夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

ベートーベン生誕250年

2020-10-23 19:14:50 | 音楽、映画など

今年はベートーベン生誕250年に当たる。そこで、ベートーベンの音楽劇映画のLD(レーザーディスク)があった筈と思い、探してみると、LDは処分されてしまっていたものの、ジャケットはまだ残っていた。そのLD、「人間ベートーヴェン」によると、ベートーベンは気難しく付き合いにくい人物で、その風采、容貌からして女性にもてるというほどではなかったようである。ベートーベンは難聴という音楽家にとって致命的な病を患ってからは特に感情の起伏が激しくなったらしい。

10月のある日、ベートーベン生誕250年を記念して、NHKによる「あなたが選ぶベートーベン・ベスト10」という投票企画があることに気が付いた。名曲として取り上げられているのは30曲。これ以外の曲でも良いが、お気に入りの曲を3曲選んで投票するようになっており、その結果によりベスト10を決めるという事らしい。30曲については試聴も出来るので取りあえず試聴し、そのあと、所有するCD、レコードなどで聴きなおしてから自分なりに10曲を選んでみた。

 

(1)交響曲第9番「合唱つき」(1824年)

取り上げられている30曲の名曲の中には、交響曲が5曲。3番、5番、6番、7番、9番が入っているが、今回は9番を取り上げたい。ただし、全曲を聴くのは12月に入ってから。フロイデ、・・・と心のうちで歌いながら、この1年を送り出したいので。

【レコード】「合唱・運命・第八」と題するレコードには、第9番、第5番、第8番の交響曲が収められているが、この中から合唱(第9番)を聴く。演奏はイゼルシュテット指揮、ウイーン・フィルハーモニーとウイーン国立歌劇場合唱団及び独唱者による。

 

(2)レオノーレ序曲第3番(1806年)

ベートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」には4曲の序曲が作曲されたというが、そのうち最も有名な「レオノーレ序曲第3番」を選ぶことにした。

【LD(レーザーディスク)】「メトロポリタン歌劇場百周年記念ガラコンサート」の中には「レオノーレ序曲第3番」も入っている。演奏はレヴァイン指揮、メトロポリタンオペラ管弦楽団。

(注)今はLDの視聴が出来ないが、曲自体はこれまで何度も聴いているので取り上げた。

 

(3)ロマンス第2番(1798年)

この先には室内楽が続くので、今回はあまり気張らずに聴ける曲として「ロマンス第2番」を選ぶ。この曲はヴァイオリンと管弦楽のためのもので、そのCDも持ってはいるのだが、今回はフルート演奏によるCDの方を聴きたい。

【CD】「黄金のフルート・パトリック・ガロアⅣ」のうち、ガロアのフルートとクリヴィン指揮の南西ドイツ室内管弦楽団の演奏により、ロマンス第2番を聴く。

 

(4)弦楽四重奏曲第14番(1826年)

私がクラシックを聴いているのを知って、ブッシュ弦楽四重奏団のことを教えてくれた人がいた。しかし、レコードが入手出来ず、そのままになっていた。何十年か経過したある日、古本市で偶然にもブッシュ弦楽四重奏団のCDを見つけた。そして今、暫くぶりで、そのモノラルのCDにより、ベートーベンの弦楽四重奏曲第14番を聴いている。ベートーべンはこの曲について“どの作品にもまして豊かな幻想がみなぎっていることを神に感謝しよう”と語ったという。

【CD】「The Busch Quartet Plays Beethoven」には9番、14番、11番、15番の弦楽四重奏曲が収められている。14番の録音は1936年になっている。

 

(5)弦楽四重奏曲第15番(1825年)

30曲の名曲のうち、弦楽四重奏曲は7番、9番、14番、15番が取り上げられているが、そのうち15番をレコードで聴く。その第3楽章には“やまいいえたる者の神への聖なる感謝の歌”とある。このレコードを聴いていたのは、かなり前のことで、当時は後期の弦楽四重奏曲に関してはブタペスト弦楽四重奏団の演奏がベストだと思っていた。

【レコード】ブタペスト弦楽四重奏団による「ベートーヴェン後期弦楽四重奏曲集」には12番~16番の弦楽四重奏曲と大フーガが収められており、楽譜付の解説書も付属している。ただし、第14番のレコードについては傷をつけてしまったので、今は聞けない。

 

(6)ピアノ三重奏曲第7番大公(1811年)

このピアノ三重奏曲が大公と呼ばれているのは、ルドルフ大公に献呈されたことによる。ベートーべンがウイーンでデビューした頃は、作曲家というよりピアニストとして知られていたようで、レオポルド二世皇帝の末っ子ルドルフにピアノを教えるようになった。それが縁で、ルドルフ大公はベートーベンの後援者になったらしい。

【CD】演奏はヤン・パネンカ、ヨセフ・スーク、ヨセフ・フッフロによるスークトリオである。なお、このCDにはシューベルトの「ます」も収められている。

 

(7)ピアノソナタ第8番「悲愴」(1799年)

ベートーベンのピアノソナタは初期、中期、後期に分類される。そのうち初期は第1番から第15番までとされるので、30曲の名曲の中では第8番と第14番(月光)が該当する。ここでは、初期の傑作とされる第8番「悲愴」を選ぶことにした。この曲については、若きベートーベンが書いたウェルテルの悩みだとする説もある。

【CD】「ベートーヴェン・ソナタ」のCDは、初期のピアノソナタ、第8番、第13番、第14番を収めたもので、演奏はギレリス。この中から第8番を聴く。

 

