夢七雑録

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太田道灌と山吹の物語

2017-05-29 19:20:18 | 歴史メモ帳

太田道灌と山吹の物語

 太田道灌と山吹の物語はよく知られている。前回の落語散歩では、豊島区内と新宿区内にある、この話にゆかりのある場所を取り上げたが、荒川区内にも、道灌ゆかりの地として町屋駅近くの泊船軒という寺に山吹の塚がある。このほか、埼玉県越生には山吹の里歴史公園があり、横浜市の六浦も山吹の里とされ、他にも候補地があるらしい。そこで、道灌と山吹の物語について、少し調べてみた。まだ分からない事も多いのだが、忘れないうちに投稿することにした。

 1.道灌と山吹の話の背景

(1)兼明親王の古歌

事の始まりは、応徳3年(1086)に完成した後拾遺和歌集に載っている兼明親王の歌にある。雨降りの日に蓑を借りに来た人が居たので、山吹の枝を折って渡したが、意味が分からないと言ってきたので、詠んだのが次の歌である。

“ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき”

(「後拾遺和歌集・第19」 雑五)

蓑を借りに来た人に山吹の枝を渡したのは、遊び心だったのだろうが、相手はどう思ったのだろう。親王なら許されることも、立場が逆であったら、許されない事かも知れない。

 (2)三条西実隆の歌

三条西実鷹(1455-1537)の雪玉集に次の歌がある。

“雨にきるみのなしとてや山ぶきのつゆにぬるるは心づからを”

(三条西実隆の私歌集・雪玉集第七)

この歌は、兼明親王の歌を受けて、実のないことを“蓑なし”にかける事が、後世にも行われていたという事を示している。

(3)永享記による太田道灌

「永享記」によると、太田道灌(1432-1486)は9歳で父のもとを離れて学問所に入り、鎌倉五山で無双の学者になって11歳で戻ったという。道灌は多才であったが、和歌については父に少し劣っていたとあるので、和歌についてさらに学ぶ事はあっただろうが、歌道に暗いという事はなかっただろう。道灌と山吹の話も記録にはないようである。

江戸では“道灌びいき”が多かったというが、家康が江戸を居城とした事から、それ以前に江戸城を築いた道灌についての関心が高まったのだろうか。道灌については、分からない点も多いらしいので、憶測によって様々な話が作られるという事があったかも知れない。

 2.道灌と山吹の話の内容

 (1)和漢三才図会による物語の内容

「和漢三才図会」は江戸時代の百科事典で、編者の寺島良安は大阪城に出入りを許された医者であった。この書の自序には正徳2年(1712)とあり、編纂には30数年を要したという。この中に、太田道灌の逸話の一つとして、道灌と山吹についての話が記載されている。

“道灌は生まれつき剛毅で猟を好み、和歌や文章は知らなかった。ある日、道灌が鷹を野に放したところ雨にあい、蓑を持たなかったので、一軒の小さな家で雨具を借りようとしたところ、一人の婦人が山吹の花を折って道灌の前に差し出した。道灌はその意味が分からなかったので隣で雨具を借りたが、帰ってから人に聞くと、蓑が無い事を古歌によって述べたという事が分かった。道灌は恥をかいたことを悔いて猟をやめ、詩歌を学ぶようになった。”

(2)艶道通鑑による物語の内容

増穂残口は日蓮宗の僧であったが京都に出て還俗し、正徳5年(1715)に神道講釈書である「艶道通鑑」を表し、街頭に出て通俗的な神道講釈を行ったという。「艶道通鑑」のうち、「太田道灌の段」には、次のような道灌と山吹の話が載っている。

“太田道灌は情も知らぬ勇者であったが、金沢山で狩をしたとき激しい雨にあったため、六浦辺りの家に立ち寄り「蓑を借りるぞ」と怒鳴った。しばらくして十七八の女が現れ、笑いながら山吹の花一枝を差し出した。道灌は腹を立て「雨具を借りようというのに何で花を出したか」とののしった。帰ってその話をしたところ、家来の老武者が、「それは蓑が無いという事ではないかと」言い、「七重八重花は咲とも山吹のみのひとつたになきそ悲しき」という歌の心だと話し女をほめたため、道灌も荒々しい振る舞いばかりで情の道も知らなかったことを悔やみ、歌道は武士の知るべき事として心を改め、歌を詠むようになった。”

 (3)公益俗説弁による物語の内容と俗説批判

肥後熊本藩士の井沢蟠竜が著した「公益俗説弁」は、世間に流布する俗説を検討し批判した書で、正徳5年(1715)の序がある。その正編巻16に、「山吹をもって蓑なきをしめす女が説」として次のような話が取り上げられている。

“俗説では、太田道灌が狩りに出て雨に逢い、民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、一人の女が何も言わずに、山吹の枝を折って差し出した。これは「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ怪しき」という歌になぞらえて、蓑が無いことを答えたこということだが、後拾遺和歌集の話を誤って伝えたのだろうか。もし、兼明親王の歌を覚えていた女が物知り顔で行ったのだとすれば、身の程知らずという事になる。“

 (4)老士語録による物語の内容

「老士語録」は近江膳所藩士で兵法家であった向坂忠兵衛が、老武士の話をまとめたもので、門弟による享保17年(1732)の序がある。この中に次のような話が載っている。

“太田道灌が江戸在城の時分、葛西辺へ放鷹に出たところ、俄かに雨が降ってきたため、民家に立ち寄って蓑を借りたいと頼んだ。すると中から老女の声で誰かと問うてきた。そこで太田道灌と名乗ると、老女は山吹のみの一つさえ持たぬ身なればと詠んで断った。道灌は老女の身の上を尋ねたが、夫の恥になるからと答えなかったため、道灌は不憫に思い、老女が不自由な思いをする事のないよう扶養することにした”

(5)常山紀談による物語の内容

「常山紀談」は、備前岡山藩の儒学者、湯浅常山による戦国武将の逸話集で、明和7年(1770)の完成だが、自序は元文4年(1739)になっている。著者は、戦国の時代の事は詳らかではなく、伝わる事にも誤りが少なからずありとして、信憑性について難がある事を自ら認めている。この書に「太田持資歌道に志す事」として次のような話が載っている。

“道灌が鷹狩で雨に逢い、ある小屋で蓑を借りようとしたところ、若い女がものも言わずに山吹の枝を折って差し出した。道灌は花を求めたのではないと怒って帰ったが、是を聞いた人から、「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌のこころだと聞き、驚いてそれからは歌を志すことにした“

(6)江戸名所図会による物語の内容

天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」には、次のような話が載っている。

“道灌が江戸在城の頃、戸塚の金川辺りで鷹を放したところ飛んでいってしまったので、その後を追ったが、急に雨となったため、傍らの農家で蓑を頼んだ。すると少女が出て来て黙って山吹の花を手折り道灌にささげた。道灌はその意味が分からず怒って帰り、近臣に話すと、「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞわびしき」という古歌の心で答えたとのではと話した。道灌は恥じて和歌の道を追求するようになった。”

(7)紅皿の墓の由緒書

新宿区の大聖院に十三仏板碑を転用した紅皿の墓と称するものがあり、その由緒書は次のような話を伝えている。

“京から下って高田に住んだ武士に、二人の娘があった。姉は先妻の子で性質が良く美しく歌を好んだが、妹は後妻の子で容姿が良くなかったので近辺では姉を紅皿、妹を欠皿と、あだ名で呼んだ。道灌が高田での鷹狩で雨にあい、人家で雨具を借りようとした時、紅皿が出て来て黙って山吹の枝を差し出した。道灌はそのまま城に帰ったが、娘の振る舞いが気にかかり、中村重頼という者に尋ねたところ、その娘は由緒ある身で、道灌が歌道の達人と聞いていたので、そうしたのではないか。後拾遺集に”七重八重・・・悲しき“という歌もあると答えた。道灌は自らを恥じ、紅皿を呼び寄せ妾とし歌の友とした。道灌が亡くなったあと、紅皿は尼になり大久保に住んだが、その墓が紅皿の塚である”

 

 3.物語の成立と伝説化

 道灌と山吹の話は、現在では実話ではなく伝説として扱われている。「公益俗説弁」にも書かれているように、道灌に対して女が黙って山吹を差し出したのは、身の程知らずな行為であり、礼を失している。また、怒った道灌が罰を下す事もあり得るのに何故そうしたのかという疑問もある。さらに、若い女性が後拾遺和歌集の歌を知っていたのも妙であり、充分な教育を受けて育った筈の道灌が兼明親王の歌を知らなかったのも変である。ほかに、兼明親王の歌の“あやしき”が“かなしき”(「江戸名所図会」では“わびしき”)に変えられているが、意図的に変えられているようで、気になるところでもある。

「老士語録」の話は尤もらしいが、道灌と老女は対等ではないので、現実にはこの話のような応対はしないだろう。このような小さなエピソードは、記録されない限り、後世まで伝わる可能性は低いと思われるが、仮に実話に近い話が伝わっていたとすれば、広く流布している道灌と山吹の話は、これとは内容が異なるので、新しく作られた物語という事になる。

 道灌と山吹の話が物語であったとすると、どのような経緯で物語が誕生したのだろう。ここから先は憶測になるが、和歌を嗜む人の間では、“実の”を“蓑”にかける事は知られていた筈で、時には遊び心で、蓑を借りようとした人に山吹を出す事があったかも知れない。江戸時代になって道灌についての関心が高まると、和歌の素養がある人の中に、道灌と山吹の話を思いつく人がいたとしても不思議ではない。この物語の成立時期は定かではないが、遅くとも、「和漢三才図会」の編纂作業が進んでいた1700年前後には成立していたと思われる。この物語は、太田道灌ともあろう者が若い娘に恥をかかされたという話が面白く、また、幕府が推奨していた文武両道に適う教育的な話にもなっていることから、道灌びいきが多い江戸では、比較的早くから広まっていたと想像されるが、確かな事は分からない。一方、京都などでは、増穂残口による神道講釈によって18世紀前半には民衆の間に広まっていたと考えられる。この物語に対して、「公益俗説弁」の著者のように、江戸時代にも道灌と山吹の物語を俗説として批判する人もいたが、多くの人は事実として受け入れていたのだろう。明治時代、この物語が教科書に載り、多くの人がこの物語を知ることになるが、実話と考える人が多かったかも知れない。

