夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

神田川桜散歩・淀橋から瀧澤橋(その2)

2022-04-03 08:56:10 | 緑と水辺の散歩道

万亀橋から神田川の左岸を進みJRの橋梁を潜る。その先の大東橋を渡って、神田川右岸にある神田上水公園に入る。このコースを2区間に分ける場合は、東中野駅から大東橋に出る。

神田上水公園には自然石や切石による流れがつくられており、花見の頃には、桜の花びらを流れに見立てた石庭のようにも見え、また、花筏のようにも見える場所がある。

神田上水公園を先に進み、途中の南小滝橋と、亀齢橋から下流方向を眺める。両岸は桜が続いており、左岸と右岸どちらの道を歩いても花見を楽しめる。

神田上水公園は早稲田通りが通る小滝橋で終りとなる。右手の交差点を渡って左へ、小滝橋の北側に出て次の橋まで左岸を歩く。

落合中央公園に上がり、神田川の桜並木を眺めたあと久保前橋を渡る。ここから次の橋、せせらぎ橋までは右岸を歩く。

せせらぎ橋から下流を眺める。桜並木の先に高田馬場分水路の暗渠口が見えている。せせらぎ橋を渡った先は、せせらぎの里公苑だが後で寄ることに。

せせらぎ橋から神田川の右岸を先に進むと新堀橋に出る。橋の下流には瀧澤橋が見えるが左岸は歩けないので右岸を歩く。

瀧澤橋の下流側の次の橋は落合橋だが、桜の間に橋が見えるだけで、川沿いに歩ける道が無い。そこで、新堀橋まで戻り北側の道で、せせらぎ橋まで戻る。

せせらぎの里公苑で小休止。東側の桜並木の道を歩き、下落合駅に行く。神田川桜散歩はこれにて終りとなる。 

 

 

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神田川桜散歩・淀橋から瀧澤橋(その1)

2022-04-02 21:18:36 | 緑と水辺の散歩道

今は花見の宴は出来れば避けたいところだが、花見の散歩なら許容範囲かも知れぬと思い、マスクをして出かけることにした。今回の散歩道は当ブログで取り上げたことのある神田川の道のうち、淀橋から瀧澤橋までの区間を取り上げ、2回に分けて公開する。

地下鉄の中野坂上駅を出て青梅街道を東に下れば神田川に出る。淀橋水車を表しているという橋の柱の紋様を確認し、対岸の桜を眺めながら下流に向かって左岸を歩く。

次の栄橋で下流を眺めてから、橋を渡って今度は右岸を歩く。川岸の案内図によると、この辺りの神田川は東側の新宿区と西側の中野区の境界になっていて、右岸の新宿区側は「水とみどりの散歩道」という遊歩道になっている。

栄橋の次の橋は伏見橋で、この橋を渡ってから今度は中野区側の左岸を歩く。左岸は「神田川四季の道」という遊歩道になっている。先に進むと末広橋に出るが、その手前に天沼を水源とする桃園川の緑道の出口があり、南こうせつが歌った神田川の歌詞の碑が置かれていた。

末広橋は大久保通りが通っているので、左手の交差点を渡って橋に戻る。ここから次の橋までの間は桜があまり無い。振り返って南側のビル群と桜を眺め、それから左岸を先に進む。

次の橋は柏橋で斜めに架けられている。この辺りは柏木という地名であったらしく、それが橋の名の由来になっている。対岸の桜を眺めながら左岸を先に進むと新開橋に出る。

新開橋は、明治の中頃に新宿・八王子間に甲武鉄道が開通して現在の東中野駅近くに柏木駅が開業した際に架橋されたという。走行する電車を写真に収めてから、新開橋を渡る。

新開橋を渡って右側の新宿区側に移り、水とみどりの散歩道を歩く。見上げれば桜、横にも桜、そして散歩道には桜の花びら。桜に包まれての散歩道がしばらく続く。

柏木駅開業の際に架けられた橋は新開橋の他に万亀橋があったという。ただ、この橋の現在位置は当初とは異なるらしい。走行する電車を写真に収めてから万亀橋を渡る。

このコースは淀橋から瀧澤橋まで続けて歩いても良いが、淀橋から万亀橋までと、万亀橋から瀧澤橋までの2回に分けても良く、この場合、万亀橋から近い東中野駅が中間点となる。

