夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

11.柳津から郡山へ

2008-05-27 21:10:58 | 巡見使の旅
(18)享保2年4月13日(1717年5月23日)、晴。
 柳津では、虚空蔵菩薩で知られ、畳川(只見川)に臨む絶景の地に建つ、禅宗の園蔵寺を参観し、また、奥の院も訪れている。その後、一行は塔寺に向かうが、その途中、川向うの藤に城四郎の城跡ありと記している。塔寺では正八幡宮と千手観音のある恵隆寺を参詣。坂下に出て休憩している。坂下には芦名四天王の一人、平田備中守の城跡ありと記し、他の四天王については、松本源兵衛は笈川に、佐瀬河内は牛澤に、富田将監は日渡に居城ありとしている。案内者から聞いた話を書き留めたのであろう。坂下からはようやく道も平坦になり、この日の宿泊地、高田へと向う。この日は六里弱の行程であった。

(19)同年4月14日、雨天。
 暫くぶりの雨の中、高田の町外れにある伊佐須美大明神を参詣する。境内に名木の薄墨桜ありと記す。ここから若松まで三里。城下を通過して大寺に出て休憩。ここでは恵日寺を参詣する。大寺から、伊達政宗と芦名義広の合戦場であった摺上原に出る。巡見使の覚書には、この合戦当時から居住していた、湯田澤の牛右衛門についての記述があるが、「新編会津風土記」に旧家として記載されている、佐賀牛右衛門のことであろうか。なお、宝暦の巡見随行者は、この牛右衛門が城内の化物を退治したという話を記している。摺上原から、猪苗代までは磐梯山の麓を通るが、その途中、案内者から湖(猪苗代湖)についての説明を聞いている。また、猪苗代の手前には会津藩支城の亀ケ城があり、城番は小原五郎右衛門であった記し、猪苗代への途中、芦名盛国の城跡が少し見えたと記している。この日は猪苗代に宿泊。七里半の行程であった。

(20)同年4月15日、晴。
 猪苗代を出立。近くに藩祖保科正之を祭る土津神社ありと記す。ここから二本松街道を進み楊枝に出る。村の名の起こりとなった柳は枯れたが株は残っていると聞く。楊枝から会津二本松境の中山峠を越える。会津の巡見はここで終了し、二本松領の巡見となる。一行は二本松藩の出迎えを受け、竹内(中山宿)で休憩。ここに中山縫殿介の古山城跡ありと記す。そのあと、出湯のある熱海を過ぎ、代官に出迎えられて苗代田に出る。苗代田には苗代田蔵人の古屋敷ありとし、また三本松に荒井新兵衛尉の城跡ありと記す。この日の行程は約六里、苗代田[本宮町岩根]にて泊る。  

 「本宮町史資料編近世1」によると、この時、峠には郡奉行と代官が出迎え、竹内川橋には代官と宿外の郡代が出迎えている。また、巡見使を迎えるに当たって、次のような達し「巡見使と同名の人足は出すな。火の用心。無礼にならぬよう戸締りせよ。見物は不可。酒を飲むな」が出されていたという。また、伝馬割り(荷物を運ぶ馬の数)は、竹内、苗代田、小浜が各30匹、岩戸は10匹となっていた。
 
(21)同年4月16日、晴。
 苗代田を出立。青田原の通りの右手に人取橋という合戦場ありと記す。ここから奥州街道の宿場で、この日の休憩地となる本宮に出る。本宮には遊佐下総守の鹿の子館という古城跡ありとし、また、この地の鎮守、安達太郎明神についても記している。

【参考】 天保九年の巡見の時の、本宮での昼食の献立が記録に残っている(「本宮町史資料編」)。それによると、「膾として平目薄作り、白髪うと・才形目貫、木くらげ。汁は干早松、くり・わらひ、ほう月。香物は沢庵漬と味噌漬茄子。平皿としてあわひ、ふくふく玉子、しひ竹、めようが竹。御飯。引いて二の汁にほうぼう・三つ葉、焼物に黒から・酒引やき。御飯継、御湯継、御酒御肴」とある。このほかに、御重の献立として、「すすめ焼鮒、てりふくわひ、氷こんにゃく、かれひ、葛たまり、わさび、鱒小串、柚へし、里芋煮付」という記述がある。さすがに、奥州街道の宿場ともなれば、種々の食材が流通していたこともあってか、豪華版の昼食になっている。享保の時も、これと同等な食事が出されたのであろうか。なお、巡見使の心得には、米や豆は相場で、それ以外の物は土地の値段により支払うことになっていたので昼食は無料ではないが、所要経費は支払額より余分に掛っていたのではなかろうか。

