夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

20.川口善光寺に遊ぶ記

2009-03-31 19:18:22 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年閏四月十七日(1819年6月9日)、朝からよく晴れていたので、川口善光寺に詣でようと家を出る。坂本町(台東区下谷)から細流に沿って行くと時雨ケ岡不動尊(西蔵院不動堂。台東区根岸4)に着く。堂の前には御行の松として知られた大きな松があった。現在、この松は枯れ、二代目も枯れて、三代目の若い松が代わりに植えられているが、初代の枯れた松も保存されている。さらに先に行くと、日光御門主の建物があった。東叡山寛永寺の住職は、第三世以降皇族がつとめたが、日光山輪王寺門主を兼ねていたことから、日光御門主または日光御門跡と呼ばれていた。その隠居所である日光御門跡隠殿が、根岸にあった。現在はその跡形も無く、薬師寺(台東区根岸2)に隠殿跡の碑が置かれているだけである。根岸の里は閑静な場所で、隠棲するには適地とされていた。

 日暮里から宗福寺(移転)のそばを抜け、下尾久から上尾久に出て荒川(墨田川)の縁に沿って進み、華蔵院の先で、小田井(小台)の渡し(小台橋付近)を、賃銭を払って渡る。向こう岸は小田井(足立区小台)で、少し行くと宮城(足立区宮城)、さらに堤を行けば、性応寺(性翁寺。足立区扇2)や延命寺(恵明寺。足立区江北2)があり、鹿浜(足立区鹿浜)までくれば、日光山や秩父の山が雲間に見え隠れしている(江戸時代は荒川放水路が無く、この辺の地形は現在と異なる)。土手を下って用水の橋を渡ると川口宿(川口市本町1)である。川口宿には鋳物屋が二三軒あり、嘉陵の聞いたところでは、女を五十人ほど雇って、たたらを踏ませているが、最近は、じめじめした日が続いていたため、鋳るものが無いという。堤に上がり西に行くと善光寺(川口市舟戸町)である。嘉陵は寛政四年(1792)に善光寺に来ているが、その時にあった杉並木は、すでにやせ細っており、境内には他に見どころもないとも記している。川口善光寺は、江戸近郊で善光寺参りが出来るとして人気があった寺ではあるが、嘉陵にとって、興味をひかれるものが無かったのかも知れない。現在、荒川のスーパー堤防工事に合わせて、寺の改築が進行中。完成すれば、墓地を含む寺の全域が堤防上に配置されるという。

 参詣を終えた嘉陵は、川口の渡し(新荒川大橋付近)を渡り、日光御成街道(岩槻街道)をたどる。まずは、稲附の静勝寺(北区赤羽西1)に行く。石段を上り、鐘楼を兼ねた門をくぐると、正面に道灌像を安置する太田道灌の祠があり、その脇に観音堂と本堂がある。また、祠の南側には五葉の松があり、裏手の山裾には亀ケ池があったという。嘉陵が聞いたところでは、寺には檀家が無く寺領も無いが、境内が広いので米が収穫でき、畑作による収入もある。道灌の忌日には太田家からの代参もあるということであった。現在、寺の敷地は狭くなっているが、太田道灌の堂は現在もある。また、寺のある地域は道灌が築城した稲付城跡と認定され、石段の登り口には石標が置かれている。一方、亀ケ池は弁天通り付近にあったとされるが、近くの亀ケ池弁天に、その痕跡という池が残るだけである。

 街道を南に進むと、山続きに普門院(北区赤羽西2)がある。その先に、稲附の鎮守である香取社(北区赤羽西2)があり、その西側には法真寺(北区赤羽西2)があるが、何れも山の上である。さらに街道を進み、用水を渡って坂を少し上がると西音寺(北区中十条3)がある。庭の南東隅が崖になっており、当時は広い展望が得られたという。この先の帰路は記載されていないが、日光御成街道を進んだとすると、本郷追分から本郷通りを通って帰宅したと思われる。
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19.4 府中再遊の補足

2009-03-27 22:31:31 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は文化九年に府中を訪れているので、今回が再遊ということになる。当然、六所明神(大国魂神社)も参詣している筈だが、具体的な記述はない。ただ、最初の参詣の時には読めなかった石鳥居脇の制札の文字を、再遊の時はしっかり読んだ事が、文化九年の紀行文に追記されている。それによると、制札の一つには、竹木や苗の抜取禁止、火の用心と落書禁止、牛馬牽通禁止が書かれ、もう一つには、馬市の期間について書かれていたという。なお、府中は馬市で知られ、馬市を司る者は五十俵二人扶持を給わっていた。

