2009.7 曹洞宗大本山永平寺を歩く
曹洞宗開祖の道元は教科書で習う。父方の実家は曹洞宗なので、大本山永平寺に親しみを覚え、2009年7月、曹洞宗大本山永平寺を訪ねた。羽田空港から小松空港に飛び、空港でレンタカーを借りる。国道8号線を経て、国道364号線を南に40分ほど走った山あいの門前町(写真)で車を止める。仏具店が多い。
左右の石柱が参道入口になる(写真)。雨上がりのせいもあるが、参道の緑がすがすがしい。
永平寺は、北、東に山が迫り、南に永平寺川が流れる標高200~240mぐらいの南斜面に堂宇が配置されている。
修行に重要な七堂伽藍は廻廊で結ばれていて、廻廊南に山門、廻廊北に法堂、山門と法堂のあいだに南から中雀門、仏殿、一文字廊が並び、廻廊東に大庫院、廻廊西に僧堂、廻廊南東に浴室、廻廊南西に東司が配置されている(図web転載)。
深山幽谷の地が選ばれたのは、道元が坐禅修行の道場を目指したためであろう。
道元(1200-1253)は京都の公卿の家に生まれ、早くに両親を亡くし、14歳のとき比叡山延暦寺(天台宗総本山)で出家、悟りを開くために厳しい修行をしなければならないことに疑問を感じて17歳のとき建仁寺の栄西(1141-1215、臨済宗開祖)を訪ねる。
栄西没後だったので弟子の明全(1148-1225)に師事し、24歳のとき、明全とともに南宋に渡る。南宋で曹洞宗・如浄禅師に学んで得度し、只管打坐(しかんたざ)の禅を受け継ぐ。
1227年に帰国し、1233年、京都深草に寺を開く。1243年、越前・波多野義重の招きで現在地に居を構え、1244年、大佛寺を開き、1246年、永平寺と改める。
1340年の南北朝の戦火で多くの堂宇が焼失、再建されたが、1473年の応仁の乱による兵火で再度焼失し、その後再建された。
1539年に105代後奈良天皇から「日本曹洞第一出世道場」、1591年にも107代後陽成天皇から「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の諭旨を受けている。
江戸時代まで、永平寺のほかに總持寺祖院(石川県輪島市)、正法寺(岩手県奥州市)、大慈寺(熊本県熊本市)が本山を称していて、1615年に江戸幕府から永平寺と総持寺(神奈川県横浜市)が曹洞宗の大本山に認定された。
石畳の参道を東に進むと左に参拝入口になる通用門があるがそのまま参道を東に歩くと、杉の巨木の先に1844年に再建された壮麗な唐門が建っている(次頁写真web転載、重要文化財)。
正面の唐破風などを金箔の飾り金物で装飾した華やかなつくりで、皇室からの使者、住持(貫首)を迎えるときに開かれるため勅使門とも呼ばれる。通常は非公開で、門は閉じている。
通用門に戻る。通用門の奥に吉祥閣(きちじょうかく)が建つ。1971年に竣工した研修道場で、参籠、参禅研修を受けることができる。参拝者は吉祥閣で参拝の心得を聞く。順路に従って廊下を東に進み、傘松閣(さんしょうかく)手前で北に回り込み東に進む。
傘松閣は1930年の竣工、1994年の改築で、1階は参拝者控え室、研修・宿泊室、2階は格天井に230枚の花鳥画が描かれた絵天井の大広間だそうだが、見ていない。
傘松閣の東に七堂伽藍の一つ、東司(とうす)が建つ。道元によれば東司も修行の場で、身も心も清らかにする作法が示されているそうだが、通り過ぎる。
東司の東の廻廊の先が山門だが、順路は東司から廻廊を北に上る(写真、上りきって法堂あたりから見下ろす)。
山門の東方、西方、中雀門の東方、西方、仏殿の東方の廻廊は重要文化財に指定されている。いま上っている廻廊は重要文化財ではないが、修行の場にふさわしい簡素なつくり方は共通する。
廻廊を上る途中の左に僧堂が建つ(写真web転載、重要文化財)。1902年に改築された修業の根本道場で、坐禅、食事、就寝の場になっている。知恵の象徴である文殊菩薩が祀られているそうだが、通り過ぎる。
廻廊を上りきると1843年改築の法堂(はっとう)が建つ(写真左web転載、重要文化財)。420畳敷きの大広間で、雲水=修行僧の朝課、法要、儀式が行われる。
部屋の中央にきらびやかな大天蓋が吊られ、床に阿吽の白獅子がにらみをきかせている(右写真)。祭壇に聖観世音菩薩が祀られている。曹洞宗では般若心経がよく読まれる。当時は全文を覚えていなかったので、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 むにゃむにゃ」と唱えながら合掌する。
