夢七雑録

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新宿御苑に桜を見に行く

2016-04-19 19:14:14 | 公園・庭園めぐり

新宿御苑の桜を見に行くことにした。調べてみると、御苑には約65種1300本以上の桜があるという。花の時期も早春から晩春にわたり様々で、秋に咲く桜もあるらしい。そこで、とりあえず、3月下旬から4月中旬の間に咲いている桜を対象に急ぎ足で見て回ったが、見逃した桜も少なからずあったと思われる。なお、桜の品種の識別は素人には難しいので、樹木に付けられている品種の表示を頼りにした。

 

(1)早春の桜

3月下旬。早咲きの修善寺寒桜はあらかた散ってしまい、秋から咲き続けていた子福桜はあと数輪を残すのみとなる。今は、その後を継ぐ桜が、盛りを迎えようとしている。

サービスセンターの近くに桜のルーツであるヒマラヤの名を冠したヒマラヤヒザクラという桜があった。濃紅色の釣鐘状の花が咲く高木で、中国南部からネパールにかけて分布する。ヒマラヤザクラという桜とは別の品種で、日本では珍しい品種という。

高遠小彼岸(タカトオコヒガン)という桜は、高遠城址の桜で長野県の天然記念物になっているが、新宿御苑が高遠藩内藤家の下屋敷跡に当たる縁から、御苑の玉藻池に植えられたという。

御苑南側の芝生広場に小彼岸(コヒガン)という桜があった。もともと、彼岸桜というのは、この小彼岸(コヒガン)の事を言っていたらしい。小彼岸という呼称ではあるが、今は高木である。

紅色の大輪一重の花を咲かせている陽光(ヨウコウ)という桜は、御苑の各所にある。この桜の盛りは3月の中頃からで、やや遅れて満開となる大島桜の白との対比が鮮やかである。

東海桜(トウカイザクラ)という小さな桜の樹があった。この桜は挿し木による栽培が容易らしく、関西を中心に広まっているという。この桜には啓翁桜、岳南桜という別名もあるらしい。

横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)という小さな桜の樹もあった。この桜は陽光より遅く咲き始めるが、大輪一重の花で、その紅色は陽光より濃い。

桜園地に大寒桜(オオカンザクラ)という桜がある。寒桜より大木で、花は寒桜と同じ淡紅色中輪一重だが、寒桜より遅れて咲く。安行から広まったため安行寒桜ともいうらしい。

 

(2)盛春の桜

染井吉野が咲き始めると新宿御苑にも花見に訪れる人が増えるようになる。新宿御苑内への酒類の持ち込みは従来から禁止だったのだが、守らない人がいるせいか、手荷物検査のための行列まで出来ている。

花見と言えば何といっても染井吉野(ソメイヨシノ)。新宿御苑にも染井吉野が400本ほどあるという。ただ、桜園地にある染井吉野は他とは少し違っていて、花見の雰囲気はあまり無い。

染井吉野の母体となった大島桜(オオシマザクラ)だが、染井吉野より少し早く咲き、花も白色大輪一重で違いはある。分布地は伊豆。写真は丸花壇近くにあった枝ぶりの面白い大島桜。

この時期の下の池は、枝垂桜(シダレザクラ)を撮る人で混雑している。この品種の桜は古くからあり、風に揺れる風情が美しいが、上手に撮るのは難しそうな気もする。

八重紅枝垂(ヤエベニシダレ)は江戸時代中期からあった品種で、花は紅色小輪八重。枝垂桜より遅れて咲く。この桜は御苑内の各所にあるが、選ぶとすれば茶室・楽羽亭の桜樹だろうか。

山桜(ヤマザクラ)は野生の桜で、染井吉野が普及する以前は花見の主役だったという。花は白色中輪一重、花と葉が同時に開く。山桜は御苑内各所にあるが、写真は中の池の山桜である。

一葉(イチヨウ)は江戸末期から関東中心に広まった品種で、花は淡紅色大輪一重である。呼称は葉のような形の雌しべからという。御苑には150本もあり、中には大木もある。

日本では絶滅したと思われていた桜をイギリスから逆輸入した時に、太白(タイハク)の名が付けられたという。花は白色大輪一重である。

明治時代、荒川堤の改修に際して多くの品種の桜が植えられたが、白妙(シロタエ)もその一つであったらしい。花は純白大輪八重である。

白雪(シラユキ)は荒川堤にあった品種で、関東中心に広まった栽培種という。花は白色大輪一重。翁や狩衣と呼ばれる桜も同じ品種のようだ。

アメリカに送った染井吉野の種から生まれ、ポトマック川沿いに植えられている曙という桜が日本に里帰りし、アメリカという呼称となる。

桜園地に松前早咲(マツマエハヤザキ)という表記の桜があるが、実は紅豊(ベニユタカ)という名の桜らしい。松前早咲と別の桜を交配して作られた比較的新しい品種という。

嵐山(アラシヤマ)は明治時代の荒川堤に植えられていた品種の一つで、花の名所の京都嵐山の名を付けたもの。花は淡紅色大輪一重である。

 