 嘉陵が最初に府中を訪れた時、称名寺(府中市宮西町1)が近くに見えたが、時間も遅かったので行くのを諦めている。再遊の時に称名寺を訪れたかどうかは分らないが、嘉陵は、徳阿弥陀仏の石碑(図)が掘り出された寺である事を聞き、関心を持っていたようで、この件に関する資料を付けている。この一件のあらましは、次のようなものである。

 事の発端は、称名寺で菜園を作るべく草むらを掘り起こしていたところ、青石の碑が出てきたことにある。享和二年(1802)のことである。碑は、竪81cm幅24cm厚さ7cmで、梵字のほか字が彫られていた。名主立会いののうえで見分したところ、一本の碑は嘉暦四年(1329年)とあったが、墓の主の名は不明。もう一本の碑には、応永一(1394年)四月廿日、徳阿弥 親氏、世良田氏とあった。この石塔についての伝承は一切無かったが、親氏(ちかうじ)といえば徳川家の祖とされる人物であったから、村役人とも相談の上で、碑の文字を写し取り、代官名で上申することになった。徳川家の年譜では、親氏は清和源氏の流れをくむ新田氏の一族で、世良田と名乗っていたが、鎌倉方が新田氏一族を絶つべく探索の手を伸ばしてきたため、相模国の藤沢道場に逃れて徳阿弥親氏と称していた。その後、時宗の僧として各地を遍歴し、三河国松平郷において還俗し松平信重の入り婿となって松平を名乗ったとする。親氏は三河国松平の高月院に葬られたことになっていたが、武蔵国から墓碑が出てきたとなると面倒な事になる。結局この一件は、時の老中安藤対馬守の裁決により、石碑を掘り出した場所の耕筰を禁止して生垣を設けさせ、石碑は称名寺で大事に預かることで決着している。また、松平親氏が三河高月院に葬られている事を、あらためて申し渡している。この石碑については偽物とする説もあって、真実は闇の中である。現在、親氏の出自については諸説あり、徳川氏と新田氏の関係についても明らかになっていない。

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19.3 小金井府中再遊吟遊(3)

2009-03-26 19:06:54 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 府中から本街道を南に折れて、川沿いに進み、玉川(多摩川)の関戸の渡しを仮橋で渡る。仮橋が架けられるのは九月から三月までの間で、両縁に丸木を渡して、竹を編んだ上に土の方を上にした芝草を敷き詰めてあったという。嘉陵は小山田関跡について話を聞こうと関戸の名主相澤源左衛門を訪ね、霞ヶ関についての話も聞いている。しかし、黄昏時になったため、関跡を訪ねるのはやめにしている。そのあと、関戸村入口にあった横溝八郎ほか多数の戦死者を埋葬した塚を訪れている。嘉陵はここで、予知夢のような体験をしたと書いている。六所(大国魂神社)の南西一帯は、分配河原(分倍河原)とよばれる玉川(多摩川)の川原で、新田義貞の軍勢が鎌倉方の軍勢と戦った古戦場である。鎌倉方の武将、横溝八郎は奮戦したものの討ち死にし、戦いは新田義貞の勝利で終わった。この戦いが契機となって、鎌倉幕府は滅亡への道をたどることになる。横溝八郎の塚は、関戸古戦場跡と記された標柱のある地蔵の祠の裏手(多摩市関戸5)に現存している。また、霞ケ関(小山田関)の木戸柵を示す標識が、現在の熊野神社(多摩市関戸5)内にある。

