夢七雑録

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩くー3-

2018-06-02 09:59:28 | 千川上水

下板橋駅を出て右に行く。この辺りにあったという田楽橋は既に姿を消している。一番目の角を右に入る道は区境になっていて少々気にはなるが、今回は予定通り二番目の角を右に入る。谷端川の上に造られた駐輪場に沿って進むと、昭和になって架けられた三の橋に出る。

その先には昭和に架けられた二の橋がある。この辺りから南側は谷戸地形になっていて、その下流域を雲雀谷戸、上流域を下り谷と呼んでいた。明治の地図を見ると谷戸は線路を越えて現・池袋六ツ又付近に達しているようである。この谷戸は江戸時代の池袋村絵図にも描かれているが、絵図によると水源は六ツ又より南にあり、その位置は、現・サンシャインシティ付近だったと思われる。また、この絵図によると、雑司ヶ谷道沿いにも水源があり、その位置は現・池袋の森の近くのようである。この谷戸からの流れは、本来なら谷端川本流に流れ込んでいた筈だが、池袋村絵図によると、西前橋で谷端川本流から分水され東に流れていた分水路に流入していた。この分水路は谷端川本流と平行して、本流の南側を東に流れたあと、明治通りの手前で谷端川本流に合流していたが、昭和4年の地図では、この分水路はすでに無く、谷戸からの流れは谷端川本流に直接流れ込むようになっている。

緑道を進むと一の橋が現れる。ここから先、谷端川は右に曲がり埼京線の板橋駅の下を潜っている。ガードを出て直ぐの角を右に行くのが谷端川の跡で、この道を歩いて行くと、左側に桜並木が見えてくる。桜の季節であれば、ここを左に入り谷端通りに出て桜並木を歩き、南谷端公園の角で右に桜並木を下って谷端川跡の道に戻るのが良いのだが、今回は、ひたすら谷端川跡の道を歩く。道は程なく左に曲がっていくが、ここには地名に由来する谷端橋が架かっていたという。ここを過ぎて先に進むと明治通りに出る。その手前に旧鎌倉街道跡の道が残っているが、ここにあった橋が鎌倉橋で、江戸時代にもここには橋が架かっていた。

明治通りを渡って先に進む。その先の信号の辺りには上之橋があり、山手線の線路近くからの流れと、薬学者の丹羽藤吉郎邸(後に山口邸)にあった瓢箪形の池の水が合わさり音を立てて谷端川に流れ込んでいたという。谷端川の説明板を左に見て先に進み、中之橋があった四つ角と、宮仲橋があった四つ角を過ぎると、北大塚三の交差点に出る。谷端川は交差点の南側を流れていて葮山橋が架かっていたというが、今回はそちらの道をとらず都道436号を進む。先に進むと空蝉橋下交差点に出るが、その手前に左手から巣鴨新田からくる道があり、蛇子橋(真法橋または寂法橋)で谷端川を越えていた。嘉永7年の図(御府内場末往還其外沿革図書)には、この橋の近くで合流する流れも記されているが、大正大学付近を源流とし旧中山道に沿って流れたあと、庚申塚の手前で旧中山道を横切って南流する小川が合流していたようである。さらに進めば大塚駅の北口に出る。王子電車の時代には、鉄橋で谷端川を越えていたが、今は都電が暗渠の上の道路を渡っている。

都電の軌道を渡って先にいくと折戸通りで、昔は藤橋(富士橋。乞食橋)で谷端川を渡っていた。現・春日通りから分かれて藤橋を渡り、折戸通りで旧中山道の庚申塚に出る王子道は、江戸時代によく利用されたルートで、上の図は、十羅刹女堂(天祖神社)から乞食橋(藤橋)に向かう道を描いたものである。ところで、享和元年の巣鴨村絵図によると、鎌倉橋と藤橋の間に四カ所の橋が記されている。新編武蔵風土記稿に記載されている橋のうち、上橋は上之橋に、寂法橋は蛇子橋に該当すると思われ、残りの2カ所のうち1カ所は位置的に中之橋のように思えるが、あと1カ所は判然としない。

谷端川には、西側から現・天祖神社付近の湧水池からの流れが、東側から現・天満宮付近の湧水池からの流れが合流しているので、藤橋から先は谷端川の水量が増えていたと思われる。JRのガードを潜り、すぐ左へ下っていく道は大塚三業地の道に相当し、花街らしく入口には紅色の欄干がある姿見橋があり、その先には見返橋があったという。道は程なく右へ曲がって行くが、ここに地名由来の熊野窪橋(熊野橋)があり、その先には左側に入る東福寺参道に東福寺橋があった。この二カ所の橋は巣鴨村絵図に記されている橋である。巣鴨小を過ぎて谷端川跡の道を先に進むと、豊島区と文京区の区境に出る。明治42年の地図には、東福寺橋からここまでの間に橋の記載は無いが、昭和4年の巣鴨町西巣鴨町全図を見ると、区境に架けられた宮原橋のほか、東福寺橋との間に幾つかの橋が記載されている。

宮原橋を過ぎて文京区に入り、猫貍橋を目指して谷端川跡の道を歩く。道は氷川下児童遊園に沿って右に曲がり都道に出るが、都道から左に児童遊園の南東沿いの道に入る。この道を上がって行けば砂利場坂になるが、谷端川は児童遊園を横切り砂利場坂の下を流れていた。新編武蔵風土記稿によると、護国寺造営の際に砂利取り場として使用された谷端川沿いの土地が荒廃したままになっていたのを、享保年間に願い出て開墾し新田としたとあり、小石川(谷端川)に架かる砂利場橋という名の土橋を記している。安永江戸大絵図にも、ここに橋が記されているが、橋は享保年間以前に架けられていたと思われる。一方、砂利場坂の下にあった橋は、一木橋(いちもく橋。上猫貍橋、一本橋)と言う名の木橋であったとも伝えられている。ここからは憶測になるが、砂利場橋という土橋が壊れたあと、丸太の一本橋が架けられ、一木橋と呼ばれるようになったのかも知れない。児童遊園の南東沿いの道に入ってすぐ右に行く細い道が谷端川の跡で、この道を進んでいき、小公園になっている場所を上がると不忍通りに出る。猫貍橋はこの辺りにあったというが、明治の初め頃までは江戸名所図会の挿絵のような農村風景が多少なりとも残っていたと思われる。