法堂あたりの標高は230mほどで、境内では最も高い。下に一文字廊、その下に仏殿の屋根が見える(写真)。斜面地に堂宇が建てられているので、空が広い。広い空を見ると気持ちがおおらかになる。
法堂から東側の階段廻廊を下り、仏殿に向かう(写真、重要文化財)。1902年の改築である。入母屋の大屋根に裳階を回しているので重厚である。床は石畳で仕上げられている。
須弥壇には、中央に釈迦牟尼仏(現在仏)、左に阿弥陀如来(過去仏)、右に弥勒菩薩(未来仏)の三世如来を祀っている(写真)。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 むにゃむにゃ」と唱え、合掌する。
東側の廻廊に戻る。廻廊東に重要文化財の大庫院(くいん)が建つ。地下1階、地上4階の木造建築で、1930年に改築された。仏膳、修行僧、来賓の食事を調える台所、接待室、大広間がある。
大庫院を過ぎると東廻廊と西廻廊をつなぐ廻廊が通っていて、中央に中雀門が建つ(写真web転載、中雀門、廻廊ともに重要文化財)。1852年に建てられた楼門である。高さ、幅、奥行き、1層目と2層目の屋根のバランスがいい。優雅である。厳しい修行のあいまに中雀門を眺めると、気持ちがなごみそうである。
東廻廊を下ると浴室が建つ。水で悟りを開いた跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)が祀られ、入浴も修行とされて僧堂、東司とともに三黙道場とされるが、見ていない。
浴室で廻廊は右に折れ、山門=三解脱門(写真、重要文化財)を通る。永平寺に現存する最古の建物で、1747年の竣工である。
楼門形式で、1階には仏教の守護神である持国天、増長天、多聞天、広目天の四天王が祀られている。階上には釈迦如来像、五百羅漢などが祀られ、後円融天皇の勅額「日本曹洞宗第一道場」が掲げられているそうだが、2階には上がらなかった。
山門を通り、廻廊を西に進み、吉祥閣に戻って参拝を終える。
(2023.1)
曹洞宗開祖の道元は教科書で習う。父方の実家は曹洞宗なので、大本山永平寺に親しみを覚え、2009年7月、曹洞宗大本山永平寺を訪ねた。羽田空港から小松空港に飛び、空港でレンタカーを借りる。国道8号線を経て、国道364号線を南に40分ほど走った山あいの門前町(写真)で車を止める。仏具店が多い。
左右の石柱が参道入口になる(写真)。雨上がりのせいもあるが、参道の緑がすがすがしい。
永平寺は、北、東に山が迫り、南に永平寺川が流れる標高200~240mぐらいの南斜面に堂宇が配置されている。
修行に重要な七堂伽藍は廻廊で結ばれていて、廻廊南に山門、廻廊北に法堂、山門と法堂のあいだに南から中雀門、仏殿、一文字廊が並び、廻廊東に大庫院、廻廊西に僧堂、廻廊南東に浴室、廻廊南西に東司が配置されている(図web転載)。
深山幽谷の地が選ばれたのは、道元が坐禅修行の道場を目指したためであろう。
道元(1200-1253)は京都の公卿の家に生まれ、早くに両親を亡くし、14歳のとき比叡山延暦寺(天台宗総本山)で出家、悟りを開くために厳しい修行をしなければならないことに疑問を感じて17歳のとき建仁寺の栄西(1141-1215、臨済宗開祖)を訪ねる。
栄西没後だったので弟子の明全(1148-1225)に師事し、24歳のとき、明全とともに南宋に渡る。南宋で曹洞宗・如浄禅師に学んで得度し、只管打坐(しかんたざ)の禅を受け継ぐ。
1227年に帰国し、1233年、京都深草に寺を開く。1243年、越前・波多野義重の招きで現在地に居を構え、1244年、大佛寺を開き、1246年、永平寺と改める。
1340年の南北朝の戦火で多くの堂宇が焼失、再建されたが、1473年の応仁の乱による兵火で再度焼失し、その後再建された。
1539年に105代後奈良天皇から「日本曹洞第一出世道場」、1591年にも107代後陽成天皇から「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の諭旨を受けている。
江戸時代まで、永平寺のほかに總持寺祖院(石川県輪島市)、正法寺(岩手県奥州市)、大慈寺(熊本県熊本市)が本山を称していて、1615年に江戸幕府から永平寺と総持寺(神奈川県横浜市)が曹洞宗の大本山に認定された。