 物語の場所となる山吹の里については、「艶道通鑑」が六浦、「老士語録」が葛西、「江戸名所図会」が高田馬場北方と、意見が分かれている。これは想像に過ぎないが、物語の成立当初には地名がなかったかも知れず、物語が流布する過程でそれぞれの地名が付加されていった結果かも知れない。道灌ゆかりの場所では、当地が史実としての山吹の里に違いないと思う人もいただろうし、時には、その土地に合わせた物語が付け加えられる事もあっただろう。結局、複数の土地が山吹の里を名乗ることになるが、本家争いをして、共倒れになることがなければ、史実と信ずる人がいる限り、それぞれの土地が伝説の地として残る事になるのだろう。

 新宿区の大聖院にある紅皿の墓の由緒書では、道灌に山吹を差し出した娘を紅皿としているが、「遊歴雑記」では、昔から紅皿欠皿の古墳と伝えられてはいるが、紅皿がどこの国の人でいつ頃の年代の人かについて知る者はいないと記している。「新編武蔵風土記稿」では、道灌に山吹を差し出した少女を紅皿とする話は、こじつけであるとし、「東京名所図会」でも、この話をこじつけとしている。紅皿欠皿の話は継子いじめの昔話で、各地に伝わって、継子いじめという骨子はそのままに、登場人物も筋書きも異なる様々な物語を生み出すことになった。古くは各地に残る紅皿欠皿の民話がそれであり、時代が下がれば、黄表紙の題材となり講談や芝居の演目にもなっている。道灌と山吹の伝説も、昔話の紅皿欠皿の話と結びついて、新たな物語へと変容したという事になるだろうか。

 <参考資料>「道灌紀行」「山吹の里考」「新編国歌大観1,8」「永享記」「和漢三才図会」「艶道通鑑」「公益俗説弁」「老士語録」「常山紀談」「江戸名所図会」「遊歴雑記」「新編武蔵風土記稿」「東京名所図会・西郊之部」

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グラント将軍の日本訪問と延遼館

2015-03-04 19:22:47 | 歴史メモ帳

明治時代初期に迎賓館として使われた浜離宮の延遼館については、オリンピックに向けて復元するという話も出ている。そこで、延遼館に国賓として長期滞在したグラント将軍の日本訪問の様子と、延遼館について調べてみた。

(1)グラント将軍の日本訪問

グラント将軍(1822-1885)は、北軍の総司令官として南北戦争に勝利し、後に18代アメリカ大統領となった人物であり、大統領を辞任したのち世界周遊の旅に出ている。一行はグラント夫妻と令息、メイド、それと書記のヤングで、アメリカ政府から無償で貸与された軍艦を利用している。1877年5月にフィラデルフィアを出航した一行は、ヨーロッパ各地やエジプトなどを回り、1878年12月にマルセイユを出航し、インド、シャム、香港、清国に寄り、明治12年(1879)6月21日に長崎に上陸している。

 

①長崎から横浜へ

●6月21日、長崎に上陸し、宿舎の長崎師範学校へ。夕方から長崎市内を遊覧。

●6月22日、長崎公園で開催中の博覧会見学。記念植樹を行う。

●6月23日、裁判所、県庁、師範学校など視察。夜は県令主催の晩餐会。

●6月24日、工房を見学。福済寺で市民主催の饗応があった。

●6月25日、軍艦金剛に乗船、修船所などを巡覧。アメリカ領事館で午餐会。

●6月26日、午後5時、長崎出航。

一行の艦船は瀬戸内海経由で航行を続けるが、コレラの流行のため上陸は不可となる。

●7月2日、清水投錨。富士を見ながら上陸し、静岡の歓迎式典に出たあと、横浜へ。

●7月3日、横浜上陸。横浜駅からは特別仕立ての汽車で新橋駅まで行き、馬車で宿舎となる延遼館に向かっている。長旅の疲れもあり、予定されていた歓迎会はキャンセルとなる。

 

②東京、そして日光へ

●7月4日、一行は仮皇居に参内し明治天皇の謁見をうける。グラント将軍は、この夜、上野精養軒で開催された在留アメリカ人主催のアメリカ独立記念日を祝う夜会に出席する。

●7月7日、日比谷公園の場所にあった練兵場で観兵式があり、グラント将軍は明治天皇とともに参加する。その後、芝離宮にて明治天皇との午餐に招かれる。

●7月8日、府民主催の歓迎夜会が工部大学校で開催。招待者は1500人に及ぶ。グラント将軍は岩倉邸で能を見た後、9時50分に到着、歓迎夜会に出席した。

●7月10日、グラント父子は東京大学の学位授与式に臨席する。

●7月12日、両国川開き。蜂須賀邸にて花火見物。

●7月16日、新富座で行われた府民主催の観劇会に招待され、新作の後三年奥州軍記を見る。フィナーレは名妓70人がアメリカ国旗の意匠の着物で踊る。グラント将軍は「泰平」「グラントより」と書かれた羅紗の引幕を贈る。この引幕は緞帳に仕立て直されたという。

●7月(16日?)、グラント父子を開拓使東京出張所に招待し、有栖川宮ほか皇族、三条、岩倉大臣の出席を得て、サッポロビールの前身、開拓使麦酒醸造所から出荷したビールと、北海道の物産を使用した午餐となる。その後、仮博物館を一覧して退散となる。

●7月17日、グラント将軍は馬車で、随行者は人力車で日光へ。小さな村に泊まる。

●7月18日、利根川を渡る。夕方、目的地に到着し観兵式を行う。宿舎は宇都宮か。

●7月19日、朝8時出立、午後4時に日光到着。宿泊する僧坊(輪王寺本坊)に駕籠で向かう。

●7月20日~27日、山々、滝、家康の廟などを見てまわる。地元の人は芝居などでもてなす。金谷ホテルの前身、金谷カテッジインにもグラント将軍が来館したという。伊藤博文ほか政府の代表も、グラント将軍に相談するため日光に来ている。

●7月28日、日光出発。この日も観兵式がある予定だったが、雷雨のため中止となる。

●7月29日、鬼怒川石井河岸の製糸工場で蚕見学。この時に昼食場所となった工場内の待春軒は、後に横浜三渓園に移設されたが現存せず、今は名前のみが継承されている。

●7月30日、途中で一泊。村長と懇談する。

●7月31日、くたくたになって東京に帰着し、心地よい延遼館に戻る。

 

③東京、箱根、東京、そして帰途へ

●8月1日、横浜山手公園で居留外国人主催の夜会。

●8月5日、渋沢家の飛鳥山邸で午餐会。

●8月7日、有栖川宮邸で夜会。

●8月10日、浜離宮中之島茶屋で明治天皇との対話が行われた。取り上げられたテーマは、民選議会、外債、琉球問題、条約改正、教育など多岐にわたっていた。

●8月12日~14日、箱根宮ノ下へ向け出発。当時は横浜から先に鉄道が無かった。小田原までの馬車輸送は始まっていたが、小田原から三島までは駕籠であった。箱根滞在中、芦之湯の“きのくにや”で温泉に入っている。

●8月15日、グラント父子は三島へ行き、旧本陣に宿泊。

●8月16日、三島での歓迎会に出席。

●8月。グラント父子は麻布と青山の開拓使試験場を巡覧している。また、伊達別邸や吉田邸でもグラント将軍を招いて宴が催されている。

●8月20日、陸軍主催により陸軍戸山学校で競馬が行われ、明治天皇とともに参観。

●8月25日、府民主催による上野公園での歓迎会があり、撃剣、槍術、鎌術、流鏑馬、犬追物など技芸が披露される。グラント将軍は、明治天皇とともに技芸を見物している。その後、記念植樹を行い、夜は精養軒で不忍池の花火を見物した。

●8月26日、アメリカ総領事主催夜会。

●8月30日、参内して明治天皇に暇乞いをする。

●9月2日、延遼館で送別夜会。

●9月3日、特別列車で横浜へ行き、帰国の途に就く。 9月20日サンフランシスコ到着。

 

(2)グラント将軍の植樹と謎

①長崎公園での植樹

グラント将軍は長崎公園で県令(県知事)から懇願されて植樹を行っている。この場合、植樹する木を含め、すべての準備は日本側で行うのが当然であろう。また、植樹の謝礼として高価な鼈甲細工と皿を贈っている。ヤングによると、グラント将軍はインドボダイジュを、夫人はクスノキを植樹したという。日本で菩提樹と言えばシナノキ属の落葉高木だが、釈迦がその下で悟りを得たインドボダイジュはクワ科イチジク属の常緑高木で別の木である。インドボダイジュもクスノキも既に無く、今あるのは榕樹(アコウ)だという。記念碑には各々が木を植えたとだけあって木の名は書かれていないが、何れも榕樹だとすると、ヤングの記述と食い違いが生じてしまう。ひょっとすると、熱帯樹で寒さに弱いインドボダイジュが枯れたため、同じクワ科イチジク属で姿の似ているアコウに植え替えたのではないか、そして、クスノキもアコウに入れ替えたのではと思えてくる。ただし、これには確証が無い。ヤングの記述が正しいとすると、謎が生じるというだけである。

 

②上野公園での植樹

 

