夢七雑録

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荒川車庫前から荒川遊園地前へ

2011-01-31 22:01:44 | 都電荒川線に沿って

 荒川車庫前の停留所の先の信号のところを左に折れ、日刊スポーツの印刷工場の前に出たら右に折れる。やがて、左手に樹林が見えてくるが、ここを左に行くと船方神社に出る。この神社は船方村の鎮守で、江戸時代には十二天社と呼ばれていたという。十二天の名は、六阿弥陀の伝承に由来するとも、熊野信仰と関わりがあるともいうが、記録が失われているため確かなことは分からない。船方神社から西に少し戻ると、別当をつとめた延命寺がある。ここを南に行き、突き当たって右に折れ、さらに左に折れて進むと、都電の線路に出る。左に行けば、荒川遊園地前の停留所に出る。

 荒川遊園地前の停留所の開業は、私営の荒川遊園が開園した大正11年のことで、当時の停留所名は遊園地前であった。王子電気軌道にしても、遊園が出来て乗降客が多くなるのは願ってもないことで、遊園の開園に際して、何らかのバックアップをしていたかも知れない。その後、停留所名は遊園前となり、昭和14年には尾久六丁目に変更される。昭和42年に停留所名は西尾久七丁目となるが、昭和58年には荒川遊園地前に改められている。
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梶原から荒川車庫前へ

2011-01-27 21:43:15 | 都電荒川線に沿って

 梶原の停留所からすぐの梶原銀座を歩く。豊島氏の平塚城があったとされる平塚神社付近から坂を下り、途中で船方村(現・北区堀船4付近)への道を分け、現・梶原銀座を通る道が、江戸時代からあったようである。梶原銀座の商店街を歩いていくと、行く手を阻まれてでもいるかのように道が左に直角に折れていく場所がある。ここを右に入ってすぐ左に折れていく道が、白山神社に出る古い道のようだが、今回は直進する細い道の方を歩く。しばらく行くと、やや広い道に出る。城之内村から船方村を経て尾久に出る、江戸時代からあった道と思われる。ここを右に行き、その先を左前方に入って白山神社に行く。梶原城之内村の鎮守であったという神社だが、古文書が失われたため由緒などはよく分からない。隣の福性寺も記録を失っているが、保存されている石造物は梶原塚にあったものという。白山神社の東側は白山堀の跡で今は公園になっている。梶原一帯の灌漑用水は石神井川から分かれた下郷用水からの分水で、梶原への道に沿って流れ、現・梶原銀座の途中から白山神社方向に流れて荒川(隅田川)に落ちていた。近代になって、その下流部分を整備して堀割としたのが白山堀である。


 白山堀の隣の読売新聞印刷工場に沿って東に少し行き、やや広い道を南に行くと都電の線路に出る。ここを左に行くと、荒川車庫があり、その隣には、都電おもいで広場がある。その直ぐ前が荒川車庫前の停留所である。開業は大正2年。当時の停留所名は、地名(字)に由来する船方前であった。船方は荒川(隅田川)沿いにあった村名だが、船方前はその前方にあたるという意味だろうか。なお、現在の町名の堀船は、船方の船の一字をとったものである。開業当時の停留所周辺は田畑しか無いような場所であったが、北側の荒川(隅田川)沿いに紡績工場などの工場が進出していたので、乗降客はあったのだろう。大正14年、ここに車庫が設けられるが、周辺の宅地化が進むのは、ずっと後のことである。


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栄町から梶原へ

2011-01-23 13:11:18 | 都電荒川線に沿って
 17.栄町から梶原へ

 栄町の停留所は大正2年に三ノ輪線が開通した時のターミナルで、当初の停留所名は飛鳥山下であった。停留所の位置は現在より王子駅前寄りであった。当時の王子電気軌道の沿線は、三ノ輪の近辺を除いて田園地帯であったから、乗降客は少なかったと思われる。なお、開通時の三ノ輪線の停留所は、飛鳥山下、梶原、船方前、小台ノ渡、熊ノ前、下尾久、町屋、博善社前、三河島、千住間道、三ノ輪であった。

