夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

江戸名所記見て歩き(6)

2012-09-23 13:11:59 | 江戸名所記
<巻4>

4.1 廻向院

 「江戸名所記」は、回向院について、ものの哀れを留めていると記すとともに、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火(振袖火事)の惨状を詳細に記述し、武蔵と下総の境である牛島の堀を埋め立て、塚を築いて死者を埋葬し、寺を建てて諸宗山無縁寺回向院と名付けたと記している。「江戸名所記」の挿絵には、露座の仏像が描かれている。銅造阿弥陀如来座像は延宝3年(1675)に造立されたという説があり、これが正しいとすれば、それ以前に露座の座像があったのかも知れない。

 天保の頃の「江戸名所図会」の挿絵を見ると、回向院の境内には茶屋があり、参詣客の姿も見られる。江戸時代の後期、回向院では勧進相撲や出開帳がしばしば開催されており、また、札所でもあったので、参詣する人が多かったのだろう。同書の挿絵に、露座の仏像が本堂前に描かれているが、宝永2年(1705)に再鋳された銅造阿弥陀如来座像と思われる。現在、この坐像は本堂内に移され回向院の本尊になっている。

 天保の頃の回向院の山号は豊国山であったが、現在は、諸宗山無縁寺回向院に復している。所在地は墨田区両国2。最寄駅は両国駅である。 

4.2 三俣

 三俣について、「江戸名所記」は次のように記している。三俣は、浅草川、新堀、霊岩島の三方に通じて水が流れるので、この名があり、絶景の地である。北は浅草寺、深川新田、東叡山寛永寺。西は江戸城や愛宕山。南東に伊豆大島、南西に富士山、東は安房や上総が見える。何より面白いのは8月15日の舟遊びである。世の好事家や大名のほか、貴賎上下の人々が舟を飾り、幕をはって、三俣から鉄砲津を目指して漕ぎ出していく。或いは歌い、或いは吟じ、笛太鼓で囃したてて騒ぎ、三味線や胡弓を弾く。普段は許されない事だが、今宵ばかりは三俣でも花火が許され、舟ごとに競い合って種々の花火を出す。春宵一刻値千金の心地がする。花火は、しだれ柳、糸桜、牡丹花、白菊など様々である(挿絵からすると、当時の花火は今の玩具花火の類だったらしい)。三俣の月は、月の名所の須磨明石にも勝るという。

 寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」や寛文6年の「新板江戸庄図」では、箱崎の西を流れて浅草川(隅田川)に通じる水路(箱崎川)と、霊岸島と箱崎の間を流れる新堀と、霊岸島の西を流れる水路(亀島川)とに、日本橋川が三分岐する地点を、“三つまた”と記している。浅井了意の「東海道名所記」には、海から江戸の地に入るには、“新堀、ミつまたより日本橋にこぎ入るもあり”とあるので、日本橋川が三分岐する地点を、「江戸名所記」も三俣と呼んでいると考えられる。眺望についての記述は、日本橋から新堀、浅草川(隅田川)を経て鉄砲洲に至る舟遊びのコース途中の眺めであろうか。当時は両国橋下流の隅田川に架かる橋は無かったので、見通しは良かったと思われる。18世紀になると、隅田川が舟遊びの中心になり、「隅田川風物絵巻」でも、両国橋から箱崎にかけて行楽の舟が多く見られるようになる。19世紀の「江戸名所図会」では、隅田川が箱崎島で分流する地点を、三派(三俣)と呼んでいるが、舟遊びの拠点が、呼称とともに隅田川に移ったように思える。

 現在、箱崎川は埋め立てられ、箱崎島(中央区日本橋箱崎)は陸続きになり、箱崎の上流にあった中洲(中央区日本橋中洲)とも陸続きとなる。新堀は日本橋川下流の扱いとなるが、亀島川とともに、水路として現在も残っている。往時の三俣の景観は失われてしまったが、舟遊びは、水上バスや屋形船として今も存続している。