(8)ピアノソナタ第17番「テンペスト」(1802年)

中期のピアノソナタは第16番から第26番までとされる。30曲の名曲の中では、第17番(テンペスト)、第21番(ワルトシュタイン)、第23番(熱情)が該当するが、今回は第17番を選んだ。理由は、この曲の第3楽章が昔からの好みだったから。

【CD】ピアノソナタ全集第2巻には、バレンボイムのピアノによる、第16番から最後の第32番までのピアノソナタが収められている。そのうちの第17番を聴く。

 

(9)ピアノソナタ第31番(1822年)

後期のピアノソナタは27番から最後の32番までとされる。30曲の名曲の中では29番(ハンマークラヴィーア)、30番、31番、32番が該当する。何を選ぶか難しいところだが、今回は、嘆きの歌に始まるが最後には力強く終結する終楽章を持つ第31番を選ぶ。

【レコード】リヒター=ハーザーのピアノ演奏によるレコードで、第31番のピアノソナタを聴く。

 

(10)エリーゼのために(1810年)

10曲目には、「エリーゼのために」を選ぶ。ピアノ演奏のレコードもあるにはあるのだが、少々草臥れてもきたので、固くなった頭を柔らかにするため、原曲を軽音楽風に編曲したものを聴くことにした。

【レコード】「エリーゼのために」というレコードには、クラシックの小品を編曲したものが10曲入っている。演奏は高見彰一とオルフェアンズである。

 

ところで、30曲の名曲の中に、歌曲「君を愛す」というのがあり、短い曲なので試聴の範囲に1曲分が収まっていた。高校の頃に歌っていた曲で、あの頃の事をふと思い出してしまった。Ich liebe dich、so wie du mich・・・

 

 

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LDから・ディズニーの映画

2019-10-01 19:36:33 | 音楽、映画など

今回は、手持ちのレーザーディスクの中から、ウオルト・ディズニー(1901-1966)によるアニメーション映画と、ミュージカル映画を取り上げる。これらの映画のうち学校の団体鑑賞で見たものが幾つか含まれている筈だが、どれがそうだったか記憶は定かでない。

(1)「白雪姫」

所有している「白雪姫」のスペシャル・コレクション版のLDは、LD3枚組による映画と付録映像のほか、付録映像の翻訳、制作過程に関する資料「ザ・メーキング・オブ・ザ・クラシック・フィルム」、劇場公開時のオリジナル・アートからなっている。なお、テクニカラーは3色分解して3本のモノクロフィルムに記録する方式で、退色の影響が少ない為 公開当時に近い色彩が今でも再現できるようである。

テクニカラーによる最初のカラー映画は、1932年に公開されたディズニーの短編アニメーション映画「森の朝」(花と木)であったが、当時のアニメーション映画は、メインの映画の添え物として同時上映される程度のものであったため、ディズニーは、興行的にもメインの映画となるべき長編アニメーション映画を製作することにした。まず、長編に相応しいストーリーをまとめあげ、登場人物の性格付けを行い、感情を持った人間のような微妙な動きを試行錯誤しながら生み出そうとし、多くのスタッフとともに費用と時間をかけて「白雪姫」を作り上げて、1937年に公開した。当時、このようなアニメーション映画が製作されていたこと自体が驚きと言える。日本では戦争のため公開されたのは1950年になってからになる。主任ディレクターはデビッド・ハンド。音楽はフランク・チャーチル、リー・ハーリーン、ポール・スミスで、「私の願い」「ワン・ソング」「歌とほほえみと」「口笛吹いて働こう」「ハイホー」「ブラドル・アドル・アメ・ダム」「こびとたちのヨーデル」「いつか王子さまが」の歌が使われている。

 

(2)「ピノキオ、ダンボ、バンビ、シンデレラ、不思議の国のアリス、ピーターパン」

「白雪姫」が興行的に成功したことから、ディズニーは「ピノキオ」を1940年に公開、同じ年には「ファンタジア」を公開している。さらに1941年には「ダンボ」、1942年には「バンビ」を公開したが、興行成績は伸びなかったらしく、1950年に公開した「シンデレラ」によってようやく、「白雪姫」以来の興行成績をあげたという。その後、ディズニーは1951年に「ふしぎの国のアリス」を、1952年に「ピーターパン」を公開している。このうち、「ふしぎの国のアリス」は、ルイス・キャロルによる児童向けのファンタジー小説を原作としているが、話の内容に特段の意味など無く、夢の中の取り留めもない話のようになっている。この物語は9歳の少女アリスに語っていたものが元になっているので、子供にも理解できるような話であり、ディズニーとしても、この物語を楽しい娯楽作品として提供した筈なのだが、教育的な筋書きを期待していた観客には評価されず、興行的には赤字が続いていたそうである。この映画のなかでは“非誕生日の歌”が特に面白い。誕生日を祝って貰えなくなった大人たちも、たまにはビール片手に“なんでもない日、バンザイ”と叫んでみたらどうだろう。ひょっとして、猫の化けた三日月が空に懸かっていたりして。

 

(3)「ファンタジア」

所有している「ファンタジア」のスペシャル・コレクション版は、LD2枚(3面)の映画のほかに、映画のVHS版のものと舞台裏についてのVHSがある。このほか。音楽を収められているCDが2枚。さらに解説編があり、オリジナルのリトグラフがある。