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桜台から城北中央公園へ

2020-11-24 19:54:00 | 緑と水辺の散歩道

玉川上水から分かれて東に流れ巣鴨の元舛から江戸の各所に配水していた千川上水は、途中の各地で分水され、農業用水などとして利用されてきた。桜台駅から近い下練馬村分水もその一つで、その跡を辿って石神井川を渡り、城北中央公園まで歩いてみた。

桜台駅の南口を出て、すぐ先の千川通りに行く。以前は千川上水が西から東に流れていたところで、今に残る桜並木の道を東に向かうと、環七が西武池袋線を越える桜台陸橋が見えてくる。大正8年修正の下練馬村全図を現在の地図と対応させてみると、下練馬村分水の起点は千川通りが桜台陸橋を潜る辺りに位置すると考えられる。これが正しいとして、その先の流路をたどってみることにした。なお、寛政4年の下練馬村絵図にも下練馬村分水の流路が書かれているが、その流路は大正時代に至るまで、大きくは変わっていないように思われる。

下練馬村分水は桜台陸橋の西側を流れ、線路の下を潜って北側に出ていたようである。桜台陸橋沿いの歩道橋で西武池袋線の上を越え、環七沿いに進む道と分かれて左側の道をたどる。道は右に曲がって環七に近づくが、ここでも左に行く道をたどり、突き当りを右に行って正久保通りに出る。下練馬村分水はここから左に行きすぐ先で正久保通りを渡っていたらしい。ここで、下練馬村分水の流路と離れて右に行き、練馬区栄町の交差点で正久保通りを渡る。今回は寄り道として、環七を少し進んで新桜台駅の入口から斜め左に入り、新桜台もくせい緑地を見に行く。

練馬区栄町の交差点まで戻り、正久保通りを右に進む。この通りは、江古田二又で分かれ、栄町本通りを経て、環七を過ぎてから正久保通りとなり、石神井川を渡って川越街道に至る江戸時代からの道である。交差点から少し先、右に入る細い道がある。緑色のガードレールがある道で、この道が下練馬村分水の流路跡と思われる。この辺りは石神井川の小さな支流の源流域にあたるらしく、その支流に千川上水から分水した水を加えて農業用水としたらしい。 

石神井川支流の浅い谷でもあり、下練馬村分水の跡とも思われる道を進む。緑色のガードレールが標識代わりになっていて、迷うことはない。羽沢ふじ公園を過ぎ、羽沢三丁目区民農園に出て右に行く。この先、下練馬村分水は石神井川沿いの田に用水を供給し、幾つかに分かれて石神井川に流れ込んでいたらしいが、今は様子が変わってしまっている。開進第4小に沿って進むと右側に、こどもの森がある。豊かなみどりと子どもの遊び環境が共存する練馬区立の公園で、運営管理は区から委託された団体が行っているらしい。

こどもの森のすぐ先に羽沢けやき憩いの森がある。けやき、しらかし、ひのきが多い屋敷林で、西側、北側、東側が土地所有者の厚意により開放されている。

羽沢けやき憩いの森と道路を挟んで東側にも、土地所有者の厚意で解放されている羽根木憩いの森がある。この屋敷林の南側を進むと五差路に出る。

五差路の先、前方左側の道に入って開進4中を左に見て進み、突き当りを右に行くと茂呂山公園の下に出る。ここを左に茂呂山通りを進み、小茂根稲荷を右に見て坂を上がる。右側に茂呂山遺跡の林を見ながら進めば石神井川に出る。

石神井川を栗原橋で渡ると、茂呂山通りの両側が都立城北中央公園になっている。公園内に入って園内を散策し、竪穴住居跡を見る。帰りは茂呂山通りを北に行き上板橋駅に出てもよく、石神井川に沿って西に行き氷川台駅に出てもいいが、今回は小竹向原に向かう。

 

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石神井公園と周辺の緑地をめぐる

2020-11-14 17:22:42 | 緑と水辺の散歩道

石神井公園駅を南に出て東に行き、都市計画道路により南に行く。和田堀稲荷神社の前の三叉路で左側の道を下って行くと左側に和田堀公園がある。先に進んで南田中団地西交差点で右に行き和田堀緑道に入る。三宝寺池に発し石神井川に合流する川の跡を緑道にしたもので、庭園風に造られているが、現在は水が流れていない。

緑道に入って少し先の北側は和田堀緑地になっているが、緑道とは一体になっている。緑地の部分が後から緑道に追加されたのかも知れない。緑道を先に進めば石神井池に出られるが、今回は南田中団地西の交差点に戻る。