 食事を終えた一行は奥州街道を郡山に向う。右手に見える二本松岳(安達太良山)の麓迄三里、さらに三里上ると出湯があり、遠国からも湯治に来ると聞く。鱒や鮎が取れると云う五百川を渡り高倉に出る。ここには、畠山近江守の城山跡ありと記す。日和田では松浦佐用姫伝説のある東照寺の蛇骨地蔵に立ち寄っている。蛇承石や棚木桜のほか、人身御供の塚が三十四あったという。また、浅香山、浅香沼についても記している。久保田を経て、この日の宿泊地である郡山に到着。行程は五里弱である。

【参考】 巡見に際して、幕府は道筋の掃除を不要とし、道路や橋を新設しないよう命じ、また、茶屋の新設を禁止し、宿舎の修繕も無用としていたが、藩の側がこれを素直に受け取っていたわけではなかった。たとえば、天明の巡見における郡山の例では、5782人を動員して道筋の改修と掃除を行い、71人を動員して宿舎・休茶屋の普請を行ったという。そのうえ、宿舎の修復について巡見使から質問があった場合は、宿が大破したため修復したと答えよと指示している。また、郡山では、藩の物頭、郡代、代官が一行を出迎えたほか、名主・組頭・百姓代組頭24人、荷物人足・料理人・給仕61人、馬80匹、人足300人、その他79人が待機していたという(誉田宏「諸国巡見使の研究」)。

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10.野尻から柳津へ

2008-05-23 22:20:55 | 巡見使の旅
10.野尻から柳津へ

(16)享保2年4月11日(1717年5月21日)、曇。
 野尻を出立。美女帰峠を越える。古川古松軒によれば、ここで始めて牛を引いて来たといい、古松軒自身も牛に乗り、馬より静かにて乗心もよし、と書いている。この辺では馬の代わりに牛を使うという事があったようで、巡見使一行のために特別配慮したわけではなさそうである。とすれば、享保の時も牛に荷物や人を乗せていたのかも知れない。この日も、途中休憩をとらずに進み、不動岩から落ちる不動滝を見て大谷に出ている。大谷迄三里二十四丁、ここに泊まる。

【参考】野尻に近い矢の原湿原の代官清水は、天保年間、野尻に泊まった巡見使が、翌日この地を通過した際に保全を命じた清水と伝えられている。この巡見使は幕府直轄地を巡視する御料巡見使で、各藩を巡視する諸国巡見使とは異なる経路を通ったが、同じ野尻に宿泊するなど、経路の一部が重複する場合もあった。ちなみに、享保の時の御料巡見使は、諸国巡見使に先行して幕府直轄地の巡見を行っており、南山御蔵入地にも入っている。

(17)同年4月12日、晴。
 巡見使の覚書に石ガミ坂と云う山道ありと記しているが、石神峠のことではなかろうか。一行は大谷を出て石神峠を越え砂子原に出たのであろう。砂子原には養老湯、荒湯など出湯があったと記されている。この後、一行は五畳鋪を経て、幕府直轄地・南山御蔵入地と会津領との境をなす西勝サイカチ峠(銀山峠)を越えている。

 ところで、吉尾峠から西勝峠までの間、滝谷・大谷組の郷頭(大庄屋に相当する)山内吉右衛門が巡見使の案内役を務めていたが、その道すがら巡見使に対して訴状を提出するという事があったらしい(福島県歴史資料館研究紀要1、誉田宏「諸国巡見使の研究」)。南山御蔵入地は幕府直轄地でありながら会津藩預り支配になっていたところ、幕府直接支配に変更されたため、会津藩預かりに戻すよう老中に訴えた。ところが5年経っても音沙汰が無いのは何故かという訴状である。諸国巡見使は、御料巡見使とは異なり、訴状を受け取る義務はなかったようだが、今回の巡見は公事出入に関する書付を請取るためのものではないと断りつつ、この訴状を受け取っている。