不忍通りに出て右手の千石三の交差点を渡り、不忍通りを左に行くと大正時代に架けられた猫貍橋(猫又橋、猫股橋、根子股橋、ねこまた橋)の袖石と説明板が設置されている。この橋には、狸が人を騙すと言う伝説があったが、江戸名所図会では木の根っこの又を橋の名の由来とする説を紹介している。安永江戸大絵図にも、ここに橋が記されているが、当初は木橋だったのが、挿絵の描かれた頃には石橋になっていたという事かも知れない。説明板の右側の細い道が谷端川の跡で、この道を進んで行くと、右斜め方向に都道436号(通称千川通り)に出る道があり、谷端川はここで千川通りを横切っている。明治時代、ここに道路が開通した際、架けられたのが氷川橋である。

千川通りには出ずに細い道を先に進むと、左手に簸川神社があり、谷端川を昭和9年に暗渠化したことを記念する千川改修記念碑が建っている。谷端川は下流では小石川と称していたとされているが、地名と紛らわしいので使われなかったらしく、東都小石川絵図では小石川大下水と記している。谷端川は千川上水長崎村分水でもあり、略して千川分水とも呼ばれていたので、千川の名を使うようになったのかも知れない。明治になってからは、千川の名が定着したようで、小石川谷と称すべきところを千川谷と呼んでいる。簸川神社から近い小石川植物園の中をちょっと覗いてから右に行き、交差点を渡って窪町東公園に行く。谷端川は窪町東公園を横切って湯立坂の下を流れていた。

新編武蔵風土記稿ではここに架かる橋の名を氷川橋としているが、御府内備考や江戸名所図会では祇園橋としている。この橋は安永の江戸大絵図にも記されている古くからの橋で、当初は土橋で後に木橋になったともいう。橋の名も変わったかも知れない。千川通りを左側の歩道に移って先に進むと、右側から桜並木の播磨坂が下ってくる。この交差点の辺りで、谷端川に架かっていた橋が久堅橋である。上水北小日向小石川辺絵図には、祇園橋の次の橋として、善仁寺と宗慶寺の間の道から大雲寺と新福寺の間の道に出る、橋戸町と戸崎町の橋が記されている。この橋は、安永の江戸大絵図にも載っている古くからの橋で、御府内備考ではこの橋を石橋と記しているが、無名の橋だったらしく、明治になって成立した久堅町の名に因んで久堅橋の名が与えられ、明治16年の東京図測量原図でも久堅橋と記している。明治40年の小石川区全図では祇園橋と久堅橋の間に橋は無いが、昭和6年の小石川区地籍図からすると、祇園橋の下流に幾つもの橋が新たに架けられていたようである。

久堅橋から先は明治40年の小石川区全図を参考に、植物園前の交差点から千川通りを先に進む。次の信号の少し先を左に入る道は御殿坂近くに出る道で、途中の谷端川には明治時代に橋が架けられていたが、橋の名は分からない。先に進んで念速寺を過ぎ、その先の交差点に出る。江戸時代、ここを左に入ったところに祥雲寺、右側には無量院があった。上の図は江戸名所図会の挿絵の部分図で、上側が祥雲寺と門前町、下側が無量院で、中ほどには谷端川に架かる橋が描かれている。祥雲寺は後に池袋に移ったが、移転先の祥雲寺の坂の下にも谷端川が流れていた。一方、無量院は明治になって廃寺になっている。無量院の前に架かっていた橋は、明治16年の東京図測量原図にも記されているが、橋の名は記されていない。小石川区全図から、明治40年までには、この橋の少し上流にも橋が架けられていた筈である。この橋は、戸崎橋と呼ばれていたかも知れない。なお、戸崎町は念速寺近くから大雲寺に至る町で、途中の白山裏の通りには石橋があったようである。

先に進むと右側に八千代町児童遊園がある。この付近には先手組の組屋敷の橋があったが、明治になって組屋敷跡が掃除町に組み込まれたため、この橋は掃除橋の名で残ることになった。その先、柳町小前の交差点付近には、柳町から掃除町に渡る橋があったが、地元の意向もあってか、東京図測量原図ではこの橋を千川橋と記している。この先、小石川三の交差点から右に折れて先に進むが、谷端川は道路に沿って南に流れていた。次の交差点に架かる橋は伝通院の裏手に出る橋であり、柳町に渡る橋でもあったが、東京図測量原図では、この橋を裏柳橋と記している。さらに先に進むと源覚寺に渡る橋があり、東都小石川絵図では源覚寺橋としているが、明治時代に架かっていた橋の柱に嫁入橋とあったため、東京図測量原図でも嫁入橋と記している。この橋については、名主家の嫁入りを祝って橋を新しくしたという話も伝わっている。源覚寺橋から先にも幾つかの橋があるが、そのうちの一つは丸太橋という橋で、もともとは丸太の一本橋だったようだが、明治時代には石橋に変えられていた。富坂の下にも橋はあったが、江戸時代の坂下は今より南に位置していたため、富坂橋の位置は異なっている。富坂橋から先、谷端川は水戸家の屋敷内(明治以降は砲兵工廠内)を通り、市兵衛河岸で神田川に合流していた。河岸に架かる橋は仙台橋で、谷端川最下流の橋になる。

 

<参考資料>

「旧谷端川の橋の跡を探る」「千川上水関係資料Ⅰ」「豊島区の湧き水をたずねて」「新編武蔵風土記稿」「御府内備考」「御府内場末往還其外沿革図書」「いたばしの河川」「東京の橋」「江戸名所図会」「東京名所図会・小石川区之部」「巣鴨乃むかし1」「豊島区地域地図集」「豊島区史地図編」「東京図測量原図」その他江戸切絵図など各種地図など。

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩くー2ー

2018-05-27 13:00:20 | 千川上水

椎名町駅を北に出て右へ、山手通りの下を潜って左へ、次の角を右に行くと谷端川の宮下橋跡に出る。谷端川は暗渠化され、その上は緑道になっている。右手は線路で行き止まりになるので左側に行くと谷端川緑道散歩マップがあり、これに従って谷端川南緑道を歩く。

小字の地名を付けた並木橋を過ぎる。次の橋は近くの神社の名を付けた羽黒橋だが、立教の裏手の道が道幅拡張されて西池袋通りとなり、辺りの風景はすっかり変わってしまった。ただ、緑道だけは以前の姿を残している。

西池袋通りを渡り、八幡橋を過ぎて先に行くと立教通りに出る。この道は池袋村絵図にも描かれた江戸時代からの道である。この橋は下田橋と呼ばれていたようだが、後に霜田橋と改称されている。明治の地図を見ると、霜田橋から中上橋の間に橋は記されていないので、この先の中上橋までの橋は、大正時代以降に架けられた橋と思われる。

