夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

6.鎌倉橋から永福橋

2009-10-30 22:46:59 | 神田川と支流
(34)梢橋

 鎌倉橋から川沿いに歩いて行くと、洒落たデザインの「梢橋」が現れる。コストも余分に掛っていそうだが、それなりの理由があるのだろう。神田川に架かる橋は、見栄えのしないものが多いが、橋巡りの途中で、このような橋に遭遇すると、一寸ばかりほっとする。この橋の少し先の右側に、遊歩道が作られている。神田上水は自然河川をそのまま使っていたため、大なり小なり蛇行していたが、神田川が改修されて人工的な流路になると、あちこちで旧水路跡が取り残されることになった。また、小さな支流の跡が残っている場合もある。この遊歩道も、そうした水路の跡なのだろうか。

(35)藤和橋

 続いて現れる「藤和橋」も、藤に因んだ洒落たデザインになっている。設計者の遊び心なのか、地元民の強い要望を入れてのことなのか、それとも単に予算が余っただけなのかは分らないが、こういう橋を見ながら歩くのは、退屈しないでいい。次の橋に行く途中、右側に横長の池がある。ポンプに支障があって水が入れられずに空池になっているのは残念だが、石組もあって立派な池である。

(36)八幡橋

 次の「八幡橋」の名は、太田道灌の創建という下高井戸八幡神社に由来し、橋も神社の参道を意識したデザインになっている。江戸から明治の初めごろまで、神田川の右岸は斜面になっていて、橋もなかったらしいが、明治の終わりごろになると、ここに橋が架けられて参道も出来る。最初は、宮ノ下橋と呼んでいたようだが、後に、表参道にあたる玉川上水の橋の名を受けて、「八幡橋」となる。神社のある場所は、東に張り出した低い丘の上にあるが、今は何の眺めも得られない。

(37)むつみ橋
 住宅街の中を川沿いに進んで、「むつみ橋」に出る。さすがに、4か所も続けて凝ったデザインの橋にするわけにいかなかったのだろう、ここは、ありきたりの橋になっている。以前は、八幡橋から神田橋までの間は田圃で、幾つかの橋も架かっていたようだが、今は神田川の流路も変わり、宅地化も進み、道も出来て、新たな橋が架けられている。

(38)弥生橋
 さらに進むと「弥生橋」に出る。橋の欄干の配置が双曲線のようになっているが、自転車でも楽に通行できそうだ。今回は橋を渡らずに通り過ぎ、先を急ぐ。距離表示によると、先はまだまだ、遠そうだ。

(39)向陽橋
 次の「向陽橋」は、近くの中学校の名を付けた橋である。ついでに言うと、この中学校の敷地は、お屋敷森古墳の跡なのだそうである。この古墳は、大正時代に発掘されたが、埋葬品は全て散逸してしまったという。古墳の跡とみられる、南北100m東西50mの小丘は、戦前まで残っていたようだが、戦後は完全に消滅して学校の敷地となる。発掘前に史跡に指定されていれば、今ごろは古墳公園になっていたかも知れないのだが。

(40)幸福橋
 続いての橋は「幸福橋」。その名にあやかろうと、しばし休憩。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。それと、コサギが一羽。思わず声をだすと、その声に驚いたのか、コサギは水面ぎりぎりに飛び、橋の下を潜って、何処かへ行ってしまった。

(41)神田橋
 次の「神田橋」は、車道と歩道が別の橋になっている。この橋を通る道を荒玉水道道路といい、梅里から喜多見まで一直線の道になっている。昭和の初期に、多摩川の水を送るための水道管を埋設した際、その上に作られたのがこの道路で、「神田橋」も、この道路が作られた時に架けられ、神田上水を渡る橋ゆえ、神田橋としたのだろう。当時は、上流の八幡橋から下流の永福橋までは田圃で、その中を道路が横断していた。