上野公園で行われた府民主催のグラント将軍歓迎会の後、引き続き記念植樹が行われ、グラント将軍はローソンヒノキを夫人はタイサンボクを植えている。何れも北米産の樹木である事を考慮して選択したと思われる。植樹に使用する木を準備したのは、開拓使嘱託を務めた後、農業雑誌を刊行し農学校を開設した農学者の津田仙であり、津田仙が居なければ、歓迎会を締めくくる記念植樹も無かったのではと言われている。現在、何れの木も小松宮の銅像の後方に存在しているが、南側のローソンヒノキは樹勢が衰えているように見える。

 

木の下には、植樹について記された石標が置かれているが、当時は日本名がまだ無かったため、ローソンヒノキを“ぐらんとひのき”として、タイサンボクを“ぐらんとぎょくらん”(グラント玉蘭)として植えていたことが分かる。実を言うと、津田仙はセコイアを植える事を考え、工部省の山尾庸三がアメリカから輸入したセコイアの苗木を分けてもらって育て、この木を植樹に使用した。しかし、植えた後でセコイアではなくローソンヒノキだった事が追々分かってきたという。新しく渡来してきた樹木の苗木の識別は難しかったのだろう。石標は植樹に先だって建てられていたので、その内容は訂正される事になったが、セコイアは風土的に合わず枯れる可能性が高いので、結果的にはローソンヒノキで良かったようである。もとの石標にはジャイアントセコイアを表すSEQUOIA GIGANTEUMの名が刻まれていたと思われるが、訂正後の現在の石標には、CUPRESSUS LAWSONIANAと刻まれている。なお、タイサンボクは明治6年頃、日本に渡来したとされているが、植樹に使用したタイサンボクの来歴は分かっていない。

グラント将軍の植樹の近く、今はあまり目立たない場所に、グラント将軍植樹記念碑がある。グラント将軍の接待委員であった渋沢栄一が中心となって昭和5年に建てた記念碑で、碑文には、植樹の由来を知る人が稀になっている事を遺憾に思い、後世に知らしめようとしたという趣旨が記されている。明治天皇の臨幸を仰いで行われた上野公園でのグラント将軍歓迎会は、政府ではなく民間の手で行われ、莫大な費用も寄付金で賄っていた。また、この歓迎会は国民外交の端緒でもあった。実業家であった渋沢栄一にとって、明治12年8月15日は、その生涯の中でも輝かしき一日であったのだろう。しかし、それから半世紀余り、明治は遠くなり、激動の昭和時代へと突入してゆく。渋沢栄一は変わりゆく時代に対する警鐘をこめて、この碑を建てたのかも知れない。そして今は、グラント将軍の植樹記念碑の事も、知る人ぞ知る状態になっているのだろう。

 

③増上寺のヒマラヤスギ

増上寺の山門近くにグラント将軍が植えたというヒマラヤスギがある。しかし、長崎や上野での植樹についてはヤングの日本訪問記に記載があるものの、増上寺の植樹については記載が無い。また、増上寺にも、植樹の記録は無いそうである。さらに、明治30年の東京名所図会にも増上寺での植樹については記載が無い。明治初期の増上寺は苦難の時代で、寺の敷地は削減され、明治7年には本堂(大殿)が放火される事態も起きている。増上寺が本堂の再建に着手したのは明治12年の末であり、グラント将軍が来日した頃には本堂が無かった事になる。

グラント将軍は人気があったため自由行動は難しかったと思われるが、開拓使東京出張所に招待された際に、増上寺に立ち寄った可能性は無いでもない。しかし、植樹となると事前に相応の準備が必要となる。開拓使と増上寺との関わりは、増上寺方丈の一部を購入し開拓使仮学校を開いた事に始まる。仮学校は明治8年に札幌に移るが、その跡地は開拓使東京出張所の敷地となる。このような関わりから、増上寺で植樹をした事も考えられるが、開拓使事業報告には増上寺での植樹についての記載は無い。また、開拓使長官が増上寺にグラント将軍を出迎え、植樹を済ませてから東京出張所に案内する事があっても良さそうに思うが、実際には東京出張所でグラント将軍を出迎えている。増上寺での植樹が開拓使と無関係だったとすると、多忙な国賓が単なる参詣記念で植樹をしただろうかという疑問は残る。

ヒマラヤスギはヒマラヤ北西部やアフガニスタンを原産地とするマツ科の常緑針葉樹である。従って、ヒマラヤスギをグラント松と呼んでも間違いではない。実際、ヒマラヤスギは横浜でブルック松と呼ばれていたそうであり、ヒマラヤ松の名で売り出した事もあるというが、何故か日本名がヒマラヤスギになってしまったらしい。グラント一行はインドにも寄っているので、この種子を入手した可能性はあるが、植樹には結びつかない。植樹に必要な幼樹を周遊旅行中にインドから運んだという事も考えにくい。日本へのヒマラヤスギの渡来は、横浜在住のイギリス人、ブルックが居留地に植える為、明治12年頃にインドから種子を輸入した事に始まるという。明治11年、山手公園に誕生したクラブで当初から働いていた庭師の思い出話によると、勤め始めた頃、ヒマラヤスギは小さく竹の支柱が添えてあったという。この話が確かであれば、明治12年には植樹に必要な幼樹が横浜にあった事になる。また、ヤングの日光での情景描写に、山腹をおおっている堂々としたヒマラヤスギという表現が出て来るが、この文章が正しければ、ヤングが別の木と取り違えていたにせよ、日本にもヒマラヤスギがある事を認識していた事になり、海外からヒマラヤスギを取り寄せる必要がないと思っていた事になる。ところで、増上寺に伝えられている話では、グラント将軍が来日した時に、参詣記念として、かの地から持参したと伝えられる米国松(俗に米松)を手植えした、という事になっている。これが正しければ、グラント将軍が植えたのはヒマラヤスギではなく、米松だったという事になる。他にも気になる事がある。増上寺のヒマラヤスギが経過年月の割には成長が遅いと指摘されている点である。その理由としては、次のような事が考えられるが、今のところ、どれが正しいか判断できるほどの材料は無い。

a.グラント将軍が植えたヒマラヤスギの成長速度が、たまたま遅かった。

b.グラント将軍が植えたヒマラヤスギが枯れたので、後に別のヒマラヤスギを植えた。

c.グラント将軍は別の木(米松など)を植えたが枯れたので、後にヒマラヤスギを植えた。

d.グラント将軍は植樹しなかったが、後に参詣記念としてヒマラヤスギを植えた。

ブルックが育てたヒマラヤスギは、後に横浜の会社に引き継がれ、育てられた苗が宮内庁に献上されたほか、新宿御苑が買い上げたと言われている。しかし、ヒマラヤスギはあまり売れなかったらしく、やむなく学校に配ったところ、それが契機になって明治の末ぐらいから次第に普及していったという。増上寺に後にヒマラヤスギを植えたとすると、この時期のヒマラヤスギだったかも知れない。ヒマラヤスギが渡来した時期は、グラント将軍来日の時期と重なっているが、グラント将軍の記憶が薄れていない明治の終わり頃には、ヒマラヤスギはグラント将軍が持ち込んだと思っていた人が居たかも知れず、ひょっとして、グラント松と呼んでいたかも知れない。

 

④三島市のタイサンボク

三島市にはグラント将軍が贈ったというタイサンボクがあるそうである。グラント将軍の歓迎は東京ばかりではなく三島でも行うべきだという考えから、寄付を集めてグラント将軍歓迎会を三島でも開催しているが、三島では東京のような植樹は叶わなかったのだろう。ここからは単なる想像だが、グラント将軍の植えたヒノキは無理にしても、夫人の植えたタイサンボクなら余った苗木があったかも知れない。それをグラント将軍の名で三島に送ったとしたら、グラント将軍から贈られたタイサンボクという事になる。ただ、事実がどうであったかは、全く分からない。

 

(3)グラント将軍一行と延遼館

延遼館は、江戸幕府が慶応2年(1866)に浜御殿を海軍所とした時、伝習屯所を起工した事に始まる。その建物は凝灰岩の切石を積んで造った西欧式石造建築であったため石室と呼ばれていた。やがて明治。浜御殿は新政府に引き継がれたが、石室はまだ竣工前であった。明治2年(1869)、イギリス王子の日本訪問に際し、石室を宿所に充てる事になったため、工事中の石室を急きょ改修し迎賓館として竣工させ、延遼館と名付ける。ただ、改修の日数が短かったためか種々問題があったらしく、後にグラント将軍を迎える際には大修理を行っている。この時、室内装飾についてはコンドルに委嘱している。

<暖炉の図>

延遼館は北面して建てられ、中央を唐破風付きの正面玄関としたコの字型の平屋であり、厨房が付属していた。全体の室数は24室で、そのうち主要な7室には暖炉が設置され、廊下や室内は絨毯敷であった。屋根は本瓦葺で和風の外観を有しているが、暖炉の煙突が突き出るという和洋折衷の建物であった。グラント将軍が滞在した時には、館内にビリヤード台も設置されていたようである。迎賓館としての役割が鹿鳴館に移る以前の延遼館は外務省の所管であり大手門を専用の門としていた。一方、浜離宮の庭園は皇室の所有であり、庭園に入るには中の御門を使うため、枡形を構成する石垣の一部が崩されたと思われる。明治16年(1883)に鹿鳴館が竣工すると、迎賓館としての役割は鹿鳴館に移る。その後、延遼館について修繕も検討されるが、明治22年に取り壊しが決まり、翌年には解体される。