立教通りを渡って緑道に入ると、すぐ右手に谷端川第二親水公園がある。谷端川緑道には2か所に親水公園が設けられていて、休憩ポイントになっている。

地名に由来する呼称の丸山橋を過ぎると藤棚がある。その先で、散歩マップに西口バス通りと記された通りに出る。ここに架かる橋の名は長崎橋で、通りを右へ行けば祥雲寺坂、左に行けば要町通りに続く。なお、大正14年の地図には、この通りも橋も記されていない。

通りを渡って緑道に入ると右側に谷端川親水公園がある。この辺り、谷端川の水を引き込んで野菜の洗い場にしていたという。

先に進むと日之出橋があり、さらに北荒井橋と東橋が続く。大正時代の終わりに、谷端川の上流をショートカットする分水路が谷端川本流に合流する直線的な水路として整備された際に、これらの橋も架けられたと思われる。谷端川は右に曲がり山手通りからは離れていく。

東橋の次は地名に由来する高松橋に出る。その次は村の境に位置する境橋で、ここからは谷端川が板橋区と豊島区の区境となる。西側の板橋区側にはひかりが丘、みどりが丘というアトリエ村があったという。次の橋は上の橋で、高松小付近を水源とし、わきみず通りと呼ぶ細い道を下り、庚申塔の祠の横を通ってきた流れが、この橋の近くで谷端川に合流していた。

上の橋の次は中上橋になる。近くの西光院の橋供養碑には中丸村の上下両橋を延享2年に石橋として造立したとあるが、両橋とは中上橋と中丸橋と考えられている。中上橋を渡って左に行く道は中丸村から長崎村に通じる江戸時代からの道で、現在の道で言うと、えびす通りから要町通りを渡って地蔵堂に出る道に相当している。

次の御嶽橋は、池袋から御嶽神社の横を通ってくる道の橋である。この道と橋は明治の地図には無いので、大正時代以降に造られた道と橋と思われる。現在、この道は道幅拡張されて“みたけ通り”になっている。

御嶽橋から緑道を先に進むと、中丸村の小字の名を付けた南橋に出る。さらに進むと池袋村の小字の名による境井田橋があり、その先、飛地に由来する名称の他領橋を過ぎると、高速道路が間近になって、程なく川越街道に出る。ここに架かっていたのが熊野橋で、交差点の角にある神社が名の由来になっている。

歩道橋で川越街道を渡って右へ行く。前田橋の上流にある前田上橋から再び緑道を歩く。池袋の小字に名が由来する前田橋を経て、北浦橋の上流にある北浦上橋、その先の浦上橋を過ぎる。その次の橋が、江戸時代からあった中丸橋である。

嘉永7年の図(御府内場末往還其外沿革図書)を見ると、霜田橋の下流で谷端川本流から東に分かれる分水路があり、また、中上橋の下流で谷端川本流から西に分かれる分水路もあって、三本の水路が平行して流れていた。このうち東側の水路は中丸橋の手前で谷端川本流に合流し、西側の水路は熊野神社の下を流れて中丸橋の直ぐ下流で谷端川に合流していたが、中上橋から中丸橋の間に、谷端川本流に架かる橋は記されていない。大正時代、土地の整理が進み、新しい道が造られ、谷端川本流に新たな橋が架けられるが、その一方で分水路は役割を終えて姿を消していった。

<西前橋>

中丸橋の次は地名に由来する金井窪橋で昭和8年に竣工している。この橋の下流で谷端川の支流が合流している。幸町付近を源流とし大山金井町付近の湧水を合わせて東に流れる支流で、さいわい通りの北側に水路跡と見られる道が残っている。金井窪橋の次は西前橋となる。西前橋を通る道は江戸時代に脇街道のように使われていた道で、伊能忠敬も江戸府内図にこの道を書き込んでいる。橋を左に(北に)行くと、旧川越街道を四つ又で横切って、中山道の板橋宿に出る。また、橋を右に(南に)行くと富士塚のある氷川神社の横を通り、その先で右に池袋を経て鬼子母神付近に出る雑司が谷道と、左に現・池袋六ツ又に出て現・春日通りに出る小石川道が分かれていた。

緑道を先に進むと豊橋がある。この付近で大山町付近を源流とする支流が谷端川に合流していた。谷端川は豊橋から右に折れて東に流れていくが、江戸時代には西前橋で谷端川から分かれる分水路があり、谷端川本流と平行して東に流れていた。

谷端川南緑道は豊橋で終りとなり、ここから先の谷端川跡は谷端川北緑道として整備されている。東上線沿いの緑道を進むと自転車置き場があり、ここを抜けて左に踏切を渡れば下板橋駅に出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩く-1-

2018-05-24 19:10:33 | 千川上水

千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水して巣鴨の元舛まで素掘で引いた水路で、元舛から先は樋で給水していた。宝永4年 (1707)以降は農業用水としての利用が許され、各地で分水が行われるようになり、上水(飲用水)としての利用が休止された後も農業用水として利用されていた。長崎村分水(四ケ村分水)は千川上水の分水のなかでは最も距離が長く、谷端川に千川上水から助水すると共に新たな水路も設けて、長崎村、池袋村、中丸村、金井窪村に農業用水を供給していた。谷端川は千川駅近くの粟島神社の池を水源として南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北に流れ、下板橋駅の北側を回り込んで南東に流れ、小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいた川だが、現在は全区間が暗渠になっている。なお、千川上水を千川用水と称し、長崎村分水のような分水を千川分水と称することもあった。

(注)千川上水については、当ブログでも“千川上水花めぐり”として記事を投稿している。

長崎村分水の分水地点は千川駅近くの要町3の交差点の位置にあったというが、今は交差点の西側に千川の跡が親水公園として残っているだけである。一方、谷端川の水源はこの交差点から500mほど南東にある粟島神社の弁天池で、明治42年の地図には、分水地点から田圃の中を粟島神社に向かって流れる水路と、その途中で水路を横切る一本の道が記されている。長崎村分水の一番目の橋は、この道の橋ということになるが、その橋は千川駅前郵便局の近くにあったと思われる。

新編武蔵風土記稿の長崎村の項に村民持ちの弁天社とあるのが現在の粟島神社に相当する。嘉永7年の地図には丸い弁天池が描かれ、池から流れ出る谷端川に合流する長崎村分水が描かれているが、付近には道が記されていないので、当時は野道しかなかったと思われる。明治42年の地図では粟島神社を横切る道が記されており、この道によって池が南側と北側に分かれていたようである。南側の池は形が変わったにせよ今も残っているが、神社裏手の駐車場の辺りにあったという北側の池はすでに消滅している。谷端川は長崎村分水と合流したあと南東に流れ、その先で東側と西側に分かれて流れていたが、大正時代になって耕地整理が進められると水路の整理も行われ、大正15年の地図では谷端川も一本の直線的な水路にまとめられて南に流れるように変えられている。