交差点を南に行き石神井川を山下橋で渡る。渡った先の南側には、土地所有者の厚意により開放されている緑地、和田前憩いの森がある。ここからは石神井川に沿って上流へと向かう。

豊島橋を渡って交差点を渡り石神井公園通りを右に行き記念庭園に入る。大正時代に開設された第二豊田園の跡で、現在は都立石神井公園の一部になっている。

記念庭園を出て石神井池に行く。三宝寺池から流れる水を堰き止めてボート池にしたということだが、当時は三宝寺池の湧水量がそれだけ多かったのだろう。ここから、石神井池沿いに歩いてもいいのだが、今回は、くつろぎ広場を経て上を歩いて西に向かう。

先に行くと道の右側に草地広場が広がっている。左側には野球場とテニスコートがあり、運が良ければ野球場の東側から富士山が見えるのだが、今日は見えそうにない。

草地広場から池淵史跡公園に行き、旧内田家住宅を眺めながら園内を歩く。旧内田家住宅は東京文化財ウイークの参加企画事業である文化財古民家めぐりの対象の一つで、当ブログでも取り上げたことがある。ここから、石神井池に下り、井草通りを渡って三宝寺池に行く。

三宝寺池の北側は水辺観察園になっている。ここは釣り堀があったところで、さらに遡れば100mプールがあった場所という。木道の途中で左に行き、三宝寺池を渡る橋の上から西側を眺める。右側に見える林の辺りは、中の島、又は浮島と呼ばれていた場所で、その植物群落が天然記念物に指定されている。指定当時は水生植物が繁茂していたというが、湧水の減少により植物相が変化してしまったため、今は復元作業が進められているようだ。

橋を渡って上がった先の左側は石神井城址で、文化財ウイークには内部が公開され、説明資料が置かれていた。

三宝寺池を半周してから池を上がり、野鳥誘致林に行く。紅葉が見ごろになるのは、もう少し先だろうか。今日は鳥の声も聞こえない。

練馬区立の石神井公園松の風文化園に行く。気象観測用の練馬観測所のそばを通り、練馬区立のふるさと文化館分室はパスして、北東側の出入り口から外に出る。富士街道を渡り郵便局の西側の道を北へと向かうと右側に、けんか広場という変わった名称の広場があった。北側が練馬区立けんか広場公園で、南側が空き地を所有者から借用して民間の遊び場としたけんか広場になっているが、境界が無いので一体の広場になっている。

けんか広場から北に向かい、突き当りを左に次の角を右に行くと大泉高校のグランドに出る。ここを左に行くと松が高くそびえる千坪憩いの森に出る。ここは、練馬区が土地所有者から借用して開放している場所である。

千坪憩いの森の北側の道を西に行くと、東大泉つばき緑地に出る。ここを北に行き、東京学芸大学の敷地に沿って左に曲がり、その先を道なりに右へ向かう。北に進むと、あかしあ東緑地という小公園のような緑地が左側にある。ここを過ぎて踏切の手前を左に行けば大泉学園駅に出る。

 

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大泉学園駅南側の緑地散歩

2020-11-03 11:13:59 | 緑と水辺の散歩道

緑地散歩に先だって、大泉学園駅の南口から5分ほど歩き、牧野記念庭園記念館に行く。日本植物分類学の父と言われた牧野富太郎博士の旧宅で、国登録記念物(遺跡・名勝地)に登録され、都指定文化財(名勝及び史跡)とし通年公開される文化財になっている。

牧野記念庭園を出て右に行き、庭園に沿って次の角を右に行く。次の角を左に行き、三角公園を左に見て進むと、交差点の北側に道路に沿った緑道のような東大泉六丁目緑地が見えてくる。西に向かって進み、東大泉木もれ陽公園の先を左折し南に向かう。大泉南小の東側を進み、その先の角を左に行くと梨の花公園がある。

梨の花公園から少し先にある角を右に行き、東大泉南児童遊園の左側を進み、突き当りを右に行くと少し広い道に出る。ここを右に行くと左側に井頭緑地がある。道路沿いに続いていた樹林の一部が緑地として残ったのだろう。

先に進み井頭の交差点を左に入って先に進むと、井頭こぶし憩いの森がある。憩いの森とは、練馬区内に残る樹林地を所有者の協力を得て開放するものを言い、面積が少ない場合は街かどの森と言う。所有権が練馬区に移ると公園または緑地と呼ばれるようになる。