(3)晩春の桜

染井吉野は散ってしまったが、新宿御苑にはまだ見ごろを迎える桜が少なくない。むしろ、これからが、御苑の桜を見る適期かも知れない。

関山(カンザン)は明治時代の荒川堤にあった品種で、花は紅色八重で見栄え良く、寒さや病害虫に強いので、今では八重桜の代表格のようになっており、御苑内にも100本以上ある。写真は新宿門を入ってすぐのところの関山である。

普賢象(フゲンゾウ)の名は淡紅色大輪八重の花を普賢菩薩が乗る象に見立てた事から。京都千本閻魔堂の桜として室町時代から知られるが、現在の品種は江戸時代からのものらしい。

福禄寿(フクロクジュ)は明治時代の荒川堤から関東に広まった品種で、花は淡紅紫色大輪八重である。イギリス式庭園の脇にある福禄寿は形が良く、晩春では一番目立つ桜と言える。

鬱金(ウコン)は江戸時代中期に京都で栽培されていた品種で、その名は香辛料のウコンに由来する。花は黄色大輪の八重だが、散り際には赤みを帯びるようになる。

御衣黄(ギョイコウ)は江戸時代中期に京都で栽培されていた品種で、花は緑黄色中輪の八重だが、鬱金と同様に色が変わり赤みを帯びる。

駿河台匂(スルガダイニオイ)は明治時代の荒川堤に植えられていた品種で、呼称は駿河台の屋敷にあった事に由来する。花は白色中輪一重で、芳香があるというが、匂いには気づかなかった。

妹背(イモセ)は、京都平野神社に原木があり、花は淡紅色大輪八重である。二つの実が並んで付く事から名が付いたという。

霞桜(カスミザクラ)は山間地に多い野生の桜で、高木である。花は白色か淡紅色で中輪一重、遠くから見ると霞のように見えるのが名の由来という。

琴平(コトヒラ)は、四国の金刀比羅宮の参道に原木があり、京都の造園家により広められたという。花は白色中輪八重である。

大枝が横に広がって白色中輪八重の花が枝に群がる。京都の市原にあった桜で、枝全体が虎の尾に見えることが名の由来である。

 

参考資料:「新宿御苑のみどころ・春(パンフレット)」「新宿御苑の桜」

 

 

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目黒川の桜を見に行く

2016-04-11 20:21:06 | 緑と水辺の散歩道

 

 目黒川の桜が散ってしまう前に、見に行くことにした。行人坂を下りて太鼓橋に出る道は江戸時代からあり、趣のある坂道ではあるのだが、当ブログでも何度か取り上げているので、今回は目黒駅から権之助坂を下って目黒新橋に出る。橋から上流を眺めるが、もう散り始めている様子である。橋を渡り川沿いに上流へと向かい、体育施設や美術館などがある目黒区民センター公園に行く。川沿いの道に比べ、さすがに人は少ない。区民センターの建物を通り抜け、ふれあい橋という人道橋に出て上流を眺める。

 ふれあい橋を渡る。川沿いの道を上流に向かうと、右側に田道(でんどう)広場公園という、グランドのような広場のある公園がある。その少し先が田道橋、さらに、その先の橋が中里橋。それぞれの橋で上流方向を眺めるが、どれも変わらぬ桜の景色である。

 中里橋を過ぎたところで、川の中を覗いてみる。散った花が離れたり集まったりしながら文様を描いている。花筏というらしい。なかめ公園橋という人道橋がある。橋から右に上がると、技術研究所の跡地に開設した中目黒公園。桜もあって花見の場所になっている。

 

次の田楽橋から上流を眺めると、先の方で川幅が狭くなっている事が分かる。ここは昭和の初めに、この場所まで船を上げようとして川幅を拡張した船入場の跡だという。川沿いの道を先に進み、船入場の先まで行ってみる。川の中に様々な形の石が置かれている。川の中に庭園を造ったようにも見える。目黒川の向こう岸には資料館があった筈だが、今は閉館してしまったらしく、その下の調整池だけが洪水対策として使われているという。

 