粟島神社から西部区民事務所の横を通って、谷端川の跡をたどってみる。先に進むと、道は右に折れるようになる。ここを左に行く道は江戸時代からの道に相当し、東側の大山道(長崎神社の横を通って北上し大山に向かう道)に出ていた。先に進んで次の角を左に行くと要小の南側に出るが、この道は谷端川から分水して東に流れる分水路の跡に相当している。この分水路は谷端川の上流部をショートカットするように造られているが、上流部と中流部以下に供給する水の量のバランスをとるのが目的だったのかも知れない。嘉永7年の地図によると大山道を横切って東に流れ、中丸村の手前で谷端川の本流に合流する水路が書かれているが、途中の大山道を横切るに当たって水路を掘り下げ、橋を架けて大山道を通していたと思われる。明治の地図には、分水路は途中までしか記されていないが、末端は幾つかの細流となって田圃を潤し谷端川本流に流れ込んでいたと思われる。この分水路は、大正時代の終わりに直線的な水路となり、日之出橋付近で谷端川の本流に合流するようになったが、今は姿を消してしまっている。この分水路跡をたどると、大山道を横切ってから坂を下り、要町通りを渡って、その先の斜め前方への道に続いている。

分水路跡の道を見送って、先に進むと千早フラワー公園に出る。ここで、園内に展示されている大江戸線の試験車両として使われたリニアモーターカーを見てから先に進む。千早フラワー公園の南側の四つ角を東西に走る道は江戸時代からの道に相当し、谷端川には橋がかかっていた。ここを先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、東と西に分かれて流れていた谷端川はこの付近で合流していた。

谷端川には幾つかの支流があるが、その一つ長崎公園に発する支流の跡をたどってみる。千早フラワー公園の南側の四つ角を右に行く。道はやや上がって観音堂を過ぎると、学習院大学職員宿舎跡に造られた長崎公園に出る。公園の角には湧水による洗い場があり小川が東に流れていたという。その水路跡をたどってみる。道を挟んで東側の児童遊園の北側の道を東に、道を横断してさらに先に進むと、右手に西向不動の祠がある。この場所にあった不動湯という公衆浴場は廃業してしまったが、その横を流れていた水路の跡は今も確認できる。ここを右に行き次の角を左に曲がって行くと、小公園に長崎アトリエ村の説明版が置かれている。先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、また谷端川跡に戻ってきたことになる。ここを右に進むが、少し先で長崎公園からの流れが谷端川に合流していた。

谷端川跡の道を南に進み次の信号を渡る。ここを東西に走る道は、多少道筋が変わってはいるが江戸時代からの道で、谷端川に橋が架かっていた。この道を右に少し行ったところに第六天の祠があり池もあったが、今は駐車場となり何も残っていない。信号を渡りサンロードの商店街を南に向かう。大正14年の地図を見ると、踏切の少し手前で谷端川を渡る道、現在のサミット通りに相当する道が新たに作られている。また、西から合流してくる水路も記されているが、この水路は後に無くなり、線路の側溝がその代わりとなる。この辺り、谷端川の暗渠化以前には、大雨のあと膝ぐらいまで冠水することもあった。踏切を渡り左斜め方向の道に入り左に行く。桜並木はこの道が谷端川の水路跡に相当する事を示している。川は山手通りの下を潜り、南からの小流を入れて東流し、その先で北に向きを変えて西武池袋線の線路を越えるが、道はここで行き止まりとなる。大正14年の地図には、長崎神社から南に目白通りに出る江戸時代からの道が記されているが、線路の南側で谷端川に架かる橋は、この道の橋だけであった。なお、この道は山手通りによって分断されたため今は存在しない。大正15年の地図を見ると、多くの道が設けられるようになり、谷端川を渡る橋も数多く架けられるようになった。

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千川通りの桜並木

2018-04-01 11:34:13 | 千川上水

桜の花が散り終える前に千川通りの桜並木を見に行くことにした。千川通りに流れていた千川上水はすでに暗渠になっているが、以前に植えられていた堤の桜は、全てではないが、まだ残っていて桜並木になっている。千川上水については当ブログの「千川上水花めぐり」でも取り上げているが、今回は千川上水のうちの一部を歩くことになる。富士見台駅から千川通りに出て東に向かうと道路の北側に桜並木が現れる。

北側の歩道に移り桜並木の下を歩く。桜まつりが開催されているらしく、提灯が下がっている。中村橋駅を過ぎて先に進むが、桜並木はなおも続いている。

千川通りが目白通りと交差する地点で、桜並木は途切れてしまう。そこで、練馬駅の手前で駅北側の平成つつじ公園に行き桜を見てから、また千川通りに戻る。

先に進むと桜並木がまた現れ、桜台駅を過ぎても続いている。

環七の下を潜る。桜並木はその先にも続いている。桜並木は江古田駅の近くで途切れてしまうが、江古田駅南口の交差点から先は、道路の両側に桜が植えられている。新しく植えられた桜のようだが先に進むと、古い桜の木へと代わって行き、道路は桜のトンネルとなる。

その先で千川上水は左に直角に曲がって行くが、その曲がり角にあった千川上水の水番屋の跡は、ファミリレストランになっている。

水番小屋跡から先は桜並木が途切れてしまうが、踏切を渡った先には新しい桜が道路の両側に植えられている。

やがて千川通りは右に曲がって行く。その先で千川上水は千川通りから分かれていく。桜並木の見える辺りが千川上水の跡で、庚申塔も置かれている。

その先で千川上水は直角に曲がりさらに右に曲がって行く。千川上水の跡は千川親水公園となっている。この公園を先に進めば要町3の交差点に出る。

千川上水は要町3の交差点を直進し、その先で板橋高校沿いに流れていた。桜並木は要町3の交差点で途切れるが、板橋高校の南側でまた現れ、その先にある五差路まで続いている。

 