 銀山峠を越えたところに、天正年間に始まる銀山があった。慶長の頃が最盛期で、享保の頃は衰退していたと思われるが、それでも、堀口一か所、昼夜一寸五分づつ掘っていたという。軽井沢村内銀山村で休憩した後、柳津へ出て泊まる。六里二十丁の行程であった。

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9.田島から野尻へ

2008-05-21 21:50:27 | 巡見使の旅
(13)享保2年4月8日(1717年5月18日)、晴。
 田島を出立。上塩澤で岩神と云う岩を見る。金井澤を過ぎると、河原田大膳と家来の塚があった。伊達政宗の会津侵攻の際、伊達氏に従属した長沼氏との戦いで討ち死にしたという場所である。その先、黒澤では杵岩などのある大岩を見る。この日は針生で休憩する。

 第一回の巡見使に対して提出された国絵図には、針生から入小屋を経て山口に出る道が記載されている。この道筋の最大の難所が、馬も止まるという駒止峠であった。この峠は、駒戸峠とも書き、また大峠、箕の輪峠とも称し、倉宮や西行、宗祇も通ったという伝説があるぐらい、古くから利用された峠である。現在、駒止峠を越える旧道は、地元の人の手で「巡見使の道」として整備が進められているとのことである。

 巡見使の覚書によると、針生から小窓峠と、郷境の大窓峠を越えたとし、途中に前澤清水と、かつか清水があったという。日記役の記録から、一行は駒止峠を越えたと思われるが、小窓峠は小馬止峠(小峠)に、大窓峠は大馬止峠(大峠)に対応しているのかも知れない。なお、宝暦の巡見随行者は駒戸峠上下五里と記し、天明の巡見に随行した古川古松軒は針生峠と記している。針生峠は駒止峠とも考えられるが、戸板峠とする説もある。

 駒止峠を越えた一行はへつり道をたどり、玉椿の大木があったと云う入小屋に出る。さらに進み中小屋で戸山川にかかる波滝を見ている。そのあと山口を経て古町に出るが、途中の青柳に河原田治部の久川城跡ありと記す。この日は古町で宿泊。この日の行程は峠越えを含む六里余24Kmであった。

(14)同年4月9日、晴。
 古町を出立。山口、富山、下山を経て、簗取観音のある簗取に向かい、ここで休憩。この辺り、右手に尾張兵庫の古館跡、左手に五十嵐和泉守の古館跡を見る。また、この地の産物として麻布をあげ、鱒を割り串刺しにして焼く名物についても記す。小林を過ぎて布沢口からは渓谷沿いの道となる。古川古松軒が、心おどろき目くるめき、肝を消す桟道なりと書く道である。古町から七里、布沢で宿泊。布沢上総介の古山城ありと記している。

(15)同年4月10日、晴。
 難所の吉尾峠を越え、野尻に出る。途中の休憩はとらなかったようである。布沢から三里余、この日は野尻に泊まる。野尻の近く、中丸に山内信濃守の古城跡ありと記している。

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8.下野街道を山王峠へ

2008-05-17 22:13:26 | 巡見使の旅
(10)享保2年4月5日(1717年5月15日)。
 巡見使一行は若松城下を出立し、下野街道を国境の山王峠へと向う。下野街道は、若松から田島をへて山王峠を越え今市に至る街道で、会津西街道とも呼ばれ、奥州街道に代わる江戸への道筋として利用された街道である。一行は城下を巡視し、大河(大川)を渡って米塚から関山に出る。若松からは三里。宝暦と天明の巡見の時は、関山で休憩し大内まで足を延ばして宿泊しているが、享保の時は関山で宿泊している。       