4.3 永代島八幡宮
 
 永代島八幡宮とは富岡八幡のことである。創建は寛永4年とされるが、寛永元年に長盛法印が祠に神像を安置したのが最初とする伝承もあり、元八幡と称される富賀岡八幡宮(江東区南砂7)に安置していたという伝承もある。「江戸名所記」では、ご神体(神像)は、菅原道真作で源頼政から千葉氏、足利氏などを経て伝わったとする。「江戸名所記」は、さらに、寛永20年から8月15日が祭礼日になった事、慶安4年に永代寺を八幡宮付属の寺とした事、同5年に弘法大師の堂を建て真言三密の秘蹟を講じた事、同年に流鏑馬を鶴岡八幡の法式により始めた事などを記している。また、永代島の景色は類まれで、東は安房や上総の山、南は品川、池上も近く、南西に富士、北西に江戸城、北に筑波、北東に下総が見えると書いている。

 富岡八幡宮の別当寺であった永代寺には、広重の名所江戸百景にも取り上げられた評判の庭園があった。この庭園は山開きと称して期間を定めて公開していたが、多くの人が訪れたと、「江戸名所図会」は記している。また、富岡八幡宮の門前には、茶屋や料理屋が軒を並べ、行楽客が絶えることは無かったという。明治になると、その永代寺も廃寺となり庭園も失われるが、その後、永代寺の跡に成田山東京別院として深川不動が建てられ、永代寺の名称は塔頭が引き継ぐことになる。富岡八幡宮の祭礼は、今も変わらず8月15日を中心に開催され、八幡宮の門前町である門前仲町は、今も八幡宮や深川不動への参詣客で賑わっている。


4.4 禰宜町・浄瑠璃
  
 禰宜町というのは古い町名で、寛文の頃に浄瑠璃小屋があったのは、堺町、葦屋町であったという。「江戸名所記」は、この町について、次のように記している。ここには、浄瑠璃、歌舞伎、曲芸など色々見物するものがあり、木戸を並べて、太鼓を打っている。貴賎老若で込み合う中に、異様な格好をした連中も居て、傍若無人の振る舞いをしている。町人は恐れて色を失い、女や子供は逃げ帰ることもある。「江戸名所記」は、さらに続けて浄瑠璃の歴史にふれ、三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃について、曲節も面白く人形操りも珍しいとし、大薩摩(薩摩浄雲)、小ざつま(浄雲の子、または外記か)、丹後拯(杉山丹後掾)などと名乗って、鼠木戸を構え太鼓を打って営業していると記している。仏教的な題材を扱う説経節も、この頃には人形浄瑠璃に近い演じ方で人気を集めるが、「江戸名所記」は、天下一大さつまの看板をかかげる人形浄瑠璃の小屋のほか、説経節の第一人者であった天満八太夫が「小栗判官」を演じていた小屋を挿絵に取り上げている。

 人形浄瑠璃も、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を博するが、次第に歌舞伎人気に圧倒されるようになる。「江戸名所図会」は、堺町と葦屋町の間に人形操りの小屋があると書いているが、すでに歌舞伎に比べ扱いは小さくなっている。明治以降、人形浄瑠璃は文楽の名で受け継がれる。現在、都内では、国立劇場・小劇場で公演が行われている。

 
4.5 禰宜町・歌舞伎

 明暦大火より前の江戸を描いたとされる「江戸名所図屏風」は、歌舞伎芝居、人形浄瑠璃、軽業の小屋が軒を並べる芝居町の様子を取り上げている。歌舞伎芝居として描かれているのは、寛永6年(1629)に禁止された女歌舞伎に代わって台頭してきた若衆歌舞伎である。しかし、承応元年(1652)には若衆歌舞伎も禁止されてしまう。その後、野郎歌舞伎として興業が許される事にはなるのだが、当時はまだ悪い印象の方が多かったらしく、「江戸名所記」でも、歌舞伎に対し批判的な記述になっている。寛文の頃、上方で職を失った歌舞伎役者などが江戸に移り住むようになるが、「江戸名所記」では、そのような人物として、大坂(?)庄左衛門、小舞庄左衛門、杵屋勘兵衛、又九郎(坂東又九郎)、千之丞(玉川千之丞)の名をあげている。

