夢七雑録

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グラント将軍の日本訪問と延遼館

2015-03-04 19:22:47 | 歴史メモ帳

明治時代初期に迎賓館として使われた浜離宮の延遼館については、オリンピックに向けて復元するという話も出ている。そこで、延遼館に国賓として長期滞在したグラント将軍の日本訪問の様子と、延遼館について調べてみた。

(1)グラント将軍の日本訪問

グラント将軍(1822-1885)は、北軍の総司令官として南北戦争に勝利し、後に18代アメリカ大統領となった人物であり、大統領を辞任したのち世界周遊の旅に出ている。一行はグラント夫妻と令息、メイド、それと書記のヤングで、アメリカ政府から無償で貸与された軍艦を利用している。1877年5月にフィラデルフィアを出航した一行は、ヨーロッパ各地やエジプトなどを回り、1878年12月にマルセイユを出航し、インド、シャム、香港、清国に寄り、明治12年(1879)6月21日に長崎に上陸している。

 

①長崎から横浜へ

●6月21日、長崎に上陸し、宿舎の長崎師範学校へ。夕方から長崎市内を遊覧。

●6月22日、長崎公園で開催中の博覧会見学。記念植樹を行う。

●6月23日、裁判所、県庁、師範学校など視察。夜は県令主催の晩餐会。

●6月24日、工房を見学。福済寺で市民主催の饗応があった。

●6月25日、軍艦金剛に乗船、修船所などを巡覧。アメリカ領事館で午餐会。

●6月26日、午後5時、長崎出航。

一行の艦船は瀬戸内海経由で航行を続けるが、コレラの流行のため上陸は不可となる。

●7月2日、清水投錨。富士を見ながら上陸し、静岡の歓迎式典に出たあと、横浜へ。

●7月3日、横浜上陸。横浜駅からは特別仕立ての汽車で新橋駅まで行き、馬車で宿舎となる延遼館に向かっている。長旅の疲れもあり、予定されていた歓迎会はキャンセルとなる。

 

②東京、そして日光へ

●7月4日、一行は仮皇居に参内し明治天皇の謁見をうける。グラント将軍は、この夜、上野精養軒で開催された在留アメリカ人主催のアメリカ独立記念日を祝う夜会に出席する。

●7月7日、日比谷公園の場所にあった練兵場で観兵式があり、グラント将軍は明治天皇とともに参加する。その後、芝離宮にて明治天皇との午餐に招かれる。

●7月8日、府民主催の歓迎夜会が工部大学校で開催。招待者は1500人に及ぶ。グラント将軍は岩倉邸で能を見た後、9時50分に到着、歓迎夜会に出席した。

●7月10日、グラント父子は東京大学の学位授与式に臨席する。

●7月12日、両国川開き。蜂須賀邸にて花火見物。

●7月16日、新富座で行われた府民主催の観劇会に招待され、新作の後三年奥州軍記を見る。フィナーレは名妓70人がアメリカ国旗の意匠の着物で踊る。グラント将軍は「泰平」「グラントより」と書かれた羅紗の引幕を贈る。この引幕は緞帳に仕立て直されたという。

●7月(16日?)、グラント父子を開拓使東京出張所に招待し、有栖川宮ほか皇族、三条、岩倉大臣の出席を得て、サッポロビールの前身、開拓使麦酒醸造所から出荷したビールと、北海道の物産を使用した午餐となる。その後、仮博物館を一覧して退散となる。

●7月17日、グラント将軍は馬車で、随行者は人力車で日光へ。小さな村に泊まる。

●7月18日、利根川を渡る。夕方、目的地に到着し観兵式を行う。宿舎は宇都宮か。

●7月19日、朝8時出立、午後4時に日光到着。宿泊する僧坊(輪王寺本坊)に駕籠で向かう。

●7月20日~27日、山々、滝、家康の廟などを見てまわる。地元の人は芝居などでもてなす。金谷ホテルの前身、金谷カテッジインにもグラント将軍が来館したという。伊藤博文ほか政府の代表も、グラント将軍に相談するため日光に来ている。

●7月28日、日光出発。この日も観兵式がある予定だったが、雷雨のため中止となる。

●7月29日、鬼怒川石井河岸の製糸工場で蚕見学。この時に昼食場所となった工場内の待春軒は、後に横浜三渓園に移設されたが現存せず、今は名前のみが継承されている。

●7月30日、途中で一泊。村長と懇談する。

●7月31日、くたくたになって東京に帰着し、心地よい延遼館に戻る。

 