 栄町停留所の北側一帯は工場が多く、歩いて楽しい場所とはいえないが、それでも適当に道を選んで歩いていき、明治通りに出る。ここを右に折れ、頭を覗かせている東京スカイツリーを眺めながら進むと、梶原の停留所に出る。この停留所の開業は三ノ輪線が開通した大正2年で、当時、南側は一面の田地であった。停留所名の梶原は地名(字)だが、太田道灌の子孫の梶原政景の屋敷があったという伝承から、この辺りを梶原堀之内村と呼ぶようになったという。現在の町名である堀船は、この村名から一字をとったものである。なお、梶原屋敷は、とうの昔に跡かたも無く消え失せ、梶原政景の塚も江戸時代に荒川(隅田川)に崩れ落ちてしまったという事である。

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王子駅前から栄町へ

2011-01-16 20:15:08 | 都電荒川線に沿って

 王子駅前から都電に沿って歩くと、飛鳥山の下を流れてきた石神井川が左に見えてくる。その先、王子駅南口に入って改札の前を通り過ぎ、跨線橋を渡る。橋の上からは東京スカイツリーを望むことが出来る。橋を渡った先は飛鳥山公園である。江戸名所図会には、北東の方角から眺めた飛鳥山と、石神井川から分水され飛鳥山の裾を流れていた下郷用水(音無川とも呼ばれていた)と、飛鳥大坂の下で下郷用水に架かっていた飛鳥橋とが描かれている。下郷用水は、飛鳥山に続く台地の下を流れたあと、三ノ輪方面に流れていたが、現在は暗渠化され、飛鳥橋も消滅している。その位置は、JRの線路の西側とされているので、跨線橋で下郷用水の上を越えてきたことになる。 飛鳥山公園には、飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢史料館の三つの博物館があるが、今回は時間の都合でパスし、飛鳥山の碑や都電の一球さんなどを見て歩き、無料公開されていた旧渋沢邸の庭園を通り抜けて本郷通りに出る。

 本郷通りを左に行くと駐車場がある。道順からすると、この角を左に入れば良いのだが、その前に一里塚を見に行く。ついでに七社神社を参拝し、駐車場のところまで戻って角を曲がる。しばらく行くと、線路際に向かって急な下り坂となるが、その手前を右に入ると跨線橋がある。橋の途中の右側に、新幹線とともに東京スカイツリーが眺められる。橋を下りて、栄町の停留所に行く。

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飛鳥山から王子駅前へ

2011-01-12 19:08:40 | 都電荒川線に沿って

 飛鳥山の停留所まで、都電は家と家の間をすり抜けるように専用軌道を走ってきたが、ここから王子駅前までは併用軌道になり、一般道路を車と一緒に走る事になる。電車は音無橋の先で、王子駅に向かって坂を下って行く。この坂を飛鳥大坂といい、昔はもっと急坂で難路であったらしいが、今は傾斜も緩やかになっている。それでも都電にとっては運転が難しい区間であるらしい。

 音無橋の上流側から石神井川に下り、橋の下を潜って音無親水公園に行く。現在の石神井川は暗渠となって飛鳥山の下を潜っているが、音無橋下流の、本来の石神井川の流路を整備して公園としたのがこの公園で、都市公園百選にも選ばれている。この公園から左に上がると王子神社がある。今回は行かないが、ここから、王子稲荷や名主の滝に出ることも出来る。ところで、石神井川の下流は、飛鳥山から王子神社の丘に連なる台地に谷を刻んで、東側の低地に流れ出しているが、やや不自然に見えることから、人為的に谷を掘削したという説が生まれることになった。その説に従えば、古石神井川は、飛鳥山で向きを変えて谷田川(谷戸川、藍染川などともいう)の谷を流れ、不忍池に流入し、そこから南流し、お玉が池を経て海に注いでいたが、石神井川を東側の低地に流す必要があったため、飛鳥山付近の台地を掘削したというのである。現在は、この説は否定され、自然の浸食によって飛鳥山の台地が削られたとし、その結果、古石神井川が流れていた谷田川の谷の水量が激減したとしている。

 江戸時代、石神井川の下流を音無川と呼び、風光に優れた場所であったため、行楽客が多く訪れ、これを目当てに料理屋や茶屋が近辺に集まっていたという。その中の一軒で、落語の「王子の狐」にも登場する扇屋が、今も残っている。かなり前の事だが、扇屋の大広間で開催されていた落語の会を聞きに行ったことがあるが、その扇屋も料亭の商売を続けることが難しくなったのだろう、その後、料亭の営業を止めてしまい、現在は、名物の卵焼きを売る店としてのみ存続している。