 「江戸名所図会」では、堺町の中村座と葦屋町の市村座が競い合っている様子を挿絵に取り上げている。やがて、天保の改革。芝居小屋は浅草に移転を命ぜられ、堺町と葦屋町から芝居小屋が姿を消すことになる。歌舞伎は、移転先の浅草猿若町で盛況をみせることになるが、明治になると、他への移動を政府から命ぜられる。その後、江戸時代からの芝居小屋は相次いで廃座に追い込まれ、明治時代に創設された歌舞伎座のみが生き残る。現在、歌舞伎と言えば、歌舞伎座ということになるが、今は工事中である。一方、ゆかりの地である浅草の隅田川の畔には、平成中村座が仮設され、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を今に伝えている。


4.6 西本願寺

 「江戸名所記」は、本願寺が東と西に分かれてからというもの、宗風も作法も同じであるのに、対立を続けている事態に苦言を呈し、末寺の坊主などは、東から西に、西から東にと宗派を変えるので、明星房という異名がついていると記している。西本願寺はもと浅草御門のうち(横山町)にあったが、明暦の大火の後、鉄砲洲に移っている。「江戸名所記」は、海に突き出した土地で、初めは寂しい場所であったが、江戸が繁盛するにつれ人家が続くようになり、絶景の地になったと書き、また、本堂は海に向かって建てられていて、安房や上総、伊豆の大島、富士が見えるとし記している。伊豆大島は、見えたとしても山頂が見える程度であったろうが、それはそれとして、当時の西本願寺は海に近く、景勝の地であったのは確かだろう。

 「江戸名所図会」の挿絵から、江戸時代後期の西本願寺には、多くの参詣客が訪れていた事が分かる。その後、西本願寺は関東大震災の際に焼失。昭和に入ってから、インド様式で再建される。西本願寺は、現在、築地本願寺に改称している。


4.7 増上寺

 三縁山増上寺の開山、大蓮社酉誉聖聡上人について、「江戸名所記」は、次のような話を記している。酉誉上人が江戸の貝塚(千代田区平河町)にあった光明寺に居住していた時のこと、光明寺内で経文の解釈をめぐり議論があった。これを聞いていた托鉢僧が、にっこり笑って帰っていったので、酉誉上人はその後を追い、その訳を尋ねた。その托鉢僧・聖冏和尚がその理由を答え、それから、互いに問答するうちに、酉誉上人は深い感銘を受け、それまでの真言宗を捨てて浄土宗に変え、寺の名も三縁山増上寺と改称して、聖冏和尚の弟子になったという。時が移り、江戸に家康が入府した時、増上寺の和尚であった源誉上人に家康が帰依するという事があった。その後、増上寺は現在地(港区芝公園4)に移り、徳川家の菩提寺となり、また学問寺となる。「江戸名所記」は、増上寺について、寺の後ろに将軍家の御霊屋があり、その後は山になっていること。前には僧の寮があり、山門が高く聳えていること。門の外は東海道で上り下りの往来する人で市のようになっていること。東方には海上に舟が行き交う様が眼下に見え絶景であることを記している。

 「江戸名所記」には増上寺内の五重塔についての記述は無いが、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には五重塔が描かれているので、寛永の頃から五重塔が存在していた可能性がある。五重塔は承応年中(1652-)に建てられたほか、文化年中(1804-)にも再建されているが、戦災で焼失して現在は無い。増上寺の建造物の多くは戦災などで焼失したが、三解脱門、経蔵、黒門は現存している。

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江戸名所記見て歩き(5)

2012-09-08 18:01:44 | 江戸名所記
<巻3>

3.1 神田 天沢寺
 寛文11年(1671)頃の「新板江戸大絵図」の上で、不忍池から湯島天神の裏手を通る道(現在の春日通り)を西に向かうと、右手に天沢寺がある。天沢寺は、寛永元年(1624)頃、春日の局の隠棲所として現在地(文京区湯島4)に建てられており、寛永11年(1634)には、改称して麟祥院となっている。「江戸名所記」によると、万治元年(1658)、隠元禅師が江戸に来た時は、この寺に70余日の間逗留したが、貴賎を問わず僧も俗人も参拝に訪れて市のようになったという。春日の局は寛永20年(1643)に没したが、家光は忌日に無遮の大会を開いて供養し、一周忌に稲葉美濃守が一切経を寄進したという。