(42)かんな橋
 次の橋は「かんな橋」。ここからは右岸を歩く。この辺りの神田川の遊歩道は、周辺に緑が多く、快適に歩けるのが何よりだ。少し足を速めて、次の「永福橋」を渡る。少々疲れたので、しばし休憩。第一日は、ここで終わりにしたい気分。

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5.佃橋から鎌倉橋

2009-10-28 22:43:06 | 神田川と支流
(26)佃橋

 次の橋は「佃橋」。橋の名は、地名(字)の築田から転じたようだが、本来は領主の直営田をさす佃が正しいのかも知れない。何れにしても、神田川沿いに水田が広がっていたのは確かだろう。江戸時代、高井戸は杉丸太の良材の産地として知られようになり、「佃橋」の近辺にも杉林が作られる。「佃橋」から南に甲州街道に出る道も、その運搬路として利用されてはいたのだろうが、現在は、遥かに交通量の多い環八が「佃橋」を通過している。その環八を歩道橋で渡って先に行く。

 川沿いの道は桜が多いので、花見時がベストといえるが、夏でも爽快に歩けるのが有りがたい。川の中を覗くと、川底の中央部を水が流れていて、思いのほか、水は澄んでいるように見える。前に来た時は、川の中に水質改善のための噴水のようなものがあったが、今回来てみると既に撤去されている。上流の方を覗いてみると、「佃橋」の辺りから、かなりの量の水が流れ込んでいるのが見える。玉川上水を流れてきた処理水を、浄化のため神田川に落としているという話を、どこかで聞いたことがあったが、その場所が「佃橋」であったらしい。

(27)高井戸橋
 次の橋まで来ると人通りも少なくなる。それでも、橋の名だけは、高井戸の名を付けている。高井戸の地名の起こりについては諸説ある。堀兼の井という深井戸に由来するという説、高台にあった高井堂が地名に転じたという説、丘の上の辻堂の傍らにあった清水を高井戸と称したという説、高井氏の土地ゆえ高井土と呼んだという説、等々。考えるほどに分からなくなってくるが、地名の起源などは、分からないことが多いのだ。

(28)正用下橋
 「正用下橋」の名は地名(字)に由来する。正用とは、下層領主の直営田のことを言うが、佃も正用も同じ意味で使われていたのかも知れない。近くには旧石器時代の遺跡もあり、この辺は古くから人が住みついた場所ではあった。

(29)池袋橋
 「池袋橋」は地名(字)に由来する。むかし、北の辺に大きな池があり、棲んでいた蛇を殺したところ水が涸れたため、頭骨を中野の宝仙寺に納めて祈祷してもらったという伝承がある。話の真偽はともかくとして、地形的には池が出来てもおかしくない場所ではある。ここから次の橋までは少し離れているが、公園などもあって緑も多く、退屈はしない。

(30)乙女橋
 付近に鷹狩の場所があって、一般人の狩猟を禁じていたという。このような場所を御留場と呼ぶそうだが、御留が乙女に転じ、「乙女橋」という橋の名となって、色もピンクに染められたというわけだ。

(31)堂の下橋
 丘の上に辻堂があり、そこから堂の下という地名(字)が生じ、その地名が橋の名となる。「堂之下橋」という橋の名は、玉川上水の橋の方が先だったようで、その後、江戸時代には無名だった神田上水の橋が、この橋名を受け継いだということなのだろう。この橋の下流には、小さな滝が出来ている。その音を背中にして、次の橋へ向かう。

(32)塚山橋

 次の「塚山橋」は、塚山公園に渡る橋として架けられたもののようだが、石造りの印象的な橋である。塚山公園は、縄文時代の集落跡地を整備して公園としたものだが、前に入ったこともあり、今回はパスして先に行く。

