夢七雑録

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東村山・北山公園に菖蒲を見に行く

2016-06-22 19:40:39 | 公園・庭園めぐり

東村山駅西口の交差点を渡って、斜め前方に入る道を下ると、柳瀬川支流の前川に架かる朱色の弁天橋に出る。橋を渡って西に行き、弁天池から正福寺地蔵堂を経て北山公園に出るルートもあるが、ここでは、弁天橋を渡って右折し八国山通りを北に進む。途中、左側に“近道”の表示があるが、ここを入って農家と畑の間の私道のような道を進み、突き当りを右に行けば北山公園に出る。八国山通りをそのまま進んで少し先を左に行っても、多少遠回りにはなるが北山公園に行く事は出来る。菖蒲まつり期間中は幟が各所に立ち道標もあるので、北山公園まで迷う事はないだろう。なお、北山公園からの帰りに、“近道”を逆に進み八国山通りを横切って先に進んで前川を渡って左へ川沿いに進み、少し先を右に行くと諏訪神社の横に出る。ここを右に行けば東村山駅、左に行けば、ふるさと歴史館に出る。

柳瀬川支流の北川を善行橋で渡れば北山公園となる。菖蒲まつり期間中の公園内は賑わってはいるが、混雑しているという程ではなく、花菖蒲をゆっくり見て回ることが出来る。

公園内の菖蒲を見て回る。菖蒲は300種8000株あると言う。中には珍しい品種があるらしいのだが、それと気付かずに通り過ぎていたに違いない。

公園の北側では紫陽花が見ごろになっている。その中を、西武園線の電車が通り過ぎて行く。トトロのふるさとでもある八国山の麓を、レトロな電車がゆっくりと走っていたとすれば、昔懐かしい風景の中にぴったりと収まっていたかも知れないのだが。

展望台が造られていたので上がって見る。公園内には見渡す限り菖蒲田が広がっている。確かに菖蒲あっての北山公園であり、菖蒲が終われば公園への来訪者は激減するかも知れないが、見るべきものが無くなるわけではない。花はほかにもあり、水田もある。そして、この公園の本来の見所は、多分、八国山を借景とした四季折々の里山風景にあるのだろう。

 

公園の西側にある関場橋から外に出て西に行くと、八国山たいけんの里に出る。以前、ここには北山公園の管理事務所があり、秋津から移設した農家もあって、かやぶき民家園と称していた。農家は里山風景の要となるものだが、惜しい事に放火されて焼失してしまっている。

 

北山公園のある場所はもともと水田だったが、昭和48年(1973)に不動産業者による買収が進められるという事があった。そこで、東村山市は自然環境保存のため買戻しと用地買収を行い、昭和51年(1976)から都市計画公園・北山公園としての造成を開始した。一方、東京都は昭和52年(1977)に、北山公園に隣接する八国山緑地を都市緑地に指定している。昭和57年(1982)、東京都は都民の日制定30周年記念として新東京百景を定めることになり、各区市町村から推薦された景勝地について、人気投票の結果も尊重して選考委員が百カ所を選定したが、その中に北山公園も含まれている。平成元年(1989)、公園の造成開始以来増やしてきた花菖蒲が150種となり、第1回北山公園菖蒲まつりが開催される。平成2年(1990)には、北側の八国山緑地が公園として開園している。

<参考資料>「狭山丘陵見て歩き」「北山公園と八国山の成り立ち」「新東京百景」

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水元公園に菖蒲を見に行く

2016-06-15 18:57:02 | 公園・庭園めぐり

葛飾菖蒲まつりの会場は堀切菖蒲園と水元公園という事なので、水元公園の菖蒲も見に行く事にした。水元公園でバスを下り内溜に沿って歩く。内溜はもともと小合溜とつながっていたようだが、今は土手で仕切られて、大きな釣り堀のようになっている。

水元公園に入り右へ、水元大橋を渡る。菖蒲田の向こうに屋台が並んでいるのが見えるが、そこが菖蒲まつりの会場で、ステージでは歌謡ショウやフラダンス等が行われていた。

菖蒲田の北側には小合溜の水面が広がっている。小合溜は東京都と埼玉県の境界になっていて、向こう岸は埼玉県側の、みさと公園になっている。

菖蒲田では菖蒲の花摘みが行われていた。水元公園の菖蒲は100種14,000株。堀切菖蒲園に比べると、ゆったりと植えられている感じである。

花菖蒲を見て回り、水元大橋に戻る。よく見ると、逆光の中にアオサギが居る。今回は水元公園の内のほんの一部だけを見たたけだが、次回は公園内を隈なく見て回りたい。その時は、時間をかけて、野鳥の様子も観察してみようと思っている。

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堀切菖蒲園に菖蒲を見に行く

2016-06-13 19:10:32 | 公園・庭園めぐり

6月に入り、そろそろ菖蒲も見ごろという事で、久しぶりに堀切菖蒲園に行ってみた。堀切菖蒲園駅の南側の出口から、右側の川の手通りに出て南に向かう。菖蒲園へは少し分かりにくい道なのだが、案内表示があちこちに出ているので迷う事は無い。菖蒲の時期には菖蒲園に行く人も多いので、その後についていけば容易に目的地に着く。堀切菖蒲園の入口には菖蒲まつりのゲートが作られている。開催期間は6月1日から20日までという。食事処でもある静観亭を横目に、人の流れに乗って入場無料の園内へと入り込む。

