夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

大正時代の貯金箱

2013-06-23 09:06:08 | 随想ほか雑記


 父の遺品の中に大正時代の小さな木製貯金箱があった。これまで放置したままになっていたが、最近になって中を調べたところ、明治の半銭銅貨、大正の50銭小銀貨などのコインが出てきた。そこで、これらの貨幣の価値はどうなのか、調べてみた。



(1)金相場により換算した価値
 大正14年の金相場、純金地金の1g当たりの市場小売価格の最高値は1円73銭であり、2012年の相場では4677円なので、その比は2703倍となる。

・半銭: 0.005円×2703=   13.5円
・50銭: 0.5円×2703  = 1352  円

(2)古銭としての価値
 古銭としての価値は、状態や希少性などにより大幅に変わるが、販売価格の一例をあげると、次のようになる。買い取り価格は当然これより低く、並みの品質のものなら買い取りの対象にもならないらしい。

・明治中頃の半銭銅貨:   250円 (美品)
・大正末期の50銭小銀貨: 600円 (美品)

(3)大正時代の価値

 大正時代の末頃に、半銭と50銭で何が買えたかを「続・値段の風俗史」などの資料で調べてみた。

①半銭銅貨
 明治の中頃であれば、この銅貨で金太郎飴1本が買えたのだが、大正時代も末になると、飴の値段は数倍にはね上がってまっている。お駄賃に貰った半銭銅貨を握りしめて近所の駄菓子屋に行っても、買えるものが無かったかも知れない。駄菓子以外では、大正10年に半銭銅貨で鉛筆が1本買えた。今なら鉛筆1本50円ぐらいだろうか。

②50銭小銀貨
 大正時代の末、江戸前寿司やトンカツの値段は20銭ぐらいだったから、50銭あれば食事をしてもまだ余裕があり、観劇は無理でも映画ぐらいは何とかなったかも知れない。ただ、山手線や私鉄の運賃は最短区間で5銭したので、往復を電車利用とすると赤字になる可能性もある。入場料がもう少し安い動物園ぐらいなら、帰りに2銭の饅頭か鯛焼きを買い、8銭のラムネを飲むことは出来ただろう。仮に、50銭銀貨を使わずに10枚ほど貯めれば、野球のグローブを買うことだって出来た。当時の50銭銀貨は、それだけの値打ちがあったのだが、今では、希少品や状態の良いもの以外、さほど値打ちがないらしい。やはり、プライスレスの遺品として貯金箱ごと保存すべきものなのだろう。

(4)追記


 家の中を探したてみたら、古銭や記念硬貨に混じって、武内大臣の1円紙幣が出てきた。偽造防止用の透かし入りで、1円銀貨と交換すると記載されている日本銀行兌換銀券である。番号がアラビア数字なので大正時代の発行ということになるようだが、当時は1円銀貨の流通が止められていたため、実際には銀貨との交換が出来ない状態であったらしい。この紙幣、名目上は1円だが、金相場で換算すると2700円という事になる。ただし、古い紙幣としての価値はさほどではなく、状態も良くないので、販売価格も200円にいくかどうかである。

 古銭は永楽通宝や寛永通宝で、展示即売会か何かで入手したものらしい。1408年の永楽通宝には¥150との記載があり、時代が古い割には値が付かないようで、今は、古銭収集を趣味とする人も少ないらしいので、今後の値上がりも期待できそうにない。昔は、記念硬貨を手に入れるため、長い行列ができるほどであったが、今はどうなのだろう。記念硬貨も金貨ならば、金相場に応じたプレミアがつくかも知れないが、それ以外の記念硬貨はあまり期待しないほうが良さそうである。

