夢七雑録

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49.1 百草道の記ならびに高畠不動詣(1)

2009-08-01 15:54:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保四年十月(1833年11月)、百草村の松蓮寺に行こうと、嘉陵は、夜の明けぬうちに三番町の家を出る。四谷大木戸で稲葉矩美と落合い、連れ立って内藤新宿まで来ると、開いている飲食店があったので、朝飯を食べることにした。そのうち東の空が白みだしてきたので、瓢に酒を少し入れて出発する。幡ヶ谷まで来ると夜が明け、代田を過ぎる頃には、目黒祐天寺の五つ(午前8時)の鐘が聞こえてきた。その先、滝坂を下って金子(つつじヶ丘)まで来たところで、同行の稲葉矩美が深大寺に行ったことが無いということだったので、道を戻り滝坂の上で甲州街道から分かれ、深大寺(図。調布市深大寺町)に向かう。現甲州街道を、つつじヶ丘から仙川に向かうと、街道の左側に滝坂の旧道が残っている。この旧道を上り現甲州街道に合流した少し先で左に入る道を辿ると、深大寺近くの青渭神社に出ることができる。嘉陵が歩いたのは、このルートに近い道筋と思われる。嘉陵は、上杉五郎朝定が、北条氏茂に討たれた父の仇を討つべく、深大寺に陣城を構えたが、結局合戦が起こらなかった事についてふれ、此処の地形が攻めにくく、出陣もしにくいからだと述べている。嘉陵は深大寺の裏手が城跡で、南側は二郭と考えていたようである。現在は、深大寺の東南の山(都立水生植物園内)が城跡とされ、濠の跡も残されている。

 神蛇大王祠の前の道を南に行き、坂道を下る。この道を行くと左手の麓に寺がある。ここで、田圃の縁を西に行き、さらに南に行くと下石原に出る。現在の道でいうと、修道院の前を通り、坂を下って池上院を左にみて、右に折れて山裾を歩き、御塔坂橋を渡り、その先の信号から右に入り、中央自動車道の下を潜って石原小通りを進み、現甲州街道を越えれば旧甲州街道の下石原に出る。ここからは甲州街道を歩くが、染屋に着く頃には空は晴れ渡って、小春日のような陽気になったと記している。嘉陵は文化九年(1812)に府中の六社を詣でた時がある。その時に同行した永井、黒田、蔭山の三人はもう、みな亡くなっている。今や、残っているのは自分ひとり。ふと昔の事が思い出されて、嘉陵は歌を詠み、また、道端に咲いている冬草に、我が身の老いを重ねては、歌を詠んでいる。

 昼過ぎに府中に着き、一軒の家で休んで昼食をとる。家の主の姥が、大根と人参、焼き豆腐を合わせた煮物に、麦のひきわり飯を出してくれたが、まことに美味であった。持参した鮭の塩物も出し、瓢の酒も二人で飲んだ。まるで、初春の祝いのようであったと嘉陵は書いている。瓢の酒を飲み尽くしたので、酒を売る店を姥に聞いて出発する。


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