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千川上水花めぐり

2010-05-05 16:16:56 | 千川上水

 要町通りを渡って直進し、次の信号で右斜め前方の道に入り、板橋高の前を通るのが千川上水のルートである。ついでだが、この信号の所から直進する細い方の道は、旧鎌倉街道とされ、板橋に出る道である。板橋高の前の道は桜並木が続き、道が広い割には静かな道である。この道を進むと、次の信号のところで、桜並木は終わりとなる。角に庚申塔が置かれた五差路の、左前方の広い方の道が千川上水のルートである。フラワーボックスが並ぶ歩道を進み、板橋交通公園を過ぎると、道はやや狭くなって、道路工事中の場所に出る。工事の横を進めば川越街道に出るが、その途中の道路際に水神様が祀られている。千川上水はその下を流れ、病院の敷地内を抜けて、東京信金の横を通っている。川越街道を渡って、東京信金の横を入り、突き当たって左に行き、旧川越街道でもあるハッピーロードに入って右に行く。次の角の辺りが大山橋のあった所で、ここから左側に、踏切へ抜ける道が千川上水のルートということになる。踏切を渡ると、桜を多く植えている老人医療センターが左側にある。その先の信号で右側の細い方の道を入り、山手通りを渡って板橋区役所の横を通るルートが、千川上水の流路である。ここから中山道を渡ると、旧中山道仲宿の交差点に出るが、千川上水は旧中山道の手前で右に曲がり、旧中山道沿いに流れていた。しかし、町並みが近く汚濁の心配があったことから、明治17年に、街道から少し離れた位置に移されることになった。そのルートは、現・板橋区役所の場所から現・中山道を斜めに横断し、道路の向こう側に少し食みだして回り込み、現・中山道を斜めに横断して、現・板橋郵便局の南側を流れ、その先、旧中山道の一本南の道を流れるルートである。

 千川上水の流路通りには歩けないので、旧中山道仲宿の交差点から平尾宿に向かって旧中山道を歩き、現中山道を渡って、板橋郵便局の南側を通る道を歩く。桜並木のある下板橋通りを渡り、駅前公園を過ぎると埼京線の板橋駅前に出る。踏切を渡って次の信号を右に折れると、土手道のような少し高くなっている道がある。この道が千川上水の流路で、旧中山道より一本南の道である。道より一段低くなっている谷端小の横を過ぎると、南に向かって桜並木があり、さらに、その先にも、桜並木の道がある。そのまま進むと明治通りに出る。道の角に千川上水分配堰の碑が残っている。堀割の交差点を渡って千川上水公園に行く。公園内には水門用のバルブがあり、地下には分配堰や沈殿池が残っているという。しかし、バルブを仮に開けたとしても、水が流れ込むことは無いのだろう。行く宛の無い水で、地下の池を溢れさせるわけにはいかないのだ。現在、暗渠化された水路を流れて来た千川上水は、板橋駅のすぐ東側から石神井川に落とされている。そして、今の千川上水公園には、千川上水の遺物しか存在しない。この公園に漂っている奇妙な静けさは、その所為だろうか。明治通りは、今日もまた車の喧騒が絶える事が無く、その横で、公園の桜が音も無く花を散らしている。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で長崎分水の先にある橋を渡る。畑の中を流れる千川上水の右岸の細道をたどり、長崎と下板橋の境となる橋に出る。現在の五差路の場所にあった橋であろう。この先も、千川上水は畑の中を流れるが、右岸から少し離れた道を進み、次の石橋を渡って左岸を歩き、次の土橋で右岸に戻る。先に進むと、右岸から分水した水路に水車がある。現・板橋交通公園を過ぎ、現・川越街道に入る手前の辺りにあったという田留水車である。水車の南側を回る道を通って次の橋まで行くが、この先の川沿いには道が無い。ここから三つ目の橋が、川越街道が通る大山橋だが、この橋から先も川沿いに道は無い。東上線はまだ存在せず、千川上水の両側に畑が続いているだけである。途中、橋が一か所あり、その先に、北に流れる水路がある。現・板橋税務署付近にあったとされる、悪水を石神井川に流す洗堰だろうか。この水路からすぐ下流に橋があり、ここからは左岸に道が続いている。この道を進むと橋があり、その下流の南側に水車がある。この水車が喜内古屋水車だとすると、その上流の橋は高田道が千川上水を渡る橋ということになる。水車から先も川沿いに道は無いが、その先には橋があり、橋の南側に金井窪村の十字路が書かれている。その位置は定かではないが、東西の道が川越街道だとすると、この道が千川上水を橋で渡ったすぐ先が、板橋・平尾宿で旧中山道から旧川越街道への分岐点ということになる。この橋から先、千川上水は旧中山道に沿って流れていたが、次の橋からは川沿いに道が無く、二番目の橋を過ぎてから右岸に道が現れるようになる。この道の先に下水吐と記す水路が南に流れている。谷端川に悪水を落としていたのだろうか。また、その先に右岸から分水する水車も記されている。この水車は、現・板橋駅の近くにあったと思われるが、明治18年に板橋駅が開業しているので、この時の鉄道敷設工事に伴って廃止されたのかも知れない。「千川上水路図」は、この水車の下流に六ヶ所の橋を記し、その先に、中山道の下を潜って流れる分水と、旧名元枡と書かれた沈殿池を描いて、終わっている。

 「千川上水路図」の制作者や制作目的は分かっていない。書かれている内容から、明治16年頃の制作と推定されているだけである。この水路図に描かれている道や橋、それに流路さえ変わってしまい、暗渠化も進んでいる現在、この水路図により、千川上水の跡をたどることは難しい。ただ、美しい絵図を眺めながら、江戸から明治に移り変わって16年経った頃の風景を、あれこれ想像してみるだけである。上保谷新田の分水口から巣鴨の元枡まで六里二十町十七間。短い旅の原稿を書き終えて、いま、「千川上水路図」を閉じる。   「千川上水路図 完」


(注)今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
「千川上水探訪マップ」「千川上水関係資料Ⅰ」「千川上水三百年の謎を追う」「千川上水―昭和27年の写真を中心に」「豊島区地域地図第6集」「千川上水路図解説」「千川上水の今と昔」「千川上水用水と江戸武蔵野」「東京都市地図」などの資料、及び「千川上水 歴史・写真・探訪」「練馬の歴史と文化財・千川上水」などのホームページ。その他、現地の説明板など。
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千川上水花めぐり(8)

2010-05-02 08:21:07 | 千川上水
 江古田二又から先、両側の歩道には桜が植えられている。次の信号で南側の歩道に移って歩いて行くと地域集会所があり、その入り口に半鐘が置かれている。明治37年に千川上水の土手にあった火の見櫓の半鐘という。その頃の桜並木がどうだったかは分からないが、半鐘は桜の上に出ていたのだろうか。南側の歩道をさらに歩いていくと、桜のトンネル状態が続くようになるが、それも束の間で、桜並木は突然途切れてしまい、中野通りと千川通りの交差点に出る。この交差点を直進する道は清戸道で、二又交番で目白通りと合流して江戸川橋に向かっている。左右の道は鎌倉街道と伝えられ、右に行けば哲学堂を経て中野に向かい、左に行けば板橋に出る。千川上水は、この交差点で直角に左へ曲がっている。北側から石神井川に注ぐ谷の上流部が入り込み、南側から妙正寺川に注ぐ谷の上流部が入り込む場所で、千川上水は向きを変えていることになる。なお、交差点の南東側は大正時代に牧場があった所で、その事を記した説明板が交差点の南東角に置かれている。