ディズニーは、ポール・デュカの交響詩「魔法使いの弟子」をもとにしたアニメーション映画を製作することとし、フィラデルフィア管弦楽団の指揮者で映画を通じてクラシック音楽の普及を考えていたストコフスキーとも相談していた。試写会での結果は上々であったが、短編映画としては費用が掛かり過ぎ、公開しても費用が回収出来ない事が分かったため、「魔法使いの弟子」を含む複数の曲による演奏会の形をとった長編アニメーション映画とすることになった。これが「ファンタジア」で、1940年に公開されている。この映画は、音楽を聴いて心に浮かんだことを映像化することによって、音楽と映像の一体化を目指す新しい芸術作品であったが、時代を先取りし過ぎていたこともあって、当時の観客からは支持されず、音楽評論家からは文化に対する犯罪とまで言われる始末であった。「ファンタジア」は、技術的には最先端のものを使用していた。当時はまだテープ録音が存在せず、SPレコードによる短時間録音しかなかったので、映画フィルムの光学録音サウンドトラックを用いて9チャネルの録音を行い、映写機9台を同期させて再生する方式をとっていた。この方式は複数のスピーカーを必要とするため場所が限られてはいたが、世界最初のサラウンド方式であった。ディズニーはワイドスクリーンも考えていたようだが、劇場側に設備が必要なため諦めてもいる。

 

「ファンタジア」は、ストコフスキー指揮によるフィラデルフィア管弦楽団の演奏によるもので、最初の曲はバッハの「トッカータとフーガ二短調」になっている。この曲には、ドイツの前衛映画作家フィッシンガーによる、動き回る曲線や図形などの映像が付けられている。この曲には具象的な映像が付けにくいので、抽象的映像が付けられと思われる。2番目の曲は、チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」の中から選んだ、「金平糖の踊り」「中国の踊り」「葦笛の踊り」「アラビアの踊り」「ロシアの踊り」「花のワルツ」の6曲で、バレエに代わるアニメーションがそれなりに面白い。3番目はポール・デュカの「魔法使い弟子」で、ディズニーと作曲家が相談しながら作ったような、一体感のある仕上がりになっており、採算を度外視すれば、この短編だけでも高い評価を得られただろう。なお、魔法使いの弟子を演じるミッキー・マウスは、この作品から目を大きくするなど姿かたちを変えている。次の曲はストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」で、映像は地球の始まりから恐竜の時代までの歴史を描いたアニメーションになっている。この映像に付ける音楽としては「春の祭典」がふさわしいとも言えるが、一般の人にとっては、「ファンタジア」が無ければ、20世紀を代表する曲の一つである「春の祭典」を聴く機会は無かったかも知れない。次はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」で、ディズニーは神々の住むオリンポスの山の情景に変えてアニメーション化している。その次は、ポンキエルリの「時の踊り」で、ディズニーは、ダチョウ、カバ、ゾウ、ワニによるコミカルなアニメーションにしたが、本来はオペラ「ラ・ジョコンダ」の中のバレエ音楽なので違和感がないでもない。映画はさらに、ムソルグスキーの「禿山の一夜」からシューベルトの「アヴェマリア」へと続き、絵を描いた複数のガラス板を並べたマルチプレーン・カメラにより撮影されたワンカット・ワンショットの映像により終りを迎える。「ファンタジア」は目で見る音楽、耳で聴く映像という新しい娯楽作品でもあったが、視覚による情報量が聴覚による情報量を遥かに凌ぐので、音楽の比重が下がるのは仕方ない事なのだろう。

 

(4)「メリー・ポピンズ」

この作品は、アニメーションと実写を組み合わせたミュージカル映画で、1964年に公開されている。製作はウォルト・ディズニー、監督はロバート・スティーヴンスン、東風に乗って子供達のところにやってくる乳母のメリー・ポピンズをジュリー・アンドリュースが演じている。作詞作曲はシャーマン兄弟。どれか一曲選ぶとしたら、「2ペンスを鳩に」はどうだろう。子供たちが小遣いの2ペンスで鳩の餌を買おうとしたところ、父親が銀行に預けろと言いだし、そして、ついに銀行の取り付け騒ぎにまで発展し、それから、・・・・・・・。

 

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LDから・ミュージカル映画

2019-09-08 09:19:26 | 音楽、映画など

LDは、ミュージカル映画のように聴きたい曲だけを繰り返し聴くのに向いていた。

 

①オズの魔法使い

この映画は、「風と共に去りぬ」と同じテクニカラーによるカラー映画で、現実の場面をセピア調のモノクロとし、夢の部分をカラーとしている。監督はフレミングで、1939年に公開されている。ジュディ・ガーランドが演じたドロシーが歌う「虹の彼方に」は、ハロルド・アーレンの作曲、E.B.ハーバーグの作詞によるもので、試写会の場では、子供のピアノ練習曲みたいでつまらないという意見もあったそうだが、今では、ポピュラー・ソングにおける代表的な曲の一つになっている。

 

②巴里のアメリカ人

 

「巴里のアメリカ人」は1951年の公開で、アカデミー賞作品賞を得ている。監督はヴィンセント・ミネリ。主役のジーンをジーン・ケリーが、リズをレスリー・キャロンがつとめている。映画のタイトルでもある“パリのアメリカ人”という曲は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュインがパリ旅行で作曲したもので、この曲をバレエ音楽として後半のクライマックスとし、映画の前半を、ガーシュインの様々な曲を伴う、ちょっとした三角関係のストーリーとしている。

 