(11)同年4月6日、晴。
 栃沢を経て十八曲りの坂を上がり、幕府の直轄地である南山御蔵入地と会津領との境となる氷玉峠を越える。峠の上からは飯豊山を望み、案内者から8月に少しの間だけ雪が消え、登る人があると聞く。その先、高清水のある清水峠を越えると大内。現在、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている大内宿であるが、享保の時はここを素通りし水野木(水抜?)で休憩している。その後、一行は田島に出る。田島は長沼氏が拠点としていた場所で、巡見使の覚書にも、長沼豊後守の城跡についての記述がある。この日は田島で宿泊。この日の行程は六里24Kmであった。ところで、天明の巡見使に随行した古川古松軒はこの辺について、食事大いに悪しく、と書いている。古松軒の口が奢っていたわけではないが、食べ慣れない食材と味付けであったのだろう。むろん、土地の人は精一杯の食事を出したに違いないのだが。ちなみに、食事は相応の代金を支払っていた。

【参考】古川古松軒は、備中(岡山県)の人で、生家は薬種業を営んでいたという。若い時から旅を好み、修験道に身をやつして山陽道と九州を旅している。のち、江戸に出た折、縁あって陸奥出羽松前の巡見使一行に加わった。その時の紀行文が「東遊雑記」である。後に古松軒は老中松平定信に謁見し、この紀行文を献上している。古川古松軒は晩年になって武士に取り立てられたが、巡見使に随行した時は、一介の町人に過ぎなかった。

(12)同年4月7日、晴。
 田島を出立。川島を経て糸沢で休憩。代官手代の案内で下野陸奥国境の山王峠に上がる。峠からは日光中禅寺方面が見えたという。ところで、国境の見分は巡見使の大事な役目でもあったようだが、巡見使が通行することによって、街道の整備が進むという意義もあった。もっとも、地元の負担が大きかったのも確かである。田島から山王峠まで五里ほど、この日はこの距離を田島まで戻って、宿泊している。
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7.白川から若松へ

2008-05-15 19:07:26 | 巡見使の旅
7.白川から若松ヘ<福島。3:seisidou3>

(7)享保2年4月2日(1717年5月12日)、晴。
白川を出立した巡見使一行は、阿武隈川橋を渡ったあと、奥州街道から分かれて会津越後道を若松へと向かっている。会津側では、この街道を白川街道と呼び、勢至堂峠を越えて白川と会津を結ぶ道として、よく利用した街道である。一行は、はね石坂、飯土用を経て上小屋で休憩。さらに牧内をへて長沼まで行き宿泊。長沼の札の辻から、新国上総介の居城跡が見えたという。この日の行程は六里24kmである。

(8)同年4月3日、晴。
 長沼を出て江花から谷合の道となる。宝暦の巡見の時は、雪が深々と残っていたというが、享保の時はどうだったのだろうか。この道の途中、馬尾滝と銚子滝を見る。その先に犬神の塚があった。大蛇に襲われそうになった猟師を助けた犬の塚であるという。今昔物語巻29-32に、陸奥の話として同様な話が掲載されているが、実は各地に類似の話が流布していたようである。この日の休憩地は勢至堂。その名は勢至菩薩を祭る御堂に由来する。鬼面山を眺めつつ勢至堂峠を越えると番所のある三代。ここからまた、山王坂の上りとなり、布引山を見ながら峠を越える。前方に城跡を望みつつ坂を下れば福良。長沼から五里余。この日は福良で泊まる。

(9)同年4月4日、半晴。
 福良から赤津を経て黒森峠を越え、原で休憩。秀吉が奥州仕置きで会津に入ったときは、原から背あぶり山を越えて若松に出たが、巡見使が通行するのは、その後開設された滝沢峠を通る道である。原を出て、西田面で鵜ノ浦甲斐守の城跡を望む。その先、森の清水を通り、赤井から金堀に出る。ここでは、近くに笠かむり山(石が森山)という金山があり、堀口が六か所ある事を聞いている。金堀から滝沢峠を越えると、正八幡宮のある滝沢町。ここから若松に入り、会津藩の出迎えを受けて、城下に宿泊する。福良から距離にして五里半ほどである。

