夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

荒川区役所前から荒川一中前へ

2011-03-26 10:44:32 | 都電荒川線に沿って

 荒川区役所前停留所からサンパール荒川に戻って、旧道を歩き踏切を渡る。この道をしばらく行くと、千住間道に合流する。千住間道は弧を描くようにして明治通りと日光街道を結んでいる。この道路が開設されたのは、大正から昭和にかけてと思われるが、旧道の小塚原道が古くから千住間道と呼ばれていたかどうかは分からない。千住間道を先に進むと荒川総合スポーツセンターの建物の前に出る。この場所は、光の球場とも呼ばれた東京スタジアムが建っていた所でもある。球場の竣工は昭和37年。大毎オリオンズの本拠地として使用されたが、11年目にして早くも閉鎖の憂き目にあっている。私ごとだが、昔、日米野球を観戦したのは、確か、この球場だったと思うのだが。

 総合スポーツセンターの角を左に曲がって行くと、この地にあった千住製絨所の初代所長を務めた井上省三の胸像がある。千住製絨所は被服生地製造を目的として明治12年に設立された官営の工場で、少し先の荒川工業高には、製絨所の煉瓦塀が今も残っている。天王社(素盞雄神社)に向かっていた旧道の小塚原道は、千住製絨所が設置されたことで分断されたため、三河島から千住大橋方面に行く場合、製絨所敷地の周囲を通ることになり、少し遠回りになっている。荒川工業高の横を入って、道なりに歩いてスーパーの前を過ぎると、左手にふるさと文化館があり、その先に素盞雄神社がある。  

 スーパーに戻って、その横を入ると、製絨所の煉瓦塀が今も残っている。この道を歩いていくと千住間道に出る。ここを右に行き、次の信号で千住間道を渡って少し歩き、荒川一中前の停留所に行く。地元の請願により設置された停留所で、開業は平成12年、都電では最も新しい停留所である。その割には、昔から存在していたかのように、この場所に溶け込んでいる。


コメント

荒川二丁目から荒川区役所前へ

2011-03-20 13:02:16 | 都電荒川線に沿って

 荒川二丁目の停留所を後にして、線路沿いに歩き、次の踏切を渡って荒川公園に行く。荒川区役所の前庭のような公園で、噴水池があり、また、さほど広くはないが池があって釣りをしている人が何人か居る。公園の外に出て、騒がしい明治通りを歩道橋で渡り、警察署の横にある地蔵堀石地蔵に行く。もともと、この石地蔵は、明治通り北側にあるサンパール荒川の位置に南向きに置かれていて、村人が旅する時には道中の無事を石地蔵に祈っていたという。荒川公園南側の明治通りの場所は、江戸時代、三河島村の主要道路であった新堀道(日暮里道)が通っていたところだが、石地蔵が置かれていたのは、新堀道から分かれる小塚原道の分岐点にあたり、村絵図にも記載されている。新堀道の道沿いには、石神井川の分流である下郷用水(音無川)から分水した用水が流れていて、都電三ノ輪停留所の周辺にあった大名屋敷に水を供給していた。この用水から余分な水を荒川(隅田川)に落とすための排水路が分岐していたが、石地蔵のあった場所は排水路の分岐点でもあった。この排水路は地蔵堀と呼ばれ、途中まで小塚原道に沿って流れたあと、北に流れて、現・アクロシティ付近で荒川(隅田川)に流れ込んでいたが、現在は全区間暗渠になっている。

 明治通りを渡った先、サンパール荒川の前の狭い方の道が旧道の小塚原道と思われる。ここでは広い方の千住間道を通って荒川区役所前の停留所に行く。停留所のホーム屋根の上にスカイツリーが少し見えているが、この辺りは、都電の沿線でスカイツリーが見える場所として、以前から知られていた場所である。この停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は千住間道であったが、昭和17年に三河島二丁目に変更され、昭和37年からは現停留所名になっている。

コメント

荒川七丁目から荒川二丁目へ

2011-03-09 19:20:05 | 都電荒川線に沿って

 踏切を渡って北に行き、荒川自然公園の入り口を示す表示に従って右に入る。夜間は閉鎖される道を通って、浄水場の上に架けられた人道橋を渡る。橋の上からは、東京スカイツリーが良く見える。渡った先は荒川自然公園である。

 荒川自然公園は三河島水再生センターの上に作られた公園で、運動の出来る北側のエリアと、池を中心にした庭園風の南側のエリアに分かれている。園内を一回りしたあと、南西側の出口から外に出る。坂を下って、線路の横に今も残っている蔵と、その前を通過する電車を眺めながら、荒川自然公園の下車駅のようになっている、荒川二丁目の停留所に行く。

 荒川二丁目の停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は三河島であった。三河島は由緒ある地名であり、荒川区の中心でもあったので、本来なら地名として残しておくべきであったかも知れないが。 

コメント

町屋駅前から荒川七丁目へ

2011-03-05 10:58:59 | 都電荒川線に沿って

 町屋駅前の停留所から南に行き、京成本線のガードを潜って藍染川通りに出る。大正時代、谷戸川(谷田川)下流の藍染川から隅田川に水を流す排水路が作られたが、藍染川通りはその跡である。都電の踏切まで行き、線路沿いに歩いて行くと泊船軒という寺がある。台東区の海禅寺の子院で、関東大震災のあと移転してきた寺だという。寺の名に軒を使うのは珍しいが、無いわけではないらしい。寺に入って左側の隅に山吹の塚というのがある。この近辺が、太田道灌ゆかりの山吹の里であるという伝説から作られたようだが、一時は消え去る運命にあったらしい。山吹の里については、同じ都電荒川線の面影橋の近くにも碑があるが、まともに本家争いをするような事はないのだろう、多分。

 泊船軒を出て右に行き、次の角を左に行くと、左手に荒川七丁目の停留所がある。この停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は博善社前で、停留所の位置は現在より三ノ輪寄りだったようだ。この停留所から北に行った所に町屋の火葬場があり、博善社が運営していたため、この停留所名が付いたという。当時、この停留所の乗降客は多かったようで、三ノ輪線の経営には相応の寄与をしていたらしい。なお、停留所名は昭和17年に三河島八丁目となり、昭和37年の三河島七丁目を経て、昭和44年からは荒川七丁目になっている。

コメント