③雨に唄えば

ジーン・ケリーとスターリン・ドーネンが共同監督をつとめた1952年の映画で、音楽はナシオ・ハーブ・ブラウン、作詞はアーサー・フリード。ジーン・ケリーのほか、ドナルド・オコーナ、デビー・レイノルズが出演している。雨の中でケリーが「雨に唄えば」を歌い踊るシーンをはじめ楽しめるところが多い。立川談志のお気に入りの映画だったらしい。

 

④ウエストサイド物語

ミュージカルを映画化したもので公開は1961年、アカデミー賞作品賞を受賞している。映画の監督はロバート・ワイズとジェローム・ロビンス。振付はミュージカルと同じジェローム・ロビンスで、音楽もミュージカルと同じでレナード・バーンスタイン。脚本はアーサー・ロレンツからアーネスト・レーマンに代わっている。映画ではマリアをナタリ・ウッド、トニーをリチャード・ベイマー、ベルナルドをジョージ・チャキリスが演じているが、歌は吹替えであったらしい。バーンスタインはニューヨーク・フィルの指揮者でクラシックの作曲家でもあり、この映画の音楽を演奏会用に編曲している。

 

⑤マイフェアレディ

ミュージカルを映画化したもので公開は1964年。アカデミー賞作品賞を受賞している。監督はジョージ・キューカー。フレデリック・ロウが音楽、作詞はアラン・ジェイ・ラーナーで、花売り娘からレディへと変身するイライザ・ドゥーリトルをオードリー・ヘップバーンが演じている。“スペインの雨”から“踊り明かそう”へとつながるシーケンスが見事だが、歌は吹替えであったらしい。

 

⑥サウンドオブミュージック

ミュージカルの映画化で1965年の公開。アカデミー賞作品賞を受賞している。監督はロバート・ワイズ。音楽はリチャード・ロジャース、作詞はオスカー・ハマースタイン二世。マリア役をジュリー・アンドリュース、ゲオルグ役をクリストファー・プラマーが演じている。使われている曲には、「サウンド・オブ・ミュージック」や「すべての山に登れ」、「ドレミの歌」、「エーデルワイス」、そしてCMに使われた「私のお気に入り」など良く知られた曲がある。

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LDから・アカデミー作品賞の劇映画

2019-08-30 16:40:48 | 音楽、映画など

①風と共に去りぬ

この映画の原作となるマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は、NHKの100分de名著にも取り上げられている。映画の監督はビクター・フレミング。南部の大農園、タラ農園の娘であるスカーレット・オハラをヴィヴィアン・リーが、相手役のレット・バトラーをクラーク・ゲーブルが演じている。南北戦争の敗戦により全てを失ったスカーレット・オハラが、その後の運命を切り開いていく姿を描く232分の超大作で、南部の人たちにとっては共感を覚える映画であったのだろう。1939年にアトランタで特別公開された時は、アトランタはお祭り騒ぎのようになり、映画のチケットは通常の20倍の料金にもかかわらず、定員の30倍の申し込みがあったという。なお、日本での公開は1952年であった。音楽はマックス・シュタイナーで、主題曲は「タラのテーマ」。この映画は、カメラの中で三色分解して3本のモノクロネガフィルムに記録する方式で、現在でも当時に近い色彩を再現できるようである。

 

②80日間世界一周

1956年に公開された映画で、原作はジュール・ベルヌ。監督は若手のマイケル・アンダーソンで、主演のフォグ役はデビット・ニーブン、召使パスパトゥはカンティンフラス、フィックス刑事をロバート・ニュートンが演じている。ほかに40数名のスターがゲスト出演しており、たとえばフランク・シナトラがピアノ弾きとして登場し、バスター・キートンが車掌の役で出ている。この映画は、世界12か国でロケを行い、撮影したフィルムは73時間に及び、当時の金額で700万ドルの巨費を投じたという。音楽はビクター・ヤングで、主題曲の“Around The World”は「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組で使用されていた。1872年頃の世界一周旅行が、実際はどのようなものだったか、あらためて知りたくなった。

 

③ベン・ハー

記憶は定かでないが、この映画は映画館で見たような気がする。この映画は、スペクタクル超大作であり、映画館の大スクリーンで見るべき映画なのだろう。原作はルー・ウォレス。監督はウイリアム・ワイラー。ベン・ハー役にチャールトン・ヘストン。音楽はミクロス・ローザ。1959年の公開で、アカデミー賞11部門を獲得している。

 

④ディア・ハンター

ベトナム戦線に出征した鹿狩り仲間、マイケル、ニック、スティーブンの、その後を追う物語。公開は1978年。監督は マイケル・チミノ。マイケル役をロバート・デ・ニーロが演じている。また、壮行会でニックがプロポーズしたリンダ役をメルリ・ストリープが演じている。主題曲はスタンリー・マイヤーズの“カヴァティナ”で、曲名は抒情的な小さな歌曲をいう。監督はこの映画について、平凡な若者たちが戦争という危機にどう対処したかを描いたとしているが、”カヴァティナ”という曲は、あの時代を生き抜いた人たちへの無言歌のように思える。この映画でギターを演奏しているジョン・ウイリアムスによると、“カヴァティナ”の主旋律は“The Walking Stick”という映画のためにスタンリー・マイヤーズが書いたもので、その後全曲を書き上げていた。それから何年も経ってから「ディアハンター」の主題曲として用いる事になったという。

 

⑤ガンジー

この映画は、人種差別に対して無抵抗不服従で戦い、ついにイギリスからインドの独立を勝ち取ったガンジーの伝記映画で、1982年の公開である。監督はリチャード・アッテンボロー。ガンジーを演じたのはベン・キングスレーで、父はイギリス人、母はインド人で、イギリスで教育を受けていた。キングスレーが演じたガンジーの姿は、生前のガンジーそっくりだったという。音楽は著名なシタール奏者のラヴィ・シャンカールで、ジョージ・フェントンとの共作になっている。