(33)鎌倉橋

 旧鎌倉街道が通っていたから「鎌倉橋」というわけで、橋のたもとには、「鎌倉街道」の石碑も建っている。鎌倉街道というのは、鎌倉に通じる中世の古道の総称だそうだが、関東では、新田義貞鎌倉攻めの際の進路として取り上げられることが多いようだ。その進路だが、上道、中道、下道とあり、これに、別ルートや連絡道、支道まであって、少々ややこしい事になっている。この鎌倉橋を通るのは、そのうちの、中道に関わる道のようで、登戸の渡しから、祖師谷、上北沢を経て、この鎌倉橋を渡り、大宮八幡の前を通って、鍋屋横丁から板橋に出る道だという。その道を辿ってみるのも面白そうだが、今日は別に目的がある故、早々に鎌倉街道と分かれて、先を急ぐ。

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4.久我山橋から佃橋

2009-10-24 21:56:52 | 神田川と支流
(16)久我山橋

 神田川を下ってきて、最初の繁華の地が「久我山橋」の辺りになる。ここは、駅も商店街も近いため、人通りも多く、車もまた多い。前に来た時は、橋の上を自転車が占領して歩くのも儘ならぬほどだったが、今は自転車置き場も別に用意されていて、橋の上はきれいさっぱり、片づけられている。現在、この橋は人見街道と岩通通りの交差点になっているが、神田川の左岸と右岸の道も通るので、少々煩瑣な状況になっている。もともと、この場所には、江戸時代から橋があり、久我山から玉川上水に出る道が通っていたのだが、昭和になって井の頭線が開通するのに合わせて、別の新しい道が作られることになる。この道は、新しく作られた橋を通って、宮下橋から来る久我山道と合流して、府中方面に行く道となる。人見街道と呼ばれる道がそれである。現在は、久我山駅も新しくなり、周辺も整備され、二つあった橋も一つに統合されて、橋が駅前広場を兼ねるようになっている。

(17)清水橋
 次の橋は「清水橋」。竹林が美しい右岸をしばらく歩いて行くと、道は行き止まり。右手に上がる道はあるが、川からは離れてしまうので、「清水橋」まで戻って左岸を歩く。右岸に樹木の生い茂る傾斜地を、左手に京王電鉄の検車区を見ながら歩いていくことになるが、付近に人家も無いので、暗くなってから歩くような所ではない。

(18)無名橋(京王占用橋)
 次の橋は無名の橋だが、「京王占用橋」か「京王橋」で通るらしい。本来は、京王電鉄の敷地内通行用の橋なのだろうが、今は、誰でも通行可になっている。もっとも、京王電鉄の検車区が出来る前は、この辺にも橋があったわけで、その代替えというわけだ。

(19)月見橋

 川幅いっぱいに流れていた神田川も、無名橋から下っていくと、中央部の狭められた範囲に押込められて流れるようになる。さらに進むと、周辺は再び住宅街となり「月見橋」となる。井の頭線の富士見ヶ丘駅が開業する際、新たな道が開かれ、その時に、この橋も架けられたと思われる。橋の名の由来は分からないが、近辺は田圃だったから、月見をする人も居たかも知れない。当時は、北側の田圃を潤すため、橋の手前で神田川から分水していたので、本流と分水側と橋が二つあったようである。ところで、富士見ヶ丘の名の由来だが、近くに富士の眺めが良い丘があったからという。その丘は、道を開設する際に削られ、残土は井の頭線を吉祥寺まで延長する際に、盛り土として使われたということだ。

(20)高砂橋
 「月見橋」が架かる以前から、ここに橋があり、地名(字)に由来する「鍛冶屋敷橋」と呼ばれていた。江戸時代にも、この辺に橋があったようだが、無名の橋だったかも知れない。現在の橋名「高砂橋」の由来は不明だが、今は通る人も多くなさそうな橋である。川の中を見ると、人工的な水路が川中の川として造られている。川の水は、時には折れ曲がり、時には直線的に、時には水中に置かれた石と石の間をすり抜けて流れている。

(21)あかね橋
 次は、車道の幅の割に歩道がゆったり幅の「あかね橋」。川床に植えられているのはキショウブだという。その時期に来れば、コンクリートの川底が、黄色の花で溢れる様子が見られるのだろうが、今は緑の葉が見えるだけだ。この辺りから南側に、風格のある建物が姿を見せるようになる。関東大震災の被災者のために設けられた浴風会の施設だという。

