夢七雑録

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冬の隅田川橋めぐり(3)

2019-01-29 19:08:51 | 緑と水辺の散歩道

千住大橋から先は、隅田川沿いに歩くことには拘らずに橋をめぐる。千住大橋駅を北側に出て線路に沿って西に向かい、千住スポーツ公園を通って北に真っすぐ進むと千住桜木町公園に出る。隅田川は公園のそばにあり、この辺りから尾竹橋までは隅田川テラスを歩けるようになっている。上流に見える尾竹橋は、震災復興として架けられたのが始まりで、その後、老朽化により架けかえられたのが現在の橋である。橋の名は下流にあった御竹の渡しに由来しているのだろう。テラスから上がり、火力発電所のお化け煙突のモニュメントを見たあと、尾竹橋に向かう。

【尾竹橋(おたけばし)諸元】

橋長130.3m。幅員15.0m。3径間連続鋼ローゼ桁橋。1933(昭和8年)創架。1994(平成6年)現橋建造。東京都管理。

 

尾竹橋を渡ると公園がある。ここを右に行き、隅田川から離れた道を西に向かう。道がやや上りになると尾久の原公園に出る。この先しばらくは、隅田川の堤防上の道を歩く。前方には日暮里舎人ライナーの橋が見えて来るが、その下に見えるのが尾久橋になる。

【尾久橋(おぐばし)諸元】

橋長306.0m。幅員24.0m。3径間連続鋼床版箱桁橋。上流側1968(昭和43年)創架、下流側1979(昭和54年)創架。東京都管理。

 

日暮里舎人ライナーと尾久橋の下をくぐり、隅田川から離れて、道を西に向かう。宝蔵院を過ぎるとすぐ右手に小台橋がある。通りを渡り上流側から橋を眺める。隅田川テラスには下りられるが、歩けるのは途中までのようだ。

【小台橋(おだいばし)諸元】

橋長118.2m。幅員13.8m。鋼ニールセンローゼ桁橋。1930(昭和5年)創架。1995(平成7年)現橋建造。東京都管理。

 

小台橋から休園中のあらかわ遊園に出てその前を通り過ぎ、先へ先へと歩いて堀船中学校入口の交差点を右に行く。高速道路の下をくぐり、石神井川を豊石橋で渡ってその先を右に入り、道なりに進めば豊島五丁目団地の前に出る。団地側の東豊島公園を通り、隅田川の上流側から豊島橋を眺める。ところで、北区と足立区の境界線は豊島五丁目団地の辺りで東側の荒川まで伸びているが、荒川放水路が開削される以前は、この境界線が隅田川の流路になっていて、現在の荒川の位置には豊島の渡しがあった。荒川放水路開削後、隅田川は今の流路に変更され、現在の豊島橋より上流に、最初の豊島橋が木橋として架けられる。昭和35年になって現在位置に豊島橋が鋼橋として架けられるが、その後、架け替えられたのが現在の豊島橋ということになる。

【豊島橋(としまばし)諸元】

橋長106.7m。幅員15.0m。鋼ローゼ桁橋。1925(大正14年)創架。2002(平成14年)現橋築造。東京都管理。

 

豊島五丁目団地の前を西に行き、新豊橋南の交差点を右に行くと新豊橋に出る。橋を渡ると左側に新田さくら公園がある。公園の前の堤防上から新豊橋を眺める。この橋は新田地区と豊島地区を結ぶ橋であり、橋の名もそこからきているらしい。

【新豊橋(しんとよばし)諸元】

橋長105.0m。幅員22.0m。鋼単純箱桁とアーチとの複合構造。2007(平成19年)創架。足立区管理。

 

堤防上の道を上流に向かうと新田橋が見えて来る。隅田川に沿って進み、新田橋に出て橋を渡る。木橋だった頃を模した橋桁や高欄など見どころもある橋なのだが、難点もあるようで架け替えも検討されているらしい。

【新田橋(しんでんばし)の諸元】

橋長114.0m。幅員9.0m。単純鋼鈑桁橋(5連)。1931(昭和6年)創架。1961(昭和36年)現橋建造。北区管理。

 

新田橋を渡って次の信号を右に行く。隅田川とは暫く離れて歩くことになるが、神谷堀公園まで来れば、右に入って隅田川の堤防に出られる。ここからは、環七が通る新神谷橋を望む事が出来るが、残念ながら今は、上流と下流の何れも隅田川テラスを通る事が出来ない。荒川から隅田川が分れる岩淵水門と新神谷橋との間には橋が無いので、新神谷橋が隅田川最上流の橋という事になる。そこで今回は、これにて橋めぐりを終えることにし、最寄り駅の南北線王子神谷駅まで歩く。隅田川テラスを伝って岩淵水門から河口まで歩けるようになったら、また歩いてみたいと思いながら。