 天保の頃に刊行された「江戸名所図会」によると、家光が命じて生前の春日の局を写させた像が影堂に置かれており、忌日には参詣を許していたという(画像は現存している)。なお、明治20年には、井上円了が、麟祥院内に東洋大学の前身となる哲学館を開設している。


3.2 浅草町・西福寺


 東光山良雲院松平西福寺と称し、松平の呼称は家康から与えられたという。「新板江戸大絵図」で、東本願寺の西側を流れている新堀川沿いに南に行く(現在の道では、浅草通りの菊屋橋交差点から新堀通りを南に行く)と、東側にあるのが西福寺である。開山は心蓮社貞誉(真蓮社貞誉)上人であり、「江戸名所記」では、西福寺は、もと駿府にあったが後に江戸に移ったとする。「江戸名所図会」では、もと三河にあり、後に江戸駿河台に移り、寛永15年(1638)に現在地に移ったとする。本尊は安阿弥作の弥陀如来で、鎮守として弁財天(江の島の弁財天)を祭っていた。「江戸名所記」の挿絵には、屋根付きの鐘楼が描かれているが、実は屋根が無かったようで、鐘の竜頭に藤が巻きついていたと記している。

 新堀通りから東に少し入ったところに精華公園があるが、その近くに現在の西福寺がある(台東区蔵前4)。江戸時代に比べると、敷地はかなり縮小されている。

3.3 森田町・大六天

 「新板江戸大絵図」では、大六天の位置は判然としないが、「元禄江戸図」では、西福寺の南側に大六天が記載されている。西福寺から東に行き、浅草御蔵の前を通る奥州街道(現在の江戸通り)に出て南に折れると、右側に森田町(台東区蔵前4)がある。大六天はここから入った。「江戸名所記」は大六天について、古老の言い伝えでは開基以来800年に及ぶとし、2月9日が神事であると記している。また、縁起は分からないとしながらも、大六天はマケイシュラ王の尊像だろうとし、欲界第六の他化自在天の主としている。仏教では世界を欲界・色界・無色界に分け、欲界の天を六つに分けるが、欲界の最上位の天である他化自在天の主(大六天魔王)に対する、民間信仰に由来すると思われる。

 大六天は鳥越神社の境内社であったが、正保2年(1645)頃に森田町に移っている。さらに、享保4年(1719)頃、火災により浅草橋近く(台東区柳橋1)に移る。「江戸名所記」から170年ほど後の「江戸名所図会」は浅草橋近くに移った後の社を、第六天神社として取り上げるが、祭神は、神代七代のうち六代目にあたる男神・面足尊(オモタルノミコト)と女神・惶根尊(カシコネノミコト)に代わっており、祭礼も6月5日になっていた。

 明治6年、この神社は榊神社に改称する。祭神は面足尊と惶根尊である。昭和3年には、江戸時代の浅草御蔵の跡地である現在地(台東区蔵前1)に移転する。江戸通りの須賀橋交番交差点を東に入ったところに、現在の榊神社がある。

3.4 浅草・閻魔堂、付 十王

 「新板江戸大絵図」で、奥州街道(現在の江戸通り)を南に行き、新堀川と合流した鳥越川の下流を鳥越橋で渡ると、その先の右側に閻魔堂があり、その隣に十王堂がある。「江戸名所記」は、本堂は宝形造りで、本尊は閻魔大王、左に地蔵、右に三途の川の老婆があり、本堂の左側に不動堂があると記している。「江戸名所記」の作者・浅井了意は、いつ頃に誰が建てたのか、寺の留守居に聞いたようだが、相手は知らん顔をきめこんでいた。了意は趣旨を話して重ねて尋ねたらしいのだが、無作法な返事しか返ってこなかったため、よほど腹にすえかねたのか、非難の文言を書き連ねている。結局、「江戸名所記」には、閻魔堂ばかりか、隣の十王堂の縁起についても書かれない事になった。

 「江戸名所図会」によると、閻魔を本尊とする長延寺は慈覚大師の草創で、昔は下野国にあったが、文永年中に武蔵国に移されたとし、霞が関から馬喰町に移り、後に今の地に移ったという説を紹介している。また、閻魔堂の隣にある祇園社について、この社の牛頭天王は天歴年中の鎮座で、別当は大円寺とし、境内の十王堂は慶長18年の建立で、地蔵菩薩の左右に冥途の十王を安置していると記している。