(22)むつみ橋

 「むつみ橋」は川に斜めに渡されている橋で、橋の一部を利用して草花が植えられている。疲れた心も、少しは和む筈だが、手入れは大変だろう。下を覗くと、ゆるやかな曲水路の中を鯉が数匹、ゆったりと泳いでいるのが見える。

(23)錦橋
 次は、錦が丘団地に由来する名を付けた、「錦橋」という人道橋である。ここから先、神田川は川幅一杯に流れるようになる。川は水草を揺らしながら、微かな音を立てて流れている。水が透き通っているように見えるのは、水深が浅いせいだろうか。

(24)柳橋
 神田川が、右岸にせまってくる台地の端をかわして平坦地に出るとすぐ、斜めに架けられた「柳橋」となる。道幅の割に車の通行は少なそうだ。ここまで来ると、井の頭線の高架が見えるようになる。その後ろには、杉並清掃工場の煙突が、高く、高く聳えている。

(25)あづま橋
 「あづま橋」まで来れば、高井戸駅は目の前。この橋のすぐ先が「佃橋」で、環八が神田川を渡っている。井の頭線が開通した当初から、ここは高架になっていて、道路と立体交差していたそうだが、環八の将来の交通量を見越していたのだろうか。ただ、橋の下の水は、気のせいか、少し汚れているように見える。

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3.丸山橋から久我山橋

2009-10-22 22:54:56 | 神田川と支流
(9)丸山橋

 三鷹台の駅前を通る道路は、「丸山橋」で神田川を渡っている。橋の名は地名(字)に由来するという。昭和の初期に井の頭線が開通するのに合わせて、この道路と橋も整備されたのだろう。当時の三鷹台駅は道路の西側にあったようだが、今は、ホームの延長にともない、道路の東側に移されている。「丸山橋」から先、川沿いの道は行き止まりになる。仕方がないので、橋から左に行き、次の角で信号を渡って東に向かって歩く。時々、家と家の間から向こうを覗くと、川岸の柵らしいものが見える。安心して歩いていくと、突然、線路の脇に出た。いつの間にか、川は線路の下をかい潜って、向こう側に出ていたのだ。

(10)神田橋
 踏切を渡って少し行くと、川べりに出られるようになっている。右に行くと行き止まりなので左に行くと、「神田橋」に出る。明治の頃にも橋はあったようなので、今の橋は何代目かの橋ということになる。橋を渡っていると、右手から自転車が二、三台、こちらに来るのが見えた。ということは、右岸の道は通り抜けが出来るという事になる。「丸山橋」で、道を右にとれば良かったのかなとも思ったが、今さら戻る気はない。橋を渡り終えて、神田川の右岸を少し行くと、右に入る遊歩道のような道がある。神田川の旧水路跡のようでもあるが、他人の家の庭先に入り込みそうな気もして、入るのは止めにした。

(11)みすぎ橋

 次の橋は、三鷹と杉並の境にあることから名が付いた「みすぎ橋」。橋の下を覗くと、コンクリートの岸壁の間に、蛇行する水路が人工的に作られているのが見えた。本来、神田上水は自然河川をそのまま利用したものだったので、蛇行するのが自然なのだが、今や、このような形でしか、昔の神田上水を偲ぶ事は出来ないのだろう。ただ、何と無く川が哀れなような気もする。それに、このまま放置すれば、川底に折角作った水路も、生い茂る草の中に埋もれてしまうのではなかろうか。

(12)緑橋
 次の橋は「緑橋」。桜が多いので、ここを訪れるのは花見時がベストなのだろうが、夏でも日陰になってくれるので、快適に歩けるのが有りがたい。昔は、この辺りから、神田川沿いに田圃が続いていたらしいが、今では閑静な住宅地が先の先まで続いている。