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ごあいさつ

2013-06-14 20:36:51 | Weblog
ごあいさつ

 我が家の花暦、今回は遅ればせながら、クンシランを取り上げることにしました(撮影は5月)。クンシランは、君子蘭と書きますが蘭の一種ではなく、南アフリカ原産のヒガンバナ科の多年草だそうです。
 さて、当ブログも開設してから既に2000日を経過し、マイナーなブログながらも、累積訪問者数も10万人を超えることができました。大変ありがとうございました。このブログも当初はアクセス数が伸びず、当ブログのタイトルを入力しても検索にひっかからない時もありましたが、携帯も対象にするように変えてからは、有難いことに、アクセス数が増えるようになりました。この先、当ブログをいつまで続けるかは分かりませんが、今は、もう少し頑張ってみる積りでおります。
 現在、このブログでは、歴史と文化の散歩道について連載していますが、そろそろ真夏も近いことゆえ、全コースの半ばまで歩いたところで、ひとまず休止することにしました。その代わりに別の記事を投稿する予定です。夢七。
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品川池上コースを歩く

2013-06-09 09:46:05 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「品川池上コース」は、「品川宿場散歩(品川駅駅~浜川橋)」、「大井なぎさの森散歩(南大井1丁目~流通センター駅)」、「馬込文士村散歩(浜川橋~大田区立龍子記念館)」、「本門寺散歩(大田区立龍子記念館~池上駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は14.5kmになる。

(1)品川宿場散歩

 品川駅の西口(高輪口)から南へ、第一京浜の左側の歩道を進む。江戸時代なら海の景色を眺めながら歩くことになるのだが、今は交通量の多い道路の脇を黙々と歩くだけである。煩わしければ、品川駅東口(港南口)に出て旧東海道に出ることも出来るが、今回はルート通りに進み、八つ山橋を右側の歩道で渡る。渡った先は小さな広場のように整備されていて、橋のそばには歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ここは、品川宿の入口にあたり、広重の「東海道五十三次之内品川」を見ると、街道の右側からは八つ山が迫り、左側は海になっている。この先のルートは、踏切を渡って、徒歩新宿、北品川、南品川から成る品川宿を通り、立会川を渡るまで、旧東海道をたどることになるが、街道らしい雰囲気を残した、歩きやすい道になっている。

 踏切を渡って旧東海道を進み、東海七福神の一心寺を過ぎると、左手に品川宿本陣の跡地である聖蹟公園の入口がある。山手通りを渡って先に進むと、北品川と南品川の境をなす目黒川があり、品川橋が架かっている。橋の上には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、立会川を越えるまでのルートが記されている。

 品川橋から上流を眺めると、右手の荏原神社に渡る朱塗の鎮守橋が見える。荏原神社は今でこそ目黒川の北側に位置しているが、目黒川の流路が変わる以前は、川の南側に位置していた。荏原神社は、神輿の海中渡御で知られる南品川の鎮守で、北品川の鎮守である品川神社が北の天王と呼ばれていたのに対し、南の天王と呼ばれていた。

 品川橋から先に進んで天妙国寺を過ぎると、ジュネーヴ平和通りに出る。品川寺の梵鐘がジュネーヴから返還された事を記念した通りの名だが、昔は池上の本門寺への参詣道でもあった。この通りを渡るとすぐ品川寺で、東海道に向けて置かれた江戸六地蔵の一が今も健在である。ちなみに、江戸六地蔵のうち現存するのは、東海道の品川寺の地蔵、奥州街道の東禅寺の地蔵、甲州街道の太宗寺の地蔵、中山道の真性寺の地蔵、水戸街道の霊巖寺の地蔵の五地蔵である。荒神様で知られる海雲寺を過ぎて、旧東海道を先に進み、鮫洲に入る。広重は名所江戸百景の「南品川鮫洲海岸」に遠浅の海で海苔を栽培するヒビを描いているが、北斎もまた、東海道五十三次の「品川」に海苔を干す様子を描いている。当時は海苔が品川の名物になっていたのだろう。鮫洲を過ぎるとやがて立会川に出るが、その少し前を右に入って商店街を抜けると立会川駅に出る。最近は竜馬ゆかりの地として宣伝しているらしく、途中に坂本竜馬像が建てられている。立会川に架かる浜川橋を渡って、東海七福神の天祖諏訪神社を過ぎ、競馬場通りを渡ると、左側に標識Aがある。ここがコースの分岐点になっている。