 嘉陵は井田摂津守是政の墓も訪ねている。その墓は染屋の原の南にある井田左兵衛の畑の中にあった(現在は東京競馬場の中にある)。嘉陵は井田左兵衛から系図を見せてもらうが、それによると井田氏は、畠山重忠の四男重政が三河国井田村に移住して井田と称したことに始まるといい、十五代目が井田次郎四郎摂津守是政、その八代後が井田左兵衛であるという。左兵衛の話では、小田原の北条氏に仕えていた井田摂津守は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、「ぢごじ」に立て篭もったが、落城したため引き払って、この地(現在の是政付近)に蟄居したという。嘉陵は神宮寺山に篭城したという説を取り上げ、神宮寺山とは神護寺(ぢごじ)の事と考えたようである。現在の通説では、北条氏康の次男氏照は、最初、滝山城(八王子市滝山自然公園)を居城としていたが、高尾山近くの深沢山(城山)に八王子城を築いて移り住み居城としていた。豊臣秀吉が小田原城を攻めた時、北条氏照は主だった家臣とともに小田原城に立て篭もり、八王子城は残った家臣が詰めていた。しかし、八王子城は未完成であったのと、城主が不在であったため、前田利家らの軍勢に攻められ、あっけなく落城したという。井田摂津守はこのとき城を脱出したということらしい。嘉陵が聞いたところでは、井田氏はこの地で農業を営んでいたが、世を忍ぶ身であることから、代官などの調べに際して詳しい事実を言わなかったという。現在、井田氏の出自に関しては諸説あって、よく分らないという事である。

 嘉陵は、今回の旅の帰路については記述していない。しかし、関戸で既に黄昏時であったとすると、府中に到着した時点でかなり遅い時間になっていた筈である。それと、小金井、国分寺、関戸を回ってきたとすると、すでに歩いた距離は50kmぐらいにはなっていただろう。それでも敢えて、江戸まで30kmを歩き、夜遅く戻ったのだろうか。仕事上支障が無ければ、府中に泊ることもあったかも知れないし、また、日を改めて関戸に行ったという事も考えられるのだが。

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19.2 小金井府中再遊吟遊漫草(2)

2009-03-23 22:44:07 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵の紀行文は、小金井の次に国分寺の記述が続いているが、嘉陵の作った漢詩の題が「自府中至国分寺村」となっていることから、府中経由で国分寺へ行ったと考えられる。また、紀行文本文でも、府中の六所大明神(大国魂神社)の大門から北へ2km行くと国分寺村で、その四つ辻を西に向って600m行くと国分寺があると記述している。府中からは、現在の国分寺街道に相当する道を北に行き、元町通りに相当する道をたどって国分寺跡に出たと考えられる。嘉陵は、この寺について、石段を登ったところにある堂宇は、もとの国分寺(金光明四天王護国寺)の礎石を据え直して宝暦年間(1751-1763)に建てたもので、当初より小ぶりになっていると書いている。礎石は他にもあり、上に石像を安置したものや、埋まったままの大きな礎石があったという。また、西の山続きの、500mほど先の鐘楼跡にも礎石があり、大門から南に600mほど行った五重塔の跡にも大きな礎石があったと記している。

 現在の国分寺(国分寺市西元町1)は、真言宗豊山派の寺で、新田義貞が寄進したと伝えられる薬師如来を本尊としている。現国分寺の南側が、金堂や講堂など武蔵国分寺の中心的建造物があった跡地(国分寺市西元町2)で、現在も発掘作業が進められている。七重塔の跡地(国分寺市西元町3)は、少し離れた東南にあり、嘉陵が五重塔跡と記した場所に該当すると思われる。国分尼寺の跡地(国分寺市西元町4)は西側にあり、位置的には、嘉陵が鐘楼跡とした場所に対応しているように思えるが、定かではない。もっとも、嘉陵自身は、府中の称名寺の場所が国分尼寺の跡地と考えていたようである。

 嘉陵によれば、この辺りには、国分寺の古瓦を拾って銭と替える子供たちがいたという。江戸名所図会の「国分寺伽藍旧跡」で、田畑の中で国分寺の礎石を眺める人が居る一方、古瓦の破片らしきものが、道に散在しているのが見てとれるので、古瓦を銭に替える事が常態化していたわけではなさそうである。江戸も後期になると、国分寺瓦で硯を造る趣味人や、歴史への関心から古瓦を収集する者も出てくる。中には、国分寺瓦を収集して商売にする人間も居たのかも知れない。結局、嘉陵は2枚の古瓦を手に入れ、それを図に残している。豊島郡と荏原郡が寄進した事を示す刻印付きの瓦である。ところで、この日、嘉陵は杖を持参していたようだが、その杖を道の途中に忘れてきたらしい。杖が無くとも歩けるのは嬉しいことだというわけで、一首詠んでいる。

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19.1 小金井府中再遊吟遊漫草(1)