(13)宮下橋
 久我山稲荷神社の下にあるから「宮下橋」というわけで、橋の欄干も鳥居の色に塗られている。今でこそ、久我山駅近くの久我山橋がメインストリートのようになっているが、昔は、この橋を通る道が久我山の本道だった。この道は、大宮八幡から西へ行き、この橋を渡って、府中に出る古い街道で、地元では鎌倉街道とも呼ばれていた道である。

(14)宮下人道橋
 その名の通り、人しか渡さぬ橋である。前の橋との間隔が短いような気もするが、必要あって架けられたのだろう。神田川の流域には、所々に人道橋があるが、それだけ、歩く人が多いということかも知れない。

(15)都橋

 次も人道橋で、「都橋」という名が付いている。名の由来は知らないが、久我山にあった橋の名を受け継いだのだろうか。ここまで来ると人通りも増えて、都会の橋らしくなってくる。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。そこそこの水深があって、餌も豊富らしく、見栄えのするサイズになっている。下は草地があるようで、下りてみたい誘惑に駆られたが、下りたら上がれそうにない。あっさり諦めて、次の「久我山橋」に行く。

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2. 水門橋から丸山橋

2009-10-20 22:59:18 | 神田川と支流
(4)旧みどり橋

 「水門橋」から先、池から流れ出して神田川となった水流は、公園の林の中をひっそりと流れ、そして、公募で名を付けた「みどり橋」と言う木橋の下を潜り抜けている筈だった。それが、今回来てみると、「みどり橋」らしき橋はどこにもない。辺りをよく探してみると、橋が置かれていた橋台らしきものが、ひっそりと残っている。直ぐに壊せそうな仮橋だったので、さっさと壊してしまったに違いない。南側の広場に、プールか釣り堀があった頃ならいざ知らず、今時、この橋を利用する人なんぞは居なかったのだろう。

(5)旧よしきり橋

 次の「よしきり橋」も、公募により名を付けた橋で、利用する人が結構居そうな橋なのだが、どこか変である。遠目には黒く塗った木橋のように見えるが、近くに寄ってみると、木製に偽装した橋であることが、すぐに分かる。となると、前に来た時に見た木製の「旧よしきり橋」はどこへいったのだろう。多分、「旧よしきり橋」も仮橋に過ぎなかったので、「みどり橋」と同様に、すぐに壊してしまったのだろうが、今はその痕跡すら見当たらない。そういえば、「旧よしきり橋」が架かっていたのは、京王線のガードの下という妙な場所だった。道は橋脚のアーチの下を潜るようになっていて、橋脚に頭上注意と書かれてはいたが、自転車で通行する人にとっては、少々危険な通路でもあった。いま来てみると、橋が撤去されているばかりでなく、橋脚の下のアーチの部分も塞がれている。やはり、事故があってもおかしくない場所ではあったのだ。では、どうして、こんな場所に橋を架けたのだろうか。何か謂れがありそうである。

(6)旧夕やけ橋

 駅舎は新しくなってはいるものの、どこか懐かしい井の頭公園駅に立ち寄ってから、今の「よしきり橋」を渡り、神田川に沿って下っていく。明るい日差しの中を、川はのんびりと流れていて、子供たちが何人か、川遊びをしているのが見える。こちらも水遊びをしたい気分だが、今日のところは先を急ぐゆえ、取り止めにして、次の木の橋、「夕やけ橋」を渡る。この橋の名も公募によるものだという。橋を渡りきって、何気なく振り返ると、どこかおかしい。前に来た時は、親柱も木製だった筈だが、今見ると、石の親柱になっている。橋の形も以前と違っていて、何となく安っぽく見える。前の橋は丈夫そうに見えたのだが、橋を架け替えざるを得ない事情が生じたのだろうか。