 閻魔を本尊とする長延寺は、後に華徳院と改称している。閻魔堂は他の堂宇とともに関東大震災で焼失し、今は閻魔堂跡の碑(台東区浅草橋2)が残るのみである。また、華徳院は新高円寺駅近くの五日市街道沿い(杉並区松ノ木3)に移転している。閻魔堂の隣の牛頭天王社(祇園社)は、須賀神社と改称して今に残るが(台東区浅草橋2)、十王堂は現存しない。現在の須賀神社は、須賀橋交番の交差点から江戸通りを南に行ったところにある。


3.5 浅草駒形堂

 「江戸名所記」は駒形堂について次のように書いている。駒形堂は浅草寺の門口にあり(総門があったと伝える)、馬頭観音を安置している。平公雅の建立である。人々はここで手水をとり口をすすぎ、心身を清めて浅草寺本堂を参拝する。駒形堂は、浅草川(隅田川)の船着き場で、吉原に行く者もここで船に乗る。駒形堂の前には茶屋がある。ここの名物は鯉で、その味は淀川の鯉に勝るという。鯉は川端で売っている。

 17世紀の「江戸名所記」の挿絵では、駒形堂は東向きで隅田川に面しているが、18世紀の「隅田川風物図巻」では、隅田川を背にした西向きになっている。19世紀の「江戸名所図会」の挿絵では南向きのようにも見えるが、現在の駒形堂は、西向きになっており、駒形橋の傍らにある。


3.6 浅草・文殊院

 文殊院は慶長5年(1600)駿府に開創。寛永4年(1627)浅草に移る。「新板江戸大絵図」で、駒形堂から南に行くと、右側に文殊院が記されている。文殊院について、「江戸名所記」は、高野山行人方の頭(触頭)で、堂は東向き、本尊は不動明王と記している。また、この寺には何故か公事訴訟が絶えないという事についても取り上げている。近世の高野山は学問を修める学侶方、寺の雑務を行う行人方、布教活動を行う聖の三派間でしばしば対立し、公事訴訟にまで発展する事があった。

 延宝元年(1673)、高野山学侶方の江戸在番所として芝二本榎に正覚院が建てられる。一方、文殊院は学侶方との論争に敗れて寺領を没収され、跡地には学侶方の寺を別当として石清水八幡が勧請される。元禄9年(1696)、文殊院は行人方江戸在番所として白金台に再興する。天保の頃の刊行である「江戸名所図会」に文殊院の記事は無いが、挿絵には正覚院と文殊院の両方が載せられている。現在、正覚院は高野山東京別院(港区高輪3)として残り、石清水八幡は蔵前神社(台東区蔵前3)として残っている。

 一方、文殊院は、大正9年に、現在地(杉並区和泉4)に移転している。最寄駅は地下鉄の方南町になるが、神田川に近い住宅地にあり、道は少し分かりにくい。

  
3.7 角田川

 角田川(隅田川)は、江戸時代の初期まで武蔵と下総の境であったので、「江戸名所記」でも、隅田川の東岸を下総の名所として取り上げ、隅田川について詠んだ歌を幾つか紹介している。在原業平の「伊勢物語」に、“名にし負はば・・・”と詠まれ都鳥は、“白き鳥の嘴と脚の赤き、鴨の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ”と書かれているので、カモメ類のユリカモメを指していると考えられる。「江戸名所記」では、都鳥について、隅田川に限らずどこにでも居る鳥で、美しい鳥なので籠に入れて飼うと記している。また、蛤を餌にすると書いているので、ミヤコドリ類のミヤコドリを指しているのかも知れない。「江戸名所記」は、岸近くの梅若丸の墓(木母寺)も取り上げており、印の木は柳で、縁日は3月15日と記し、この寺に詣でた人々は、昔の事を聞き伝えて、みな哀れを催し、歌を詠み詩を作ると記している。また、付近は一興ある景地で、茶屋もあり、将軍家も折々遊覧すると書き、五智如来を造って寺の本堂に置いているとしている。
 