 

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LD(レーザーディスク)から・モノクロ映画

2019-08-22 20:14:49 | 音楽、映画など

 LDプレーヤーが故障したのを機に、LDは処分することになったが、LDのジャケットはしばらく残すことにした。ジャケットのコレクションという程のものではないが、昔の事を思い出しながら、その中の幾つかを取り上げてみることにした。まずは昔のモノクロ映画から。

 

①戦艦ポチョムキン

8mmシネを趣味の一つとして始めた頃、異なるカットのつなぎ方による映像の表現方法としてモンタージュ理論というのがあり、その代表例としてエイゼンシュタイン監督による「戦艦ポチョムキン」がある事を知ったが、その映画を初めて見たのは、ずっと後のことで、このLDによってである。この映画は1925年に公開されており、全ての配役を素人が演じ主役が存在しない点でも画期的な映画であったが、ソ連の宣伝映画であったので、1959年に自主上映が行われるまでは日本で公開されることはなかったらしい。この映画が1925年に公開された時はサイレント映画であったが、後に音楽がつけられるようになった。このLDでは、ショスタコーヴィチの曲を使用した1976年版を収録している。

 

②ドンキホーテ

1920年代の後期から1930年代の初期にかけて、サイレントの映画からトーキーへの移行が始まっていたが、フランスではトーキーへの関心が低かったようである。そんな折、セルヴァンテスの作になる「ドン・キホーテ」を、トーキーによる映画とする企画が持ち上がり、作曲の懸賞募集が行われた。これにはモーリス・ラベルなど著名な作曲家も応募したが、採用されたのはジャック・イベールの曲だった。かくて、音楽劇映画「ドン・キホテーテ」が製作され、1933年に公開の運びとなった。監督はゲェ・ヴェ・パプスト。主役のドン・キホーテにはバス歌手のフェオドール・シャリアピン。サンチョ・パンサ役はドルヴィルであった。映画で歌われている曲名は、“ジェラネバダの山が我を呼ぶ”、“この美しき城郭”“騎士とは何て気楽な稼業”“これは我が心の姫に”“泣くなサンチョ”で、このうち、ジェレネヴァダの曲はダルゴミィスキの歌曲で、他はイベールの曲が使われている。シャリアピンは、その声はもちろん、容姿や演技力においてもオペラの役者としての完璧な才能を備え、世紀の大歌手と謳われていたが、その音声や映像の記録はあまり残っていないので、この映画はシャリアピンの貴重な記録にもなっている。シャリアピンは1936年に来日しているが、宿泊した帝国ホテルでシャリアピンの求めに応じて出された柔らかいステーキがシャリアピンステーキの名で残っている。

 

③市民ケーン

「市民ケーン」は、オーソン・ウエルズが監督主演した映画で、映画史上のベスト・ワンと評される映画である。それまでの映画が時間の流れに沿って物語を展開していたのに対して、この映画では主人公となる新聞王の死亡から始まり、新聞王と関わりがあった人達を記者が訪ね歩くことで新聞王の生涯が浮かびあがる構成をとっており、時間の流れを解体して再構成している点が当時としては革新的な方法であったらしい。また、パンフォーカスの技法や、1カットを長くとって時にはクレーンを用いたりする、ワンシーン・ワンカットの長回しの手法も、モンタージュとは異なる画期的な映画技法だったようである。この映画は1941年に公開されているが、当時の新聞王をモデルとしているという噂が立ったため、新聞王からの妨害工作があったらしく、映画の上映も思うように出来なかったようである。

 

④ミラノの奇蹟

「ミラノの奇蹟」は、イタリア出身のデ・シーカ監督による映画で、1951年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞している。デ・シーカは、第二次大戦後のイタリアの悲惨な現実を題材としたネオ・リアリズモの作品として、1946年に「靴みがき」を、1948年には「自転車泥棒」を公開していたが、1950年代になるとイタリアは経済成長時代に突入し、ネオ・リアリズモの映画は作れない時代になっていた。「ミラノの奇蹟」は、善良だが経済成長からは取り残された貧しい人々についてのファンタジー映画であり、当時の政府に対する批判も込められているらしい。

 

⑤禁じられた遊び

「禁じられた遊び」は、フランスのルネ・クレマン監督の作品で、公開された1952年当時のフランスでの評価は低かったようだが、ベネチア国際映画祭ではグランプリを受賞している。ナルシソ・イエペスのギター独奏による、イエペス自身の編曲による「ロマンス」という曲やスペイン民謡が効果的に使われていることが、この作品の評価を高めたようである。この映画は戦闘機の機銃掃射で一瞬にして両親を失った少女の物語だが、日本も戦災で両親を亡くした大勢の孤児が居たことを思い出させる。

 

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山の歌・その3

2018-08-18 08:15:25 | 音楽、映画など

今回は、”金時山、6月と7月の尾瀬、木曽駒ケ岳、木曽御岳”と組み合わせる山の歌として、次の曲を選んでみた。「箱根八里」「夏の思い出」「この広い野原いっぱい」「いつかある日」「木曽節」

 (8)箱根八里・金時山

箱根の金時山(1212m)に登ったのは平成になってからで、仙石原から矢倉沢峠経由で頂上に出て乙女峠経由で仙石原に戻っている。上の写真は、その当時コダックから発売されたレンズ付きフィルムによるパノラマサイズのプリントである。