(7)神田上水橋
 「夕やけ橋」の下流に、「神田上水橋」という橋が架かっている。橋の名の由来は不明だが、何の変哲もない橋である。橋から上流を眺めると、「夕やけ橋」を過ぎた辺りから、神田川が何段かの小さな滝となって、切り立ったコンクリートの谷の中へと落込んで行くのが見える。川の中には草が茂り、ちょっぴり自然が残っているように見えてはいるが、この橋の下を流れているのは、神田上水ではなく、まごうことなき都市河川の一つとなった神田川である。この橋は、神田上水、さようなら、と言っているようにも見える。

(8)あしはら橋
 明治の頃、この辺りに小橋があり、細い道が通っていたらしい。「あしはら橋」が、その名残かどうかは分からないが、昔は芦の茂る湿地帯であったようで、橋の名も、それに由来するのだろう。今でも川の中を芦らしきものが占領しているが、橋の名に因んで植えたのか、自然発生したのかどうかは分からない。この辺では、カワセミを見かけることもあるそうだが、コンクリート岸壁ゆえ住みつくのは無理というものだ。それに代わって、都市部に適応したハクセキレイが一羽。ひらりと現れて、また何処かに飛んでいった。

 この橋の下流で、神田川は井の頭線に沿って流れるようになる。この辺りは地盤が軟弱だったので、井の頭線の開通当時は電車が脱線したこともあったと聞く。今はもちろん、そんな事は無いが、歩く傍を電車が追い抜いて行くのはあまり気分が良くない。そこで、ここからは左岸の道を歩く。その道の途中に親水テラスがあったので下りてみる。テラスと水面との距離はあまり無い。もっとも、昔の神田川の水面と、川縁との段差はこの程度のもので、すぐに川の中に入れたのだ。そんなことを思っているうちに、川の中に入ってみたい衝動に駆られた。しかし、残念ながら柵にはカギが掛っている。諦めて、道に上がり、少し先の丸山橋に行く。

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1.神田川源流

2009-10-18 08:57:08 | 神田川と支流
(1)水源

 出発地は吉祥寺である。十数年前に神田川に沿って歩いた時は一人だったが、今日は道連れが居る。本当は、団体歩行より単独行の方が好みなのだが、まぁ、仕方がない。ともかくも、丸井の横の道を入り、群衆の間をすり抜ける。それから、行楽地にありがちな店を横目に、速足で下っていくと、ようやく水面が見えて来た。ここまで来ると、さしもの人混みも井の頭公園の中に拡散して、水と緑が優勢になる。諸々の音と臭いが混ざり合った駅前は、どうにも苦手だ。少し休んでから、池の周りをうろつこうと思ったが、道連れの方は水源を見に行きたいようなので、黙って従うことにした。

 池の水源らしきものは自然文化園分園近くにあった。そこは、家康がお茶をたてた井戸の跡ということになっているが、本当のことは分からない。はっきりしているのは、江戸時代の水脈は既に断ち切られていて、今は地下深くから汲み上げているという事だけだ。湧きだしている水の量は思いのほか多いが、その大半は井の頭池の底から沁み出して、再び地下深くへと戻ってしまうのだそうだ。つまり循環水になっているわけで、いま湧出した水のうち、神田川に辿りつくのは、ほんの僅かと言うことになる。井戸から湧き出したばかりの水は、清冽な水のようにも見えるが、多分、飲用には不適なのだろう。近寄って嗅いでみると、どこか金属のような冷たい臭いがした。

 江戸時代、この井戸と、家光が自ら小柄で井之頭と刻んだコブシの木と、家光が植えた柳の木の三か所に、立て札が立っていたという。井戸は見た通り残っているが、コブシの木は江戸時代に枯れてしまい、その枯れ木も焼失して今は無い。柳の木の方は明治以降も残っていたという話だが、今はどうなったか分からない。少し気にはなったが、今日のところは先を急ぐゆえ、それを確かめに行くのは止めにした。

(2)ひょうたん橋

 水源はこのへんにして、池に沿って東に向って歩く。歩いていくうちに、さしもの広い池も次第に萎んでいき、その萎んだところに取水口と、小さな橋が二つ。二つまとめた呼称かどうかは知らないが、「ひょうたん橋」という名前がついている。この橋の先に、ひょうたん池というこぢんまりした池があって、この池の向こうに水門橋という小さな橋が見える。その水門橋から先が、神田川ということになっている。

