夢七雑録

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50.1 真間の道芝(1)

2009-08-07 19:12:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行

 天保五年十月九日(1834年11月9日)、嘉陵は、葛飾や真間の辺りに行こうと、午前6時に三番町の家を出て、行徳舟出所(行徳河岸)から舟に乗っている。江戸から行徳に行く航路の起点は、行徳河岸(中央区日本橋小網町にあった)である。ここから隅田川に出て、小名木川に入って東に行き、中川に出て、舟堀(新川)を通り、利根川(旧江戸川)を遡って、行徳の河岸に至るのがその航路であるが、嘉陵は、文政五年に宇喜多と猫実に行った時も、この航路の一部を利用している。小名木川の五品松(五本松)を過ぎたところで、舟は岸につく。小豆餅を売っていたので、嘉陵も買い求めている。五本松は、江戸名所図会や広重の名所江戸百景にも取り上げられているが、既に四本は枯れていたので、残る九鬼家の松が画材になっている。現在、この松も既に無く、近くの小名木川橋(江東区猿江2)に、説明版と記念の松が植えられているだけである。
 ここで朝日が昇るのを見る。西風が少し寒かったという。嘉陵は、舟の乗客から八月十四日の風雨の被害状況についても話を聞いている。舟は中川から舟堀(新川)に入り、曳舟により進むが、利根川(旧江戸川)に出てからは、櫓を漕ぎ棹をさして川を上がる。流れに逆行するため、船足ははかどらないが、それでも、午前10時には行徳に着く。岸に上がると、乗客は各々の方向に散っていくが、名残惜しいとは思わない。人の世は生と死から成り立つが、袖の塵を払うように別れる方が、罪がないのだ、と嘉陵は書いている。

 行徳から北に少し行き、川(旧江戸川)の堤を歩いて北東に行くと八幡宿に出る。ここから南東に行くと中山に出る。八幡宿からは、佐倉道(千葉街道)を歩いたと思われる。中山では正中山妙法経寺(中山法華経寺。写真。市川市中山2)を参詣する。嘉陵が残した境内の図を見ると、当時の配置が現在もかなり残っているようである。ここを出て、もと来た道を市川の方に行く。途中、八幡不知(八幡の藪しらず。市川市八幡1)という木立があり、中に入ると死ぬということで、四方に垣根をめぐらしてあった。嘉陵は、有毒な気体が時々発生するためだろうとし、上総にも同じような場所があり、酢を煮て藁に染み込ませ撒き散らしながら行けば大丈夫だという説を記している。この木立は現存しているが、百坪ほどの広さで、垣や説明板が無ければそれと気付かないかも知れない。八幡不知の北には、八幡宮(葛飾八幡宮。市川市八幡4)があって、以前、嘉陵がここを訪れた時には、古木の銀杏が空高く聳えていた。ところが、今回来てみると、幹が途中で打ち切られていた。それでも嘉陵は、再び詣でることがあるかどうか分からないと思い、銀杏の落ち葉を二三枚、懐に入れて立ち去っている。この銀杏は千本公孫樹と称されて現存しており、国の天然記念物に指定されている。千本公孫樹は社殿に向って右側にある。


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