夢七雑録

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11.1 半田いなり詣の記(1)

2009-01-20 22:50:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十四年六月十五日(1817年7月28日)、朝食後、嘉陵(村尾正靖)は半田稲荷に詣でようと浜町の家を出る。大川橋(吾妻橋)を渡り、水戸屋敷(墨田区向島1。墨田公園)の脇から用水沿いに行く。広重の名所江戸百景の「小梅堤」に描かれているのが、この用水で、亀有上水(のちに四つ木通り用水)と呼ばれていた。この用水に沿う道が水戸街道の脇道で、嘉陵も、この道をたどったと考えられる。この道は途中で、右に木下川薬師への道、左へ木母寺への道を分けるが、どちらも曲がりくねった道である。さらに行くと、飲食店が並ぶ四つ辻に出た。ここを左後方に行くと橋場に出、右に行くと市川に出られた。また、道の右手に行けば西光寺(葛飾区四つ木1)に出られた。現在の道では、吾妻橋を渡り、墨田公園の南側を川に沿って進み、東京スカイツリーの建設地になっている押上から、かっての亀有用水であった曳舟川通りを進み、江戸時代には無かった荒川(放水路)を渡るのが、この道である。

 四つ辻の先に世継(葛飾区四つ木)の二軒茶屋があった。嘉陵は、ここの茶屋でしばらく休んでから、世継の引船に乗る。話には聞いていたが、初めて見る珍しい光景と嘉陵は書いている。その様子は廣重の名所江戸百景の「四つ木通り用水引ふね」に描かれているが、亀有上水に浮かべた舟を、四つ木と亀有の間の約3kmを人力により引いたのである。引舟の数は合わせて十四艘。料金は一人二十四銭であった。現在、この亀有上水は暗渠化され、道路の中央を亀有方面に続いている曳舟川親水公園になっている。

 この日、舟に乗り合わせたのは四人。夏なのに冷たい東風が吹き、舟に乗っている間中寒かったと、嘉陵は書いている。引舟の終点から、新宿(ニイジュク)の渡し場に出て、中川を渡る。その風景は、広重の江戸名所百景「にい宿のわたし」にも取り上げられているが、流れがゆるやかであったため、舟銭はとらなかったという。現在の曳舟川親水公園は、千住から来る水戸街道にぶつかる辺りで終わりとなるが、この辺りを亀有上宿といい、ここから水戸街道を東に少し行ったところに一里塚跡の碑がある。さらに行けば中川橋で、この辺(足立区亀有3。写真)に新宿の渡し場があったとされる。


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