グラント将軍一行は延遼館に2か月間滞在しているが、随行したヤングは延遼館の印象について、宮殿のイメージである豪奢、華麗、多くの色彩と飾り、室内装飾と大理石などは何一つ無く、がっかりさせられると書いている。その一方で、庭園の出来栄えと美しさは特筆に値するとし、特に東屋については研究の必要があると記している。ここでの滞在が長くなるにつれ、ヤングも延遼館に愛着を覚えるようになったらしく、延遼館の見納めとなる最後の夜には、こんな素晴らしい所はまたとないと書いている。延遼館には国の内外を問わず多くの要人が訪れ、また、グラント将軍も大小の宴会を催していたようである。時には商人が珍しいものや実用品を売りに来ることもあり、また、陶工を延遼館に呼び寄せて製造過程を見せる事もあったらしい。延遼館に滞在していた時、地震に二度遭遇している。梁がきしみ、シャンデリアが音を立て、コップの水が揺れ動いたが、被害が出る程ではなかったらしい。

ついでに言うと、延遼館の再建の際には、耐震性について考慮されると思われるが、津波に対する避難路の確保については、今のうちから考えておいた方が良さそうである。

<グラント将軍(中央)と書記のヤング(左)。Share画。>

 

<参考資料>「グラント将軍日本訪問記」「グラント将軍との御対話筆記」「東京市史稿市外編62」「明治ニュース大事典」「上野公園グラント記念樹」「開拓使事業報告」「増上寺とその周辺」「わが国へのヒマラヤスギの渡来と普及について」「明治洋風宮廷建築」ほか。

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前九年後三年役と社寺の縁起

2012-04-28 16:41:44 | 歴史メモ帳

 前九年後三年役は、世界遺産の平泉を拠点として花開いた奥州藤原氏の歴史の、前段となる合戦である。この合戦の主人公である、源頼義・義家父子についての縁起を有する社寺が都内には意外と多いが、前九年・後三年役の合戦の場でもない都内において、なぜ、源頼義父子の縁起が多いのか、少し調べてみた。
(注)社寺の縁起とは、社寺の起源や由来をいう。同じような言葉に、社寺の由緒があり、社寺の起こりや来歴を意味しているが、今回は、便宜上、縁起に統一している。

1.源頼義・義家父子と前九年後三年役

 初めに源頼義と義家、および前九年後三年の役について簡単にまとめておく。

(1)源頼義
 源頼義(988-1075)は平安中期の武将で、父の頼信に従って平忠常の乱を平定した際に勇気や知略で名をあげる。後に相模守となり、東国の武士の多くを従える。1051年、陸奥守となり安倍頼時の鎮撫に赴く。1053年、鎮守府将軍兼任。1056年、陸奥守に重任。1057年、安倍頼時を討つ。1062年、子の安倍貞任を討ち、前九年役が終結。1063年、伊予守に任ぜられる。

(2)源義家
 源義家(1039-1106)は平安後期の武将で頼義の長子。八幡太郎と称した。前九年役では父の頼義に従って出陣した。その後、出羽守、下野守を歴任し、1083年に陸奥守兼鎮守府将軍となる。1086年、清原氏の内紛に介入し、苦戦ののち勝利したが(後三年役)、義家に対する朝廷の評価は低かった。なお、源義家の子孫には、源頼朝や木曾義仲がおり、また、新田氏や足利氏も義家の子孫にあたる。徳川氏は新田氏の血筋であり源義家の子孫と称した。

(3)前九年役(1051-1062)
 実際には12年間の戦役である。陸奥の奥六郡(岩手県・北上川流域)の長であった安倍頼良(後に頼時)が朝廷への貢租を怠るようになったため、これを罰しようとして陸奥守の藤原登任が攻めたが大敗した。そこで朝廷は源頼義を陸奥守に任命して平定させようとした。源頼義は長男の源義家(八幡太郎)とともに陸奥国に赴任し、鎮守府将軍も兼ねることになった。大赦によって罪を許された安倍頼時は源頼義に帰順し、平和が長く続いた。しかし、陸奥守の任期が終了する1056年、安倍頼時の子の安倍貞任が人馬殺傷の罪を犯したとの告げ口があり、源頼義は安倍貞任を罰しようとしたが、安倍頼時はこれを拒否して反乱を起こした。1057年、源頼義が津軽の安倍富忠を味方に引き入れた事を聞き、安倍頼時は津軽に赴いたが、流れ矢が当たって死に、安倍貞任が後を引き継いだ。安倍貞任は抗戦を続け黄海の戦いでは源頼義を完敗させた。この戦乱における源義家の奮戦ぶりは後々まで評判になっている。1062年、源頼義は甘言を用いて出羽の清原氏を味方とし、清原武則の援軍を得て厨川柵(岩手県盛岡市)に安部貞任を討った。

(4)後三年役(1083-1087)
 清原武則は鎮守府将軍となり、陸奥の奥六郡をも支配地域とし勢力を拡大した。その孫の清原真衡と弟の清原清衡・家衡は不仲であった。1083年、陸奥守に就任した源義家は、真衡の留守を狙って攻めてきた清衡・家衡と戦って降伏させた。しかし、真衡が急死したため、源義家は清衡と家衡に奥六郡を配分した。この配分に不満を抱いた家衡は、叔父の武衡とともに難攻不落の金沢柵(秋田県横手市)に立てこもった。そこで、源義家は清衡とともに金沢柵を兵糧攻めにして陥落させ武衡と家衡を討った。この時の戦いで、源義家に従って参戦した鎌倉景政が目を射られながらも奮戦したことが知られている。朝廷はこの戦役を私戦として扱い恩賞も与えなかったため、義家は私財をもって参戦した武士に報いた。一方、清原清衡は奥六郡を手に入れ、藤原を名乗って、平泉を拠点とする奥州藤原氏の初代となった。 
 
2.源頼義、義家を縁起に有する各地の神社

 源頼義・義家と関わりのある社寺は、頼義・義家の行動範囲に対応している筈なので、前九年後三年役の地域と、陸奥国に向かう経路上の神社について縁起を調べてみた。

(1)源頼義・義家を縁起に有する各県の神社数

 昭和52年版の全国神社名鑑により、前九年後三年役の地域および奥州への道筋にあたる地域の神社の中で、頼義・義家に関係する縁起を持つ神社が、どれ位あるか調べてみた。なお、この名鑑は、全国から6400社を選び、各神社からの寄稿のほか、各種の資料をもとに編集・監修して出版したものである。

 この名鑑による、源頼義・義家を縁起とする各県別の神社の数は、次のようになる。

 青森 2。 岩手14。 宮城17。 秋田 4。 山形28。 福島 12。
 茨城 4。 栃木10。 群馬 4。 埼玉 7。 千葉 2。 東京 15。
 神奈川5。 静岡 3。 愛知 1。 岐阜 1。 三重 0。 合計129。

 上記の集計結果は全数調査による結果ではなく、全国神社名鑑に記載されていない神社も数多くあるので、少なめの数になっている。ただ、傾向はみてとれるだろう。岩手、宮城、山形、福島の各県の神社数が多いのは、前九年後三年役との関係が深いからと思われる。このデータでは秋田が少ないが、実数はもっと多いようである。陸奥国への往路・復路上の都道府県の中では、東京が特に多い点が気になるところである。
 
(2)源頼義・義家を縁起に有する都内の神社

 昭和52年版の全国神社名鑑に加えて、昭和61年の東京神社名鑑に掲載されている神社も含めて、都内における源頼義・義家について記述がある神社を調べてみた。 

・八幡神社(足立区千住宮元町)。    ・竹塚神社(足立区竹の塚6)。
・八幡神社(足立区六月3)。      ・小豆沢神社(板橋区小豆沢4)。
・熊野神社(板橋区志村2)。      ・六郷神社(大田区東六郷3)
・千束八幡神社(大田区南千束2)。   ・平塚神社(北区西ヶ原2)。
・白山神社(北区堀船2)。       ・王子稲荷神社(北区岸町1)。
・荏原神社(品川区北品川2)。     ・寄木神社(品川区東品川1)
・穴八幡神社(新宿区西早稲田2)。   ・月見岡八幡(新宿区上落合1)。
・厳島神社(新宿区余丁町)。      ・荻窪八幡神社(杉並区上荻4)。
・大宮八幡宮(杉並区大宮2)。     ・世田谷八幡(世田谷区宮坂1)。
・駒繋神社(世田谷区下馬4)。     ・駒留神社(世田谷区上馬5)。
・宇佐神社(世田谷区尾山台1)。    ・銀杏岡八幡神社(台東区浅草橋1)。 
・鳥越神社(台東区鳥越2)。      ・今戸神社(台東区今戸1)。
・白幡稲荷(中央区日本橋本石町)。   ・鷺宮八幡神社(中野区白鷺1)。  
・多田神社(中野区南台3)。      ・八幡神社(中野区大和町2)。
・白山神社(練馬区練馬4)。      ・若宮八幡(練馬区高松1)。
・簸川神社(文京区千石)。       ・大国魂神社(府中市)。
・三島神社(あきる野市戸倉)。     ・子安神社(八王子市明神町)。
・住吉神社(八王子市叶谷町)。     ・百草八幡(日野市百草)。      
・箭幹八幡(町田市矢部町)。      ・狭山神社(みずほ町)。
  
  以上、38社の神社を地域別にすると、下記のようになる。

足立区 3。 板橋区 2。 大田区 2。 北区  3。
品川区 2。 新宿区 3。 杉並区 2。 世田谷区4。 
台東区 3。 中央区 1。 中野区 3。 練馬区 2。 
文京区 1。 府中市 1。 あきる野市1。八王子市 2。
日野市 1。 町田市 1。 みずほ町1。 

 上記のほか、前九年後三年役の参戦者に関わるものとして、大鷲神社(足立区花畑)、猿江神社(江東区猿江)、御霊神社(新宿区西落合)がある。また、全国神社名鑑や東京神社名鑑に記載はないが、頼義・義家を縁起に有する神社としては、気付いただけで、熊野神社(荒川区南千住)、天祖神社(大田区山王)、諏訪神社(新宿区高田馬場)、雷電稲荷(新宿区新宿)、八幡神社(世田谷区太子堂)、八幡神社(文京区白山神社境内社)がある。さらに、寺院では、中野の宝仙寺、足立区の炎天寺、北区の金輪寺、高幡不動も該当する。これらも含めると、都内において源頼義・義家についての縁起を有する社寺は51社寺になる。全数調査をすればもっと増えるであろう。