2009-03-21 22:37:07 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年三月二十八日(1819年4月22日)、60歳になった嘉陵(村尾正靖)は、この日、小金井の桜を見に出掛けている。嘉陵は、小金井の桜を愛でようとする人は、道栄寺(文京区小日向2)の開花を確認してから行くよう記しているが、気温差と品種の違いの関係で、盛りの時が丁度同じになっていたのだろう。さて、小金井への経路だが、青梅街道を中野から遅野井(井草)へ向かい、途中、青梅街道と分かれて寺部(寺分)を経て吉祥寺に出る。ここから小金井に向かうが、嘉陵の書いた略図からすると、吉祥寺から上保谷(上保谷新田)に行き、所沢への道と別れ、千川上水沿いに歩いて玉川上水の分流点まで行き、ここからは玉川上水に沿って保谷橋、新橋、梶の橋、関の橋を過ぎて金井橋(小金井橋)に至ったようである。吉祥寺から先は、現在の五日市街道に相当する道と思われる。この経路はやや遠回りと嘉陵も思ったようで、中野から馬橋(杉並区梅里)を経て吉祥寺に出る方が近いかも知れないとしている。このほか、堀の内妙法寺、大宮八幡、井の頭弁才天、吉祥寺を経て小金井に向かうコースを嘉陵は推奨しているが、見所が多いとはいえ、距離はかなり長くなる。

 小金井の桜は梶の橋の辺りから植えられていたが、桜は金井橋(小金井橋)から先が多く、両岸に八重と一重の桜が交わって植えられていた。金井橋の上からの眺めは、他では得られないほど見事なものだったが、ここで、嘉陵はオランダ銅板画法にならって、遠近法により玉川上水と桜並木を描いている(図)。今では桜と云えばソメイヨシノだが、当時はヤマザクラが主流で、小金井に植えられていたのもヤマザクラが主であった。小金井は、現在も桜の名所だが、花見の適地は近くの小金井公園に移っている。

 嘉陵の書いた略図には、金井橋(小金井橋)から南に向う道が記され、府中まで一里十二丁(5km)とある。この道は、現在の小金井街道に相当する道と思われるが、国分寺は経由しない。この道を通ったとすれば、府中に直接向ったことになる。嘉陵の略図は、金井橋から国分寺を経由して府中に出るようにも見えるが、多分そうではないのだろう。

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18.3 南郊看花記(3)

2009-03-17 21:51:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 来福寺の門は東側にある。門から寺の中に入ると、堂の前後や築山まで、みな桜であった。その中に、春日の局が植えたという、塩竃という桜があった。また、梶原松という松もあった。この寺の開基である梶原景時の植えた松が枯れたので、その印として植えたということであった。嘉陵はここで、持ってきた飯を取り出して、民右衛門と分けて食べている。現在の来福寺(品川区東大井3。写真)が、江戸時代の面影をどこまで残しているか分からないが、今も品川百景の一つに指定されている雰囲気の良い寺ではある。来福寺を後にした二人は、もとの道に戻り南に坂を下っていくが、ここの右の方を千軒台といい、梶原景時の領地であったという事を地元の人から聞いている。嘉陵はこの点については疑問を持っていたようで、東海寺には景政塚、海晏寺には梶原塚があるが、この辺を領していたのは、小田原の北条氏の家臣であった梶原備前守で、鎌倉時代の梶原ではないと述べている。

 坂を下って、用水(立会川)を小橋(月見橋か)で渡り、西光寺(品川区大井4)に行く。門を入ると有明桜という桜があった。また、車かえしの桜というのがあったが、その由緒書きについて、嘉陵は寺僧の記憶違いではないかと述べている。ここには他に児桜や醍醐桜があった。現在は、代替わりながら児桜のみが境内にあり、花の名所であった頃の面影を僅かに残している。心ゆくまで桜を眺めたあと、二人は寺を出て南に行く。現在の池上通りに相当する、池上道を通ったと思われる。坂を少し下ったところで、向いの小高い所に大井村名主の五蔵の宅があり、その門前に将軍家光が見たという台命桜があったという。名主の五蔵とは大野景山のことであろうか。景山は俳人で、花の名所案内図を作ったり、大井桜園を開いたりした人物である。ところで、ここへ来る途中の光福寺(品川区大井6)には、大井の地名の起こりとされる井戸があったのだが、この時はそれに気付かなかったため、立ち寄らなかったと書いている。