 金時山に組み合わせる山の歌として「箱根八里」を選んだ。この曲は「箱根の山」というタイトルで呼ばれていたが、「箱根八里」が正しいらしい。格調高い歌詞は東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授の鳥居忱の作詞で、当時はまだ学生であった滝廉太郎の作曲である。

“ 第1章 昔の箱根

 箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず

 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う

 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす

 昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か

 一夫関に当たるや万夫も開くなし

 天下に旅する剛毅の武士

 大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴らす

 斯くこそありしか往時の武士 “

 “ 第2章 今の箱根

 箱根の山は 天下の阻 蜀の桟道数ならず

 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う

 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす

 昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か

 一夫関に当たるや万夫も開くなし

  山野に狩する剛毅の壮士

 猟銃肩に草鞋がけ 八里の岩ね踏み破る

 斯くこそありけれ近時の壮士”

 

(9)夏の思い出・6月の尾瀬

20数年前のことになるが、6月の尾瀬にミズバショウを見に行ったことがある。この時は大清水から三平峠を越えて尾瀬に入り一泊して尾瀬沼と尾瀬ケ原を歩いている。写真は至仏山を背景に池塘とミズバショウを撮ったものだが、尾瀬では定番の撮影ポイントになっている。

 尾瀬に組み合わせる山の歌は、むろん「夏の思い出」である。中田喜直作曲・江間章子作詞のこの曲は、NHKの委嘱によるもので、1949年に石井好子が歌っている。歌詞に出てくるミズバショウは夏の季語で仲夏の花である。最近は山に行かなくなっているため、尾瀬は歌詞にあるように、夏が来れば思い出す遥かな尾瀬になってしまった。

 

(10)この広い野原いっぱい・7月の尾瀬

7月の尾瀬にニッコウキスゲを見に行ったことがある。コースは鳩待峠から尾瀬ヶ原を経て三条ノ滝に立ち寄ってから一泊し、翌日は尾瀬沼から大江湿原を経て沼山峠に出ている。写真はニッコウキスゲの大群落である。ニッコウキスゲは夏の季語で晩夏に相当している。

 このコースに組み合わせる歌は、「この広い野原いっぱい」にしたい。小薗江圭子作詞で森山良子作曲のこの曲は1967年にリリースされているが、広い野原いっぱいに咲いているニッコウキスゲは、この歌詞にぴったりである。ただし、尾瀬では植物の採取は禁止されているので、小薗江圭子の歌詞の“この広い野原いっぱい咲く花を、ひとつ残らず”の後を、“あなたにあげない。だって尾瀬では採取は禁止”という替え歌にでもしないと、いけないかも知れないが。

 

(11)いつかある日・木曽駒ケ岳

木曽駒ケ岳にも登ったことがある。この時のコースは、ロープウエイ終点の千畳敷から乗越浄土を越え、中岳を経て木曽駒ケ岳(2956m)に至り、馬の背から濃ケ池を経て乗越浄土から千畳敷に戻っている。写真は木曽駒ケ岳山頂から見た鎗・穂高方面の眺望である。

 木曽駒ケ岳に組み合わせる山の歌は、「いつかある日」とした。この曲は昭和38年の「山のうたごえ」というソノシートに載っているが、フランスの登山家ロジェ・デュプラの詩をもとに登山家の深田久弥が訳詞、同じく登山家の西前四郎が作曲している。この歌は“いつかある日 山で死んだら”という一節で始まるが、ロジェ.デュプラ自身もヒマラヤのナンダデヴィ登頂中に若くして消息不明になっている。

 

(12)木曽節・木曽御岳

20年ほど前に木曽御岳に登ったことがある。コースは田の原から王滝頂上を経て木曽御岳山頂の剣ガ峰(3067)に登り、この日は二ノ池に泊まって翌日は御来光を拝んだあとロ-プウエの駅に下りている。上の写真は山頂から見た二ノ池である。

 木曽御岳に組み合わせるとしたら木曽節になるのだろう。この歌は御岳山節をもとにした盆踊り歌と言い、歌詞の中に木曽御岳が出てくる。

 

 “木曽のナー なかのりさん 

 木曽の御岳さんはなんじゃらほい

 夏でも寒いヨイヨイヨイ ”

 

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山の歌・その2

2018-08-15 19:27:22 | 音楽、映画など

今回は、阿蘇山、九重山、由布岳、富士山について、写真と山の歌をまとめてみた。

「フニクリフニクラ」「坊がつる賛歌」「山男の歌」「ふじの山」

 (4)フニクリフニクラ・阿蘇山

50年以上前に、阿蘇山ロープウエイの駅から、噴火口の横を通り、中岳を経て高岳(1592m)まで往復したことがあり、当ブログの「古いアルバムめくり」にも記事を書いている。上の写真は高岳の写真で、オリンパスペンで撮っている。

 阿蘇山に組み合わせる山の歌は、「フニクリフニクラ」だろう。この曲は、ナポリ近くのヴェスヴィオス火山に登山電車が出来た時の曲で、作詞はジュゼッペ・トゥルコ、作曲はルイージ・デンツァ。“赤い火を噴くあの山へ登ろう・・・”という日本語の歌詞は、青木爽・清野協の共訳による。この歌は、1961年にNHKの“みんなのうた”で取り上げられた。

 (5)坊がつる賛歌・九重山

「古いアルバムめくり」の記事にも書いたが、阿蘇山に続けて九重山にも登っている。この時のルートは長者原―すがもり越え―久住山頂―牧ノ戸峠―筋湯で、御池には行っているが、九州本土最高峰という認識が無かった中岳(1791m)には登っていない。上の写真は、オリンパスペンで撮った久住山である。