井頭こぶし憩いの森の南側は、こぶし広場と呼ばれ、まだ使われていない公有地を子どもの遊び場として一時開放した広場になっている。この広場ではボールを使用することは禁止されている。広場の南側の道を通って西側に向かう。

みどり広場は、その名の通り周囲を木々に囲まれた広場になっている。ここは、民間の土地所有者から区が無償で土地を借用し、子どもの遊び場として一時開放したものになる。

みどり広場に隣接する井頭の森緑地は樹林地で、区の所有地になっている。井頭の森緑地の北側に隣接する井頭憩いの森は所有者の協力を得て開放されている樹林地になっている。扱いの上では区分されているが、みどりの広場、井頭の森緑地、井頭憩いの森は一体のもののように見える。

井頭憩いの森を出て西に向かい、小公園のような井頭泉緑地を右に見て先に進み、白子川の上流起点にあたる七福橋を渡る。渡った先の白子川の左岸は大泉井頭公園になっていて、下を覗くと池のようになっている。新編武蔵風土記稿に白子川の源流は井頭池とあり、明治の地図には細長い池が描かれている。これが七福橋から北側の部分に相当するのだろう。なお、井頭池には新川という川が流れ込んでいたという。

大泉井頭公園内を進み、井頭橋を渡って南方を眺めると、農地の向こうに井頭憩いの森が見える。戦後すぐの写真を見ると、この辺り一帯は畑地の中に雑木林が点在する農村風景が広がっていたようだが、今は雑木林も保存を考えないと消滅する時代になっている。

白子川に沿って下流に向かって歩く。井頭橋の次は火之橋、そして松殿橋、その次は緑橋で、向こうに西武池袋線の線路が見えてくる。この橋で白子川から離れて右へ坂を上がると、東大泉あけぼの緑地の前に出る。雑木林の北側の一部が緑地として残されたようである。

緑地の手前の道を北に行き、右、左と曲がり次を右に行き細い道を抜け、突き当りを左に行くと石庭の森緑地の入口に出る。以前は西武池袋線の近くまで続く屋敷林だったようだが、後に一部が石庭街かどの森として公開され、さらに区の所有となり石庭の森緑地となる。

石庭の森緑地は、屋敷地内にあった既存の自然石のほか、郵便ポストの敷石など廃棄処分となる石材を利用して石庭としている。庭園内には敷地内の大谷石の塀の破片や石を金網の中に詰め込んだ蛇籠が昆虫などの棲家として置かれている。石庭の森緑地からはスーパーの横に出て商店街を北東方向に進み、ゆめりあフェンテを抜ければ大泉学園駅南口に出る。

 

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冬の隅田川橋めぐり(3)

2019-01-29 19:08:51 | 緑と水辺の散歩道

千住大橋から先は、隅田川沿いに歩くことには拘らずに橋をめぐる。千住大橋駅を北側に出て線路に沿って西に向かい、千住スポーツ公園を通って北に真っすぐ進むと千住桜木町公園に出る。隅田川は公園のそばにあり、この辺りから尾竹橋までは隅田川テラスを歩けるようになっている。上流に見える尾竹橋は、震災復興として架けられたのが始まりで、その後、老朽化により架けかえられたのが現在の橋である。橋の名は下流にあった御竹の渡しに由来しているのだろう。テラスから上がり、火力発電所のお化け煙突のモニュメントを見たあと、尾竹橋に向かう。

【尾竹橋(おたけばし)諸元】

橋長130.3m。幅員15.0m。3径間連続鋼ローゼ桁橋。1933(昭和8年)創架。1994(平成6年)現橋建造。東京都管理。

 

尾竹橋を渡ると公園がある。ここを右に行き、隅田川から離れた道を西に向かう。道がやや上りになると尾久の原公園に出る。この先しばらくは、隅田川の堤防上の道を歩く。前方には日暮里舎人ライナーの橋が見えて来るが、その下に見えるのが尾久橋になる。

【尾久橋(おぐばし)諸元】

橋長306.0m。幅員24.0m。3径間連続鋼床版箱桁橋。上流側1968(昭和43年)創架、下流側1979(昭和54年)創架。東京都管理。

 