目黒川に沿って先に進み、駒沢通りを歩道橋で渡って、先に進むと蛇崩川の合流点。近くの広場は花見の場所にもなっているらしい。日の出橋から東横線の高架の先を見てみると、桜並木はまだ続いているようだが、それはそれとして、本日はこれにて終了という事に。

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戸山公園に桜を見に行く

2016-04-07 22:10:29 | 公園・庭園めぐり

戸山公園は、大久保地区と箱根山地区に分かれているが、そのうちの大久保地区は、江戸時代には鉄砲玉薬同心の給地になっていた。明治に入ると一帯は陸軍用地となり、北側に射撃場が設けられ、その南側には競馬場が設けられる。射撃場の西側には弾丸除けの土塁が築かれたが、この土塁は戦後も残っていて電車の中からも良く見えた。三角山と呼ばれたその土塁は、線路沿いに社宅が建てられた時期に崩されたのか、今はスケッチ(「戸山が原・今はむかし・・」)にその姿を留めるだけになっている。その社宅も今は無く、その跡地は大久保三丁目西地区開発計画による新宿スカイフォレストに取って代わられている。

高田馬場口から戸山公園の大久保地区に入ると、左手の芝生広場が花見の場所になっている。その南側の建物はスポーツセンターで、この建物の東端を南から北に流れていた筈の秣川の跡を探しに行くが、川の跡は見当たらない。

やくどう広場に沿って南に進む。その先の右側に子供の広場がある。小さな丘や橋も造られていて子供の遊び場のようになっているが、ここは花見の場所でもある。明治12年、国賓として来日した前アメリカ大統領のグラント将軍は明治天皇とともに、この地に造られた競馬場で競馬を観戦している。その後、競馬場は取り壊され、昭和の初めにはコンクリート製の射撃場が造られるが、今は跡形も無くなっている。

いこいの広場に出て左へサービスセンターの横を通り、道を渡って東に向かって進む。明治通りを渡って下っていくと、戸山公園の箱根山西口に出る。戸山公園箱根山地区は尾張徳川家の下屋敷の跡である。戸山荘と呼ばれた屋敷は13万坪余の広さがあったが、明治になると陸軍用地となり、戦後は戸山ハイツが建てられて様変わりし、今も、往時の姿を伝えているのは箱根山だけになっている。

ともかく、箱根山に上がる。今の時期、山頂付近は桜に覆われている。箱根山は明治以降の呼称で、江戸時代には玉円峰などと呼ばれていた。標高は44.6m。山手線内では最高峰となっている。登り口は幾つかあるが、東側には箱根山の碑のほか、寛政年間の庭園図が描かれた戸山尾州邸園池全図や説明版が置かれている。

上の写真は「戸山尾州邸園池全図」で、「戸山御屋敷絵図」をもとにしていると思われる。上の写真の図では左側が北に当たる。玉円峰は図の中ほどにあり、その左側には大きな池(泉水)が描かれている。図の右側(南)から池に流れ込む水路に濯纓川と書かれているが、今の歌舞伎町付近に発し、太宗寺付近の流れを入れて北に流れていた蟹川(金川)である。この川は池に水を供給するとともに、池の東に沿って流れる水路となっていた。

箱根山の頂上からは木の間越しに新宿から池袋にかけて眺める事が出来るが、期待したほどの展望ではない。箱根山の南側にあるのは戸山教会で、進駐軍の命により陸軍戸山学校の将校集会所の跡に建てられたという。

箱根山頂上に花見の場所を確保する事は禁止されているが、麓では問題がなく、既に何組かが花見を始めている。箱根山地区では、このほか、花の広場の付近や、せせらぎの辺りが花見の場所になっているようである。なお、箱根山に登った事を戸山公園大久保地区にあるサービスセンターに自己申告すると登山証明書を発行してくれ、「尾張戸山荘今昔めぐり」というリーフッレトも貰えるが、以前貰った事があるので今回はパスし、箱根山地区をあちこち散策してから帰途に就く。

 

付記・尾張徳川家下屋敷戸山荘について

「尾張戸山荘今昔めぐり」というリーフレットには、寛政の頃の「戸山御庭之図」をもとにした図や「尾州外山御屋敷御庭之絵図」が載っているので、戸山荘の頃を想像しながら戸山公園を散策するのには結構役に立つ。戸山荘の敷地は、南は大久保通り、北は諏訪通り、西は明治通り近くまで広がっており、東は少々分かりにくいが、箱根山通りの東側も含まれている。箱根山から見て西から北にかけての低地は御泉水と呼ばれる広い池で、池の中ほど、箱根山から見て北側に琥珀橋(中橋)が架かっていた。また、北東側には池の水と濯纓川の水路の水を合わせて落とす龍門の滝(滝の跡が早稲田大学構内で発見されている)があり、箱根山から見て西側の低地には宿場を写した御町屋があった。「戸山御屋敷絵図」によると、玉円峰(箱根山)の南東側に御殿があり、表御門は現在の大久保通りに面していた。この御殿の西側には廊下でつながる余慶堂という書院があった。また、箱根山からみて南西側には称徳場と呼ぶ馬場があった。

