夢七雑録

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高幡不動の紫陽花を見に行く

2019-06-23 08:21:18 | 寺社巡拝

あじさいまつりの期間中、高幡不動(高幡山金剛寺)に紫陽花を見に行った。不動堂を参拝したあと、早速、境内略地図を入手。この図によると、紫陽花を見る道は3ルートある。最初に、一番短い“あじさいのみち”を歩いてみた。

高幡不動には、250種7500株の紫陽花があるという。五重塔の近くにも紫陽花の群落があるが、種の識別など出来そうにない。

“あじさいのみち”を歩いて行くと九輪塔があった。中世の九輪塔を寄贈された金剛寺が、日野に領地があった山内経之の供養塔として、この地に移設したものという。

山内経之は山内首藤の支族で、常陸合戦で討ち死にしたため、陣中から家族や金剛寺の僧に宛てた書状を集め、供養のため不動明王像の中に納めるということがあったらしい。この書状は、当時の東国武士の実態を伝えるものとして価値が高いことから、「高幡不動本尊像内部文書」として、国の重要文化財に指定されている。

“あじさいのみち”のあと、“四季のみち”を歩く。この道は坂を上がって“山内八十八ケ所巡拝路”に合流したあと、別の経路で下って行くが、今回は合流点から“巡拝路”に移って先に進む。山道らしくなった“巡拝路”を上がり、27番の弘法大師像を過ぎると、山頂遊歩道に出る。

“巡拝路”からは外れることになるが、高幡不動の裏山(高幡山)の山頂に上がってみる。山頂は小広く眺めも良いので小休止に向いている。「武蔵名勝図会」によると、往昔、金剛寺の不動堂は山頂にあり、後に平山季重が山頂に八間四面の御堂を建立したという。

中世になると、今は高幡城の名で呼ばれている山城が築かれ、その主郭が山頂にあったという。また、山頂から北に続く尾根に沿って山城の郭が続いていたというが、幅はさほど広くない。ただ、記録が無いので確かなことは分からない。

山頂から下って、“巡拝路”を先に進み、右に下る道を見送って先に行くと、見晴と呼ばれる場所に出る。この辺りは西側の展望が開けている。“巡拝路”は、この先で下りとなり、馬場跡と呼ばれている、三方を山に囲まれた広場に出る。

“巡拝路”は馬場跡の周囲を回る道になっており、途中には紫陽花もある。「武蔵名勝図会」によると、この地は、八王子城主氏照の家臣で、八王子城の落城の際に討ち死にした高橋十右衛門の居地だという。ただし、城については記されていない。「新編武蔵風土記稿」には、高幡村の小名として根古屋とあり、金剛寺の山根の通りと記している。根古屋は山城の麓にある屋敷地のことを言うので、馬場跡は根古屋に該当しているように思える。

“巡拝路”は馬場跡から山頂遊歩道に出るが、この辺りは西方の眺めが良い。さらに進んで高幡城址の案内表示があるところから北に向かい、やや広い道に出て右へ、鐘楼の横を通って左に折れると、“巡拝路”も終りに近づく。

“山内八十八ケ所巡拝路”は四国八十八ケ所の写しで、高幡不動の裏山にある88カ所の弘法大師像を巡る道である。最後の八十八番は香川県大川郡長屋町多和とあるが、これは結願の郷に該当する。巡拝路は整備されているが上り下りの多い山道であり、時間も多少かかるので、短いハイキングコースの積りで歩くと良いのだろう。今回は、88カ所の一部を通っただけだが、機会があれば、順番通りに歩いてみたい。

 

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六月の旧古河庭園と飛鳥山公園

2019-06-15 08:26:16 | 公園・庭園めぐり

梅雨時の花、菖蒲と紫陽花を見に旧古河庭園と飛鳥山公園を訪ねてみた。

(1)旧古河庭園

駒込駅から本郷通りを北に、坂を下ってまた上がると、交差点の左側に旧古河庭園がある。入口で入園料を支払い、コンドルの設計による洋館を回り込み、南側のテラス式前庭に行く。この前庭もコンドルの設計でバラ園のようになっている。バラを見ながら前庭を歩いていくと、老いても品格を失わないであろうバラを一本見つけた。そのバラには、イングリッド・バーグマンの名が付けられていた。