 王子駅を通り抜けて、新幹線の高架下にある王子駅前の停留所に行く。王子に停留所が開業したのは、飛鳥山から王子駅前まで路線が延長された大正4年のことだが、現在とは異なり、停留所は駅西側にあった。大正14年、三ノ輪と飛鳥山下(現在の栄町)間の路線が王子駅前まで延長されるが、当時の東北本線は地上を走っていて横断できなかったため、停留所は駅の東側に、別に設けられた。これでは三ノ輪から大塚まで直通運転が出来ず不便だということで、飛鳥山の下をトンネルで潜り、東北本線を高架で越える事も計画されたが、その後、東北本線が高架に変更されてガード下を通る事が可能になったことから、昭和3年に三ノ輪・大塚間の直通運転が可能となった。停留所名は当初、王子であったが、現在は王子駅前になっている。なお、昭和2年には王子から赤羽までの路線も開通しているが、昭和47年に廃止されている。

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番外・雑司が谷七福神めぐり

2011-01-06 19:16:49 | 七福神めぐり

 2011年、都電荒川線の沿線に七福神めぐりが新登場した。雑司ヶ谷七福神がそれである。そこで、雑司ヶ谷七福神をめぐる、鬼子母神前~都電雑司ヶ谷~東池袋四丁目のルートを歩いてみることにした。


(1)鬼子母神(豊島区雑司が谷3-15-20)「大黒天」
 今回の七福神めぐりの起点は都電の鬼子母神前の停留所である。踏切を通る道は江戸時代からの鬼子母神道で、ここを西北に行くと直ぐ右側に欅並木の鬼子母神の参道がある。江戸時代、この参道の両側には料亭や茶屋が軒を連ねていたといい、中でも参道入口近くにあった茗荷屋は有名で、広重が江戸高名会亭尽の一つとして描くほどであった。参道を進んで行くと右側に、蝶屋という料亭の跡に建っていた五軒長屋を改修した並木ハウス・アネックスがあり、中に雑司が谷案内処が設けられている。裏手には手塚治虫が住んでいた並木ハウスも健在である。雑司ヶ谷案内処では、雑司ヶ谷七福神のマップ入りパンフレットを配布しており、色紙も販売している。参道をさらに進み、突き当りを左に折れた先が鬼子母神である。なお、右に行く道は江戸時代からの鬼子母神道の一つで、本納寺、清立院を経て護国寺に出る道である。
 
 正月三が日は鬼子母神の参詣者が長い列を作っている。七福神詣でをする際は、ここでかなりの時間を費やしたあと、大黒天を参拝することになる。鬼子母神堂の由来は、清土という場所で掘り出された鬼子母神像を法明寺内の東陽坊(大行院。現在は無い)が預かり、後になって、稲荷の森に堂を建てて像を祀ったのが始まりとされる。鬼子母神像は天保の頃まで御開帳もあったようだが、今は秘仏として厨子に納められたままになっている。秘仏の身代わりとなる前立ち本尊は天女形のようだが、遊歴雑記では鬼子母神像に角があったとしており、本当のところは分からない。稲荷の森の稲荷とは鬼子母神境内の武芳稲荷のことだが、この稲荷の鳥居の近くにあるのが、創業1781年の上川口屋という駄菓子屋である。鬼子母神境内には、元禄の頃に始まり正徳の頃に飴を売り出して評判になった川口屋があったが、この店もその伝統を継承している店のようで、近くを流れる弦巻川に因んだ鶴丸の紋を用いている。

 最近になって境内に建てられた大黒堂は、羽二重餅本舗により復活した「おせん団子」を売る店だが、残念ながら営業日は限られている。雑司ヶ谷七福神の対象となる大黒天は、この店内に祭られており、雑司ヶ谷七福神のパンフレットには、鬼子母神の夫神と記されている。江戸名所図会では、本殿に鬼子母神像、相殿に夫神の円満具足天と子の十羅刹女と記しているが、ほかに、鬼子母神の傍らに大黒天も祭られていたという話もあり、また、当初の大黒天は陶製であったが、明治の末頃に木彫りの像が納められたという説もあって、実態はよくわからない。