日暮里舎人ライナーと尾久橋の下をくぐり、隅田川から離れて、道を西に向かう。宝蔵院を過ぎるとすぐ右手に小台橋がある。通りを渡り上流側から橋を眺める。隅田川テラスには下りられるが、歩けるのは途中までのようだ。

【小台橋(おだいばし)諸元】

橋長118.2m。幅員13.8m。鋼ニールセンローゼ桁橋。1930(昭和5年)創架。1995(平成7年)現橋建造。東京都管理。

 

小台橋から休園中のあらかわ遊園に出てその前を通り過ぎ、先へ先へと歩いて堀船中学校入口の交差点を右に行く。高速道路の下をくぐり、石神井川を豊石橋で渡ってその先を右に入り、道なりに進めば豊島五丁目団地の前に出る。団地側の東豊島公園を通り、隅田川の上流側から豊島橋を眺める。ところで、北区と足立区の境界線は豊島五丁目団地の辺りで東側の荒川まで伸びているが、荒川放水路が開削される以前は、この境界線が隅田川の流路になっていて、現在の荒川の位置には豊島の渡しがあった。荒川放水路開削後、隅田川は今の流路に変更され、現在の豊島橋より上流に、最初の豊島橋が木橋として架けられる。昭和35年になって現在位置に豊島橋が鋼橋として架けられるが、その後、架け替えられたのが現在の豊島橋ということになる。

【豊島橋(としまばし)諸元】

橋長106.7m。幅員15.0m。鋼ローゼ桁橋。1925(大正14年)創架。2002(平成14年)現橋築造。東京都管理。

 

豊島五丁目団地の前を西に行き、新豊橋南の交差点を右に行くと新豊橋に出る。橋を渡ると左側に新田さくら公園がある。公園の前の堤防上から新豊橋を眺める。この橋は新田地区と豊島地区を結ぶ橋であり、橋の名もそこからきているらしい。

【新豊橋(しんとよばし)諸元】

橋長105.0m。幅員22.0m。鋼単純箱桁とアーチとの複合構造。2007(平成19年)創架。足立区管理。

 

堤防上の道を上流に向かうと新田橋が見えて来る。隅田川に沿って進み、新田橋に出て橋を渡る。木橋だった頃を模した橋桁や高欄など見どころもある橋なのだが、難点もあるようで架け替えも検討されているらしい。

【新田橋(しんでんばし)の諸元】

橋長114.0m。幅員9.0m。単純鋼鈑桁橋(5連)。1931(昭和6年)創架。1961(昭和36年)現橋建造。北区管理。

 

新田橋を渡って次の信号を右に行く。隅田川とは暫く離れて歩くことになるが、神谷堀公園まで来れば、右に入って隅田川の堤防に出られる。ここからは、環七が通る新神谷橋を望む事が出来るが、残念ながら今は、上流と下流の何れも隅田川テラスを通る事が出来ない。荒川から隅田川が分れる岩淵水門と新神谷橋との間には橋が無いので、新神谷橋が隅田川最上流の橋という事になる。そこで今回は、これにて橋めぐりを終えることにし、最寄り駅の南北線王子神谷駅まで歩く。隅田川テラスを伝って岩淵水門から河口まで歩けるようになったら、また歩いてみたいと思いながら。

【新神谷橋(しんかみやばし)の諸元】

橋長202.8m。幅員20.5m。鋼ゲルバー鈑桁橋。1967(昭和42年)創架。東京都管理。

 

(注)橋の諸元は、「隅田川にかかる26の橋(平成29年3月)」による。

 

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冬の隅田川橋めぐり(2)

2019-01-26 18:28:23 | 緑と水辺の散歩道

東武鉄道の下をくぐりスカイツリーを眺めながら先に進むと、昭和3年に架けられた言問橋に出る。この橋は都の歴史的建造物に指定されている。言問橋は橋桁によって支えられる桁橋だが、眺望と景観を考慮しての設計とされ、橋を西側から見るとスカイツリーが正面に見えるので、絶好の撮影ポイントになっている。橋の名は、“名にし負はばいざこととわむ都鳥・・・”という歌に由来する。「伊勢物語」には、武蔵と下総の境の隅田川を舟で渡った時にこの歌が詠まれたとあるが、位置的にはこの橋よりもう少し上流のようである。