石畳の参道を東に進むと左に参拝入口になる通用門があるがそのまま参道を東に歩くと、杉の巨木の先に1844年に再建された壮麗な唐門が建っている(次頁写真web転載、重要文化財)。
正面の唐破風などを金箔の飾り金物で装飾した華やかなつくりで、皇室からの使者、住持(貫首)を迎えるときに開かれるため勅使門とも呼ばれる。通常は非公開で、門は閉じている。
通用門に戻る。通用門の奥に吉祥閣(きちじょうかく)が建つ。1971年に竣工した研修道場で、参籠、参禅研修を受けることができる。参拝者は吉祥閣で参拝の心得を聞く。順路に従って廊下を東に進み、傘松閣(さんしょうかく)手前で北に回り込み東に進む。
傘松閣は1930年の竣工、1994年の改築で、1階は参拝者控え室、研修・宿泊室、2階は格天井に230枚の花鳥画が描かれた絵天井の大広間だそうだが、見ていない。
傘松閣の東に七堂伽藍の一つ、東司(とうす)が建つ。道元によれば東司も修行の場で、身も心も清らかにする作法が示されているそうだが、通り過ぎる。
東司の東の廻廊の先が山門だが、順路は東司から廻廊を北に上る(写真、上りきって法堂あたりから見下ろす)。
山門の東方、西方、中雀門の東方、西方、仏殿の東方の廻廊は重要文化財に指定されている。いま上っている廻廊は重要文化財ではないが、修行の場にふさわしい簡素なつくり方は共通する。
廻廊を上る途中の左に僧堂が建つ(写真web転載、重要文化財)。1902年に改築された修業の根本道場で、坐禅、食事、就寝の場になっている。知恵の象徴である文殊菩薩が祀られているそうだが、通り過ぎる。
廻廊を上りきると1843年改築の法堂(はっとう)が建つ(写真左web転載、重要文化財)。420畳敷きの大広間で、雲水=修行僧の朝課、法要、儀式が行われる。
部屋の中央にきらびやかな大天蓋が吊られ、床に阿吽の白獅子がにらみをきかせている(右写真)。祭壇に聖観世音菩薩が祀られている。曹洞宗では般若心経がよく読まれる。当時は全文を覚えていなかったので、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 むにゃむにゃ」と唱えながら合掌する。
法堂あたりの標高は230mほどで、境内では最も高い。下に一文字廊、その下に仏殿の屋根が見える(写真)。斜面地に堂宇が建てられているので、空が広い。広い空を見ると気持ちがおおらかになる。
法堂から東側の階段廻廊を下り、仏殿に向かう(写真、重要文化財)。1902年の改築である。入母屋の大屋根に裳階を回しているので重厚である。床は石畳で仕上げられている。
須弥壇には、中央に釈迦牟尼仏(現在仏)、左に阿弥陀如来(過去仏)、右に弥勒菩薩(未来仏)の三世如来を祀っている(写真)。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 むにゃむにゃ」と唱え、合掌する。
東側の廻廊に戻る。廻廊東に重要文化財の大庫院(くいん)が建つ。地下1階、地上4階の木造建築で、1930年に改築された。仏膳、修行僧、来賓の食事を調える台所、接待室、大広間がある。
大庫院を過ぎると東廻廊と西廻廊をつなぐ廻廊が通っていて、中央に中雀門が建つ(写真web転載、中雀門、廻廊ともに重要文化財)。1852年に建てられた楼門である。高さ、幅、奥行き、1層目と2層目の屋根のバランスがいい。優雅である。厳しい修行のあいまに中雀門を眺めると、気持ちがなごみそうである。
東廻廊を下ると浴室が建つ。水で悟りを開いた跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)が祀られ、入浴も修行とされて僧堂、東司とともに三黙道場とされるが、見ていない。
浴室で廻廊は右に折れ、山門=三解脱門(写真、重要文化財)を通る。永平寺に現存する最古の建物で、1747年の竣工である。
楼門形式で、1階には仏教の守護神である持国天、増長天、多聞天、広目天の四天王が祀られている。階上には釈迦如来像、五百羅漢などが祀られ、後円融天皇の勅額「日本曹洞宗第一道場」が掲げられているそうだが、2階には上がらなかった。
山門を通り、廻廊を西に進み、吉祥閣に戻って参拝を終える。
(2023.1)