃についての伝説が、日本にあるのです。
              
 夏の終りのある日、熱田の森の片隅にある春敲門を、ホトホト叩いている少女がおりました。神職の一人が事情を聞くと、少女は遠い唐の国から薬を探しに蓬莱に来たと云うのです。神職は、少女が何か勘違いをしているのだと思いました。何しろ唐は遠い昔の国で、今は元が中国大陸を支配していたからです。それに、この辺りは、蓬左とは呼ばれていても蓬莱ではなく、特別の薬など有る訳がないのでした。でも少女が熱心に頼むので、熱田の森の一遇にある、清水社に神意を伺うことにしました。熱田宮の神託では大げさと思ったからです。すると「ケシの実を煎じて飲ませよ」と云うお告げが出ました。早速、そのようにすると、少女は気を失って倒れてしまいました。

 気が付くと、熱田の森は消え失せ、心配そうに覗き込んでいる、家族の顔がありました。「玉環!気が付いたのね」「良かつた。もう大丈夫。」

 本当にもう大丈夫でした。玉環は、健康を取戻し、以前よりずっと美しく、利発に育っていきました。父を幼くして亡くした玉環は、叔父の養女となり、歌や踊り、行儀作法を学びまし。そして、長ずるに及んで、その才知と美貌は、並ぶものがなく、その評判は、ついに皇帝の耳にまで達したのでした。唐の第六代皇帝、玄宗は、最初は息子の嫁にと思ったのですが、会って見るとすっかり気にいって、自分の妃にしてしまいました。こうして楊一族に生れた玉環は、今は楊貴妃となり、皇帝の寵愛を一身に受け、贅沢の限りを尽くしたのでした。

 玄宗皇帝とて、決して凡庸な皇帝ではありませんでしたが、楊貴妃に溺れてしまい、国政が疎かになったばかりでなく、楊一族を重用したため、国内に不満が高まりました。そして、ついに安禄山の乱が起こり、玄宗は首都、長安を捨てて逃げざるを得なくなりました。長安の西、数十キロ行ったところで、側近の兵士が反乱を起こしました。こんなことになった責任は、楊貴妃にある。楊貴妃を殺さない限り、皇帝にはついていけない、と云うのです。玄宗も止むを得ず、それに同意しました。そして、力持の高力士が、楊貴妃の首に手を掛けました。

 熱田の森には、夕日が射していました。あれからずっと、少女は倒れたままでした。神職は手を尽くしましたが、結局、少女が息を吹き返すことはありませんでした。神職は、近くの空き地に墓を建て、身元の分からぬ少女を、ねんごろに葬ってやりました。

 さて、少女が亡くなって、何年かたつた、ある年の暮のこと。春敲門をホトホト叩いている老人が居りました。神職の一人が声を掛けると、その老人は、方士だと名乗り、蓬莱の宮に居られる楊貴妃に、皇帝からの伝言を渡す為に訪れたと云うのでした。不思議に思った神職が、少女の墓に案内すると、方士は何やらぶつぶつと独り言を云って居ましたが、そのうち、ふっと何処かに消えてしまいました。

 その翌年、文永11年のことです。蒙古の軍勢が博多沖に襲来しました。日本軍は勇敢に戦いましたが、蒙古の集団戦法の前に苦戦を強いられました。しかし不思議な事に、突然、台風が蒙古軍の船団に襲い掛り、大損害を被った蒙古軍は、早々と撤退していきました。

 その年も全国の神様が、きまりに従って、出雲に集りました。熱田の森に住んでいた、仙翁の大明神は、本当は出掛けたくなかったのですが、やむを得ません。そして、予想した通り、神々から非難の声を浴びる羽目になりました。

 「確かに、絶世の美人を送り込んで、蒙古の皇帝を訝かそうとは云ったが、唐の時代に送り込めとは、云わなかった筈だが」
 「元と唐の区別もつかないのかね」
 「神風を吹かせる事がどんなに大変か分っているのか。精力を使い果たして、倒れてしまった神様も居るのだよ」
 「引受けるといったから任せたのに」
 「・・・・・」 
        
その時以来、熱田の森には、仙翁の大明神の姿は見られなくなりました。
 
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