 交差点を左に曲がって、西武池袋線の踏切を越えると、両側の歩道に桜が植えられている。八重の桜が植えられている右側の歩道を歩いていき、岩崎水車が近くにあったという派出所を過ぎると、歩道と車道の段差が次第に開いていくようになる。築樋の跡の道である。その先、千早高を過ぎて、右前方の道を入ると、桜の下に庚申塔が祀られている。次の角にある千川親水公園は千川上水の跡を公園にしたもので、千川上水の流路が、ここで直角に曲がっている。この場所に架けられていたのが庚申橋で、先ほどの庚申塔も橋の傍らにあったという。桜並木の千川親水公園に沿って進むと要町通りに出るが、その手前に金網で囲まれた場所がある。釣り堀があった跡といい、付近に置かれている石の板は、千川上水に架かっていた石橋に使用されていたものという。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で、江古田二又からの道をたどる。ここから、千川上水は清戸道の南側を流れるようになるので、木橋を渡って左岸に移る。清戸道沿いには人家が多いが、右岸は畑地が続いている。橋を4か所通りすぎると、千川上水が左に直角に曲がっている場所に出る。その曲がり角から、現・落合南長崎駅付近の五郎窪を通って妙正寺川に注ぐ、葛ケ谷村分水が分かれている。清戸道は千川上水が曲がって直ぐの木橋を渡って直進していたが、渡った先に、11坪ほどの水番屋が、江戸時代に作られていた。その場所は、現在の交差点の北東側、ファミリーレストランのある辺りとされるが、この水番屋が明治時代まであったかどうかは分からない。「千川上水路図」は、流路が大きく屈曲している場所では、紙を流路に合わせて貼り合わせ、扇状に折り畳んでいる。その一例が、千川上水が直角に曲がる、この辺りである。

 当時、西武池袋線は存在しなかったので、そのまま、千川上水の左岸を進むと、二つ目の橋の先に、右岸から分水している岩崎水車があった。橋があって左岸から見に行くことは出来たようである。この水車の先、谷の上流部が入り込んでいるため、千川上水は築樋を流れるようになる。この谷は能満寺の前の田圃から現・小竹向原付近を抜けて石神井川に流れ込む谷である。ここから橋を二つ過ぎると、千川上水が直角に曲がっていて、庚申橋が架かっている。さらに左岸を進むと、長崎村の分水が分かれている。この長崎分水は、近くの弁天池を水源とする谷端川の助水となり、農業用水として使われた分水である。この分水を入れた谷端川は南に流れ、現・椎名町駅の南側を回ってから、北に向きを転じて現・下板橋駅に至り、その北側を回ってから向きを変え、下流は小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいたが、現在は全区間が暗渠となっている。 
   
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千川上水花めぐり(7)

2010-04-29 09:07:53 | 千川上水

 九頭龍橋跡から、次の信号の所まで行くと、ようやく北側の歩道に桜並木が続くようになる。桜の下はグリーンベルトで、千川上水が地下を流れているという。桜の下の道を歩いて行くと祠があり、九頭龍弁財天ほか石造物を集めて祀っている。その先、中村橋駅の入口にある交番の近くに架かっていたのが中村橋で、今は駅名にその名を残すだけである。中村橋跡から千川通りの北側の歩道を歩くが、グリーンベルトには桜の並木が続き、花見時には歩いて楽しい道である。その先、桜の下の不動の祠にちょっと頭を下げ、桜の向こうの桜井銘木の建物に目を留め、古道の下練馬道を知らぬ間に通りすぎる。


 そろそろ桜にもグリーンベルトにも飽いてくる頃、桜並木が途切れて豊玉北六の交差点に出る。この交差点で、千川通りは目白通りと交差するが、西側の目白通りから東側の千川通りに抜ける道は、清瀬や練馬からの農産物の運搬ルートであった清戸道に相当する道である。この交差点を渡って千川通りに入ると、練馬駅前の繁華街となる。北側の歩道を歩くと、文化センター入口の五差路の先に筋違橋跡の小さな碑がある。人通りの多い駅前を抜け、練馬消防署前の交差点を過ぎると、再びグリーンベルトと桜が現れる。桜台駅前の交差点を過ぎ、桜の碑を横目に先へ進んで、環七の陸橋の下を潜る。ここから道は右に曲がるようになり、右手に武蔵大学が見えてくる。武蔵野稲荷神社の前を過ぎて、江古田駅が近くなると桜並木も無くなり、江古田二又、現在の江古田駅南口の五差路の交差点まで、桜並木は途切れたままである。

 「千川上水路図」(明治16年頃)で、九頭龍橋から千川上水の右岸を行く。北側は畑地が続くが、南側に林が見えるようになり、中村橋が架かっている。この橋には、阿佐ヶ谷、鷺宮から清戸道に出る道が通っている。現在の中杉通りである。千川上水の右岸をさらに進むと、現・中村北三の交差点から南に中村分水が分かれている。この分水は南に流れて南蔵院付近の田の灌漑に使われた後、東流して現・学田公園付近にあった沼に注いでいた。この沼に流れ込んでいた分水はもう一つある。中村分水から橋を六ヶ所過ぎたところから、中村と中新井村の境を南に流れる中新井分水である。なお、この沼から流れ出た中新井川(江古田川)は、東流して水田を潤し、北に流れたあと南に向きを転じて妙正寺川に流れ込んでいた。中新井分水から先、二つ目の橋を北に渡ると清戸道に出る。ここを右に千川上水の北側を進み、橋を三か所ほど過ぎると、千川上水が南から北に移る場所に筋違橋が架かっている。この橋を渡って人家が続く清戸道を進むと現・練馬消防署の近くに水車があった。矢島水車で、筋違橋の手前から回し掘を設けて清戸道の南側を通し、その水で水車を回していた。この水車から先、千川上水の右岸をそのまま進んで橋を二か所過ぎる。清戸道沿いには人家が点在しているが、北側は相変わらず畑地が続いている。現・環七の陸橋の辺りまで来ると、下練馬分水が北に分かれ、石神井川に向かって谷を下っている。その先では、南へ中新井村用水が分かれている。現・武蔵大学構内を抜けて江古田川に流れ、妙正寺川に注ぐ分水である。なお、現・桜台駅交差点近くにも、中新井村分水があったとされるが、「千川上水路図」には記載が無い。右岸をそのまま進むと、清戸道と高田道が分岐する江古田二又に出る。