(2)大井なぎさの森散歩

 旧東海道から分かれて競馬場通りを東に行き、しながわ区民公園の入口を過ぎ、海岸通りを渡る。その先、大井競馬場を過ぎて、東京モノレールの大井競馬場前駅に出る。京浜運河を勝島橋で渡ると、右側に緑地が広がっている。緑地に沿って先に進み、中央海浜公園前の交差点を右に折れる。この先、道路の両側は大井ふ頭中央海浜公園で、右側は、なぎさの森、左側はスポーツの森になっている。少し先に、なぎさの森の入口があり、ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ルート図では、直進するようになっているが、今回は、タイトルに従って、なぎさの森に入る。

 まず、なぎさの森管理事務所に行き、パンフレット類を入手してから、近くの樹林淡水池保全地区に入り、散策路で淡水池の周囲を一周してみる。アオサギでも居るかと思ったが、今日のところは姿を見せない。ついでに、管理事務所の横を入って野鳥観察舎に行き干潟保全地区の様子を眺めてから、先に進んで夕やけ橋を渡る。道が水辺に下った先はバーベキュー地区で、本日は満員御礼の状態である。ここを抜け、一旦外に出て交差点を渡り、南側の緑地の水辺の道をしばし歩き、それから外に出る。ここまで来たら港野鳥公園に行ってみたいところだが、それはまたの機会という事にして、京浜運河を大和大橋で渡り、交差点を渡ってモノレールの流通センター駅に着く。駅近くの交差点の角に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、ルート図が記されているので、逆コースの場合には参考になるだろう。

 大井なぎさの森散歩は、戦後に埋め立てられ、流通の拠点として整備された地域のうち、緑地やスポーツ施設のあるエリアを歩くことになるので、歴史散歩というよりは、緑地散歩のようなコースになっている。

(3)馬込文士村散歩

 競馬場通りを渡った先で、大井なぎさの森散歩のコースと別れて旧東海道を左側の歩道で南に進むと、信号の先の、しながわ区民公園の入口に標識Bがある。さらに、その先にも標識Bがあり、ここを右に折れて西に行くのがルートだが、横断歩道が無いので、少し先の公園入口の横断歩道を渡って戻ってくるが、しながわ区民公園内を散策してから戻る方が良かったかも知れない。先に進み、京浜急行のガードをくぐり、鈴ケ森道路公園を過ぎて、第一京浜を渡る。左側の歩道で、桜新道を過ぎて、JR線路沿いの細長い大井水神公園に出る。ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 左側の歩道で、ガードをくぐり、下ってくる自転車に注意しながら坂を上がると、池上通りに出る。交差点の右側には品川歴史館があるが、今日のところはパスして交差点を左に折れ、左側の歩道で鹿島神社を過ぎる。その先の左側に、モース博士により発見され、我が国の考古学の端緒となった大森貝塚を公園化した大森貝塚遺跡庭園がある。

 先に進むと、山王口交差点の手前に、大森貝塚の碑への下り口があったので、入ってみる。大森貝塚遺跡庭園は品川区にあるが、線路沿いに立つ碑は、大森貝塚の遺跡地が大田区側にもある事を主張しているようである。八景坂を下り大森駅を過ぎて、山王二の信号で右側の歩道に移る。その先を右に入り、歴史と文化の散歩道と記したポールを目印に、右側の坂を上がる。暗闇坂という名の、この坂の上には富岡美術館があったのだが、すでに閉館している。道は少し曲がりくねりながら続き、やがて下り坂となる。坂の下には標識Bがあるが、ここを左に行くと環七に出る。