 江戸時代には、井之頭池の東端の土橋から先が、神田上水になっていた。明治になっても、その状況は変わらなかったのだろう。昭和になると、取水口が二つになり、その二つの流れが合わさる先に小さな橋が作られる。やがて、流れは少しずつ広がって、ひょうたん池という小さな池となる。池を川とは呼びにくいので、池の先の小さな橋が水門橋となって、神田川の起点になった。まぁ、こんなところだろうか、あてにはならないが。ひょうたん池が、自然発生的に出来たのか、意図的に作られたのかは分からないが、神田川に流れる水量を調整するバッファとして、今でも役に立っているようではある。

(3)水門橋

 ひょうたん池を回って水門橋に行く。神田川の初めの水量は多くもないが少なくもない。橋を渡って流れに沿って少し行ったところに、「一級河川 神田川」と彫られた石が置かれている。そこからまた、水門橋に戻ってひょうたん池の方を眺める。

 それにしても、「ひょうたん」とは言いえて妙である。さしずめ、神田川が流れだすのは、ひょうたんの口に当たる「水門橋」で、ひょうたんの首に当たるのが「ひょうたん橋」のある場所に相当するのだろう。考えてみれば、ネクタイを首に巻くとサラリーマンもしゃきっとするし、犬だって首輪のおかげでしゃきっとするのだ。川の流れも、首の所に結ばれた紐のような「ひょうたん橋」のおかげで、しゃきっとするに違いない。

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お知らせ

2009-10-14 22:32:06 | Weblog
 我が家の花暦、今回はキンモクセイです。芳香では存在感のある花ですが、花自体は見栄えがしません。ところで、我が家のボケが初めて、思いのほか大きな実をつけました。よく見ると、そのボケに山芋の蔓が巻きついていて、ムカゴが幾つか出来ていました。

 さて、次回の連載ですが、「神田川橋めぐり」というタイトルにしました。神田川は井の頭池に発し、善福寺川、妙正寺川などを合流して隅田川に注ぐ、全長25kmの一級河川です。以前は、関口大洗堰までを神田上水、船河原橋までを江戸川、その下流を神田川と呼んでいましたが、現在は、全体を神田川と称するようになりました。

 徳川家康は江戸入国に先立って、大久保藤五郎に上水を見たてさせましたが、これがのちに神田上水となったと言われています。神田上水は井の頭池から流れ、関口大洗堰で分かれて後楽園の背後を抜けて、万年樋と呼ばれる木の樋で神田川を渡っていました。神田上水は江戸時代を通じて利用されてきましたが、明治になると汚染が進んだため廃止され、近代水道へ変わることになりました。

 神田川を取り上げているホームページの類は数多くあり、今さらという感もあります。今回の連載が、一味違うものに仕上がれば、よいのですが。夢七。
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25. 日本の作曲家

2009-10-12 21:37:41 | クラシック百人一曲
 百人一曲も最後となりましたので、この際、欧米の作曲家にはご遠慮願って、日本人作曲家の曲だけを並べてみる事に致しました。

(97)入野義朗(1921-1980・日本)「尺八と箏のための協奏的二重奏」

「響き」というレコード(JRZ2505~08)には18人の日本人作曲家が取り上げられていますが、その中から、この曲を選びました。演奏は尺八が青木静男、箏が沢井忠夫です。

(98)福島和夫(1930-・日本):「冥」
 事故死したスタイネッケ博士を悼む、独奏フルートの曲。このレコード(SONC16019J)では、野口龍が演奏しています。

(99)諸井誠(1930-・日本)」「竹籟五章」
 尺八譜を用いた伝統的な尺八の奏法に加えて、洋風の奏法も加味した尺八の独奏曲。山本邦山が演奏したレコード(SFX7863)で聴きます。