 すでに午後2時過ぎ、民右衛門はここから帰ることになったが、嘉陵は、道行く人の勧めもあって池上に行くことにした。五蔵の宅前からさらに南に行き、八景坂を上り詰めると茶店があり、崖には松の大樹が二本あった。嘉陵はここで、鈴ケ森や街道の松並木、行き交う旅人、藍色の海と、白い帆かけ舟を眺めて、しばしの時を過ごしている。江戸名所図会の「八景坂鎧掛松」には、南から上がってくる八景坂と、坂の上の茶店、東海道と海、二本の松が描かれている。それより後に描かれた広重の名所江戸百景「八景坂鎧掛松」では、既に松は一本だけになっているが、後に、その松も枯れて、現在は痕跡すら無い。鎧掛松の名は、八幡太郎義家が鎧を掛けたという伝説からきている。この松は、現在の天祖神社(大田区山王2)の境内にあったとされるが、他から移植されたという話もある。現在の八景坂は、JRの大森駅西口を出て直ぐ、南に下る池上通りの坂のことを言い、少し北に行った所が坂の頂上になる。明治十四年の地図によると、北から上がってきた池上道は、現在の山王口交差点近くで台地の上に至り、その先の信号の近くで台地の端に達し、ここから八景坂となって下っている。この地図で、八景坂は、天祖神社に続く台地の東側斜面を斜めに南に向って下っており、道の左手は崖地になっている。江戸名所図会からすると、明治の八景坂は江戸時代の坂の位置とあまり変わらないと考えても良さそうに思える。「新編武蔵風土記稿」に、神明宮(天祖神社)は八景坂の上にありと書かれているが、八景坂の上の台地にあり、というほどの意味ではなかろうか。また、江戸時代の八景坂は急坂であったとされるが、現在の坂は全体を均して傾斜を緩やかにしたのであろう。なお、八景坂は南側に下る坂を言うようだが、嘉陵は北から上がる坂を八景坂と記し、海に向かって東に下る坂もヤケイ坂(八景坂)と記している。八景坂は峠のような存在であったようだ。
 
 眺めも尽きないが、先々の事もあり、嘉陵は八景坂を下り、池上へ向かっている。現在の池上通りは、環七通りの手前で旧道を分岐するが、嘉陵が歩いたのは、むろん旧道の方であり、この道を道なりに行けば本門寺(大田区池上1)の前に出る。嘉陵は十七、八歳の頃、亡父に連れられて本門寺に来たことはあったが、今回、来てみたところ、桜はあっても商人が多く、慌ただしく往来するだけなので、花も映えないように思ったと書いている。嘉陵は、ここの宗旨の者が、この山の桜を褒めるのを聞いて本門寺に来たのだったが、嘉陵にとっては少々期待はずれだったようである。嘉陵は静かな花見をしたかったのかも知れない。結局、本門寺内のあちこちを参拝したのち、午後4時に本門寺を後にしている。八景坂の手前から磐井の社(磐井神社。大田区大森2)の裏に出て、大森の街道(東海道)を通り、家に帰り着いたのは午後7時頃であった。この日歩いた距離は40kmほどである。
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18.2 南郊看花記(2)

2009-03-15 22:31:20 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 大日向民右衛門は信州松代の出である。相貌は温和で、顔立ちはふくよかである。その祖父は百十六歳まで生き、父は八十一歳で亡くなったという。母は八十七歳で、今なお杖もつかず、腰もかがまず、目も歯も達者。八人の子供を育て、孫は三十八人居る。みな、豊かではなくとも貧しくもないという。民右衛門自身は五十歳の時に妻を亡くし、その後は、諸国を遊歴し二十九ケ国を巡った。今年は小田原、安房、上総、銚子から仙台まで遊びに行く積りだと言う。民右衛門は、また、本郷、日暮里、上野、浅草の花を見て歩いたが、昼盗人と間違えられぬよう、干し大根を売りながら歩いた。すると、夕方には銭を七、八百ばかり得た。その銭で食事をし、施しをした。途中、病気で食事にありつけない者が居たので金を貸したが、返しては呉れぬだろう、とも言う。嘉陵は自分の母親を、民右衛門の母親に会わせてみたいと思い、自分の住所を書きつけて民右衛門に渡している。嘉陵は、自分の理想とする姿を民右衛門に見ていたのかも知れない。