言問橋から先に進むと昭和60年に架けられた桜橋という歩行者専用橋に出る。両岸の隅田公園を結ぶX字型の橋で、橋の上には円錐形のモニュメントも設置されている。今の時期、この辺りにはユリカモメが多く見られる。「伊勢物語」に書かれている都鳥の特徴からすると、都鳥はミヤコドリ科のミヤコドリではなく、カモメ科のユリカモメと考えられている。そして今では、ミヤコドリではないユリカモメが都民の鳥に選ばれている。

隅田川を先に進むと白鬚橋に出る。橋の名は東側にある白鬚神社に由来する。大正3年、橋場の渡しの場所に有料の木橋が架けられたのが、この橋の始まりで、昭和6年になると現在の橋が架けられる。千住大橋が架けられる以前、橋場の渡しは奥州街道や水戸街道、佐倉街道の街道筋でもあった。白鬚橋は永代橋に似た鋼橋で、都の歴史的建造物にも指定されており、長寿命化工事も行われたようである。ところで、武蔵国府と下総国府を結ぶ古代の支道は、この辺りで隅田川を渡っていたと考えられている。武蔵国が東山道から東海道に所属変更されると、この支道が東海道に格上げされる。その後、東海道は武蔵国府をバイパスするルートに変更されるが、位置は多少変わったにせよ、この辺りで隅田川を渡っていたのだろう。都鳥に言問う場所は、この辺りにあった渡し場だったと思われる。

白髭橋を渡って、水神社が改称した隅田川神社に寄り、梅若伝説の木母寺を経て、水神大橋を渡る。平成元年に架けられた橋で、当初は歩行者専用橋であったが、平成8年に自動車道路併用となる。橋の名は水神社に由来している。

平成18年に開園した汐入公園に入り隅田川に沿って進むと、平成18年に架けられた千住汐入大橋に出る。橋の名は、紡績会社の通勤用として明治時代に始まった汐入の渡しに由来する。

常磐線をくぐって隅田川から離れて進み、日光街道の通る千住大橋に出る。千住大橋が最初に架けられたのは文禄3年で今より上流だったという。現在、千住大橋は下りとして利用される昭和2年架設の上流側の橋(写真)と、上りとして利用される昭和48年架設の下流側の橋から構成されている。上流側の橋を渡って先に進めば千住大橋駅に出る。

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冬の隅田川橋めぐり(1)

2019-01-19 16:44:16 | 緑と水辺の散歩道

隅田川はもともと荒川の下流であったが、昭和5年に洪水対策として荒川放水路が完成したことから、岩淵水門から下流が隅田川となっている。今回は、平成31年冬の隅田川の橋の姿を、船も利用して見て回ることにした。

勝鬨橋を渡って左岸を歩く。下流に見えるのは築地大橋で、豊洲~築地の環二通りが暫定開通したことに伴い平成30年11月4日に開通している。隅田川では最も新しい橋で、勝鬨橋より下流に位置しているため、隅田川では最下流の橋になる。なお、写真では分かりにくいが橋の向こうには東京タワーが見えている。築地大橋は橋長245.0m、幅員47.9m、歩道は橋の中間でカーブしており車道との間が空いている。車道の上部には横の繋ぎ材が無く開放的で、勝鬨橋が重厚な橋だとすれば築地大橋は軽快な橋に見える。

築地大橋を渡って浜離宮に行き散策したあと船に乗る。浜離宮や築地市場跡を眺めながら上流へと向かうと勝鬨橋に出る。勝鬨橋は昭和15年竣工の鋼製跳開橋で、近代可動橋の技術的到達点を示すものとして重要文化財に指定されている。この橋が開くところを見てみたい気もするが難しいのかも知れない。

次の橋は佃島に渡る佃大橋で、昭和39年に架けられている。写真は上流側から見た佃大橋である。隅田川は佃島で東と西に分かれて流れ海に注いでいるが、佃大橋はその西側に架けられた橋になる。一方、東側にも佃島に渡る相生橋(明治36年創架、平成12年現橋建造)があり、相生橋も隅田川に架けられた橋ではあるのだが、今回は通らない。

先に進むと中央大橋が見えてくる。塔からケーブルを張って支える斜張橋で、設計はフランスの会社に依頼したという。塔は兜の意匠らしい。開通は平成6年。隅田川には実用的な橋が多いが、この橋は都市景観としてのデザインに配慮した橋になっている。