③東京、箱根、東京、そして帰途へ

●8月1日、横浜山手公園で居留外国人主催の夜会。

●8月5日、渋沢家の飛鳥山邸で午餐会。

●8月7日、有栖川宮邸で夜会。

●8月10日、浜離宮中之島茶屋で明治天皇との対話が行われた。取り上げられたテーマは、民選議会、外債、琉球問題、条約改正、教育など多岐にわたっていた。

●8月12日~14日、箱根宮ノ下へ向け出発。当時は横浜から先に鉄道が無かった。小田原までの馬車輸送は始まっていたが、小田原から三島までは駕籠であった。箱根滞在中、芦之湯の“きのくにや”で温泉に入っている。

●8月15日、グラント父子は三島へ行き、旧本陣に宿泊。

●8月16日、三島での歓迎会に出席。

●8月。グラント父子は麻布と青山の開拓使試験場を巡覧している。また、伊達別邸や吉田邸でもグラント将軍を招いて宴が催されている。

●8月20日、陸軍主催により陸軍戸山学校で競馬が行われ、明治天皇とともに参観。

●8月25日、府民主催による上野公園での歓迎会があり、撃剣、槍術、鎌術、流鏑馬、犬追物など技芸が披露される。グラント将軍は、明治天皇とともに技芸を見物している。その後、記念植樹を行い、夜は精養軒で不忍池の花火を見物した。

●8月26日、アメリカ総領事主催夜会。

●8月30日、参内して明治天皇に暇乞いをする。

●9月2日、延遼館で送別夜会。

●9月3日、特別列車で横浜へ行き、帰国の途に就く。 9月20日サンフランシスコ到着。

 

(2)グラント将軍の植樹と謎

①長崎公園での植樹

グラント将軍は長崎公園で県令(県知事)から懇願されて植樹を行っている。この場合、植樹する木を含め、すべての準備は日本側で行うのが当然であろう。また、植樹の謝礼として高価な鼈甲細工と皿を贈っている。ヤングによると、グラント将軍はインドボダイジュを、夫人はクスノキを植樹したという。日本で菩提樹と言えばシナノキ属の落葉高木だが、釈迦がその下で悟りを得たインドボダイジュはクワ科イチジク属の常緑高木で別の木である。インドボダイジュもクスノキも既に無く、今あるのは榕樹(アコウ)だという。記念碑には各々が木を植えたとだけあって木の名は書かれていないが、何れも榕樹だとすると、ヤングの記述と食い違いが生じてしまう。ひょっとすると、熱帯樹で寒さに弱いインドボダイジュが枯れたため、同じクワ科イチジク属で姿の似ているアコウに植え替えたのではないか、そして、クスノキもアコウに入れ替えたのではと思えてくる。ただし、これには確証が無い。ヤングの記述が正しいとすると、謎が生じるというだけである。

 

②上野公園での植樹

 

上野公園で行われた府民主催のグラント将軍歓迎会の後、引き続き記念植樹が行われ、グラント将軍はローソンヒノキを夫人はタイサンボクを植えている。何れも北米産の樹木である事を考慮して選択したと思われる。植樹に使用する木を準備したのは、開拓使嘱託を務めた後、農業雑誌を刊行し農学校を開設した農学者の津田仙であり、津田仙が居なければ、歓迎会を締めくくる記念植樹も無かったのではと言われている。現在、何れの木も小松宮の銅像の後方に存在しているが、南側のローソンヒノキは樹勢が衰えているように見える。

 

木の下には、植樹について記された石標が置かれているが、当時は日本名がまだ無かったため、ローソンヒノキを“ぐらんとひのき”として、タイサンボクを“ぐらんとぎょくらん”(グラント玉蘭)として植えていたことが分かる。実を言うと、津田仙はセコイアを植える事を考え、工部省の山尾庸三がアメリカから輸入したセコイアの苗木を分けてもらって育て、この木を植樹に使用した。しかし、植えた後でセコイアではなくローソンヒノキだった事が追々分かってきたという。新しく渡来してきた樹木の苗木の識別は難しかったのだろう。石標は植樹に先だって建てられていたので、その内容は訂正される事になったが、セコイアは風土的に合わず枯れる可能性が高いので、結果的にはローソンヒノキで良かったようである。もとの石標にはジャイアントセコイアを表すSEQUOIA GIGANTEUMの名が刻まれていたと思われるが、訂正後の現在の石標には、CUPRESSUS LAWSONIANAと刻まれている。なお、タイサンボクは明治6年頃、日本に渡来したとされているが、植樹に使用したタイサンボクの来歴は分かっていない。