 源頼義・義家が、現在の都内を通ったのは、人口も少なく、社寺も少なかったであろう平安時代の事である。京都と陸奥国の間の通過地点の一つに過ぎない地域で、これだけの数の社寺が、源頼義・義家と関わりがあったとは思えない。
   
3.史実と伝承

 史実が伝承されていく過程を、史実が継続して伝承される第一段階、史実が忘却され変容する第二段階、新しい要素が加わって伝説化する第三段階に分ける考え方がある。史実を伝承する体制が整っているかどうか、そして、人々の心に残るような事柄かどうかにもよるが、一般的には、100数十年すなわち数世代の間は、史実が本来の姿で伝えられ、それを越えると内容が変わってしまい、数百年後には史実とかけ離れた伝説と化してしまうという事になるだろうか。大災害や合戦のような大事件であっても、記録を残さない限り、数百年後には忘れ去られてしまう可能性が大きいかも知れない。たとえば、太田道灌と豊島氏との合戦の場所も、江戸時代には地元でも忘れ去られていたという。新田義貞が鎌倉方と戦った関戸の古戦場も、太平記などの歴史物語から得られた知識により発見されるまでは、地元においても忘れ去られていたらしい。古川古松軒は1788年に後三年役の地を訪ねているが、合戦の跡を地元の人に尋ねてみたものの、これという場所はなかったと記している。

 石碑や古文書の形で記録が残っていれば、史実は本来の形で伝えられていくが、古代まで遡る記録が残っていることは稀で、中世の記録が残るものもかなり少なく、大半の記録は江戸時代以降に作成されたものという。社寺の古記録が火災などで失われ、史実が分からなくなる事例は少なくない。長い年月の間には社寺も衰退する時期があり、このような時には、古くからの伝承が途絶えてしまう可能性も大きい。社寺が合併したり、移転したり、神職等の変更や、宗旨の変更によっても、伝承が失われる可能性がある。平安時代の事柄が、今日まで正しく伝えられる可能性は、かなり低いと言えそうである。
      
4.秋田における前九年後三年役の伝承

 平安時代の前九年後三年役が、秋田においては、どのように伝えられてきたのか見てみよう。秋田に「金沢安倍軍記」または「御領分神社仏閣縁起」と題する、前九年後三年役について記した史料が伝わっている。この史料は、1678年に藩の命令により提出した、社寺の書き上げと安倍合戦之次第からなる古記録の後半部分である。この史料では、前九年後三年役について、概略、次のように伝えている。

 “安倍貞任の悪事を聞いた源頼義は、安倍貞任討伐の綸言を得て八十万騎の大軍で下り、金沢の城を攻める。この戦いで鎌倉権五郎は眼を射られ、源義家は囚われの身となる。源義家は安倍貞任の娘、おと姫と懇ろになり、安倍貞任は源義家を婿にしたと考える。源義家は隙を見て馬に便りを結び、馬は空を飛んで父の源頼義のもとに便りを届ける。源義家は安倍貞任が留守の間に、おと姫を連れて頼義のもとに行く。源頼義の軍は金沢へ押し寄せ、安倍貞任は逃亡し、津軽を回って南部の厨川の城に入る。源頼義は厨川に押し寄せ、ついに安倍貞任を討つ。”

 前九年役の舞台は岩手、後三年役の舞台は秋田である。金沢城(柵)は、源義家・清原清衡と清原武衡・清原家衡との間の後三年役における合戦の舞台だが、「金沢安倍軍記」では、秋田での伝承にもかかわらず、前九年役における源頼義・義家と安倍貞任との合戦の話に入れ替わっている。また、古くからの言い伝えであるとすれば、地元の清原氏の伝承があって然るべきだが、そうなっていない。「金沢安倍軍記」の成立は近世の初期とされるが、前九年後三年役に関する伝承で近世より前の記録は、地元では見当たらないという。これらの事から、平安時代の前九年後三年役の伝承は、地元では既に途絶えていたと考えられ、「金沢安倍軍記」に見られる伝承は、古浄瑠璃などにより外から伝えられた歴史物語が元になり、政治的意図をもって書き換えられたと考えられている。秋田には多くの源義家伝説があるが、外から入ってきた歴史物語の知識をもとにしたか、「金沢安倍軍記」のような先行する伝承をもとにして、江戸時代になってから、その土地の事物に対応させて作り上げられたという事になるだろうか。

 源義経の生涯を書いた「義経記」という物語がある。人々に語られていた数多くの義経伝説をもとに、一つの物語としてまとめられた伝承文学で、歴史の史料としての価値は低いとされる。作者は不詳。成立は室町時代の初めごろという。この「義経記」に、金売吉次の話として、源義家を大将として安倍貞任を攻め、金沢城を落とし、貞任は逃げて岩手の野辺に倒れたという話がのっている。史実とは異なるが、物語が人々に受け入れられるためには、敵役も名の通った安倍貞任である必要があったのかも知れない。「義経記」に書かれた金沢城攻めの内容は、「金沢安倍軍記」と類似点があるが、「金沢安倍軍記」の内容が「義経記」をもとに創作されたかどうかは分からない。ただ、同様な物語が何らかの形で秋田にも伝わっていた事を想像させる。なお、1717年に巡見使がこの金沢を訪れた時の記録に、武衡・家衡の城跡ありと記しており、この頃には、源義家が武衡・家衡を攻めたという歴史認識に変わっていたと思われる。

5.社寺の縁起と史実

 古代における社寺の縁起は、国家に提出する公文書としての性格から、史実をもとにした記載がなされていた。中世に入ると、布教を目的とした縁起が寺院により作成されたが、民衆を啓蒙するため、史実とは関係ない著名な人物を登場させたり、荒唐無稽な霊験を持ち出すようになる。これは民衆の側が望むものでもあった。神仏習合の時代、神社もこのような縁起の影響を受けるようになる。一方、経済基盤の確保などを目的として、偽の縁起も作られるようになった。江戸時代になって、社寺の縁起が必要になると、支配者に対する配慮をしつつ、新たな歴史認識を受けた縁起が生み出されるようになる。江戸も終わりの頃になると、縁起の無かった小さな社寺も、縁起を創作して略縁起として配布するようなことも行われた。

 中世以降に生み出された社寺の縁起は、史実より、縁起の効用に重きが置かれていたと思われる。特に、民衆を相手とする社寺においては、民衆が望むような縁起を提供する必要があったのだろう。人々は、社寺の縁起を介して、歴史上の人物や高貴な人物と、何がしかの縁を感じる事が出来たのであり、それ故にこそ、史実はどうあれ、縁起を事実と信じたい気持が強かったと思われる。しかし、人々の歴史に対する知識が深まるにつれ、史実と矛盾する社寺の縁起は淘汰されてしまう。社寺の縁起は、人々の思いに沿いつつも、史実に配慮した縁起へと変化していったのではなかろうか。

 それでは、都内において源頼義・義家の縁起が多く存在する理由はなぜか。理由は幾つか考えられるだろうが、ここでは、単なる憶測ではあるが、その理由を考えてみた。各地からの移住者が多数派を占める江戸のような地域では、古くからの伝承が伝わらなかった可能性がある。人口が急増し、社寺の数も増えていった中で、新たな縁起が必要となる社寺も少なくなかっただろう。江戸時代には、源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任を攻めたという歴史認識はあったと思われる。人々は、源頼義一行が江戸を通ったと考えたに違いない。では、どのルートを通ったか。江戸時代の東海道と奥州街道を通ったと考えた人もあり、鎌倉古道のうちのどれかを通ったと考えた人もいただろう。これらの街道や古道沿いにある社寺を、一行が参詣したと考えた人もいたに違いない。どのルートを通過したか分からなければ、それぞれの街道や古道沿いの社寺が、自説を主張するようになるのは世のならいである。徳川家の先祖として人気の高かった源頼義・義家を縁起とする事は、社寺にとっても、地元の人々にとっても、また、為政者の側にとっても好都合であったに違いない。

6.おわりに

 社寺の縁起は時代とともに変化する。江戸時代と昭和の時代と現在の、都内の社寺の縁起は、必ずしも同じではない。社寺の縁起は、あくまで宗教活動の一環であり、史実とは分けて考えるべきものと思われるので、歴史に関する新たな知見による変化というよりは、社寺の考え方や、氏子や信徒など受け取る側の考え方の変化によるのであろう。

 都内の社寺の縁起を見ていて、気づいた事もある。たとえば、足立区には源義家が野武士と戦ったという縁起があるが、中世のこの地域において野武士が出没したという史実と源義家の物語が結びついた可能性がある。大宮八幡には源氏の白旗に似た瑞雲を見たという縁起があるが、他の神社にも同様な伝承がある。また、土器塚と胴勢山の伝承、鎧懸けの伝承、旗立ての伝承なども各地にある。伝承が伝播したのだろうか。