 環七を渡り、坂を上がって、標識Bにより右に折れるが、この先、上り下りもあって道は分かりにくくなる。標識Cを頼りに左に折れ、さらに、その先を左に折れて進むと、萬福寺の看板が見えてくる。その先、右に分かれていく道がルートで、道なりに行けば大田区立郷土博物館に出るが、直進して坂を上がり、信号で右に折れ、博物館の表示により左に入っても良い。博物館の前には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 博物館から先に行くと東急ストアに出る。ここで止める場合は、そのまま進み第二京浜に出て、すぐ右側に西馬込駅の入口がある。続けて歩く場合は東急ストアのところで、左に入る。入ってすぐの歩道に標識Bがあり、ここからは桜並木の歩道を歩く。信号を過ぎると標識Bがあるが、その先の善照寺の角を左に曲がり右側の歩道を歩く。桜並木が途切れたところで、左手の郵便局の左側の道を入ると、龍子記念館がある。日本画家の川端龍子の作品を展示する美術館で、建物は龍子自身が設計に当たったという。

 記念館の手前を右に入り、突き当りを右に行くと、五差路のような場所に出る。標識Bにより、左前方の道を進み、中央五丁目公園を過ぎて汐見坂を上がる。上がり終えると下り坂となり、前方に本門寺の森が見えてくる。下り終えて先に進むと左側に弁天池がある。さらに、墓地沿いの道を進んで、突き当りを右に上がると、貴船坂の上に出る。ここを左に、車に注意しながら道路の左側を進むと、下り坂になる。坂の下、ガードの手前を左に入る道がある。ここを左に入るとすぐ、池上梅園の入口がある。ここは梅の季節には混雑するが、ほかの季節は閑散としているようだ。

 池上梅園を出て左に行き、ガードをくぐって来る道に合流して南に向かう。本門寺の山の麓に沿った道を歩いて行くと、本門寺の総門の前に出る。ここまで、上り下りの多い道を歩いてきたが、あとは、96段の石段を残すのみである。

 総門の前、東側の歩道に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。南に進み、呑川を渡って、信号を右に入り、次の角を左に曲がる。ここからは池上本門寺通りとなる。参詣道らしい通りを進めば、池上駅に出る。ここが、コースの終点となる。


【参考】歴史と文化の散歩道の標識


 歴史と文化の散歩道のルート表示としては、案内板のルート図のほかに、標識A,B,Cがある事は、「銀座佃島コースを歩く」の中で紹介したが、これ以外の標識も使用されている。歴史と文化の散歩道のシンボルマークであるカタツムリを取り入れたガードレールは、品川池上コースのほか、幾つかのコースで使用されている。

 標識Cは方向表示があるのが本来と思われるが、方向表示の無いものもある。方向表示付きの標識Cを移動すると誤った道案内になりかねないので、方向表示なしにも意味がありそうである。写真は池袋コースの事例で、緑色のものである。

 品川池上コースの暗闇坂には、歴史と文化の散歩道と記したポールが使用されている。ほかに、日本橋本所深川コースで用いられている事例として、シンボルマークのカタツムリを乗せたポールを用いている例がある。
  


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日本橋本所深川コースを歩く

2013-06-02 17:38:31 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「日本橋本所深川コース」は、「お江戸日本橋散歩(大手町~鎧橋)」、「人形町浜町散歩(鎧橋~新大橋)」、「深川芭蕉庵散歩(新大橋~清澄庭園)」、「下町深川散歩(清澄庭園~門前仲町駅)」、「本所蔵前散歩(新大橋~浅草橋)」の5区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は10.6kmになる。なお、このコースは、新大橋の交差点で門前仲町方面と浅草橋方面に分岐している。

(1)お江戸日本橋散歩

 このコースの起点は、お堀端コースと同じく、大手町ビル北東側の交差点で、標識Bは、逓信総合博物館の近くにも置かれている。逓信総合博物館(ていぱーく)は、今年の8月31日をもって閉館の予定ということなので、とりあえず入ってみたが、この日の館内は閑散としていた。

 左側の歩道で先に進み、JRのガードをくぐる。その先の左側に改修工事中の常盤橋公園がある。常盤橋は奥州街道に通じる重要な橋で、常盤橋御門も置かれていたが、明治になって御門は壊され、その石垣の一部を用いて洋式の石橋が架けられる。この石橋は常磐橋と名を変えて、石垣の一部とともに人道橋として現存しているが、修復工事中のため今は立ち入ることが出来ず、南側の常盤橋側から眺めるだけになる。