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6.白坂から白川へ

2008-05-11 15:38:05 | 巡見使の旅
(6)享保2年4月1日(西暦1717年5月11日)、晴。
 巡見使一行は白坂を出立。奥州街道を通れば白川[白河]まで二里ほどだが、一行は奥州街道から分かれて旗宿に至る脇道に入り、旗宿から関山を経て白川に向う経路をとる。旗宿は古道の道筋にあたり、有名な白河の関もこの地にある。しかし、白河の関の機能は早くから失われ、江戸時代に入ると、その所在すら不明という状態になっていた。白河藩主松平定信が、その場所を調査して古関址の碑を建てたのは寛政十二年(1800年)のことであり、享保の巡見使はその所在も知らぬまま旗宿を通過している。

 この日、一行は旗宿から北に進み、関山頂上にある成就山満願寺に向かっている。現在は山火事で大半の堂宇を焼失し、往時の面影をとどめていないようだが、この寺は聖武天皇の勅願寺であり、阿弥陀堂、薬師堂、大師堂、仁王門などが建ち並び、また数々の宝物を保有する古刹であった。この日は関山で休憩。その後、北側に下ってから皮籠への道を辿ったと思われる。皮籠は奥州街道の道筋にあり、ここには金売吉次の墓所がある。吉次は牛若丸を奥州藤原氏に引き合わせたことで知られるが、この地で強盗に遭い殺されたと伝えられる。このあと、巡見使一行は白川城下まで行き、そこで宿泊している。五里六丁の道であった。

 巡見使の覚書には、白川の東に鹿島大明神[鹿島神社]ありとし、その東南に、うたたねの森、さらに東南に新地山ありと記されており、あわせて古歌も記載されている。
「陸奥のうたたねの森の橋絶ていなおふせ鳥もかよはさりけり」
「みちのくの阿武隈川のすそにこそ人なつかしの山はありけり」
また、宗祇戻しの小坂についてふれ、鹿島連歌興業に参加しようとした連歌師宗祇が、途中で会った女から、「月日の下にひとりこそすめ」という句に「やるふみの奥に我名を書とめて」と附けたと聞き、その場から戻ったという説を紹介している。ただし、巡見使一行が鹿島大明神に立ち寄ったかどうかは不明である。阿武隈川橋を渡るときに、その地を遠望し、案内者から話を聞いて書き留めただけかも知れない。

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巡見使の旅・福島県

2008-05-10 12:46:21 | 巡見使の旅
 我が家の花暦、今回はカラタネオガタマです。5月の連休が終わったころ、唐種招霊の花が開き始め、バナナのような甘い香りを、辺りに漂わせるようになりました。

 さて、江戸幕府により東北各地・北海道松前に派遣された巡見使の旅について、連載形式で投稿しておりますが、いよいよ福島県に入り、巡見使としての仕事が始まることとなりました。迎える側も準備万端怠り無く、巡見使一行を待ち受けていたに違いありません。巡見使任命から数か月後に出発した関東や関西と違い、東北地方は積雪期の通行が困難なため、巡見使の出発が翌年まわしとなっていました。それ故、準備のための時間的余裕は十分あったのです。もっとも、そのぶん、負担が大きかったかも知れませんが。なお、福島県内での巡見使のルートですが、最初に会津を巡視し、次に中通りを巡視して山形県に入り、松前まで行った帰りに浜通りを巡視して、江戸への帰路についています。 夢七。

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5.古河から白坂へ

2008-05-09 22:09:21 | 巡見使の旅
(3)享保2年3月27日(1717年5月8日)。
 巡見使一行は古河を出立し、野木、間々田を通り過ぎる。その先、小山に向かう途中で、白川藩主の松平大和守と対面している。参勤交代の途中で行き合ったのであろう。その後、小山、新田を経て小金井で休憩。石橋で宿泊する。