【新神谷橋(しんかみやばし)の諸元】

橋長202.8m。幅員20.5m。鋼ゲルバー鈑桁橋。1967(昭和42年)創架。東京都管理。

 

(注)橋の諸元は、「隅田川にかかる26の橋(平成29年3月)」による。

 

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冬の隅田川橋めぐり(2)

2019-01-26 18:28:23 | 緑と水辺の散歩道

東武鉄道の下をくぐりスカイツリーを眺めながら先に進むと、昭和3年に架けられた言問橋に出る。この橋は都の歴史的建造物に指定されている。言問橋は橋桁によって支えられる桁橋だが、眺望と景観を考慮しての設計とされ、橋を西側から見るとスカイツリーが正面に見えるので、絶好の撮影ポイントになっている。橋の名は、“名にし負はばいざこととわむ都鳥・・・”という歌に由来する。「伊勢物語」には、武蔵と下総の境の隅田川を舟で渡った時にこの歌が詠まれたとあるが、位置的にはこの橋よりもう少し上流のようである。

言問橋から先に進むと昭和60年に架けられた桜橋という歩行者専用橋に出る。両岸の隅田公園を結ぶX字型の橋で、橋の上には円錐形のモニュメントも設置されている。今の時期、この辺りにはユリカモメが多く見られる。「伊勢物語」に書かれている都鳥の特徴からすると、都鳥はミヤコドリ科のミヤコドリではなく、カモメ科のユリカモメと考えられている。そして今では、ミヤコドリではないユリカモメが都民の鳥に選ばれている。

隅田川を先に進むと白鬚橋に出る。橋の名は東側にある白鬚神社に由来する。大正3年、橋場の渡しの場所に有料の木橋が架けられたのが、この橋の始まりで、昭和6年になると現在の橋が架けられる。千住大橋が架けられる以前、橋場の渡しは奥州街道や水戸街道、佐倉街道の街道筋でもあった。白鬚橋は永代橋に似た鋼橋で、都の歴史的建造物にも指定されており、長寿命化工事も行われたようである。ところで、武蔵国府と下総国府を結ぶ古代の支道は、この辺りで隅田川を渡っていたと考えられている。武蔵国が東山道から東海道に所属変更されると、この支道が東海道に格上げされる。その後、東海道は武蔵国府をバイパスするルートに変更されるが、位置は多少変わったにせよ、この辺りで隅田川を渡っていたのだろう。都鳥に言問う場所は、この辺りにあった渡し場だったと思われる。

白髭橋を渡って、水神社が改称した隅田川神社に寄り、梅若伝説の木母寺を経て、水神大橋を渡る。平成元年に架けられた橋で、当初は歩行者専用橋であったが、平成8年に自動車道路併用となる。橋の名は水神社に由来している。

平成18年に開園した汐入公園に入り隅田川に沿って進むと、平成18年に架けられた千住汐入大橋に出る。橋の名は、紡績会社の通勤用として明治時代に始まった汐入の渡しに由来する。

常磐線をくぐって隅田川から離れて進み、日光街道の通る千住大橋に出る。千住大橋が最初に架けられたのは文禄3年で今より上流だったという。現在、千住大橋は下りとして利用される昭和2年架設の上流側の橋(写真)と、上りとして利用される昭和48年架設の下流側の橋から構成されている。上流側の橋を渡って先に進めば千住大橋駅に出る。

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冬の隅田川橋めぐり(1)

2019-01-19 16:44:16 | 緑と水辺の散歩道

隅田川はもともと荒川の下流であったが、昭和5年に洪水対策として荒川放水路が完成したことから、岩淵水門から下流が隅田川となっている。今回は、平成31年冬の隅田川の橋の姿を、船も利用して見て回ることにした。

勝鬨橋を渡って左岸を歩く。下流に見えるのは築地大橋で、豊洲~築地の環二通りが暫定開通したことに伴い平成30年11月4日に開通している。隅田川では最も新しい橋で、勝鬨橋より下流に位置しているため、隅田川では最下流の橋になる。なお、写真では分かりにくいが橋の向こうには東京タワーが見えている。築地大橋は橋長245.0m、幅員47.9m、歩道は橋の中間でカーブしており車道との間が空いている。車道の上部には横の繋ぎ材が無く開放的で、勝鬨橋が重厚な橋だとすれば築地大橋は軽快な橋に見える。