 源頼義・義家はどのルートを通って陸奥国に向かったのか、分らないながらも考えてみた。源頼義は相模国の国司だったことがあるので、陸奥国に向かう途中、相模国府(平塚)に寄るのは十分考えられる事である。源頼義は京都を出て古代の東海道を通り、相模国府に入ったと考えて良いだろう。14世紀に編纂された「源威集」の中に、武蔵国府(府中)に逗留していた時に六所宮(大国魂神社)の向きを南から北に変えたという記述があるが、坂東武士の参加を求めるため相模国府から武蔵国府に向かったと考えてもおかしくはない。相模国府と武蔵国府の間の官道については、夷参(座間)を経由したとする説と、古代東海道を店屋(町田)で分かれたとする説がある。何れにせよ、関戸近くで多摩川を渡り武蔵国府(府中)に入ったと思われる。武蔵国府からは北上して、東山道の上野国か下野国に出る事も出来たが、「奥州後三年記」の内容から源頼義が常陸国を通った可能性が高いので、武蔵国府(府中)から下総国府(市川)を経由して常陸国府(石岡)に向かい、常陸国府からは白河関を経て東山道に入ったか海岸沿いの道を進んだと考えられる。武蔵国府と下総国府を結ぶ道には、乗瀦と豊島の駅があったという。乗瀦を天沼とする説や、豊島を飛鳥山近くの豊島郡衙の近辺とする説があるが、何れも異説があって確定されていない。古代道路がどこを通っていたかは不明であるが、大雑把に言うと、武蔵国府(府中)から東北東に向かい、王子から上野に続く台地の途中から平地に下り、隅田川を渡って東進し、荒川と江戸川を渡って下総国府(市川)に出ていたと思われる。確証はないが、源頼義・義家もこのルートを通ったと思われる。

(注)今回は、次の資料を参考とさせていただきました。「全国神社名鑑(昭和52年)」「東京神社名鑑(昭和61年)」「陸奥話記」「前九年合戦絵詞(日本の絵巻・続17)」「後三年合戦絵詞(日本の絵巻14)」「伝説と史実のはざま」「歴史を創った秋田藩」「社寺縁起(日本思想大系)」「義経記」「偽文書学入門」「古代の道」「古代東海道と万葉の世界(特別展図録)」。その他、HPなど。

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夢まぼろしの鼠山感応寺

2012-04-07 09:59:00 | 歴史メモ帳

 目白駅に近い豊島区目白3丁目に、天保の頃、感応寺という大寺があった。その寺は、本堂の入仏供養をしてから僅か5年にして突然、廃寺を命ぜられ、跡形もなく取り壊されて姿を消した。今回、歴史メモ帳として取り上げるのは、この感応寺である。

(1)感応寺の再興
 谷中の天王寺は、もと感応寺と称し、日蓮宗の不受不施派に属していたが、幕府に咎められて天台宗に改宗させられた。元禄11年(1698)のことである。日蓮宗では、名刹の感応寺の日蓮宗への復帰を願っていたが、果たせずにいた。ところが、天保4年(1833)になって、本門寺から出されていた日蓮宗への復帰願いが聞き届けられることになった。ただ、寛永寺の意向もあって、谷中の感応寺は天王寺と改称してそのまま残し、感応寺は別の土地に再興することになった。感応寺の再興が認められた背景には、日蓮宗・中山智泉院の僧日啓の実子(妹とする説もある)で、時の将軍家斉に寵愛された側室、お美代の方の関与があったとされる。

 天保5年、再興する感応寺の敷地として、磐城平藩安藤対馬守の下屋敷跡地、28,642坪をあてる事が決められた。その敷地は、“大江戸の尻尾のあたり鼠山”と川柳に詠まれた、江戸の場末の、そのまた外れの鼠山に隣接していたため、“鼠が大寺を引いてきた”と、評判になったという。鼠山感応寺の建立から廃寺に至るまでの経緯は、雑司ヶ谷村の名主から転じて鼠山感応寺の寺務を担当した戸張平次左衛門が、「櫨楓」という資料にまとめており、今回は、これを主な資料として用いている。

 天保6年、感応寺に対して、乗輿と白書院での独礼が許されるという破格の寺格が与えられている。また、長耀山という山号も認められている。感応寺の伽藍のうち、本堂にあたる祖師堂のみ幕府が建立し、それ以外の堂宇は池上本門寺が建立する事になり、その費用をまかなうための勧化すなわち寄付金集めも許可されている。感応寺住職は、本門寺貫主の日満が当面兼ねることも承認されている。この年の8月、本堂の地所の地形を整えるため千本突きが行われたが、この時の事が、「櫨楓」「巷街贅説」「寝ぬ夜のすさび」「天保雑記」「事々録」に記されている。その様子は、江戸近在の信者が老いも若きも着飾って集まり、本丸・一橋家・加賀家からの奥女中も多数加わって、揃いの手拭、揃いの着物で徒党を組み、土を掘り或いは運び、飯や茶を施す者もあり、幟に所の名を書いて押し立て、やかましく騒ぎ、見物人も多数いて、前代未聞の事であったという。

(2)感応寺の建設

 天保7年(1836)、幕府の作事方により感応寺本堂の建設が始まり、12月には完成を見る。作事方には大棟梁として甲良、平内、鶴の三家があるが、「櫨楓」に記された棟札から、今回は平内家の平内安房斉部廷臣が、大棟梁を務めたことが分る。平内廷臣は、もとの姓を福田と言い、長谷川寛門下の和算家であったが、平内家の養子となり大棟梁となる。平内廷臣は伝統的な大工技術の奥義とされた規矩術を理論的に解明し書物として公開した人物である。

 「櫨楓」は、感応寺本堂の規模を、縁を除いて7間四面と記しているが、資料によって、記載されている規模は異なっている。「論考・鼠山感応寺本堂の姿を探る」では感応寺本堂の規模を7間四面として、感応寺本堂復元図も載せている。寺社建築の場合は、柱と柱の間隔を1間とする慣習があり、1間は必ずしも6尺ではないため分かりにくいが、縁を除いて、おおよそ20数m四方の規模になる。

 感応寺本堂が完成したことにより、天保7年12月、本門寺に奉安されていた日蓮聖人尊像が、感応寺に運ばれ入仏供養が行われた。この時の引っ越しの行列について、「瓦版」は絵入りで伝えている。道筋は、池上より下宿本芝二丁目栄門寺、金杉橋、新橋、京橋、日本橋通り、昌平橋、お茶の水、小日向筋、音羽9丁目、目白通り、感応寺で、御先触れは新曽妙顕寺、御供は本門寺の前貫主日教と当貫主日満、それと経王寺、長遠寺、江戸五ケ町ほかの総講中であった。

 本堂の完成に引き続き、他の堂宇の建設が本門寺により進められる。天保8年、将軍家斉は将軍職を家慶に譲って自らは大御所となる。天保9年、開堂供養が行われ、もと中延法蓮寺の住職であった日詮が、日満の名代を勤めるが、その後、日詮は日満に代わって感応寺の住職に就任する。天保10年、感応寺でお会式が行われ、「東都歳時記」にも取り上げられている。天保11年、この年は特に、徳川家、大奥、大名家からの参詣が多かった年である。天保12年1月、前将軍家斉が亡くなっている。

 天保12年10月頃の感応寺の境内の様子を、「櫨楓」により記すと、本堂①と東側の惣門④との間に敷石が敷かれ、敷石の傍らに鼓楼③、その後ろに客殿と庫裏と居間②が建てられていた。南門近くには源性院⑥、その東側には大乗院⑦が建ち、境内のあちこちに千本松と千本桜が植えられていた。境内西側の池⑧の近くには、弁天社と一如庵があった。本堂の北側では鐘の鋳造が始まっており、翌年の3月に鐘供養を行う手筈になっていた。また、千川上水から分水して池に水を引くことになり、総延長1960間余の堀を造る予定であった。山門と五重塔については、その次の年に建設を開始する事を計画していた。

(3)感応寺の廃寺
 天保12年の10月、本門寺の貫主は寺社奉行に呼び出され、感応寺の廃寺を申し渡されている。青天の霹靂のような出来事であった。廃寺の申し渡しは、本門寺経由で感応寺に伝えられているが、その時の文書が「藤岡屋日記」と「天保雑記」に掲載されている。その文書によると、感応寺住職は別段御構い無く、一宗の内の相応の寺院で住職をするのは勝手次第としている。「藤岡屋日記」によると、日蓮宗の多くの寺院で捕縛者があり、中山智泉院の僧の日啓と日尚が遠島と晒しを、堀之内妙法寺の住職も遠島を命ぜられたという。しかし、感応寺住職は何のお咎めもなかった。
 
 感応寺の廃寺については、川路聖謨の「遊芸園随筆」にも記されており、中山智泉院の当住と先住(日尚と日啓)が女犯の罪で遠島になったとしているが、感応寺住職については何も述べていない。斎藤彦麿は「神代余波」に、山門も出来ぬうちに破却が命じられ、跡形もなく取り壊されたのは夢の中の夢のようだ、と記している。片山賢は「寝ぬ夜のすさび」の中で、大御所の思し召しで建立されたものを、他界されるとすぐに廃寺にしたのは如何なる事か、お上のする事は分からないと述べるとともに、近頃の法華宗の行いが甚だしい事をあげ、感応寺が廃寺になったのもあり得ることだと書いている。喜多村香城は「五月雨草子」に、前将軍家斉が菩提のために建立したものを、他界してすぐ取り壊したのは、道にそむくと書き、水野忠邦に対する批判を記している。「櫨楓」は、住職の日詮について、道念堅固なること鉄の如く、いささかも不律不如法の事なく、明書経巻を読誦する外、世の楽を知らずと記し、この寺の住職として堂舎を壊すという前代未聞の珍事に逢ったとしている。また、将軍が代替わりとなって、改革の手始めに廃地となるのは、時のしからしむる所で、是非を論ずるには及ばないと記している。これらの資料を見る限り、法華宗(日蓮宗)の中に問題があったにせよ、当時の感応寺に、いかがわしい風評があったとは思えない。