 九重山で山の歌と言えば、今では神尾明正作詞、竹山仙史作曲による「坊がつる賛歌」ということになるだろうが、久住山に登った当時は、坊がつるについての知識が無く、行ってもいない。「坊がつる賛歌」は広島高等師範山岳部の歌をもとに、九州大学生により1952年に作成されたという事だが、この歌を知ったのは1978年にNHK「みんなのうた」で芹洋子が歌ってからである。

(6)山男の歌・由布岳

大分県の由布岳は西峰(1583m)と東峰からなる円錐形の火山で豊後富士とも称されている。この山に登ったのはミヤマキリシマが咲いている頃で、鎖を伝って西峰に登ったあと、東峰に登っている。上の写真はオリンパスペンで撮った由布岳東峰である。

由布岳に組み合わせる山の歌として、「山男の歌」を選んでみた。この歌は神保信雄作詞、作曲不詳とあるが、海軍兵学校で歌われていた「巡航節」を戦後になって書き換えたものらしい。

例えば、“娘さんよく聞け 生徒さんに惚れるなよ 沖でドンと鳴りゃヨー若後家よ”という巡航節の歌詞を書き換えれば、“娘さんよくきけよ。山男にほれるなよ。山でふかれりゃヨ- 若後家さんだよ。”となり「山男の歌」になる。なお、ダークダックスは昭和37年の紅白歌合戦でこの曲を歌っている。

 (7)ふじの山・富士山

富士山には昭和40年代の中頃に一度だけ登ったことがあり、上の写真は、その時のものである。

 富士山の歌として一つ選ぶとすれば、やはり「ふじの山」になるのだろう。この曲は1911年の文部省唱歌で、巌谷小波作詞、作曲不詳である。

“1.あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして 

かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山“

2.青ぞら高くそびえたち からだに雪のきものきて

かすみのすそをとおくひく ふじは日本一の山 “

 

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山の歌・その1

2018-08-12 21:18:47 | 音楽、映画など

8月11日は山の日だったので、これを機に、歌ったことのある山の歌と、登ったことのある山とを適当に組み合わせてみた。

「アルプス一万尺」「山の大尉」「雪山賛歌」

 (1)アルプス一万尺・白馬岳

50数年前に北アルプスの白馬岳(2932m)に登ったことがあり、当ブログの「古いアルバムめぐり」にも記事を書いている。その時のコースは、猿倉―大雪渓―白馬岳―白馬山荘(泊)―不帰ノ嶮―唐松山荘(泊)―八方尾根で、当時は35mmフィルム・ハーフサイズ版のオリンパスペンにスライドフィルムを入れて写真を撮っていたが、上の写真はその中の一枚である。

 白馬岳に組み合わせる山の歌としては、「アルプス一万尺」はどうだろう。「アルプス一万尺」はアメリカ民謡のヤンキードゥードゥルのメロディに歌詞が付けられたもので、昭和36年の緑の歌集では歌詞が14番まであるが、歌詞は次々と追加されたらしく、今では29番まであるらしい。全部は歌いきれそうにないので、その中から適当に選んで歌っているのだろうか。ただ、歌われなくなって消えてしまった歌詞が他にもあった筈である。例えば、「山のうたごえ」というソノシートには、“裕ちゃんタフガイ 旭はマイトガイ そこに居る奴 問題外”という歌詞が載っているが、現在の歌詞には見当たらない。裕ちゃんとは石原裕次郎、旭は小林旭のことだが、この歌詞を歌う人はもう居ないのかも知れない。なお、「アルプス一万尺」は手遊び歌として童謡に分類される場合があるようだが、歌詞からすれば明らかに山男の歌なので、童謡として扱うのには違和感がある。

(2)山の大尉・瑞牆山

百名山の一にもなっている奥秩父の瑞牆山(2230m)に登ったのは、白馬岳の少し後のことである。「古いアルバムめくり」にも記事を書いているが、この時は増冨から瑞牆山まで往復している。上の写真はオリンパスペンで撮ったスライドを補正したものである。この時は夜行日帰りだったが、仮に増冨温泉に一泊したとしたら、「山の大尉」を歌ってみたい。

 「山の大尉」はイタリー民謡で、山岳兵と呼ばれる守備兵のことを歌っている。イタリー映画の「苦い米」の中でシルバーナ・マンガーノが歌っているそうだが、確認はしていない。現在は、牧野文子の訳詞が知られているようだが、昭和36年の緑の歌集には、これとは異なる、三沼太郎による下記のような訳詞が収められている。

 “1.山の隊長は傷ついた 苦しみこらえながら

   アルプス隊にあいたいと 息もたえだえに ことづけた

 2.部下の兵士は たちあがり 「行くには靴がない」と

   「靴がなくとも山越えて ここに来てくれ わが部隊」

 3.静かな山に朝陽さして 登りて つどう兵士

  「山の大尉よ 命令は」「われら山につきました」

 4.わたしが死んだ その時は 五つに ほねをわけて

   その一ひらを皇帝に いのちささげたかたみゆえ

 5.その二つめは連隊に アルプス隊のしるし

   三番目には わが母に 山の息子の 思い出に

 6.四つめのそれは 恋人に わが初恋のために

   のこりはすべて わが山に アルペンフローラの 咲く尾根に “

 