(100)武満徹(1930-1996・日本):「ノヴェンバー・ステップス」
 琵琶と尺八を主役とした十一段構成の曲。小沢征爾がトロント交響楽団を指揮したレコード(SX2014~5)は、メシアンの「トゥランガリラ」がメインの筈ですが、武満作品の方が魅力的に聴こえました。このレコードは暫く聴いていなかったのですが、「ぐるっとパス」の一環として、東京オペラシティ・アートギャラリで武満徹展を見てから、改めて聴いてみました。琵琶は鶴田錦史、尺八は横山勝也です。

以上、勝手気ままに選んだ百人一曲ゆえ、本来入れるべき作曲家や作品が脱落していたかも知れません。撰者が百人居れば、百種類の百人一曲ができるというわけで、興味ある方は自前の百人一曲を作ってみたら如何でしょうか。なお、今回はクラシックだけを対象にしましたが、ポピュラーその他の分野については、また日を改めて検討してみようかと思っております。では。 夢七。

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24. 20世紀の宗教曲

2009-10-10 11:11:38 | クラシック百人一曲
 20世紀に作曲された宗教曲の中から3曲を選んでみました。

(94)メシアン(1908-1992・フランス):「神の出現の3つの小典礼曲」から第1曲

 メシアンと言えば宗教曲と鳥の声。両方を満たす曲の中から、短めのこの曲を選びました。この曲には、「内的な会話のアンティフォナ」という題がついています。レコード(OS415R)は、イヴォンヌ・ロリオのピアノ、ジャンヌ・ロリオのオンドマルトノ、クーロ指揮フランス国立放送室内管弦楽団の演奏です。なお、第1曲に登場する野鳥は、クロツグミ、ナイチンゲール、庭うぐいす、アトリ、野原のひばり、だそうです。

(95)ペルト(1935-・エストニア、ドイツ):「深淵より」
 古くて新しく、かつ静寂の中の不思議な響き。ヒリヤードほかの演奏。アルボス<樹>と題されたこのCD(J32J20224)には、「タルコフスキーをしのんで」という言葉とともに、芭蕉の「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」という句が付けられています。この句は、撞と消を入れ替えた倒装法の句だそうですが、ペルトが知っていたかどうか分かりません。 

(96)バーンスタイン(1918-1990・アメリカ):「ミサ曲」
 バーンスタインはこの曲で、クラシックとポピュラーの垣根を取り払い、教会も飛び出し、ついには宗教の枠も壊してしまっています。2時間近い大曲ですが、飽きさせないのはさすが。バーンスタインの指揮、シンガー、プレーヤー多数。レコード(SOCP3~4)。

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23. 20世紀の室内楽曲

2009-10-08 22:10:55 | クラシック百人一曲
 20世紀の室内楽曲を3曲、並べてみました。

(91)コダイ(1882-1967・ハンガリー):「無伴奏チェロソナタ」

 シュタルケルの演奏するこのレコード(HR1001EV)は、LP初期のモノフォニックによる歴史的名録音盤とされ、松脂が飛び散る音が聞こえるとまで評されたものです。録音技師はピーター・バルトーク。(55)に取り上げたバルトークの次男です。

(92)ヴェーベルン(1883-1945・オーストリア):「弦楽四重奏のための5つの楽章」
 この作品は1世紀も前のもので、伝統的な語法による初期の作品ですが、それにもかかわらず、いま聴いても新鮮に聞こえます。この曲から先、作曲者は作品を深化させていきますが、聴き手の負担も大きくなる故、この曲で止めておくことにしました。なお、このレコード(SRA2756)ではジュリアード弦楽四重奏団が演奏しています。  

(93)ショスタコーヴィチ(1906-1975・ソ連):「弦楽四重奏曲第8番」
 昔はショスタコーヴィチが好きではありませんでした。体制派と思っていたからです。でも事実は違っていたのですね。この曲は、スターリンによる被害者を悼むために作られたということです。クロノス弦楽四重奏団の演奏するCD(WPCC3656)で。

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