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千川上水花めぐり(6)

2010-04-26 19:38:30 | 千川上水

 伊勢橋から先、千川上水の水路は、北側の石神井川水系の谷と、南側の妙正寺川水系の谷に挟まれた台地を流れることになるが、現在は、一部を除いて暗渠になっている。青梅街道を渡って右側の千川上水緑道を歩く。千川上水の暗渠の上に作られた緑道で、樹木も程々に植えられているが、周辺は工事中で、今は少々煩わしい。緑道は立野橋の交差点で終わりとなり、ここから先は、千川通りが千川上水の経路となる。立野橋は名前だけが残っているだけだが、東北の角にある庚申塔は、昔の位置のままだという。庚申塔にちょっと頭を下げ、ついでに千川上水の説明板を読んでから、北側の歩道を歩いていくと、歩道が広くなっている場所がある。筋違橋があった場所という。その先、昭和44年まで稼働していた田中水車に因む遊具が上石川児童遊園にある。

 次の庚申塔の祠の所からは、南側の歩道に移り、上井草給水所の下石神井調圧槽の塔を過ぎる。道は僅かに下りとなるが、北側の歩道は水準を保ち、車道との段差が広がっていく。妙正寺川に注ぐ谷の源流部が入り込んでいたため、土手を築いてその上に水路を通した築樋の跡が、北側の歩道だという。そのまま進むと左手直ぐに西武新宿線の踏切がある。その東側に、千川上水の水路が姿を見せている。水路はカーブを描きながら線路の下を通り抜け、踏切の向こうで短い間だけ姿を現している。千川上水の水路とは、ここが最後の対面の場である。

 南側の歩道を歩いて行くと、道の横に屋敷森が今も残っている。その先の交差点で今度は北側の歩道に移る。ここから暫くは桜並木が続くが、それも、井草四の六差路までである。この六差路から、右斜め前方に入る新青梅街道を進むと、休憩するには好適な井草森公園に出るが、今回は直進して千川通りを進む。ここから、富士見台駅の辺りまでは、北側の歩道を歩くが、交通量の多い道路の横を歩くので、少々煩わしくもある。それに、この区間には、桜も申し訳程度にしか存在しない。住宅展示場を過ぎ、急ぎ足で環八を渡ると、八成橋の交差点となり、昔の所沢道、現在の旧早稲田通りを渡る。この近くに八成水車があったという。その先、東高野と称された長命寺への道を渡ると、滝沢花園の温室が左手に見えるようになる。この辺りから、車の喧騒も心持ち遠のいて、少しだけ歩を緩めたくもなる。相変わらず、歩いて楽しい道ではないが、途中には小公園が三か所ほどあるので、小休止するには良いかも知れない。鴨下水車という水車があったのも、この辺りである。その先が、富士見台駅近くの五差路で、九頭龍(クズリュウ)橋という石橋が架かっていた場所という。現在の千川通りは千川上水の水路上を通っているが、九頭龍橋を渡って西に行く道が本道だったということである。

 「千川上水路図」(明治16年頃)によると、伊勢橋から先の千川上水の南側は、松林や藪に阻まれて上水沿いに続く道はなかったようである。そこで、伊勢橋を渡って青梅街道から分かれ、千川上水の北側にある道をたどる。現在の車道に該当する道である。関村から上石神井村に入ると土橋がある。立野橋である。その少し先、筋違橋という石橋があるが、その下流にあったとされる田中水車は、明治16年には未だ存在しておらず「千川上水路図」にも記載は無い。筋違橋を渡り千川上水の南側、右岸をたどるが、千川上水は築樋で低地を越えている。ここには石橋が3か所架かっているが、北へ行く道は途中で一緒になり石神井の弁天社に向かっている。三番目の石橋から先は、千川上水の両側に畑地が続くようになる。道は右岸に沿っており、途中五か所に橋が架かっている。ただし、明治16年頃には西武新宿線が存在していなかったため、この辺りの道路は現在とかなり違っている。
 その少し先に、「千川上水路図」にも記されている、東京同潤社の工場があり、石橋が架かっていた。この工場では、糸を晒すために千川上水の水を使用していたが、明治19年には廃業になっている。工場の先、橋を二つ過ぎると土橋があり、北へ天王祠(天祖神社)を経て禅定院に向かう道が通っている。ここから三か所の土橋を過ぎるが、南側には楢の林が続くようになる。当然の事ながら、途中に環八は存在しないので、そのまま進んで、所沢道が通る八成橋という石橋に出る。なお、八成水車は、明治16年頃には存在せず、「千川上水路図」にも記載されていない。八成橋から二つ目の三兵橋で、北へ行く長命寺への道を見送り、さらに二つほど橋を過ぎると、田中村と谷原村の境となる橋がある。広い道が南北に通じているが、この道を北に行き右に折れて九頭龍橋に出るのが当時の本道だったらしい。ここでは、千川上水沿いの細い道を行く。しばらく進むと、北側に分水があり水車がある。鴨下水車である。その先で千川上水は左に曲がっていく。現在の道は、千川上水の流れに沿って斜めに曲がっているが、当時の道は千川上水から離れ、林の中を直進してT字路に出て左折し、九頭龍橋に出ていた。

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千川上水花めぐり(5)

2010-04-23 21:14:53 | 千川上水
 更新橋から右岸を歩く。自転車も通る道だが、煩わしいという程ではなく、桜も所々にあって散策するには良い道である。ただ、コンクリートの直線的な水路が、少し興ざめではある。次の無名の橋を過ぎると、木の橋風に作られた西北浦橋に出る。ここから無名の橋が二か所続くが、水路が石積護岸となり、昔からの水路のような眺めとなる。

 右岸をさらに歩くと、北裏橋に出る。次の橋は桂橋、その次の橋は東北浦橋と続く。この橋の近くには供養塔があるが、昔の千川上水は水量もあり流れも速かったのだろう。次の橋は吉祥寺橋で、ここを渡ると、昔に戻ったような風景が広がっている。北側には畑が広がり、南側の屋敷森の下には、千川上水が小川のような風情で流れている。ここからは、農道のような道を歩くが、本来は畑の北側の道を歩くべきなのかも知れない。次の橋を渡り、千川上水の右岸に沿って一般道路を歩くが、その先に、もう一つの屋敷森が現在も残っている。吉祥寺橋から先、無名の橋が幾つかあるが、川が身近な存在で、暮らしと結びついていた頃を思い出す風景である。