(2)観静院(豊島区南池袋3-5-7)「弁財天」

 鬼子母神堂から北に行く道は二つあり、左の道は法明寺に、右斜め方向に行く道は大行院の跡地に出るが、何れも江戸時代からの道である。法明寺の前の道は丸池を水源とする川の跡で、上流部を布引川、下流部を弦巻川と呼んだ。この小川を渡った先に法明寺の仁王門があったが、戦災で焼失して現在は無い。法明寺の支院である観静院は右側にあり、院の中に入ると左手に石に彫られた弁財天がある。

(3)大鳥神社(豊島区雑司が谷3-20-14)「恵比寿神」

 弦巻川跡の道を東に行くと大鳥神社に出る。この神社の前身は鬼子母神境内にあった鷺大明神だが、明治の神仏分離により、耕向亭という料亭の跡地である現在地に大鳥神社として移されている。鷺大明神は疱瘡除けの神であるが、神像が仏教系の像であったため鬼子母神に残され、大鳥神社には移されていない。境内には真新しい恵比寿神の祠が祭られているが、大鳥神社が創始された時に恵比寿神も合祀していたという事があったからという。この大鳥神社は酉の市でも知られている。酉の市は足立区花畑の大鷲神社が始めたものだが、今では各地で開催されている。

(4)清土鬼子母神(文京区目白台2-14-9)「吉祥天」

 大鳥神社から都電の踏切を渡って弦巻通りを歩くが、次の目的地までは少々距離がある。三角寛の旧居を利用した料亭を過ぎ、菊池寛旧宅跡も通り過ぎると下り坂になる。その先、幟を目印に右側の細い道を入ると、清土鬼子母神の裏手に出るが、分かりにくい道である。清道鬼子母神の正面入口は不忍通り側にあるので、迷ったら高速道路下の小篠坂に出て右に折れ、その先の不忍通りを右に折れると良いだろう。清土鬼子母神の堂は、鬼子母神が掘り出された清土出現所にある。境内には星跡の清水と呼ばれる三角井戸があり、その右側に吉祥天の像が建てられている。雑司ヶ谷七福神では、寿老人の代わりに吉祥天を七福神の一つとしているが、寿老人と福禄寿を同一神として福禄寿で代表させ、吉祥天を代わりとすることもあるようである。なお、仏教では吉祥天を鬼子母神の娘神としている。

(5)清立院(豊島区南池袋4-25-6)「毘沙門天」

 小篠坂に出て左に行き本浄寺に出て左に折れ、寺の南側の道に入る。江戸時代の鬼子母神道に相当する道である。左手が崖になっている道を上がって行き、左から上がってくる道と合して右に曲がっていく。そのまま進み、旧宣教師館の表示がある所を右に入ると、アメリカ人宣教師マッケレーブ旧宅の雑司が谷旧宣教師館がある。もとの道を直進すると、雑司ヶ谷霊園に出る。ここを左に折れて霊園の外周の道を歩く。この道も鬼子母神道に相当し、江戸時代には、護国寺裏門から鬼子母神に出る道であった。この道を歩いて行くと御岳坂という下り坂に出るが、坂の上から清立院に入る。この寺には木彫りの毘沙門天が祭られている。

(6)中野ビル(豊島区南池袋2-12-5)「布袋尊」

 清立院の石段を下り宝城寺に沿って歩いて行き、都電のガードに出る。ここを右に行けば都電荒川線の都電雑司ヶ谷の停留所に出る。停留所から明治通りに向かって東通りを歩く。東通りは江戸時代からの道で、御鷹部屋から板橋道に出る道である。途中、墓地を過ぎた先の眼鏡店の向かい、中野ビルの前に布袋尊が祭られている。この石像は石材店に置かれていたもので、戦火を被った跡がある。

(7)仙行寺(豊島区南池袋2-20-4)「福禄寿」

 中野ビルの先の角を右に折れ、突き当って右に行くと仙行寺に出る。小石川から移ってきた寺という。堂の前には、木彫りの小さな福禄寿像が祀られている。この寺から少し歩けば池袋駅に出られるが、グリーン大通りに出て右に行けば東池袋四丁目の都電停留所に出られる。

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