中央大橋をくぐって先に進むと、スカイツリーとともに永代橋が見えてくる。永代橋が最初に架けられたのは元禄11年で、現在地より北の日本橋川のそばにあり、その場所は当時の河口に位置していた。明治30年、永代橋は下流の現在地に場所を移して鋼鉄製の橋として架けられたが、橋板などに木材を使用していたため関東大震災により被災し、大正15年に架けかえられた。これが現存する永代橋で、当時の技術的達成度を示す遺構として重要文化財に指定されている。現在は、塗装や舗装その他、長寿命化の工事が行われているので、本来の姿を見ることは出来ない。

永代橋をくぐると、その先に隅田川大橋がある。架けられたのは昭和54年で、上段を高速道路の高架橋部分とした二層式の橋である。

次の橋は清洲橋で写真は上流から見たものである。清洲橋が架けられたのは昭和3年で、当時の最新の材料・構造・工法を駆使した昭和初期を代表する吊橋として重要文化財に指定されている。現在は長寿命化の工事が行われている。

清洲橋の次は新大橋で写真は上流から見たものである。新大橋は斜張橋で塔はオレンジ色になっている。新大橋が最初に架けられたのは元禄6年。近くの両国橋が大橋と呼ばれていたため、新大橋という名になったという。明治18年には洋式の木橋となるが、明治45年になると、やや上流の現在位置に鉄橋として架けかえられる。この橋は関東大震災でも無事であったが、昭和52年には現在の橋に架けかえられ、旧橋は明治村に移されている。

高速道路の下をくぐると両国橋が見えてくる。写真は上流側から見た両国橋である。明暦の大火の時、隅田川には千住大橋以外に橋が架けられていなかったため逃げることが出来ずに多くの犠牲者を出した。このことから、両国橋が架けられることになったという。その時期は万治2年あるいは寛文元年という。明治37年には鉄橋となるが、昭和7年になってやや上流に架けかえられる。これが現在の両国橋で、都の歴史的建造物に指定されている。

写真は上流から見た蔵前橋で、現在は長寿命化工事中だが橋の形は分かる。蔵前橋は幕府の米蔵があったところで、橋が黄色なのは稲のもみ殻からの連想らしい。蔵前橋は昭和2年の架橋で、都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た厩橋で、現在は長寿命化工事中である。明治7年に木橋が架けられたのが厩橋の始まりで、明治26年に鉄橋となるが関東大震災で被災し、昭和4年に現在の橋が架けられる。厩橋は都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た駒形橋で、長寿命化工事中である。昭和2年の架橋で、都の歴史的建造物になっている。

写真は上流から見た吾妻橋で、浅草寺が近いためかベンガラ色に塗られている。吾妻橋は安永3年に架けられたことに始まる。江戸時代、隅田川に架けられた橋を年代順に並べると、千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の順となり、吾妻橋が江戸時代最後の橋になる。吾妻橋は明治9年に洋風の木橋に架けかえられ、明治20年には鉄橋となるが関東大震災で被災したため、昭和6年に架けかえられ現在に至っている。吾妻橋は都の歴史的建造物になっている。吾妻橋をくぐると間もなく浅草の桟橋で、ここで下船する。

 

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石神井川の桜を見に行く(3)

2017-04-15 16:09:42 | 緑と水辺の散歩道

中之橋から上流の石神井川は豊島園内を流れるが、今回は園内をパスすることにして、中之橋から上流を眺めるにとどめる。

中之橋から春日町本通りを北に進み二つ目の信号を左に入る。豊島園の塀に沿って進めば春日神社があり、ここにも桜はある。周囲を桜で囲んだ臨時駐車場に沿って進み左に曲がると石川橋に出る。ここから下流の豊島園方面を眺める。

石神井川の左側を歩いて、田中橋を過ぎる。次の西田中橋で下流方向を眺めると桜が所々に見えるが、上流には桜が見当たらない。神路橋、道楽橋を過ぎて新小橋まで来ると、練馬中央陸橋が見えて来るが、この先が少々分かりにくい。近くに武蔵野の路の標識があるが、環八開通以前の地図なので役に立たない。新小橋の次の橋が小橋で、その上流で環八が石神井川を渡っているが、橋としては環八の東側の貫井橋と西側の高松橋に分割されている。

小橋を渡り環八を渡って左に行き、目白通りと環八の交差点を渡って右に行く。目白通りが石神井川を越える練馬大橋を見送って、石神井川の左側を歩く。竹橋、境橋を過ぎると上新田橋で、ここから先、また桜並木が始まる。

その次の大野橋から上流を眺め、石神井川の右側を通って進み、こぶし橋を過ぎる。川が整備され、桜も両岸に植えられているので、桜を見ながら散歩するには好適な道になっている。