グラント将軍の植樹の近く、今はあまり目立たない場所に、グラント将軍植樹記念碑がある。グラント将軍の接待委員であった渋沢栄一が中心となって昭和5年に建てた記念碑で、碑文には、植樹の由来を知る人が稀になっている事を遺憾に思い、後世に知らしめようとしたという趣旨が記されている。明治天皇の臨幸を仰いで行われた上野公園でのグラント将軍歓迎会は、政府ではなく民間の手で行われ、莫大な費用も寄付金で賄っていた。また、この歓迎会は国民外交の端緒でもあった。実業家であった渋沢栄一にとって、明治12年8月15日は、その生涯の中でも輝かしき一日であったのだろう。しかし、それから半世紀余り、明治は遠くなり、激動の昭和時代へと突入してゆく。渋沢栄一は変わりゆく時代に対する警鐘をこめて、この碑を建てたのかも知れない。そして今は、グラント将軍の植樹記念碑の事も、知る人ぞ知る状態になっているのだろう。

 

③増上寺のヒマラヤスギ

増上寺の山門近くにグラント将軍が植えたというヒマラヤスギがある。しかし、長崎や上野での植樹についてはヤングの日本訪問記に記載があるものの、増上寺の植樹については記載が無い。また、増上寺にも、植樹の記録は無いそうである。さらに、明治30年の東京名所図会にも増上寺での植樹については記載が無い。明治初期の増上寺は苦難の時代で、寺の敷地は削減され、明治7年には本堂(大殿)が放火される事態も起きている。増上寺が本堂の再建に着手したのは明治12年の末であり、グラント将軍が来日した頃には本堂が無かった事になる。

グラント将軍は人気があったため自由行動は難しかったと思われるが、開拓使東京出張所に招待された際に、増上寺に立ち寄った可能性は無いでもない。しかし、植樹となると事前に相応の準備が必要となる。開拓使と増上寺との関わりは、増上寺方丈の一部を購入し開拓使仮学校を開いた事に始まる。仮学校は明治8年に札幌に移るが、その跡地は開拓使東京出張所の敷地となる。このような関わりから、増上寺で植樹をした事も考えられるが、開拓使事業報告には増上寺での植樹についての記載は無い。また、開拓使長官が増上寺にグラント将軍を出迎え、植樹を済ませてから東京出張所に案内する事があっても良さそうに思うが、実際には東京出張所でグラント将軍を出迎えている。増上寺での植樹が開拓使と無関係だったとすると、多忙な国賓が単なる参詣記念で植樹をしただろうかという疑問は残る。

ヒマラヤスギはヒマラヤ北西部やアフガニスタンを原産地とするマツ科の常緑針葉樹である。従って、ヒマラヤスギをグラント松と呼んでも間違いではない。実際、ヒマラヤスギは横浜でブルック松と呼ばれていたそうであり、ヒマラヤ松の名で売り出した事もあるというが、何故か日本名がヒマラヤスギになってしまったらしい。グラント一行はインドにも寄っているので、この種子を入手した可能性はあるが、植樹には結びつかない。植樹に必要な幼樹を周遊旅行中にインドから運んだという事も考えにくい。日本へのヒマラヤスギの渡来は、横浜在住のイギリス人、ブルックが居留地に植える為、明治12年頃にインドから種子を輸入した事に始まるという。明治11年、山手公園に誕生したクラブで当初から働いていた庭師の思い出話によると、勤め始めた頃、ヒマラヤスギは小さく竹の支柱が添えてあったという。この話が確かであれば、明治12年には植樹に必要な幼樹が横浜にあった事になる。また、ヤングの日光での情景描写に、山腹をおおっている堂々としたヒマラヤスギという表現が出て来るが、この文章が正しければ、ヤングが別の木と取り違えていたにせよ、日本にもヒマラヤスギがある事を認識していた事になり、海外からヒマラヤスギを取り寄せる必要がないと思っていた事になる。ところで、増上寺に伝えられている話では、グラント将軍が来日した時に、参詣記念として、かの地から持参したと伝えられる米国松(俗に米松)を手植えした、という事になっている。これが正しければ、グラント将軍が植えたのはヒマラヤスギではなく、米松だったという事になる。他にも気になる事がある。増上寺のヒマラヤスギが経過年月の割には成長が遅いと指摘されている点である。その理由としては、次のような事が考えられるが、今のところ、どれが正しいか判断できるほどの材料は無い。