 このあと、嘉陵は民右衛門とともに御殿山(跡地は品川区北品川3、4)に向っている。現在の道では、聖坂から続く道を南に行き、ざくろ坂の高輪東武ホテルの横を入る道をたどるのが、その経路である。途中、右手に松平出羽守の屋敷が見えてくる。茶人大名で知られ、先年亡くなった松平不昧翁はこの屋敷に隠居していたが、嘉陵はこれに関連して、「古人は道を求め、今の人は器を求める」という文を引用し、自分なりの考えを述べている。御殿山は江戸の桜の名所の一つで、江戸南郊の花見では欠かせない場所であった。嘉陵は30年も前に伯母に連れられて御殿山に来たことがあり、その時に比べて、今は古木が少なくなり、若木が多くなったと書いている。また、御殿山で花を見る人は多いが、騒いでいる者はいないとも記している。江戸名所図会の「御殿山看花」を見ると、そうでもないようで、その時々で花見の様子も違っていたのだろう。現在、御殿山はすでに無く、御殿山通り等の名を残すのみである。現在の御殿山庭園は、御殿山の北西にあたり、ここからJRの線路を含む南側と線路の東側が御殿山に相当するが、当時を思い描くのは難しい。

 御殿山の花を見終わってから、二人は東海寺(品川区北品川3)に行く。現在の東海寺の寺域は小さくなっているが、江戸時代は五万坪の広大な敷地を有する大寺であった。二人は東海寺境内のあちこちを見て歩いたあと、南門から外に出て、畑の細道を歩く。左手には海晏寺(品川区南品川5)の後ろが見えていたが、菜の花が満開で一面に金を敷いたようであったと、嘉陵は書いている。さらに行くと、松平陸奥守の品川屋敷(仙台藩下屋敷。港区東大井4)があった。その垣に沿って西に行き南に折れていくと、来福寺のうしろに出ることが出来た。現在、池上通りに仙台坂という坂があるが、本来は仙台坂トンネルのある坂を仙台坂と呼び、その名は仙台藩下屋敷に由来する。この旧仙台坂の上、左手にある仙台味噌醸造所は、仙台藩下屋敷内にあった味噌屋敷がもとになっている。ここを南に行く見晴し通りをたどり、下り坂になる手前で左に下っていくと、来福寺の横に出る。

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18.1 南郊看花記(1)

2009-03-13 21:57:28 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年三月二十五日(1819年4月19日)、嘉陵は午前8時頃に家を出て、花見に出かけている。風も無く、のどかな日和であった。品種の違いと気象条件の違いで、花見の適期は今と違っていたかも知れない。愛宕山を過ぎ、切通しの坂を上がって、北西にある門(涅槃門)から増上寺に入る。入った辺りには、多くの柳や桜が植えられ、その先の白金稲荷の山麓にも桜が植えられていた。ここから坂を下っていくと池があり、弁天社のある島にも素晴らしい桜があった。もともと、増上寺内の御霊屋の裏手は、みだりに行ける場所ではなかったのだが、文化三年(1806)の大火で火の手が御霊屋まで及びそうになったため、付近の諸堂や屋敷の場所を変えて道も作り直したことから、御霊屋の裏手も自由に通行できるようになったのである。嘉陵は、道の周辺に桜をもっと植えれば、多くの人が訪れるようになるだろうと書いている。

 現在の道でいうと、愛宕神社前を過ぎ、御成門小のある交差点を右折し、左斜め前方の坂を上がって正則高の前を通る。涅槃門は、その先の芝高の辺りになる。なお、坂をそのまま上って左に行くと幸稲荷(港区芝公園3)があり、位置的には白金稲荷に該当しそうだが、どうであろうか。幸稲荷の縁起によると、もと岸之稲荷と称して村の鎮守であったが、江戸時代に現在地に移り、後に幸稲荷と改称したという。白金稲荷は、嘉陵の記述や江戸名所図会から増上寺境内にあったと考えられるが、一方の幸稲荷は、天保五年の江戸稲荷百番附で、芝切通・幸稲荷とあって、増上寺内とはなっていないこと、また、古くからの鎮守で氏子も居る点からして、増上寺の外にあったと考えられる。天保十四年の御江戸大絵図で、増上寺の外側に光宝院と並んでイナリと書かれているのが幸稲荷で、これとは別に増上寺の西北の門(涅槃門)を入った先にイナリと書かれているのが、今は存在しない白金稲荷に該当するのではなかろうか。何れにせよ、増上寺の裏手は、現在では大きく様変わりしていて、当時の様子を想像するのも難しいが、池(弁天池。港区芝公園4。写真)だけは小さくなったものの、今も何とか生き延びている。