旧古河庭園は高低差のある地形を生かして、上を洋風庭園とし下を日本庭園としている。黒ボク石を積み重ねた崖を下り樹林の間を抜けると、心字池を中心に日本庭園が広がっている。京都の庭師、小川治兵衛によるものという。今の季節、池にはショウブが彩を添えている。この庭園にはアジサイもあるが、数は少なくあまり目立たない。

(2)飛鳥山公園

旧古河庭園を出て王子方面に向かい、一里塚を過ぎて飛鳥山公園に入る。園内には博物館があり、その近くにはアジサイもあるが、数は多くない。公園から線路側に下りて、線路沿いの飛鳥の小径に行く。飛鳥山の崖地にはアジサイが植えられていて、飛鳥の小径はアジサイの小径のようになっている。

 

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砂町富士と深川富士

2019-06-08 11:58:21 | 富士塚めぐり

(1)砂町富士

東西線の南砂町駅で下車し、東西線沿いの道を東に向かう。明治、大正の地図を見ると、東西線の位置は堤防に相当していた。先に進んで日通の敷地に沿って北に向かうと富賀岡八幡宮(元八幡)に出る。江戸時代、この辺りは海辺で景勝地でもあったので、広重の名所江戸百景にも「砂むら元八まん」として取り上げられている。

神社の裏手に回ると浅間神社があり、富士塚がある。この富士塚の石碑のうち最古のものは天保4年(1833)なので、それ以前の築造と考えられている。この富士塚を築造したのは、身禄と行動を共にしていた渋谷道玄坂の吉田平左衛門を講祖とする山吉講である。明治時代には、八幡神社の社殿うしろに池があり、池の中島に富士が築かれていたという。塚を築くために土を掘り、その跡を池にしたと思われる。昭和12年(1937)の地図からすると、この頃の富士塚も池の中島にあったようである。当時の富士塚は土の山であったらしく、水害で崩れたため、昭和8年(1933)に伊豆の黒ボク石(溶岩)で表面を固めた富士塚に変えている。江戸時代に富士の溶岩を江戸に運ぶのは容易でなかったと思われるが、昭和の時代には、庭石として黒ボク石が使われるようになり、入手しやすくなっていたのだろう。昭和37年(1962)になって、富士塚を30mほど南に移して再築する事になったが、これが現在の“砂町の富士塚(砂町富士)”で、江東区の有形民俗文化財に指定されている。

 

(2)仙台堀川公園

富賀岡八幡宮の北側にある元八幡通りを西に行き、南砂三公園入口の交差点を右に、トピレックプラザのプロムナードを通り、葛西橋通りを渡って、その先の左側にある仙台堀川公園に入り西に向かう。この公園は仙台堀川の跡を公園としたものだが、小名木川から横十間川までの間は、もともと砂町運河だったところである。

公園内には遊歩道や自転車道、堀割や池などが設けられており、散歩を楽しむことが出来る。砂町橋、福島橋、弾正橋を抜け貨物線の下をくぐり松島橋、尾高橋を過ぎれば横十間川との交差点に至る。野鳥の島の南側を回り込み、川の北側の道を進む。豊住橋を抜け魚釣場の先の千田橋を潜って石住橋で道路に上がる。来し方を振り返り、それから大横川を渡ると、両側に木場公園がある。南側の木場公園を通り抜け、高速道路下を通って富岡八幡に行く。

 