 大谷木醇堂の「燈前一睡夢」には、感応寺についての、いかがわしい話が記載されている。感応寺が廃寺になった頃、醇堂はまだ幼児だったので、ずっと後になって祖父から話を聞き、明治25年になって書きつけたのが、その話という事になる。その内容だが、中山智泉院の僧と感応寺の住職を取り違えている上に、話の中身も、うわさ話の類に過ぎないものである。当時、将軍の寵愛を受けていた側室のお美代の方の縁で、日蓮宗が勢力を拡大していたが、その専横ぶりに対する反発もあったらしい。恐らく、流言飛語の類もあったのだろう。「燈前一睡夢」は、後になって、三田村鳶魚によって取り上げられ、世間に知られるようになる。この種の話を好む人が居り、また、面白い話は記憶に残りやすいから、風評が事実を駆逐してしまう事になったのか、感応寺には、いかがわしい風評が付いて回ることになる。

 感応寺の廃寺については、思し召しとだけあって理由は知らされていない。真実は闇の中だが、当時、天保の改革を推し進めようとしていた老中水野忠邦にとっては、前将軍家斉のもとで権勢をふるっていた家斉の側近たちや側室のお美代の方の影響力を、何としても排除する必要があったのだろう。お美代の方の息のかかった感応寺について、住職の罪を問えないまでも、廃寺にすべしと考えたのは、不思議ではない。ただ、多岐にわたる天保の改革については、思ったようには進まなかったようである。結果として、改革は失敗に終わり、水野忠邦も罷免されている。

 感応寺の廃寺の後、すべての堂宇は取り壊され、一木一草に至るまで撤去されてしまっている。堂宇のうち一部は移設されているが、本堂の古材はしばらく保管された後、身延山の祖師堂を再建する際に使用されている。感応寺の跡地のうち東南側には、浅草の花川戸にあった小出伊勢守の屋敷が移され、小出伊勢守の屋敷跡には境町や葺屋町の芝居小屋が移転させられている。また、感応寺跡の西側は旗本の小屋敷の地となり、北東側には江戸市中に住んでいた巫女や修験などが移住させられている。なお、感応寺の跡地のうち三か所について、豊島区により試掘調査が行われたが、感応寺のものと確認されたものはなかったようである。

(4)感応寺跡周辺散歩

 感応寺が廃寺にならなければ、鬼子母神付近から感応寺まで町続きになっていただろうという話もある。鬼子母神から感応寺に直接出る江戸時代の道は、鉄道により分断されてしまったが、それに近い道を歩いて、感応寺跡の周辺をめぐってみよう。鬼子母神から北に行くと、桜の名所でもある法明寺の前に出る。その前の道を左に行くと明治通りに出る。歩道橋を渡り、すぐ南の道を西に入って進んで行くと西武線のガードに出る。昔は、ガードを潜って開かずの踏切でJRを渡っていたが、今は踏切が閉鎖されているので、ガードの手前を左に行き、JRの上を歩道橋で渡り、右に折れてガードを潜り、線路の北側を西に向かう。次の踏切で左に行くと、目白庭園がある。

 園内でちょっと休憩したあと、目白庭園の北側の道を西に向かう。少し先でT字路になるが、南北に通じる道は感応寺の東側の境界の道に相当している。ここを左に行く。そのまま歩いて行くと目白通りに出るが、そのすぐ手前を右に入る道が、感応寺の南側の境界の道になっている。この道を進んで行くと、左手に目白の森の看板がある。この辺りの右側が感応寺の西端に当たる場所である。

 左手の道に入り、少し先の目白の森に行く。ここは、鼠山の東の端に当たっている。もとに戻って、感応寺の西端に当たる場所から、感応寺の北側の境に相当する、細い道に入る。しばらく道なりに進んで行くと、その先で、道は線路で行き止まりになる。その手前の道を右に折れると、少し先に徳川黎明会の建物がある。この辺の右手が本堂跡になるだろうか。さらに南に進むと目白通りで、左へ行けば目白駅に出る。

(注)今回、次の資料を参考としました。「櫨楓(「新編若葉の梢」所収)」「豊島区史資料編3」「東京市史稿・市街篇37、38、39」「鼠山感応寺展図録」「雑司ヶ谷風土記」「三田村鳶魚全集1、3」「藤岡屋日記」「一夜で消えた大寺の謎」

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オトタチバナヒメ伝説

2012-03-10 11:05:41 | 歴史メモ帳

 712年に古事記が編纂されて、今年で1300年ということで、各地でイベントが開催されるという。そこで今回は、古事記のオトタチバナヒメの伝説の地について取り上げることにした。古事記は、3巻からなり、上巻は天地の始まりから神武天皇誕生までの神話を、中巻は神武天皇から応神天皇までを、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの事績を扱っているが、そのうちの中巻のハイライトが、ヤマトタケルとオトタチバナヒメの物語である。

(1)オトタチバナヒメの物語

 古事記による物語の概略を次に示す。なお、720年に完成し正史とされた日本書紀も同様の内容を伝えているが、オトタチバナヒメをオシヤマノスクネの娘とする古事記に無い記述がある一方、古事記の記述のうち、畳を敷いた上に身を置いた事、オトタチバナヒメの歌、流れ着いた櫛を陵に収めた事は、日本書紀に記載が無い。

「ヤマトタケルが走水の海を船で渡ったとき、海神が荒波を起こしたため、先へ進めなくなった。そこで、オトタチバナヒメが海神をなだめるため身代りになると言い、菅の畳を八枚、皮の畳を八枚、絹の畳を八枚、波の上に敷き、その上に身を置いて波間に沈んだ。すると、波も穏やかになり、船は楽々と進むようになった。この時、オトタチバナヒメがうたった歌が、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問いし君はも」である。それから七日ほど経って、オトタチバナヒメが身につけていた櫛が海岸に流れ着いた。そこで形見の櫛を取り上げて陵を造ってその中におさめた」

(2)都内のオトタチバナヒメの伝説地

①「寄木神社」(品川区東品川1-35)

 旧東海道を進み、目黒川にかかる品川橋から東に向かい、洲崎橋から北に行くと、住宅地の中に寄木神社がある。本殿は土蔵造りで、扉内側に描かれた伊豆の長八の鏝絵で知られている。寄木神社の由緒では、オトタチバナヒメが入水されたのち、船木などが流れ寄ったことから、此処に神霊を勧請したとしている。また、源義家が奥州征伐の折に、その話を聞いて祈願し、平定後の帰路に兜を奉納したとしている。
 寄木神社は江戸時代に刊行された江戸名所図会にも取り上げられており、次のような内容が記されている。ヤマトタケルとオトタチバナヒメが乗った船が転覆して、その船材が所々の浦に漂着し、この地にも流れついたので、オトタチバナヒメの霊を祭って寄木神社と号した。遥か後に、船魂・西宮大神を合殿とした。源義家が帰路に当社を詣でた時に兜を収めたので、この地を兜島と呼ぶようになった。往古は一面の洲であったが、後に目黒川の流れにより洲が二つに分かれた。その頃に、兜の紐を神体とする社と、洲の崎明神の二社に分けた。洲の崎明神は諏訪明神と名を変えて天妙国寺の鎮守となった。紐島の名は、兜の紐からついたとも、オトタチバナヒメの衣の紐が流れ着いたためとも、細長く海中に突き出した洲の形が紐に似ていたからともいう。なお、当社のほかに寄木の社と称するものが、品川から川崎の間にもあって、同じ様な由緒を伝えているとしている。
 寄木とは流木のことをいい、寄木神社と号する神社は全国各地にある。それらの寄木神社は、仏像漂着の伝説を持っていたり、漂着物を御神体としたり、流木で社殿を建てたりしており、漂着物と関連がある神社のようである。

②「亀戸浅間神社」(江東区亀戸9-15)

 東大島駅で下車し大島八の交差点を北に行き、首都高の下を潜ってその先を右に行くと亀戸浅間神社に出る。この神社については、当ブログの「あの町この町」でも取り上げている。亀戸浅間神社の沿革によれば、この辺り、高貝洲はオトタチバナヒメの笄が漂着した地であり、景行天皇が笄を埋め、祠を立てて祭ったとされる。その場所、笄塚の上に創立されたのが浅間神社で、造営時期は1527年とも近世初期とも言われている。現在の社殿は昭和9年の建築で、もとは富士塚(笄塚の跡)の上にあったが、都の防災再開発事業に伴って、現在地に移されている。現在の富士塚跡は上面が切られて低くなっているが、発掘調査の結果、もとは高さ3m直径20mの塚であったことが判明している。東都歳時記には、江戸で造られた富士が列挙されているが、その中で本所六つ目・亀戸普門院持ちと記されているのが、この富士塚であり、境内には富士講奉納の水盤も残されているので、江戸時代には、この神社が富士信仰の一つとして参詣されていた事は確かである。しかし、オトタチバナヒメの史跡として認識されていたかどうかは分からない。亀戸浅間神社は幕末から明治にかけて衰退していたようだが、たのみの辞碑という明治33年の石碑に、「此浅間山は橘媛の笄の漂着せしとか語りつきて笄洲とは云う 星移り歳かさなりて漸くあ(荒)れしを、心あへる人々相協り宮を潔め山を繕ひぬれは云々」とあるので、明治の終わり頃から、オトタチバナヒメの伝説の地として知られるようになったのかも知れない。

③「吾嬬神社」(墨田区立花1-1)