 増上寺の赤羽門を出て、聖坂の上の功運寺(移転)に立ち寄り、長沼国郷の碑を見る。この碑は、嘉陵の亡父による書で、文は松崎観海であったが、今回、あらためて見てみると脱字がある事に気付いた。嘉陵は、急いで造らせたため石工が間違えて刻んだのだろうと記しているが、それも、45、6年も前の昔の事ゆえ、感無量であると書いている。ここから白金を下り(伊皿子坂を下り)、長応寺(移転)の前から泉岳寺(港区高輪2)の惣門の中を横切り、如来寺(泉岳寺に隣接していたが、移転)の裏門から入る。数百本ある桜が全て咲きそろい、その眺めは素晴らしいものだった。北東の隅の岡に弁財天の祠があり、その傍の坊舎の縁に腰を下ろして桜を見下ろすと、霞立つ沖の山々の眺めと相まって、その光景はさらに見事であった。傍らに一人、この風景の美しさを感嘆している人が居た。その人の名は、大日向民右衛門であった。

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17.木下川薬師 平井村聖天

2009-03-09 22:23:44 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年二月九日(1819年3月9日)、嘉陵は木下川薬師に詣でたあと、平井聖天(写真。江戸川区平井6)を訪れている。文化十二年八月十一日にも、逆井の渡しを渡って平井聖天を参詣しているので、今回は再遊ということになる。現在の木下川薬師(木根川薬師。葛飾区東四つ木1)は荒川の東側にあるが、江戸時代には中居堀(現在は暗渠化され中居堀通りとなる)の近くにあった。また、荒川(放水路)もなかったので、木下川薬師の大門を出て東へ行けば、中川の西岸に出ることが出来た。嘉陵は中川の岸堤の上を行くと、東南が開けて景色が良いと書いている。

 上平井の渡しで中川を渡ると、石の鳥居があり、その傍らに瓦葺で、唐臼を多数並べて、精米雑穀あぶら紙等を貯えている家があった。田口源右衛門の家である。昔、家康がここに御成りになって、腰を掛けたことがあり、その時の褥、手あぶり、たばこ盆など悉く下賜されたので、子孫に伝えて家宝とし、毎年四月十七日と七月七日にはこれを拝するということであった。ここから平井の聖天に向うが、この辺はそれほどの景地ではないと嘉陵は書いている。また、木下川薬師からここまで、飲み物や食べ物を得ることが出来ず、ここにある蕎麦切りの家や酒を売る店も、むさ苦しく汚そうで食事できそうになかったという。酒を売る店の主人の言うには、昔は参詣者も多かったが、今は寂れてしまっている。たまに通る人も、ここで食事をとることは無いので、何の用意もしていない。自分達が食べているものでよければ出してもよいということであった。それでも良いと言うと、菜を漬ものにしたものと、豆腐かすを炒ったものを皿に盛って出してきた。腹も大分空いていたので、贅沢な料理にも勝るような心地がしたと嘉陵は書いている。

 ところで、嘉陵は、上平井の渡しを渡らずに中川沿いに行けば、数多くの梅があると聞いて、その梅を見に来たのだが、道行く人から、梅は下平井にあるので向こうに渡って行くようにと言われて、上平井の渡しを渡った。ところが、行ってみると下平井に梅は無かった。結局、だまされて梅を見ることも出来なかったわけで、思い通りにならず、つまらぬ一日を過ごした男があったものだと、呟きながら帰ったと嘉陵は書いている。この日の往路と帰路の記載はないが、略図からすると、往路は亀戸天神(江東区亀戸3)の裏手に出て境橋を渡り、中居堀に沿って木下川薬師に行き、帰りは下平井の渡しで中川を渡り、中居堀沿いの香取宮(香取神社。墨田区文花2)から亀戸に出て、両国橋を渡って浜町に帰ったのだろう。

 嘉陵の紀行文には、「下総国葛飾吾嬬森碑」の一文が付属している。吾嬬森は、亀戸天満宮の北側の北十間川の近くにあり、日本武尊の妃の弟橘媛を祀ったところである。吾嬬森碑は弟橘媛の顕彰碑であるが、作者の山県大弐は日ごろ皇室の衰えを慨嘆し、幕府の専横を非難していたため、捕えられ死罪に処せられた人物である。嘉陵が、その事を知った上で、この文を付けた理由は分らない。単に、吾嬬森に立ち寄った際に入手したという事かも知れないが。なお、この石碑は、吾嬬神社(墨田区立花1)の境内に現存している。