 屋敷森を過ぎると、千川上水は突如暗渠となる。遊歩道風に整えられた道を歩いていくと、その先の石神井西中の前の辺りに、千川上水の水路が再び姿を現す。それも短い区間で、再び暗渠となり千川上水緑道となる。この緑道は吉祥寺通りで終わるが、この場所、石神井西中の交差点のところには、千川橋という橋が架かっていたという。吉祥寺通りを渡ると、千川上水が石積護岸の姿で現れる。ここから伊勢橋までの区間は、昔を思わせる水路が続くが、右岸は車道で、歩道はその南側にしか無く、左岸の細い歩道は部分的にしか通れない。無名橋、田中橋、久山(キュウヤマ)橋を過ぎ、北側に広がる畑を眺めながら歩く。さらに、無名橋、竹下橋、さらに無名橋を幾つか過ぎると青梅街道に出る。伊勢橋があった所である。なお、青梅街道の手前で、千川上水から六ケ村分水が分かれていたが、現在は暗渠となり、清流復活で流されて来た水の7割が、青梅街道沿いを流れて善福寺川に流入しているとのことである。


 「千川上水路図」(明治16年頃)によると、現・更新橋から先の左岸の道は千川上水から少し離れた所を通っていた。千川上水の北側は畑地で、南側の千川上水沿いには屋敷森らしきものが続いていたようである。しばらく行くと、南側の吉祥寺村に出る橋がある。この橋の先で、弧を描いて流れてきた千川上水が東北に折れ曲がるようになるが、ここに南北に通じる道があり、橋が架かっていた。現在の吉祥寺橋である。なおも左岸を進み、南側に渡る橋を見送ると、道が左岸から右岸に移る場所に橋が架けられている。現在の石神井西中の西側辺りになるだろうか。その先にあるのが千川橋である。ここから、両側に畑地が続く道を進み、橋を一つ通り過ぎると、千川上水から六ケ村分水が分かれている。この分水は元々七ケ村分水であったが、後に中村が外れて、明治の頃には六ケ村分水になっていた。この分水は、青梅街道沿いに流れ、上井草村、下井草村、上鷺宮村への用水となり、その先で上萩久保村、天沼村、阿佐ヶ谷村へ用水を供給していた。六ケ村分水を小橋で渡ると青梅街道で、左に行けば千川上水に架かる伊勢橋である。この橋の南側には、千川上水の維持管理を行う水番屋があったというが、明治時代まで残っていたかどうかは分からない。
 千川上水の水車への利用は、安永9年(1780)に今川氏知行地の井草村に設置された水車に始まる。千川上水の水量は、玉川上水から千川上水への分水口で加減しており、その管理は水元役である千川家が行っていたが、井草村の水車を回すに十分な水量が得られないこともあったらしく、井草村の人間が無断で分水口を加減し、千川上水の水量を増やす事があった。その結果、千川上水の下流で水が溢れ、田畑や街道が浸水する事態が発生したため、千川家から訴状を出したものの、それで一件落着とはならなかった。文政元年(1818)になって、井草村の水車を上保谷新田に移す事で決着が図られたが、その後、井草村に水車が新設されたことから問題が再燃し、結局、井草村に新設された水車は廃止される事になった。文政5年(1822)のことである。

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千川上水花めぐり(4)

2010-04-20 21:54:31 | 千川上水

 現在の千川上水は、武蔵野大学前の交差点から先、五日市街道と分かれて直進するが、川沿いの緑地は大幅に縮小してしまう。その代わり、横断歩道を渡る煩雑さも無くなって歩きやすくはなる。千川上水遊歩道とあるので、水路の近くに下りてみる。当然ながら、本来の千川上水とは別物で、水路も狭く人工的ではあるが、車の通る道を歩くよりは快適である。そのまま進むと、橋の名が地名に由来する葭窪橋に出る。ここからは左岸の道を歩くと、千川小の近くに千川橋がある。その次の橋は、こいこい橋だが、橋の由来までは分からない。

 なおも左岸を進むと、地名を橋の名にした関前橋となり、緑地が途切れて伏見通りに出る。この橋の南側一帯は、戦前まで戦闘機を製造していた中島飛行機の製作所があった場所という。伏見通りを渡ると、千川上水の水路が再び現れるが、右岸が歩けないので左岸を歩く。それも少し先で、水路は道路の下に消えてしまう。広い交差点を渡ると、交通量の多い右前方と左前方の道路の間の道に、千川上水がまた姿を現す。相変わらず人工的な水路だが、自然の川のような雰囲気があり、左岸の車道も交通量が少ないので、歩いていて煩わしさが無い。右岸を歩いていくと、三郡(ミゴオリ)橋に出る。橋の名は、新座郡上保谷新田、北豊島郡関村、北多摩郡関前村の三つの郡が隣接していたからという。現在は、橋の南側が武蔵野市で北側が西東京市だが、三郡橋から少し歩くと練馬区になっている。三郡橋から無名の橋を二つほど過ぎると西窪橋に出る。この橋の名は地名に由来するのだろうが、次の更新橋の名の由来はよく分からない。橋の傍に庚申塔が祀られているが、庚申が更新と誤記され、橋の名として定着したのだろうか。もっとも、この庚申塔は元々三郡橋の近くにあったということである。更新橋は交通量の多い中央通りが通っているが、付近には桜が多く南側の中央通りも桜並木が続いている。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で、千川上水沿いの道をたどると、橋を渡って南東に行く五日市街道と分かれて、左岸に沿って進み、少し先にある水路を板橋で渡る。この水路は、現・千川橋の上流で千川上水から分水し、上水に並行して流れて、平井家が経営する坂上水車を回したあと、現・関前橋の手前で千川上水に戻る水路である。水路を渡ってすぐの右側に、千川上水に架かる板橋があるが、橋の向こう側は畑地で、川沿いに歩く道はなさそうである。そのまま、水車の水路と千川上水の間の道を進み、少し先で、水車から流れ出た水路を渡る。この辺りの「千川上水路図」の記載は明確ではないが、当時の地図によると千川上水の左岸に沿って道が続いていたようである。北側は畑地が続くが、南側には人家も見えるようになる。暫く行くと橋があり、関前村から青梅街道に抜ける道が通っている。位置的には、現・関前橋より下流だろうか。次の三郡橋まで、北側は畑地が続くが、南側は千川上水沿いに林や藪が続いている。三郡橋の少し下流に、新座郡と北豊島郡の境界、現在の西東京市と練馬区の境界があり、この境界に沿って、溜井(現在の武蔵関公園富士見池)に注ぐ関分水が流れていた筈だが、「千川上水路図」には記載が無い。この辺り、北側は青梅街道まで畑地が広がっているが、南側は、所々に林がある畑地で、千川上水沿いには人家が点在している。左岸を歩いていくと、南に渡る橋がある。現在の更新橋に相当する橋である。

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