 亀戸駅で下車して明治通りを北に行き、北十間川を渡ってすぐ右に行くと吾嬬神社に出る。吾嬬神社の創建は、1200年とも、1219年とも、1532年頃とも言われ、鈴木、遠山、井出の三氏により造営されたと伝えられている。この辺りは吾嬬森または浮洲森と呼ばれていた微高地で、塚から土器も発掘されている。吾嬬森は二つの幹からなる連理の樟で知られ、広重も名所江戸百景の一つとして取り上げている。ヤマトタケルの箸から生じたという伝説を持つ、その樟も、今は枯れて、吾嬬神社の境内に枯れてしまった幹と根を残すのみである。
 吾嬬神社の境内には、幕府の専横を非難したため、死罪に処せられた山県大弐が、1766年に建てた下総国葛飾郡吾嬬森碑がある。吾嬬森のある隅田川の東側はもともと下総国に属していたが、幕府により武蔵国に編入されていたにもかかわらず、吾嬬森を下総国葛飾郡と記したのは意図的と思われても仕方ないが、石碑が残っているところを見ると、石碑自体はお咎め無しという事になったのだろう。この石碑の碑文だが、日本書紀をもとにして、オトタチバナヒメの入水や、ヤマトタケルが吾妻はやと嘆いた事を述べ、その後、海沿いに多く建てられた祠の一つが吾嬬森にあり、オトタチバナヒメの墓と言い伝えていると記している。江戸時代の社記によると、オトタチバナヒメの御裳がこの辺の海上に浮かんだので、群臣に命じてこの所に収め、壇を築かせ玉垣を巡らせて廟としたとある。新編武蔵風土記稿には、オトタチバナヒメとともに海中に沈んだ鏡を、白狐神により取り戻し、その鏡を御神体とし、十一面観音を本地とする吾妻権現として祭ったとする縁起が記されている。江戸砂子に記載されている話もこれと同様な話だが、さらに荒唐無稽な縁起になっている。

(3)各地のオトタチバナヒメの伝説地
 都内以外の各地のオトタチバナヒメの伝説地を次に示すが、他にもあるかも知れない。

①「橘樹神社」(千葉県茂原市本納):延喜式神名帳に上総国長柄郡の小社、橘神社と記されている神社に該当し、上総国二ノ宮の古社である。由緒では、ヤマトタケルが陵を造りオトタチバナヒメの櫛を納め、橘を植えたとする。もとは拝殿のみが存在し、背後の墳丘を拝礼する形になっていたという。1800年に本殿を建てるため墳丘を削ったところ、壺が出てきたので埋め戻したという話もある。

②「吾妻神社」(千葉県木更津市吾妻2-7):漂着したオトタチバナヒメの衣の袖を納めるために創建された神社という。江戸名所図会では、上総国の君不去(木更津)の吾妻明神(吾妻神社)を、遺骸が漂着したため廟を造った場所としている。なお、オトタチバナヒメ伝説にかかわる君不去から木更津や君津の地名が生まれたとする地名由来説がある。また、袖が漂着したので袖ヶ浦と呼んだという説もある。

③「吾妻神社」(千葉県富津市西大和田):オトタチバナヒメの遺品(櫛)をまつる。漂着した遺品を馬が咥えて駆け上がったという伝説があり、馬だし神事が行われている。ただし、馬だしは江戸時代に始まる行事で、周辺各地で行われていたともいう。オトタチバナヒメの布が流れ着いたので富津(布流津)と称したという説もある。

④「島穴神社」(千葉県市原市島野):延喜式神名帳に記載される古社で、オトタチバナヒメが龍田大社の風神に、上総国に無事到着するよう祈ったことから、ヤマトタケルがその遺志をつぎ、風神を祭ったという由緒がある。

⑤「みさざき島」(千葉県安房郡鋸南町):オトタチバナヒメの遺骸が漂着したので、埋葬したという伝説がある。

⑥「橘樹神社」(神奈川県川崎市高津区子母口):郡の名を伝える古社で、流れ着いたオトタチバナヒメの衣や冠を祭ったと伝える。新編武蔵風土記稿には子母口村の立花社として掲載されているが、由緒の記載はない。近くの富士見台古墳をオトタチバナヒメの廟とする説もあるが、6世紀ごろの有力豪族の方墳とする説も出されている。

⑦「走水神社」(神奈川県):走水神社の由緒によると、ヤマトタケルから授かった冠を村人が石棺に収めて埋め、その上に建てたのがこの神社であるという。また、旗山崎にあった橘神社は、漂着したオトタチバナヒメの櫛を納めたという由緒があったが、神社の場所が軍の敷地となったため、走水神社に合祀したという。新編相模国風土記稿には、ヤマトタケル東征時の御所があったという御所ケ崎、その背後の山で旗を立てたという旗山、ヤマトタケルが乗船した皇島、オトタチバナヒメの従女が身を投げた姥島のむぐりの鼻を、土地の通称として記している。同書は、走水権現(走水神社)について、ご神体を石櫃に収めたと記している。何が起きたのか、気になる内容である。また、相模国風土記残本の、ヤマトタケル東征時に官軍が疾病により死亡したので葬ったとする記録についても取り上げている。なお、橘神社については記載が無い。

⑧「吾妻神社」(神奈川県中郡二宮町):由緒によると、オトタチバナヒメの櫛が漂着したので埋めて陵を作ったとし、その地を埋沢(梅沢)と呼んだとする。また、小袖が磯に漂っていたので山頂に祭ったとし、その海岸を袖ヶ浦と呼んだとする。ご神体のオトタチバナヒメ神像は千手観音で等覚院に安置しているとしている。江戸名所図会では、櫛が漂着したので陵を作ったが、その場所は、相模国の梅沢の吾妻神社としている。新編相模国風土記稿は、吾妻神社の社伝として、ヤマトタケルの東征時にオトタチバナヒメが身を投じて風浪を鎮め、その七日後に渚に流れ着いた櫛を収めたという説と、衣を埋めたという説があるとし、本地仏の千手観音を御神体と記している。また、梅沢について昔は埋沢と書いたとし、衣を埋めたので埋沢になったという、この土地の言い伝えを記しているが、同書では出鱈目な話としている。

(4)オトタチバナヒメの物語の謎①

 720年頃に成立した常陸国風土記に、倭武の天皇が倭より下ってきた后の大橘ひめと会ったという記述がある。また、倭武の天皇と橘の皇后が、海の幸と山の幸を競った事も記されている。

 倭武をヤマトタケルと読むと、天皇という表記が気になる。ヤマトタケルは景行天皇の子とされるが、系図に不自然な点があるので、系図が改ざんされていると考え、ヤマトタケルは天皇として西国と東国を征伐したとする説がある。この説に従えば、常陸国風土記の記述は正しいことになる。ところが、大橘ひめ、橘の皇后とあるのをオトタチバナヒメと解釈すると、ヤマトタケルとオトタチバナヒメが常陸国に滞在していたことになり、オトタチバナヒメが入水したとする日本書紀や古事記の記述と食い違いが生ずる。そうなると困ったことになるので、大橘ひめや橘の皇后は別人だとする説も出されている。常陸国風土記に古老の話として記されている内容は、常陸国が成立する以前の昔の話であり、正しく伝承されていない可能性もある。とは言え、常陸国風土記も公的な文書であり、史料としての価値が劣るわけではない。オトタチバナヒメの感動的な物語が創作であった可能性は、本当にゼロなのだろうか。

(5)オトタチバナヒメの物語の謎②

 オトタチバナヒメの同じ様な伝承が、異なる土地に存在しているのは何故なのだろうか。それに、由緒、縁起などというものは、遥か昔の事柄を伝えていると思いたいところだが、果たして千年以上の時を越えて、まともに伝わるものだろうか。古事記の序文にも、諸家の先祖からの伝承が真実と違い、虚偽を加えていると書かれている。天皇の周辺でさえそうなのだから、他は推して知るべし。仮に遠い昔からの伝承が残っていたとしても、原型を留めないほど変容しているのではないか。そうであるとすれば、同じ様な伝承が各地に残る事には、ならないのではないか。

 柳田国男は、安徳天皇の旧跡が九州や四国などの各地に存在すること、平家の隠れ谷が南は与那国島から北は出羽に至るまで無数にあることを指摘するとともに、同じような伝説が各地に存在する理由の一つとして、一つの伝説を共有して各地に移り住んだ木地師の事例を取り上げている。この説に従えば、他から伝えられたオトタチバナヒメの物語に、土地の伝承を取り入れ、その土地に合うように整えられた物語が、各々の土地に定着して、現在に至っている。そんな風に考えられないだろうか。

 それでは、オトタチバナヒメの物語は、どのようにして伝えられたのだろう。平安時代には、日本書紀が歴史書として読まれていたが、庶民には縁の無いものであったろう。中世に入ると、日本書紀の内容は仏教の影響も受けて改変され、時には荒唐無稽な物語にまで変容し、さらに寺社の縁起や、軍記物、語り物として人々に伝わっていったとされる。その一方で、古事記は一部が引用されただけで、ほとんど読まれないまま推移したという。古事記が人々に読まれるようになったのは、江戸時代の終わりに本居宣長の古事記伝が完成し1820年に刊行されてから後の事だろう。明治に入ると政府は皇民化政策をすすめるため、古事記を重視するようになる。勇敢な少年と献身的な少女の育成をはかるための格好の材料として、国定教科書に採用されたヤマトタケルとオトタチバナヒメの物語は、こうして国民の中に浸透していったのだろう。このような経緯からすると、古事記にのみ記載された櫛を陵に収める話は、江戸時代後期か、明治以降に取り入れられたとも思われるし、また、荒唐無稽な話が取り入れられたのは、中世にまで遡るとも思われる。ただ、そう断定することは出来ない。また、どのようにして日本書紀や古事記の内容が、各地に伝わったのかも分からない。東京湾やその周辺には、難破船からの漂流物、船の板や帆、衣や袖、笄や櫛、遺骸が流れ着く事があり、時には中世の鏡が引き上げられる事もあったと思われるが、それらの伝承が、日本書紀や古事記と混じりあった可能性も無いとは言えない。

 オトタチバナヒメについての伝承は、地元にとって重いものであり、信仰に近いものがあるようにも思える。そして、多分、そのような伝承・由緒・縁起は、史実とは別の次元のものなのだろう。現在、オトタチバナヒメの櫛を収めたという陵の場所は分かっていないが、それで良いのかも知れない。

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