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16.成子成願寺と熊野十二社紀行

2009-03-05 22:22:28 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政元年八月二十六日(1818年9月26日)、嘉陵は中川正辰とともに中野本郷村の成願寺(中野区本町2。図)を訪れている。寺の南側、井の頭上水(神田川)を小橋で渡り門を入ると、左に百観音堂、右に鐘楼、方丈、庫裏が並んでいた。庫裏の庭を通って高さ10mほどの裏山に上ると金毘羅社があり、その裏手の北西の方角に小高い墳と空堀の跡があった。正観寺(成願寺)の開基とされる正蓮長者(中野長者)の居住跡とされる場所である。中野長者が建立したとされる三重の塔は既に無く、塔屋敷と呼ばれる跡地があるだけであったが、中野宝泉寺(中野区中央2。宝仙寺)の塔(現存せず)は、成願寺の塔を移したもので、内部に正蓮長者夫婦の像を安置しているという、中川正辰の話を記している。実は、宝仙寺の三重の塔は飯塚惣兵衛の寄進による寛永年間の建立で、安置されていたのは飯塚夫妻の像なのだが、当時は中川正辰の言う説が流布していたらしい。この日、嘉陵は成願寺の山で「二人静か」という草を見つけて写生しているが、天保二年(1831年)にふたたび成願寺を訪れた時には、この草は無かったという。

 中野長者の墳墓は、後に境内地に移され、鈴木九郎長者塚として現存しているが、成願寺の堂塔の方は昭和20年の空襲によって灰燼に帰しており、現在の堂宇は戦後に建てられたものである。また、江戸時代の門は南側にあったが、現在は東側の山手通り側にあり、唐様黄檗宗風の三門になっている。中野長者については議論があるところだが、昭和55年に正観寺開山・川庵宗鼎像を解体修理した際、胎内から発見された人骨を、鈴木尚東大名誉教授が鑑定した結果、室町時代の熟年男性と若い女性のものと判定された。確証は無いが、伝承の中野長者と、夭折した娘のものと考えてもおかしくはないという事である。

 嘉陵はこのあと、中野長者が勧請したという熊野十二社に行っている。この社の別当は成願寺で、成願寺隠居の敷地があった。ここには、池があり滝があり茶店もあって、江戸百景の「角筈熊野十二社」や、江戸名所図会の「角筈村熊野十二所権現」にも描かれた清遊の地でもあった。嘉陵は、この山に烏が二羽いて、手を叩くと飛んでくると記し、また、畑の畔に紅葉が多く、秋の眺めは殊に良いと書いている。現在、熊野神社は新宿中央公園内に鎮座しているが、十二社の池は埋め立てられて跡形もない。

 嘉陵の紀行文には、熊野十二社と成願寺の縁起が記載されているが、元文二年(1737)作成の「熊野十二所権現縁起」の引用と思われる。以下に概略を示す。
「源義経に仕えた鈴木三郎重家の子孫、鈴木九郎は、各地を流浪したあげく中野に住みついた。家は貧しかったが、故郷の紀州藤代の産土神である熊野権現若一王子の小祠を建て、日々尊信していた。鈴木九郎は馬の売買を仕事としていたが、浅草観音の御利益で大金を得た。その金で十二所の神を勧請した。応永十年(1403)のことである。そののち、鈴木九郎は田畑を買い宅地を広げ、中野長者と呼ばれるようになった。俗説だが、長者は手にした財宝を埋めたが、その場所が発覚しないよう、手伝った者を姿不見橋(のちの淀橋)の下で殺したという。その報いから、娘が蛇身となったため、これを悲しんだ両親が、相模の最乗寺から禅師を呼び寄せ、禅師によって娘は蛇身を脱して天に昇ったという。鈴木九郎は、こののち正蓮と改名し、その住居を壊して正観寺(のちの成願寺)を建てた。」

 嘉陵はこのあと、熊野社の大門を出て、少し南の兜塚に向っている。その場所は秋元左兵衛佐屋敷北側の牧野大隅守の下屋敷にあったが、垣根もなかったので、小笹をかき分けて中に入った。塚は少し先にあり、樫の木の根元に石が置かれていたという。兜塚は現存せず、その由緒も不明である。位置的には、新宿中央公園の北側と思われる。

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