 

尾張徳川家の下屋敷(戸山荘)は、寛文8年(1668)に屋敷地を得た事に始まる。屋敷地は延宝年間(1673~1681)にかけて次第に拡張され13万坪を越えるに至る。表御殿と内庭は寛文9年(1669)に造られているが、庭園全体の造成は寛文11年(1671)以降、池が掘られ麿呂カ嶽(玉円峰)が築かれてからとみられる。寛文12年には既に御町屋が建てられているが、その後も、寺社や茶屋、数寄屋や在郷家などが建てられ、元禄時代には五重塔も建てられている。これらの建物は火災や風害による被害もあり、元禄時代の大地震などの影響もあって、一時は荒廃したこともあったという。庭園はその後も変遷があったようで、宝暦の頃の「宝暦比戸山御屋敷絵図」では池が二つあるのに対し、寛政の頃の「戸山御庭之図」では池は一つだけになっている。

 

第11代将軍の家斉が寛政5年3月に戸山荘に来訪した時、随行した旗本の佐野義行の記録により、当時の戸山荘観覧の様子を見てみよう。一行は非公式の訪問で、現在の諏訪通り側にあった神明車力門から入っている。入ってすぐ、川越街道と鎌倉街道の古道分岐があり、さらに進むと、六社、釈迦堂、稲荷があり、その先の山里の数奇屋に出る。吟涼橋を渡ると行者堂があり、源義経に従って衣川で果てた鈴木三郎重家の笈と法螺貝(徳川美術館所蔵)が置かれていたという。王子権現、廬山寺、文殊堂を経て竜門の滝の下を渡り、久米の宮を経て臨遥亭に至って遥かに目白の台を望み、それから、修仙堂に奥深き谷をたずね、錦明山に登り、天満宮、水神宮、元在郷家(田舎家)を過ぎて両臨堂に至る。地蔵堂、窯跡を経て坂下門から黒木茶屋と桜茶屋が並ぶ道を通り、古社の和田戸明神と神主の家、茶屋を過ぎて坂を上がり、玉園峰(箱根山)によじ登る(寛政の頃は老樹が聳えて眺めは良くなかったらしい)。それから、毬の庭跡を過ぎ石壇の門を入って余慶堂に至る。ここは、松の枝を切って富士山が見えるようにしていたが、この日は見えなかったという。余慶堂の前には尾張の海から引き上げられた鐘(実は弥生末期の大型の銅鐸。九州国立博物館所蔵の銅鐸か?)が架かっていた。ここから、彩雲塘、弁天島を経て田のあぜ道を進み、称徳場という馬場に出る。川を渡り門屋を経て、あぜ道を進み、山を上がって招隠堂に至る。さらに御町屋の通りを抜け、宿場入口の制札の文言に興味をいだいて書き写す。臥龍渓を渡り、三岳権現、薬師堂、養老泉、鶴亀島、四阿、琥珀橋、阿弥陀堂を経て望野亭に上がり、拾翠台にて高田馬場や諏訪明神を望み、大原に出て番神堂、五重塔、稲荷、世外寺跡に至り、釈迦堂、鐘楼、八幡社、虚空蔵、観音堂を見て、大久保通り側にあった西南車門から帰途についている。

 

将軍を迎えるにあたって、尾張徳川家では名古屋からも数々の美術工芸品を運び込んだと思われる。また、戸山荘内の寺社や茶屋、田舎家は念入りに飾り付けを行い、飲食など接待の準備を整え、町屋には応接のために人を配し、また作業の様子を見せるため刀工を呼び寄せたりしたようである。戸山荘には現実の宿場などが写されているが、実際にはあり得ない文言を書いた制札からしても、そこには現実からの遊離がある。戸山荘は庭園の域を越えて、今でいうテーマパークのようなものであったのだろう。

 

<参考資料>

「尾張藩江戸下屋敷の謎」「東京市史稿遊園編2」「別冊太陽・大名庭園」「大名庭園・江戸のワンダーランド」「東京の公園と原地形」「尾張戸山荘今昔めぐり」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「歴史よもやま話(新宿法人会)」「尾張家外山御庭絵巻物」 

 

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