  木母寺は明治になって廃寺となるが、明治21年に再興する。昭和51年、防災団地の建設により現在の場所(墨田区堤通2・東白髭公園内)に移動している。最寄駅は東武伊勢崎線の鐘ヶ淵である。


3.8 西葛西・浄光寺薬師

 浄光寺薬師とは、当時、西葛西・木下川村にあった青竜山浄光寺薬王院の事である。「江戸名所記」によると、慈覚大師が青竜の棲む霊地としてこの地に仏殿を建てたのが浄光寺の始まりで、本尊は伝教大師作の薬師医王像であった。また、本堂は東向きで、東北に鐘楼があり、東方に山王権現が鎮座。東南方には弁財天、南方に白髭明神と稲荷があったとし、家康から朱印の田地を寄付されたとしている。

 「江戸名所記」には、浄光寺(木下川薬師)で毎月8日と正月に竜燈をあげると書かれているが、170年ほど後の「江戸名所図会」によると、この習わしは途絶えていたという。なお、同書では、木下をキゲと読んでいるが、地元ではキネと呼んでいたと記している(現在はキネ)。

 大正8年、木下川薬師・浄光寺は、荒川放水路工事に伴い、現在地(葛飾区東四つ木1)に移転している。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。

3.9 葛西郡・東照院若宮八幡

 「江戸名所記」によると、源頼朝が奥州征伐の途中、若宮八幡宮に立ち寄って戦勝祈願を行った際、榎のむちを地に差したが、これから生じた榎の木が今も残っているとし、鎧の裾を濡らさないよう竹林は低くなっているとしている。また、奥州征伐を終えて戻った源頼朝が建立した社殿も、長い年月の間に朽ちかけていたため、伊奈備前守が再興したと記している。なお、別当をつとめていた東照院は、後に善福院に改称している。

 170年ほど後の「江戸名所図会」によると、榎のむちから生じた木は既に枯れ、古松老杉も繁るにまかせ、もの寂しい境内になっていたという。

 大正元年、荒川放水路の工事により、若宮八幡の別当であった善福院は、現在地(葛飾区四つ木3)に移転する。若宮八幡は、この頃、隅田川神社(台東区堤通2・東白髭公園内)に合祀されたと思われる。隅田川神社は木母寺の近くにある。

 昭和7年、善福院の移転した地域が本田若宮町として独立するが、恐らく、地名の由来となった若宮八幡を再興しようとする動きが出てきたと思われる。昭和4年頃の地図には、当該地域に神社記号は見られないが、昭和12年の地図には、現在の若宮八幡(葛飾区四つ木3)に相当する位置に神社記号が見られる。神社の石標からすると、若宮八幡は昭和11年に建立されたと考えられる。ただし、昭和54年の「葛飾区神社調査報告」に当社の記載はない。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。


3.10 東葛西・善導寺

 「江戸名所記」に善導寺とあるのは善通寺のことである。同書によると、当寺には中将姫が織ったという弥陀の形像が一幅あり、地は蓮の糸で、如来は中将姫の黒髪で織ったと伝えられていたという。また、中将姫の忌日にあたる4月15日には、人々に拝ませていたと記している。むかし、泥棒がこれを盗んで逃げたが、外に出ることが出来ずに立ちすくんでいたため、取り返したという話も書かれている。なお、中将姫は、奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を織ったという伝説上の女性だが、この伝説が各地に流布する過程で、種々の伝承が生み出されたと思われる。

 善通寺は、大正時代の荒川放水路工事のため、現在地(江戸川区平井1)に移転している。最寄駅は総武線の平井駅である。


3.11 牛島・業平塚

 「伊勢物語」には在原業平が東下りした話が載っているが、「江戸名所記」は、この事を取り上げて、「伊勢物語」には、東国から京に上がったという記述は無く、どこで死んだかも書かれていないとしている。その一方で、都に上がるために乗った舟が破損して在原業平が亡くなったため塚に埋めたという古老の話を紹介し、今も舟の形の塚が残っており、地名も業平村であると書いている。「江戸名所記」の挿絵に、田畑の中に描かれている塚のようなものが業平塚ということのようである。「新板江戸大絵図」で、横川(大横川)に架かる業平橋の西側にナリヒラ天神とあり、業平塚はその敷地内にあったと思われる。 

