夢七雑録

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練馬の富士塚めぐり

2016-10-08 13:18:47 | 富士塚めぐり

練馬区に現存する富士塚は5カ所で、そのうち江古田富士は投稿済み、もう1カ所は個人の邸内にあるので除外し、残りの3カ所、八坂神社境内の大泉富士(中里富士)、大松氷川神社の富士塚、下練馬の富士塚をめぐる。何れも練馬区の有形民俗文化財に指定されている。

 (1)大泉富士(中里富士)

大江戸線の光が丘駅から西に向かい、高松六の交差点で笹目通りを渡る。ここから土支田通りまでは、大江戸線の延伸計画と関連する補助230号線の通行が可能になっているので、南側の旧道(長久保道)は次の機会にして、今回は補助230号線の方を選ぶ。市街化される前の風景を楽しみながら歩いていくと、途中に新駅の予定地があった。大江戸線の延伸により、土支田、大泉町、大泉学園町の3駅(何れも仮称)が設置されるという事だが、ここには、土支田駅ができるらしい。この辺りは田柄用水が流れていた低地で、この先は少し上り坂になる。さらに進むと土支田通りに出るが、この先の補助230号線の開通は先のことなので、信号を渡って右に行き、次の信号で左に入る。この道は旧道(長久保道)の続きで、少し先で右に下っていくと、坂の下に長久保道の説明版がある。白子川を別荘橋で渡って左に行くと、右側に八坂神社の参道がある。光が丘からここまでは少し遠いが、大江戸線が延伸されれば、大泉町が最寄り駅になるので、距離はかなり短縮される。

参道を進み2番目の鳥居の手前を右に入ると、八坂神社の末社、富士浅間神社の鳥居があり、その先に富士塚がある。現地の説明板によると、南側からの高さ12m直径30mの大規模な富士塚という。大泉富士は、麓に近い部分に植栽を、頂上に近い部分に黒ボク石を置いて、富士山の姿を巧みに写している。北側の比高は低いので、南向きの斜面を崩して築いたのだろうか。この富士塚は明治の初めに築かれたと伝えられているが、文政5年(1822)の富士仙元浅間大神の石碑があるので、すでに原形があったと考えられている。富士塚の改修は珍しい事ではなく、明治7年の石造物が多く丸吉講の碑も多い事から、明治7年に丸吉講という富士講により大規模な改修が行われ、ほぼ現在の形になったという事かも知れない。

大泉富士は石造物が多いことが特徴であり、現存しないものも含め富士山の社寺や名所を対象とした、数多くの石造物が置かれている。鈴原社、御室浅間社、役行者、秋葉社、大黒神、御座石、不二森稲荷、小御岳社、泉が滝、大澤、経ケ岳、宝永山、烏帽子岩、聖徳太子、日ノ御子、龍王を守る亀岩、薬師ヶ岳、駒ヶ岳、馬背、剣ヶ峰、浅間大神と頂上石宮がそれで、他に道祖神まで置かれている。富士講の碑が多いのはよくある事だが、この富士塚には詩歌の碑まで置かれている。これらの石造物を見て回るのも良いのだろうが、今回は割愛し、ついでに御胎内を探すのも取り止めて、ひたすら山頂を目指す。

この富士塚は8月の山開きの際に清掃されているそうで、草木が繁茂して煩わしい場所も少ない方かも知れない。ジグザグの登路は歩きやすく整備されているので、割と容易に頂上に達する事が出来る。山頂には奥宮と思われる祠が中央にあり、それを囲むように馬背、剣ヶ峰、駒ヶ岳の石造物が配置されている。

頂上からは南方と東方に展望が開けているが、西側の展望は神社の森に妨げられている。富士山を遥拝することは出来ないかも知れない。富士塚を下りて、改めて八坂神社に参拝したあと土支田通りに戻り、道幅の割に交通量の多い道を東に向かう。やがて、この道は都県境界となり、笹目通りを過ぎると程なく光が丘公園につきあたる。江戸時代、土支田通りは江戸道と呼ばれ、この先を直進し川越街道に合流して江戸に出る主要道であったが、現在は光が丘公園により分断されている。公園内を通り抜け川越街道を歩いて地下鉄赤塚駅に出る。

 

(2)氷川神社の富士塚

地下鉄赤塚駅から川越街道を東に、右側の歩道を歩く。歩道橋の先、二つ目の角を右に入り直ぐ左の道に入ると、前方に氷川神社の森が見えて来る。大松の氷川様と呼ばれた神社で、参道の石段の横に、斜面を利用した富士塚がある。この富士塚は、鳥居、植栽、石碑などを配し、塚に登る道を設けて、小ぶりながら富士塚らしい姿になっている。

富士塚の高さは4m。築いたのは丸吉講で、頂上の石祠の台座に天保6年(1835)再建の銘がある事から、それ以前の築造と考えられている。参拝を終え、氷川神社の参道を南に出て左へ、突き当りを右に、その先の丁字路を左に進んで川越街道に出る。これを渡り直進すると、やがて道は右に曲がっていき、旧川越街道に出る。

 

(3)下練馬富士塚

旧川越街道を東に向かうと、左側に北町上宿公園がある。下練馬宿のうち上宿があった事に因んでの名称という。この辺りから次第に商店街らしくなり、東武練馬駅への道を左に分けると道はゆるやかに右へ曲がって行き、北町観音堂を過ぎると程なく北町浅間神社の前に出る。中に入ると、右側に境内社の天祖神社があり、左側に富士塚がある。この富士塚が最初に築造された年は分かっていないが、明治5年に丸吉講によって再築され、さらに昭和2年に場所を少し移して築造されている。高さは、南側が6mで北側が4m、大きさは南北15m東西10m。黒ボク石を要所に配し、植栽によって庭園の築山のような姿になっている。

この富士塚の麓にある石造物の配置を示す平面図を眺め、それから登り始める。最初に富士講の開祖とされる角行の像に迎えられるが、この富士塚には定番の猿や天狗の像もある。登路は歩きやすく容易に頂上に達する。頂上は平坦で、奥宮の祠の前には標高37.76mと記した標識が埋め込まれている。遊び心で、富士山の100分の一の標高になるよう富士塚の高さを決めたのだろうか。頂上には富士山の方向を示す表示もある。折角なので、見えない富士山を遥拝してから、富士塚を後にする。

<参考資料>「練馬区の富士塚」「ご近所富士山の謎」「富士講と富士塚―東京・神奈川」「新駅予定地周辺マップ」「下練馬の富士塚現況測量調査報告書」「富士山ガイダンス2016」

 


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