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2020.1シチリアの旅21 バロック様式で再建されたノート 2

2021年06月10日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 21  バロック様式で再建されたノート 2

 シチリアの旅6日目、10:30ごろ、サンタ・キアラ教会あたりから黄色みの石壁の先に緑が見え、視界が開けて市庁舎広場Piazza Municipioに出る。通りの右手北側に大聖堂、左手南側に市庁舎が向かい合っていて、街の中心になっているようだ。
 市庁舎広場の中央は大聖堂に上る大階段で、大階段の左右に刈り込まれた樹木でU字型に囲まれた小広場が並んでいる。石敷き、石壁の街なので緑が目に映える。
 右=東の小広場には街灯が立っているだけだが、左=西の小広場には第2次世界大戦戦没者慰霊碑Monumento ai Caduti nella Grande Guerraのブロンズ像が置かれ、戦争の悲惨を伝えている(写真)。・・イタリアは第1次世界大戦後、ムッソリーニによるファシスト政権に制圧されていたが、第2次世界大戦中の1943年7月、連合軍がシチリア島東南シラクーサ、西南ジェーラに上陸し、イタリア本土に進撃してファシスト政権を倒した。この大戦で多数の犠牲者が出た。戦争の悲惨な記憶を風化させてはいけない・・。

 大聖堂Cattedrale di Notoは幅40m、奥行き50mの大階段の上に建っている。天を突くようにそびえているが、石灰岩の黄色みとバロックのデザインが柔らかさを演出している(写真)。階段は日当たりがいい。若者が腰掛け、談笑している。居心地が良さそうだ。
 1700年代始めに建設が始まり、1776年に完成した。1階、2階ともにコリント式オーダーを乗せた円柱を並べ、中央の切妻破風ペディメントはレリーフはないが段型三角形とし、1階入口上部には弓形ペディメント、アーチ型壁龕に弓形ペディメントをのせるなど、バロック様式を採り入れている。
 正面の青銅扉は、1982年作で、街の守護聖人聖コラードの生涯が描かれているそうだが、扉が開いていたため気づかず見落としてしまった。コラードはかつて戦士だったが、神に助けられたあとノート近郊に隠遁し、コラードが息を引き取ったとき、いまはノートの教会の鐘が自然に鳴り出したとの言い伝えがある。
 平面は3身廊、十字平面の交叉部にクーポラをのせている。1996年、長雨でクーポラと身廊、翼廊の一部が崩れ落ち、復元が進んでいる。壁画、天井画の修復はまだ未完成で石の下地がむき出したままだが、清楚に感じる(写真)。

 大聖堂の向かい、通りの南側はドゥチェツィオ宮殿Palazzo Ducezioで、現在はノート市庁舎として使われている(写真)。1746年に建てられ、当初は平屋だったが、1900年代半ばに2階が増築された。
 ドゥチェツィオは、この地域に住む原住民シケル人の指導者の名前だそうだ・・シチリア西部の原住民はエリミ人、中部はシカニ人・・。シラクーサに入植したギリシャ都市国家コリントとシケル人は友好的で街が発展した。山あいのノートはギリシャ植民に反発したとの説がある。海沿いシラクーサと山あいノートは同じシケル人でも考え方に違いがあったかも知れない。
 宮殿ファサードは北向きで、日陰のせいか石灰岩が茶色に見える。イオニア式をアレンジしたオーダーの円柱がアーチを支えていて、間口9スパンのうち中央3スパンを半円形に張り出させ、1階軒下の蛇腹コーニスには溝形を施している。
 宮殿をリバティ様式として紹介する資料もあった。1900年代に始まるアール・ヌーヴォ様式をイタリアではリバティ様式と呼んでいる。内部を見学していないから推測だが、1900年代半ばの2階増築の際、内装に植物紋様などを多用した新しい芸術思潮であるリバティ様式が採用されたのであろう。対して外観は街並みにあわせ、バロック様式でつくられたようだ。