 「江戸名所図会」では、地名について、成平とする説や業衡とする説も紹介し、業平天神の由緒については諸説あって分からないとしている。また、在原業平の事は、「伊勢物語」を単なる物語とも知らずに、こじ付けたのではないかと書いている。

 「伊勢物語」は、在原業平の歌をもとにした物語で、業平の実像とは異なるという。東下りの話もフィクションという事になるだろうか。業平塚があった業平天神は南蔵院の境内にあったが、南蔵院が移転した際に廃止されている。いま、その跡地(墨田区吾妻橋3)に業平塚はない。現在の南蔵院(葛飾区東水元2)は、水元公園近くにある。最寄駅は常磐線の金町である。

3.12 西葛西・本所太神宮

 「江戸名所記」には次のような話が書かれている。寿永年中(1182-4)のことだが、本所の人々は、空をかけて飛ぶ伊勢大神宮の夢を見た。光輝く空のうちに、法華経寿量品を唱える声がし、我は伊勢の神明なりという声も聞こえた。誰もが同じ夢を見たので、不思議に思い伊勢大神宮を勧請した。

 「新板江戸大絵図」や「元禄江戸図」で、神明と記されているのが本所大神宮に相当すると思われる。「江戸名所図会」では牛島神明宮として取り上げているが、後に朝日神明とも称していたようである。現在は、旧地(墨田区東駒形2)から西に少し移動するとともに(隅田区東駒形1)、船江神社と改称している。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.13 牛島・太子堂

 「江戸名所記」は、西葛西の牛島・中の郷にある太子堂について、慈覚大師が関東修行の時に建てた堂であり、聖徳太子自作の太子像を安置していると記している。また、堂のほとりに光り物が出るので掘ったところ文明2年の石塔を発掘したこと、天文の頃に火災にあったが太子の木像が堂の外に出て無事だったので堂を建てて安置したことが書かれている。ただ、事のほか荒れているのが悲しいとも書かれているので、寛文の頃には、かなり衰退していたらしい。「新板江戸大絵図」には、太子堂の別当であった如意輪寺は記載されているが、太子堂自体は記されていない。

 「元禄江戸図」には、如意輪寺と太子堂が記載されている。また、「江戸名所図会」には牛島太子堂として取り上げられており、その挿絵には、如意輪寺内に太子堂と鳥居が描かれている。現在、如意輪寺は存在しているが(墨田区吾妻橋1)、太子堂はすでに無い。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.14 深川・泉養寺、付 神明

 「江戸名所記」には、医王山泉養寺は天台宗で薬師如来を本尊とし、慶長年中に秀順法印を開山として草創されたと記されている。また、寺から4町ばかり離れた松林の中の神明社は当寺の境内であり、祭礼は9月13日であるとしている。「新板江戸大絵図」に泉養寺の記載はないが、「元禄江戸図」には小名木川沿いに泉養寺が記されており、その北側に神明も記されている。寛文2年刊行の「江戸名所記」に取り上げられているのは、小名木川沿いの旧地(江東区常盤2)にあった頃の泉養寺である。

 元禄年間になって、泉養寺は猿江に移る。この時、神明社は移らなかったが、泉養寺が別当を引き続きつとめている。泉養寺の移転先は、天明元年の「本所深川割絵図」に、幕府の御木材蔵(跡地は現・猿江恩賜公園)の南側(江東区猿江2)に記されている。天保の刊行の「江戸名所図会」によると、猿江に移った後の泉養寺の池には、牡丹の形の蓮の花があり、開花期には訪れる人が少なくなかったという。同書には、この辺が原野だった頃から居住していた深川八郎右衛門が、その宅地内に伊勢神宮を勧請し、泉養寺開山の秀順法印に奉祀させたこと、および、徳川家康から、苗字の深川を地名に当てるよう命ぜられた事が記されている。

 現在、神明社は深川神明宮として深川発祥の地(江東区森下1)に祭られている。最寄駅は地下鉄森下駅である。泉養寺は昭和に入ってから、現在地(市川市国府台3)に移転している。寺紋は深川家の家紋である“いも洗い”を使用しているという。最寄駅は北総線矢切駅である。

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