a.グラント将軍が植えたヒマラヤスギの成長速度が、たまたま遅かった。

b.グラント将軍が植えたヒマラヤスギが枯れたので、後に別のヒマラヤスギを植えた。

c.グラント将軍は別の木(米松など)を植えたが枯れたので、後にヒマラヤスギを植えた。

d.グラント将軍は植樹しなかったが、後に参詣記念としてヒマラヤスギを植えた。

ブルックが育てたヒマラヤスギは、後に横浜の会社に引き継がれ、育てられた苗が宮内庁に献上されたほか、新宿御苑が買い上げたと言われている。しかし、ヒマラヤスギはあまり売れなかったらしく、やむなく学校に配ったところ、それが契機になって明治の末ぐらいから次第に普及していったという。増上寺に後にヒマラヤスギを植えたとすると、この時期のヒマラヤスギだったかも知れない。ヒマラヤスギが渡来した時期は、グラント将軍来日の時期と重なっているが、グラント将軍の記憶が薄れていない明治の終わり頃には、ヒマラヤスギはグラント将軍が持ち込んだと思っていた人が居たかも知れず、ひょっとして、グラント松と呼んでいたかも知れない。

 

④三島市のタイサンボク

三島市にはグラント将軍が贈ったというタイサンボクがあるそうである。グラント将軍の歓迎は東京ばかりではなく三島でも行うべきだという考えから、寄付を集めてグラント将軍歓迎会を三島でも開催しているが、三島では東京のような植樹は叶わなかったのだろう。ここからは単なる想像だが、グラント将軍の植えたヒノキは無理にしても、夫人の植えたタイサンボクなら余った苗木があったかも知れない。それをグラント将軍の名で三島に送ったとしたら、グラント将軍から贈られたタイサンボクという事になる。ただ、事実がどうであったかは、全く分からない。

 

(3)グラント将軍一行と延遼館

延遼館は、江戸幕府が慶応2年(1866)に浜御殿を海軍所とした時、伝習屯所を起工した事に始まる。その建物は凝灰岩の切石を積んで造った西欧式石造建築であったため石室と呼ばれていた。やがて明治。浜御殿は新政府に引き継がれたが、石室はまだ竣工前であった。明治2年(1869)、イギリス王子の日本訪問に際し、石室を宿所に充てる事になったため、工事中の石室を急きょ改修し迎賓館として竣工させ、延遼館と名付ける。ただ、改修の日数が短かったためか種々問題があったらしく、後にグラント将軍を迎える際には大修理を行っている。この時、室内装飾についてはコンドルに委嘱している。

<暖炉の図>

延遼館は北面して建てられ、中央を唐破風付きの正面玄関としたコの字型の平屋であり、厨房が付属していた。全体の室数は24室で、そのうち主要な7室には暖炉が設置され、廊下や室内は絨毯敷であった。屋根は本瓦葺で和風の外観を有しているが、暖炉の煙突が突き出るという和洋折衷の建物であった。グラント将軍が滞在した時には、館内にビリヤード台も設置されていたようである。迎賓館としての役割が鹿鳴館に移る以前の延遼館は外務省の所管であり大手門を専用の門としていた。一方、浜離宮の庭園は皇室の所有であり、庭園に入るには中の御門を使うため、枡形を構成する石垣の一部が崩されたと思われる。明治16年(1883)に鹿鳴館が竣工すると、迎賓館としての役割は鹿鳴館に移る。その後、延遼館について修繕も検討されるが、明治22年に取り壊しが決まり、翌年には解体される。

グラント将軍一行は延遼館に2か月間滞在しているが、随行したヤングは延遼館の印象について、宮殿のイメージである豪奢、華麗、多くの色彩と飾り、室内装飾と大理石などは何一つ無く、がっかりさせられると書いている。その一方で、庭園の出来栄えと美しさは特筆に値するとし、特に東屋については研究の必要があると記している。ここでの滞在が長くなるにつれ、ヤングも延遼館に愛着を覚えるようになったらしく、延遼館の見納めとなる最後の夜には、こんな素晴らしい所はまたとないと書いている。延遼館には国の内外を問わず多くの要人が訪れ、また、グラント将軍も大小の宴会を催していたようである。時には商人が珍しいものや実用品を売りに来ることもあり、また、陶工を延遼館に呼び寄せて製造過程を見せる事もあったらしい。延遼館に滞在していた時、地震に二度遭遇している。梁がきしみ、シャンデリアが音を立て、コップの水が揺れ動いたが、被害が出る程ではなかったらしい。

ついでに言うと、延遼館の再建の際には、耐震性について考慮されると思われるが、津波に対する避難路の確保については、今のうちから考えておいた方が良さそうである。

<グラント将軍(中央)と書記のヤング(左)。Share画。>

 

<参考資料>「グラント将軍日本訪問記」「グラント将軍との御対話筆記」「東京市史稿市外編62」「明治ニュース大事典」「上野公園グラント記念樹」「開拓使事業報告」「増上寺とその周辺」「わが国へのヒマラヤスギの渡来と普及について」「明治洋風宮廷建築」ほか。


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