 常盤橋を渡って常盤橋交差点を左に行き、日本銀行旧館の前を通る。江戸時代の金貨鋳造所、金座の跡である。江戸時代、金座から先に行くと駿河町があり、道の両側には越後屋が店を構えていた。当時、通りから見えていた富士の姿は見えなくなってしまったが、越後屋の跡は、その後継者たちにより、三井本館と三越として今に引き継がれている。

 中央通りに出て右に行くと日本橋に出る。広重は名所江戸百景の「日本橋雪晴」に、日本橋川北岸の魚河岸、日本橋と日本橋川、川の南岸に並ぶ蔵を描き、さらに定番の江戸城と富士山を描き入れている。今は、当然のことながら、昔をしのぶものは無く、空を覆う高速道路に阻まれて、日本橋からの眺めも失われてしまっている。

 日本橋を過ぎて交差点を渡り、野村証券の南側の道に入り、右側の歩道で東に進んで昭和通りに出る。交差点の近くには、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。交差点の左側は、日本橋川に架かる江戸橋である。江戸時代、この橋の南側は広小路で、物資の集積地でもあったので、市が立ち、盛り場のようになっていた。

 昭和通りを歩道橋で渡ると、その先に日本橋郵便局がある。ここは郵便発祥の地にあたり、右側の通用口に記念碑が置かれている。郵便局の北側にある標識Bに従い、日本橋川沿いの道を進むと高速道路に出る。ここは紅葉川の跡で、少し南に行ったところに、海運橋の親柱が残されている。その近くの、みずほ銀行のある場所は銀行発祥の地であり、それを記念する銘板がはめ込まれている。証券取引所を過ぎると、その先に鎧橋がある。江戸時代、ここには鎧の渡しがあり、渡った先は小網町で蔵が並んでいた。


(2)人形町浜町散歩

 鎧橋を渡って、蛎殻町の交差点を左に折れ、次の信号を右折して先に進む。江戸時代、この道筋には、貨幣を鋳造する銀座のほかは、武家屋敷しかなかった。町人地は、少し離れた北側にあり、芦屋町や堺町と呼ばれる一帯は中村座や市村座があり、人形芝居もあって、天保の改革で浅草に移転させられるまでは、芝居町として繁盛していた。先に進んで人形町通りを渡り、ほうじ茶の香りに誘われるように、甘酒横丁を歩く。今は、人通りの絶えない道になっているが、この通りも、江戸時代は武家地で、町人地は北側の吉原の跡地のほか、南側の一角だけであった。

 甘酒横町を先に進むと、浜町川跡を緑道にした浜町緑道に出る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。浜町川は隅田川に通じる入堀で、江戸の切絵図を見ると浜町川の両岸に浜町河岸と書かれている。ところが今では、隅田川の河岸を浜町河岸と呼んでいる。石川寒巖は明治43年に「日本橋浜町河岸」の題で隅田川を描いているので、「明治一代女」の浜町河岸は隅田川を指していたと思われるが、そのモデルとなった花井お梅の事件が起きた明治20年頃はどうだったのかは分からない。緑道の先、清洲橋通りを渡ると、左側に明治座が見える。右側には水天宮の幟が見えるが、建て替えのための仮宮という。右側の歩道を進むと、浜町公園の前に出る。ここを右に行くと新大橋通りに出る。通りを渡って左に行き新大橋を渡る。渡った先、新大橋の交差点の南東側の角に置かれている標識Aがコースの分岐点となる。


(3)深川芭蕉庵散歩

 新大橋の交差点から左側の歩道で南に向かうと、右側に芭蕉記念館が見えてくる。実を言うと、記念館に入り、そのあと裏門から隅田川テラスに出て、隅田川沿い南に向かい、芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷を経て萬年橋に出るのがお勧めなのだが、今回は所定のルートに従い、左側の歩道を先に進んで、小名木川に架かる萬年橋を渡り、清洲橋通りを横断し、清澄公園に出る。