(3)深川富士

富岡八幡宮裏手の小学校の西側にあった深川富士と呼ばれる富士塚は、昭和39年(1964)に取り壊されたため、今は、江東区登録史跡の“富岡八幡宮富士塚跡”の扱いになっている。平成14年(2002)に、富岡八幡宮の北西側の境内にある末社のうち、富士浅間神社の裏手に小さいながら富士塚が再建され、江東区の有形民俗文化財の“山玉講同行碑”と“深川山山講登山再建立手伝碑”が近くに設置されて、富士信仰の名残を伝えるようになった。山玉講同行碑は欠損しているが拓本に文政3年(1820)とあるので、深川富士はそれ以前に築かれたと考えられている。一方、現存はしていないが、文政4年(1821)の太田屋磯右衛門所建の碑に、深川越中島太田屋磯右衛門と門前仲町の大津屋七左衛門の名で、“当御山は寛保2年(1742)江戸元場干鰯問屋中が開発してから年重なり大破した。文政2年(1819)再建の願いが叶い、所々の講中などの助力もあって完成した”という趣旨のことが書かれている。再建にあたっては山玉講のような別の講中も参加していたのだろう。

 「御府内備考続編」によると、享保7、8年(1722、1723)に、高さ2丈(6m)の石尊山、またの名を宮口山と呼ぶ山が宮口屋徳右衛門により築かれたとあり、享保17年(1732)には石尊を勧請、その後、文政2年(1819)に再興したとある。境内図には、富岡八幡の別当寺であった永代寺境内の北東(富岡八幡の北西)に石尊山が記され、その麓には浅間社があり、その南側には細い池が書かれている。江戸時代に流行した大山詣は、相模国大山の山岳信仰と修験道を融合した石尊権現の信仰によるものだが、各地に石尊を祀る石尊山があったようで、永代寺の石尊山もそうした山の一つであったのだろう。「寺社書上」によると文政2年に再興される以前にも山の修復は、寛保の頃も含めて、何度もあったようである。

深川富士は、天保7年(1836)の序がある「東都歳時記」に取り上げられており、岩で覆われた富士塚が挿絵に描かれ、“八幡宮の乾(北西)の隅なり。五月晦日より六月朔日に至って山上に登ることを許す”と記すとともに、本文には“文化年中に石を以て富士山の形を造る。昨今登ることを許す”と書いている。ところが、天保7、8年(1836、1838)に刊行された「江戸名所図会」には深川富士についての記載が無く、富岡八幡宮の挿絵には、八幡宮の北西側に樹木のある築山が描かれているだけである。

「江戸名所図会」は享和の終り(1803)には草稿が完成していたが、諸事情から出版が遅れていたので、享和以前に描かれた挿絵がそのまま使われたとも考えられ、「江戸名所図会」の挿絵には石尊山だった頃の築山が描かれていた可能性はある。では何故、石尊山が富士塚に変わったのか。江戸も後期になると身禄の教えをもとにした富士講が各地に誕生し、安永8年(1779)の高田富士を初めとして、各地に富士塚が築かれる。享和3年(1803)刊行の「増補江戸年中行事」によると、六月朔日の富士参りには、富士塚のある、駒込、浅草、高田に前夜の晦日から参詣者が群集したという。このような時勢もあって、石尊山を深川富士へと変えることになったのかも知れない。改修は大掛かりであったので文化年中から始まり、文政2年になって深川富士として再興したのではないかとも思うが、確証は無い。

広重の「名所江戸百景」に「深川八まん山ひらき」という図がある。富岡八幡宮の別当寺であった永代寺では、空海が入滅した3月21日から4月15日まで、空海の画像をかかげて供養を行うとともに永代寺の庭園を公開した。これを山開きと称し、多くの人が訪れたという。広重の図では池の向こうにジグザクの道のある山が描かれているが、「江戸名所図会」の「永代寺山開」という挿絵にも描かれている甲山のようで、深川富士ではないだろう。

  

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士塚考続」「東京名所図会(南部・東郊之部)(深川区深川公園之部)」「東都歳時記」「東京都神社史料1」ほか。

 

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