築地大橋を渡って浜離宮に行き散策したあと船に乗る。浜離宮や築地市場跡を眺めながら上流へと向かうと勝鬨橋に出る。勝鬨橋は昭和15年竣工の鋼製跳開橋で、近代可動橋の技術的到達点を示すものとして重要文化財に指定されている。この橋が開くところを見てみたい気もするが難しいのかも知れない。

次の橋は佃島に渡る佃大橋で、昭和39年に架けられている。写真は上流側から見た佃大橋である。隅田川は佃島で東と西に分かれて流れ海に注いでいるが、佃大橋はその西側に架けられた橋になる。一方、東側にも佃島に渡る相生橋(明治36年創架、平成12年現橋建造)があり、相生橋も隅田川に架けられた橋ではあるのだが、今回は通らない。

先に進むと中央大橋が見えてくる。塔からケーブルを張って支える斜張橋で、設計はフランスの会社に依頼したという。塔は兜の意匠らしい。開通は平成6年。隅田川には実用的な橋が多いが、この橋は都市景観としてのデザインに配慮した橋になっている。

中央大橋をくぐって先に進むと、スカイツリーとともに永代橋が見えてくる。永代橋が最初に架けられたのは元禄11年で、現在地より北の日本橋川のそばにあり、その場所は当時の河口に位置していた。明治30年、永代橋は下流の現在地に場所を移して鋼鉄製の橋として架けられたが、橋板などに木材を使用していたため関東大震災により被災し、大正15年に架けかえられた。これが現存する永代橋で、当時の技術的達成度を示す遺構として重要文化財に指定されている。現在は、塗装や舗装その他、長寿命化の工事が行われているので、本来の姿を見ることは出来ない。

永代橋をくぐると、その先に隅田川大橋がある。架けられたのは昭和54年で、上段を高速道路の高架橋部分とした二層式の橋である。

次の橋は清洲橋で写真は上流から見たものである。清洲橋が架けられたのは昭和3年で、当時の最新の材料・構造・工法を駆使した昭和初期を代表する吊橋として重要文化財に指定されている。現在は長寿命化の工事が行われている。

清洲橋の次は新大橋で写真は上流から見たものである。新大橋は斜張橋で塔はオレンジ色になっている。新大橋が最初に架けられたのは元禄6年。近くの両国橋が大橋と呼ばれていたため、新大橋という名になったという。明治18年には洋式の木橋となるが、明治45年になると、やや上流の現在位置に鉄橋として架けかえられる。この橋は関東大震災でも無事であったが、昭和52年には現在の橋に架けかえられ、旧橋は明治村に移されている。

高速道路の下をくぐると両国橋が見えてくる。写真は上流側から見た両国橋である。明暦の大火の時、隅田川には千住大橋以外に橋が架けられていなかったため逃げることが出来ずに多くの犠牲者を出した。このことから、両国橋が架けられることになったという。その時期は万治2年あるいは寛文元年という。明治37年には鉄橋となるが、昭和7年になってやや上流に架けかえられる。これが現在の両国橋で、都の歴史的建造物に指定されている。

写真は上流から見た蔵前橋で、現在は長寿命化工事中だが橋の形は分かる。蔵前橋は幕府の米蔵があったところで、橋が黄色なのは稲のもみ殻からの連想らしい。蔵前橋は昭和2年の架橋で、都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た厩橋で、現在は長寿命化工事中である。明治7年に木橋が架けられたのが厩橋の始まりで、明治26年に鉄橋となるが関東大震災で被災し、昭和4年に現在の橋が架けられる。厩橋は都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た駒形橋で、長寿命化工事中である。昭和2年の架橋で、都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た吾妻橋で、浅草寺が近いためかベンガラ色に塗られている。吾妻橋は安永3年に架けられたことに始まる。江戸時代、隅田川に架けられた橋を年代順に並べると、千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の順となり、吾妻橋が江戸時代最後の橋になる。吾妻橋は明治9年に洋風の木橋に架けかえられ、明治20年には鉄橋となるが関東大震災で被災したため、昭和6年に架けかえられ現在に至っている。吾妻橋は都の歴史的建造物になっている。吾妻橋をくぐると間もなく浅草の桟橋で、ここで下船する。

 

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