まずは、園内全景を眺めるべく、四阿のある築山に上がる。一面の花菖蒲の向こうには静観亭。そのうしろには、園内を見下ろす位置にマンションが建っている。菖蒲園の東側と南側には高い建物はなさそうだが、西側には高層道路が空間を横切っている。現代の借景と思えば良いのだろうが、煩わしいので見ないことにし、園内を気の向くままに歩き回る。堀切菖蒲園はそれほど広くはないが、菖蒲を見て回るには、程よい広さである。

菖蒲園はもともと菖蒲田ではあるのだが、見物客が来るようになると、日本庭園風の趣も必要になるのだろう。園内には築山を築き、東屋と手水場を設け、垣をめぐらせ、石灯篭や庭石を置き、石橋を架け、松も植え、藤棚を造ったりしている。

現在の堀切菖蒲園には200種6000株の花菖蒲が植えられているという。園内の花菖蒲には種類を示す札が立てられているが、とても覚えきれない。堀切菖蒲園は菖蒲の他にも季節ごとの花を植えているので、他の季節も楽しめるということらしい。

帰りは、堀切菖蒲園を出て北に少し先、角を右に入る。この道は西井堀の跡で、水路跡らしい曲がりくねった道には紫陽花が植えられている。そのまま進むと道幅は広くなり右へと曲がっていく。横断歩道を渡ると菖蒲七福神の像が並んでいる場所に出る。新編武蔵風土記稿の堀切村の項にも記されている毛無池を大正時代に埋め立てた時、天祖神社の摂社として弁天社を祀ったが、平成になってから弁天社に七福神を建立したということのようである。横断歩道を進み信号を渡って先に行くと、ほどなく堀切菖蒲園駅に出る。

ここで、西井堀について少しふれておく。「葛西筋御場絵図」によると、利根川から取水している葛西用水は亀有付近で東井堀、中井堀、西井堀に分割されるが、そのうち西井堀は、西に流れたのち南に流れ、毛無池を経て堀切村を通り、古綾瀬川(現在は、荒川と並んで綾瀬川として流れている)に合流していた。なお、小合溜の水を引いた用水も東井堀、中井堀、西井堀と呼ばれているが、それとは別である。

 

堀切の菖蒲の歴史について簡単にまとめておく。江戸時代、堀切のある葛西の地は江戸近郊の農村地帯で五穀蔬菜の生産地であったが、「江戸名所図会」の挿絵によると草花の栽培も行われていたらしい。小高伊左衛門が記した「小高園由来」によると、草花の培養に関心のあった先祖の伊左衛門が、享和・文化の頃(1801~1817)、花菖蒲を園に植えたことが堀切村四方堀の菖蒲の始まりとしている。四方堀は後の小高園である。伊左衛門は花菖蒲愛好家の旗本・菖翁から乞い受けた品種を増やしたとされる。天保14年(1843)の「絵本江戸土産」の“堀切の里花菖蒲”には、数万株の花菖蒲の眺望が類なく遠近を厭わず人が集まるという盛況ぶりが書かれているが、あまりの過熱ぶりに、弘化3年(1846)には代官から自粛するよう申し渡されている。しかし嘉永2年(1849)の「続武江年表」には“近年花菖蒲を賞する人多く葛飾郡堀切村わけて多し”とあり、安政3年(1856)の「隅田川向嶋絵図」に、位置的には少し疑問もあるが、“堀切村百姓伊右衛門花菖蒲之名所ナリ”と記され、また、広重の「名所江戸百景」にも“堀切の花菖蒲”が取り上げられている事からすると、花菖蒲の名所としての地位は確立していたと思われる。

明治も中頃になると、堀切は都内から程よい距離の恰好な行楽地として人気になる。菖蒲園としては眺望の良い丘のある小高園と、池を囲む多くの小亭がある武蔵園が、互いに元祖と称して競いあっていた。大町桂月は「東京遊行記」(明治39年)に堀切の菖蒲を取り上げ、吾妻橋から蒸気船に乗って鐘ヶ淵まで行き、そこから2km足らずで菖蒲園に達したとし、小高園と武蔵園の両方に入ったあと、ほろ酔い機嫌で帰途についている。田山花袋は、大正12年の関東大震災の直前に出版した「東京近郊一日の行楽」の中で堀切を取り上げ、吾妻橋から汽船で鐘ヶ淵に出るルートとは別に、京成電車(現在の押上線)で行く方法や、東武線の汽車を利用する方法を記している。当時すでに荒川放水路の開削が進行中であったが、通水は行われていなかったので、今とはかなり違う風景の中を歩いていたと思われる。

明治以降、小高園や武蔵園のほかにも、堀切園、観花園、堀切茶寮、菖蒲園、四つ木園が開園するが、関東大震災後に客足が遠のいた事もあり、次々と閉園に追い込まれている。小高園は存続し、昭和8年には名勝に指定されたが、次第に維持困難となって公園化も検討されたものの、終戦を待たずに閉園になっている。唯一残ったのは堀切園で、一時は水田となったが、終戦後に再開している。しかし、経営が難しくなった事から都が買収し、昭和35年に開園。さらに、昭和50年に葛飾区に移管されて現在に至っている。

 

<参考資料>「堀切菖蒲園」「葛飾区史跡散歩」「広重の大江戸名所百景散歩」「絵本江戸土産第7編」「東京遊行記」「東京近郊一日の行楽」「葛西筋御場絵図」「今昔マップ」

 

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