谷原三之橋、桜見橋を過ぎ、谷原二之橋で上流を眺める。川の右側をさらに進んで、すずしろ橋、高野橋とたどる。ここを過ぎると、川岸に枝垂桜が見られるようになる。

富士見橋、高富士橋を過ぎ、次の下薬師堂橋から下流を眺める。枝垂桜が両岸に見られる。

西武鉄道の鉄道橋を潜り、薬師堂橋から桜並木の続く上流を眺める。

 

長光寺歩道橋で川の様子をうかがい、笹目通りの通る長光寺橋を過ぎる。そのあと、平成みあい橋の上からから上流の緩傾斜護岸の様子を眺める。

水面近くのテラスに下り、桜を仰ぎ、流れを見ながら歩き、南田中橋を潜って、和田前歩道橋に上がる。ここから下流を眺める。

山下橋から上流の石神井川が整備され、桜も植えられているので、今回は石神井川沿いに少し歩いて石神井公園に行く。

今回のコースは“武蔵野の路”の石神井川コースを利用したものだが、石神井公園については別稿で扱うこととして、今回はこれにて終りとする。

 

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石神井川の桜を見に行く(2)

2017-04-14 18:19:14 | 緑と水辺の散歩道

中山道を渡って石神井川の左側を進むと、左手に石神井川の旧水路を利用した氷川つり堀公園がある。

石神井川沿いに進むと愛染橋があり、その南側に旧水路の続きが見える。

西宿裏橋の先で、堰の上橋を渡り、石神井川の右側を歩く。

石神井川沿いには桜並木が続き、さくら祭りの提灯が取り付けられている。

西堰橋、双栄橋を過ぎると中根橋となる。橋から上流を眺めてから、川に沿って先に進む。

根村橋、新西原橋、山中橋、久保田橋を過ぎ、向屋敷橋に出て上流を眺める。次の中板橋の手前はポケットパークのようになっている。

中板橋の先で東上線のガードを潜る。ここから桜は片側の岸だけになる。間々下橋を過ぎて下頭橋に向かう。

下頭橋は旧川越街道が通る橋で、欄干は擬宝珠の付いた擬木で出来ている。この橋は、板橋区の登録記念物(史跡)になっている。

下頭橋を渡って石神井川の左側を歩く。暫らくは桜並木が途切れる。次の宿橋を渡って石神井川の右側を歩き、上板橋を過ぎると、月と星の意匠がある山崎橋の向こうに桜が見える。

山崎橋を渡って桜並木の下を歩くが、この先で桜が途切れてしまう。学校橋、耕整橋、小山橋を過ぎると上の根橋になる。環七を渡って石神井川の左側を歩き、宮前橋を過ぎて台橋まで来ると前方に桜並木が見えてくるが、石神井川の方は右方向に曲がっていく。

次の桜橋で北側を見ると、石神井川に流入していた田柄川の流路跡に桜並木が見える。田柄川は桜川と呼ばれていたそうである。桜橋から城北中央公園に沿って歩き、茂呂橋を過ぎて公園内に入り桜を見に行く。

栗原橋から公園内に入り、園内の桜を見て回る。公園内には各所に桜があり花見の場所もある。そのあと、石神井川沿いの道に戻り、羽城歩道橋から湿化見橋に出て、石神井川沿いにあるミモザ広場に行く。ここも、桜が多い。

ミモザ広場を抜けて開進橋で上流を眺めたあと、石神井川の左側を歩く。ここから先は石神井川の左側に桜が続いている。

羽根木橋、羽根沢橋、仲羽橋、宮宿橋を過ぎ、正久保橋まで来ると右側に有楽町線の氷川台駅がある。その先の丸山橋から上流を眺める。

石神井川の左側を進み、四の宮宿橋を過ぎて桜の下の遊歩道を歩く。

鎌田橋を過ぎて高稲荷橋に出ると、左側に桜の多い高稲荷公園があり、丘の上には高稲荷神社がある。

早宮橋を過ぎると次は新大橋で、ここからは石神井川の右側に桜並木が続くようになる。

大橋、糀谷橋を過ぎて東中央橋を渡る。ここで下流を眺める。右側は練馬総合運動場である。東山下橋、西早宮橋、南宮橋を過ぎれば中之橋で、左へ行けば豊島園駅に出られる。

 

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