この歌詞は原詩の意訳のようだが、大尉と兵士の会話と情景描写が組み合わされて臨場感ある内容になっており、歌詞のラストにも心動かされるところがあるので、個人的にはこの歌詞で歌いたい。

 

(3)雪山賛歌・丹沢表尾根

丹沢表尾根をヤビツ峠から鍋割山まで縦走したことがある。3000m級の高山を歩くに当たって、足慣らしとして歩かれていたコースでもあったので、白馬岳に登る前に歩いていたかも知れない。上の写真は塔ノ岳(1491m)より手前の表尾根の写真で、オリンパスペンで撮ったスライドフィルムである。

このコースで歌うとしたら、「雪山賛歌」だろうか。この歌はアメリカ開拓当時の歌「いとしのクレメンタイン」のメロディに、後に第一次南極観測越冬隊隊長となる西堀栄三郎が歌詞をつけたもので、昭和34年の紅白歌合戦ではダークダックスが歌っている。“雪よ岩よ”で始まり、“山よサヨナラ ごきげんよろしゅう 又来る時にも笑っておくれ”で終わるこの曲は、山の歌の中では定番中の定番と言えるのだろう。

 

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ゆく春を惜しんで

2018-04-28 09:49:09 | 音楽、映画など

今回の花暦は花海棠ハナカイドウ。または海棠ともいう。リンゴ属で中国原産。楊貴妃に例えられるその花は、何時の間にか日影に咲き、そして何時の間にか散っていった。

「海棠の日影育ちも赤きかな」(一茶)

俳句では立春から立夏の前日までを春とする。今年の立夏は5月5日なので、春はもうすぐ終わりになる。そこで、手持ちのCD、レコードの中から、タイトルに春が入っている曲を5曲選び出し、それを聞きながら春を見送ることにした。

(1)宮城道夫「春の海」

原曲は筝と尺八による曲だが、このCD(OVC16)では尺八の代わりにフルートを使用している。

(2)モーツアルト「春へのあこがれ」

子供用の歌曲集の為に作られた曲で、モーツアルト最晩年の曲である。シュアルツコップ名歌集のCD(TOEC1559)から。

(3)メンデルスゾーン「春の歌」

ピアノによる無言歌集のうちの一曲だが、このレコード(A1179)では軽音楽風に編曲して演奏している。

(4)デリアス「春にカッコーの初音を聴いて」

イギリスの作曲家で最後のロマン派と称されたデリアスの1912年の曲。今回はCD(CHAN8372)で。

(5)中田喜直「ゆく春」

作詞は小野芳照。歌詞に合わせて日本調の曲になっている。いそいそと行ってしまう春を惜しむ歌。レコード(SJX1046)で。

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クリスマスに聴く洋楽

2017-12-24 17:07:05 | 音楽、映画など

 

 

以前、クラシックの作曲家100人について一人一曲を選んで、クラシック百人一曲のカテゴリーで投稿したことがあり、クリスマスの曲として次の5曲を選んでいた。

①シュッツ「イエスキリスト降誕の物語」

②コレルリ「合奏協奏曲8番クリスマス」

③トレルリ「合奏協奏曲6番クリスマス」

④チャイコフスキー「くるみ割り人形」から第一幕。

⑤アダン「オ・ホーリーナイト」

今回はこの中からシュッツの曲を選び、これに加えてクラシックから1曲とポピュラーから3曲を、手持ちのレコード、CD、LDの中から選んでみた。

 

(1)シュッツ「クリスマス物語」

むかし聴いていたレコード(ZRG671)の邦題は「イエスキリスト降誕の物語」になっていたが、いま聴いているミュンヘンレジデンツ管弦楽団の演奏によるCD(36CD10032)の邦題は「クリスマス物語」になっている。ハインンリッヒ.シュッツ(1585-1672・ドイツ)は、ドイツ・プロテスタント教会音楽最大の巨匠でJ.Sバッハより100年前の人である。この作品はシュッツ晩年の1664年の作で、導入合唱と終結合唱の間に、福音史家によるレチタティーヴを挟んで多声の間奏曲が続く構成になっている。

(2)オネゲル「クリスマス・カンタータ」

ペシェク指揮のチェコフィルハーモニー管弦楽団・合唱団と児童合唱団によるCD(33CO1090)で。オネゲル(1892-1955)はフランス6人組の一人で、この作品の完成は1953年、オネゲル最後の作品になる。この曲の前半は重苦しいが、やがて、児童合唱による天使の歌声が始まり、様々なクリスマスの歌が重なり合い、そして、曲は静かに終わる。

(3)「ホワイト・クリスマス」

アーヴィング・バーリンの作詞作曲。この曲は、マイケル・カーティスの監督で、ビング・クロスビーとダニー・ケイが主演した、1954年の映画「ホワイト・クリスマス」の主題歌として使われている。LD(SF098-0137)で視聴。この映画は、待望の雪が降ってホワイト・クリスマスとなるラストで終わっている。

(4)「メリー・リトル・クリスマス」

この曲はヒュー・マーティンとラルフ・ブレインの共作で、1944の映画「若草の頃」の中でジュディ・ガーランドが歌っていた。この映画自体は見ていないが、「ザッツエンタテインメント2」(FY080-35MG)の中で、この歌の場面が紹介されていた。

(5)「サンタが街にやってくる」

アーティストが所属会社の枠を超えボランティアとして制作した「クリスマス・エイド」というCD(D32Y3183)の中から、クリスマス・ソングの定番「サンタが街にやってくる」を取り上げる。ヘヴン・ガレスビーとフレッド・クーツが書いた1934年の曲である。

 

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