夢七雑録

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鈴木信太郎記念館と山崎家住宅

2018-10-31 19:13:54 | 東京の文化財

文化財ウイークが始まったのを機に、今まで入ったことのない、鈴木信太郎記念館と山崎家住宅主屋に行ってみた。

 (1)鈴木信太郎記念館(旧鈴木家住宅)

地下鉄丸ノ内線の新大塚駅で下車し、春日通りの交差点から南西方向に入って次の角を右に折れる。細い道を進んで行くと、右側に鈴木信太郎記念館(豊島区東池袋5-52-3)がある。この記念館は、日本のフランス文学の草分けであった東大名誉教授の鈴木信太郎の旧宅で、寄贈を受けた豊島区が調査を行って2012年に豊島区有形文化財(建造物)に指定、その後、改修整備を行って、2018年3月から鈴木信太郎記念館として公開している。入場無料で、休館日は月曜、第三日曜、祝日、年末年始ほか。

石段を上がると南向きの明るい庭がある。正面は玄関のある茶の間・ホール棟、その右側は書斎棟で、左側には座敷棟がある。鈴木家が神田佐久間町から当地に引っ越して来たのは1918年で、180坪ほどの土地に東西2棟の住宅が建っていたという。1921年には西側の住宅を取り壊して木造2階建て中廊下型建物を建てたが空襲で焼失。現在の座敷棟は、春日部にあった鈴木家の実家の書院部分を、戦後の1948年に移設したものである。

右側の書斎棟は蔵書を火災から守ることを目的に、1928年に建てた鉄筋コンクリートの耐火建築で、1931年に増築した鉄骨造の2階部分は戦災で焼失したが、1階部分は焼失を免れた。なお、1956年には2階部分を再増築している。

玄関を入るとホール内に鈴木信太郎教授の写真が待ち受けている。茶の間・ホール棟は終戦の翌年に建てられた15坪の建物で、玄関ホールと六畳茶の間、台所、便所、浴室が設けられていた。当時は下塗りの荒壁と下地のままの天井と床だったが、1956年に仕上げられている。玄関ホールには書斎棟2階に上がる階段があり、書斎棟との間には鉄製の扉がある。

座敷棟は桟瓦葺き切妻屋根の木造平屋建てで、違い棚と床の間のある8畳の書院座敷と、6畳の次の間があり、南側には掃き出し窓のある縁側を設けている。ほかに台所や便所があり、移築の際に茶の間ホール棟との間に内玄関が設けられている。座敷棟は大地主であった鈴木家が明治20年代に建てた書院造りによる近代和風建築である。

書斎棟の北側は廊下で、天井までの造り付け書棚が並んでいて、梯子が架けられている。書斎棟の北東側は蔵になっている。

書斎の窓はスチールサッシで鉄製のシャッター付、書斎への出入り口は鉄製の扉になっている。書斎の窓の上部には鈴木信太郎がデザインしたステンドグラスが5枚並んでいる。書斎内部には机と椅子、マントルピース、そして天井までの書棚が並んでいる。

 

(2)山崎家住宅主屋

鈴木信太郎記念館から春日通りに出て、書斎棟が建てられた頃に開園した大塚公園に立ち寄る。春日通りを進み不忍通りを横断する。お茶の水女子大を過ぎて、湯立坂への道に入り、重要文化財の旧磯野家住宅・通称銅御殿の門の前を右に行き、次の角を左折さらにその先を左に行くと、国登録有形文化財(建造物)の山崎家住宅主屋(文京区小石川5-19-29)が見えてくる。

山崎家住宅は、日本における地理学の開祖という東大教授山崎直方の住宅で、1917年の竣工という。通常は非公開だが、文化財ウイークの期間、日時をきめて特別公開されている。山崎家住宅は和式住宅の大半が取り壊されてしまったというが、2階建ての洋館と平屋の和式住宅の一部が現存している。

現在は東側が門になっているが、本来は西側が入口で、湯立坂の側から道が上がってきていたという。写真は玄関付近から洋館の2階を見上げたものである。洋館は応接室、執務室、書庫、客室からなる。

玄関は和風の意匠に加えて開き戸など洋風の意匠もあり、玄関の上部にはステンドグラスがはめ込まれている。玄関を入って、造り付け本棚が目を引く右手の部屋で説明を聞く。室内はまだ整理がされていないようで、建物にも補修の必要な部分があるらしい。

廊下の先にある和式住宅の座敷を見てから、玄関近くの階段で2階に上がる。階段の踊り場には見事なステンドグラスがある。

玄関の真上は喫煙室になっていてベンチも備えられている。ベランダ側にはステンドグラスがあり、天井にはイスラム風の飾りがある。周辺の建物は戦火で多くが焼失したというが、この建物は焼失を免れ、大正期の和様折衷の住宅建築の姿を今に残している。

 

 

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