(4)同年3月28日。
 石橋を出立。雀の宮へ向かう途中、巡見使は仙台藩主・伊達陸奥守と対面している。白川藩主と同じで、参勤交代の途中で行き合ったのだろう。ところで、天明8年(1788年)の巡見使の出立の日は、仙台藩主の出立の日と同じになり、奥州街道を前になり後になりして通行した。ところが、仙台藩から巡見使への挨拶はまるで無かったと云う。この巡見に随行した古川古松軒は、仙台藩の態度は大いに無礼なりと憤慨している。70年ほどの間に巡見使の権威が落ちてしまったという事かも知れない。さて、享保の巡見使一行は、宇津宮(宇都宮)を素通りして白沢[河内町]で休憩。阿久津、氏家、喜連川を経て、佐久山で宿泊する。

(5)同年3月29日、晴。
 佐久山を出立。大田原、鍋かけを経て越堀で休憩。その後、芦野に出て、西行の歌で知られる遊行の柳を見る。ここから坂を上れば下野陸奥国境となる。国境を挟んで玉津島明神と春日大明神があり、二所明神とも呼ばれていた。国境を越えると、巡見使としての仕事が始まる。巡見使一行は国境を見分したあと、白坂まで行き宿泊している。江戸から白坂までは四十六里、五日の行程であった。
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4.奥州街道を古河へ

2008-05-07 22:09:33 | 巡見使の旅
(2)享保2年3月26日(1717年5月7日)。

 一行は越ケ谷を出立して奥州街道をたどり、粕壁(春日部)を経て、杉戸に出る。ここで昼食休憩となる。その後、幸手から栗橋に出て、古河藩主から提供された御座船にて川(利根川)を渡る。この日は古河に宿泊した。

【参考】巡見使一行のような、百人を越える団体がいきなり現れたら、宿場は大混乱となる。そこで、先触の役目の者が一行に先行して出発し、宿場で馬や人足の手配を行い、宿を確保しておいたという。巡見使の場合、休憩地及び宿泊地とも、本陣またはそれに準じた格式の宿舎を、しかも巡見使ごとに別々に用意しておく必要があった。

【参考】奥州街道のように参勤交代の大名が多く利用する道筋では、宿場がかち合う事もあり得るわけで、その場合は休憩地や宿泊地を変える必要も生じたと思われる。実際、古河から先、白坂までの間の奥州街道では、享保と宝暦と天明の巡見使の休憩地と宿泊地は同じではない。大名などと宿場がかち合ったために調整した結果ではなかろうか。

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3.江戸を出立

2008-05-06 08:41:44 | 巡見使の旅
(1)享保2年3月25日(西暦1717年5月6日)。

 江戸を出立する日、各々の屋敷を出発した巡見使とその従者は、最初の宿場である千住に入り昼食休憩をとった。一方、市中から運び込んだ荷物は、ここで積替えが行われた。馬と人足の交代である。荷物の積み替えが終了し、食事も終われば、いよいよ出発である。有馬内膳、小笠原三右衛門、高城孫四郎の巡見使三名は駕籠に乗り、これに各々の従者がつき従った。一行の人数は120人余。これに荷物を運ぶ馬と人足が加わった。当時の慣習からすれば、親類縁者知人など、多くの者が千住まで見送りに来ていた筈である。巡見使の旅は安全が確保されていたとはいえ、半年に及ぶ長旅では何が起きるか分らない。一行の姿が見えなくなるまで、見送りは続いていたに違いない。

 千住を出発した巡見使一行は、奥州街道をたどり草加を経て、越ケ谷まで行き宿泊する。江戸からはおよそ六里、24Kmの距離は江戸時代の旅程としては長い方ではない。

【参考】巡見使のような公用の旅の場合、将軍から御朱印伝馬証文が発行され、決められた数の馬や人足は無料で使用する事が出来た。長旅ともなれば荷物も相当な量となり、従者だけでは運びきれないので、途中の宿場で馬や人足を交代しながら、運んだのである。

【参考】巡見使の従者のうち用人は庶務全般を取り仕切った。旅行に必要な費用は勘定奉行から前払いされるが、これを管理して宿への謝礼や茶店への茶代、わらじ代のほか諸雑費の支払いに充てるのも用人の仕事である。このほか、巡見使の身辺の世話や雑事を行う給人、文書の作成などの庶務を行う中小姓、供侍として周囲を警戒する徒士や、若党、足軽、その他雑用を行う中間や小者が一行に加わっていた。

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