 清澄公園の隣に清澄庭園がある。清澄庭園は、大名屋敷の跡地を明治時代に岩崎家が入手して整備した庭園である。この庭園を紀伊国屋文左衛門の別邸跡とする説もあるが、この説には反対意見もある。ただ、明暦の大火の後、この近辺に元木場と呼ばれる貯木場が設けられていた事は確かなようである。清澄庭園には何度か入っているので、今回は割愛して先に進み、清澄通りに出て右に行く。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

(4)下町深川散歩

 次の信号で清澄通りを渡って先に進むと、左側に霊巌寺がある。この寺は、松平定信の墓所があることで知られるが、江戸六地蔵の一が現存する寺でもある。この寺の先に、深川江戸資料館があり、ここも何度か来ているので、今回はパスして先に行く。
 
 先に進んで白河三の信号で右に折れ、平野二の信号で右に折れ、平野の信号で左に折れ、木更木橋で仙台堀川を渡る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。さらに進んで、葛西橋通りに出る。左手に深川七福神の冬木弁天堂がある。

 葛西橋通りを渡り高速道路の下を抜けると深川公園に出る。ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の庭は、広くかつ手入れも行き届いた評判の庭で、広重が名所江戸百景の一つとして取り上げるほどであった。明治になると永代寺は廃寺になり、その跡地が我が国最初の公園の一つとなる。これが深川公園で、現在は深川不動の東側と西側に分かれている。

 深川公園の東側が富岡八幡で、深川公園側からも入ることが出来る。この神社の祭礼は8月で、水かけ祭とも呼ばれ、神輿も、担ぐ人も、時には見物客もびしょ濡れになる。境内には伊能忠敬の像があるが、忠敬が測量の旅に出かける時には、富岡八幡に参拝してから出かけたという事に因んで建てられたものという。

 永代通りに出て右へ行くと、深川不動堂の参道がある。この道を入ると右側に永代寺があるが、旧永代寺の塔頭で永代寺の名跡を引き継いだ寺である。江戸時代、永代寺では成田不動の出開帳が度々開かれていたが、明治になって、永代寺が廃寺になったため、成田不動の東京別院として建てられたのが深川不動堂である。以前は、背後に高速道路が見えるのが煩わしかったが、今は目立たないようになっている。

 永代通りを西に行くと門前仲町の交差点に出る。歴史と文化の散歩道の案内板は、交差点の西北側に置かれている。下町深川散歩も、これにて終わりという事になる。

(5)本所蔵前散歩

 新大橋の交差点から右側の歩道で北に向かう。カタツムリ・マークのポールを目印に一の橋通りを進み、標識Bにより新大橋二の信号を右に曲がり、次の角を標識Cにより左折する。北に向かって進むと、木の橋を模した塩原橋に出る。橋の名の由来は、江戸の豪商・塩原太助が近く住んでいたからという。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。

 塩原橋を渡って、次の信号の一つ先を右に行くと吉良邸跡に出るが、今回は直進して京葉道路に出る。ここを左に行くと回向院に出る。江戸時代は勧進相撲が行われ、また、出開帳も行われて賑わった寺であり、今年は、善光寺の出開帳も行われていた。さらに進んで両国駅を過ぎ、江戸東京博物館に入る道を見送って、国技館の前を過ぎ、旧安田庭園に入って園内を一巡してから外に出る。

 旧安田庭園から近くの横網町公園に行く。ここは、関東大震災の時に大きな被害を出した被服廠跡で、東京都慰霊堂がある。公園の正面から外に出ると、清澄通り沿いに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 清澄通りを北に行き、蔵前橋通りとの交差点を左に折れる。蔵前橋を渡り、江戸通りを横断して、右側の歩道で先に進むと鳥越神社がある。神社の先、浅草橋三の信号で蔵前橋通りを渡って直進し、突き当って左に行くと江戸通りに出る。ここを右に行けば浅草橋駅で、本コースも、ここまでである。

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