 ドゥチェツィオ宮殿=市庁舎の次の通りの角は、サン・カルロ教会Chiesa di San Carloである(写真)。3スパンの中央部分を弓形にくぼませたユニークなファサードで、円柱は1階にドリス式、2階にイオニア式、3階にコリント式オーダーを乗せている。入口、窓も半円アーチ、弓形アーチ、角形、変形アーチなど多彩である。設計者、職人がバロック様式を楽しんだようだ。

 サン・カルロ教会の交差点から北に上る坂道は、通りの西側に建つニコラチ館にちなみ、ニコラチ通りVia Nicolaciと呼ばれる(写真)。ニコラチ通りは、毎年5月第3週末に通りが花で埋め尽くされる花祭りで知られているそうだ。壁には昨年の花祭りの様子が展示されていた。
 通りの名前になったニコラチ館Palazzo Nicolaciは、ノートを代表するバロック様式の一つで、1737~1765に建てられた。バルコニーbalconeを支える持ち送りmensolaはグロテスク様式と呼ばれる特異なデザインで、バルコニーごとに異なったデザインが施されている。前頁写真は人魚、右写真は疾走する馬が彫刻され、ほかにアシカ、グリフィン、ケンタウロスなどもある。それぞれに意味が込められているようだがメモしきれなかった。
 貴族ニコラチは裕福だったようで、館は90部屋もある。そのうち10部屋が公開されているが、私たちのツアーは街並みの外観見学なので、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りに戻る。

 サン・カルロ教会に続くバロック様式の壁面には人面がレリーフされている(写真)。入口を弓形に張り出し、壁面の蛇腹コーニス=イタリア語soffiettoや飾りペディメントのデザインも多彩である。バロック様式後期とも、イタリア風アール・ヌーヴォ=リバティ様式ともいえる。人面はニコラチ館の持ち送りmensolaに比べればおとなしいが、壁面に施されたバロック様式で華やかさを感じる。

 その先はPiazza 16 Maggio5月16日広場・・由来は後述・・で、右手・北側には植栽が施され中央にヘラクレスの泉、その奥にサン・ドメニコ教会が建つ。広場左手・南側には市立劇場Teatro Comunalが建っている(写真、web転載)。
 1693年の大地震後に再建されたノートに劇場はつくられず、演劇などはドゥチェツィオ宮殿で開催された。1837年、県都シラクーサでブルボン家支配に対する反乱が起きたため県都がノートに移された。県都にふさわしい劇場建設の気運が高まり、1870年、イタリア流アール・ヌーヴォ=リバティ様式で劇場が完成した。外観は県都の威厳を表現しようとしたのか、古典的な様式を採り入れている。内装がリバティ様式なのであろう。
 
 広場北側には植栽の中央にヘラクレスの泉Fontana d'Ercoleが設けられ、ギリシャ神話のネメウスの獅子を退治したヘラクレスが一息している様子の彫刻が飾られている(写真)。ヘラクレス=イタリア語ローマ神話ercoleはローマ神話のネプトゥーヌスと同一視され、ネプトゥーヌスはローマ神話のポセイドン=イタリア語poseidoneと同一視されるそうで、Hさんはポセイドン像として説明した・・ギリシャ神話、ローマ神話に詳しくないと混乱する・・。1300年前につくられたが、この像はコピーらしい。
 1860年、ジュゼッペ・ガリバルディがシチリア島で革命軍を率い進軍するさなかの5月16日、ヘラクレスの像に革命軍のシンボルである3色旗がからまっているのが見つかった。5月16日広場の名はガリバルディの革命にちなんだようだが、由来について資料は触れていない。

 ヘラクレスの泉の北側の高台にサン・ドメニコ教会Chiesa San .Domenicoが建つ(写真)。
1703~1727年建造のバロック様式で、南側ファサードは半円を張り出し、交叉部に8角形の塔状クーポラを乗せている。1階柱はドーリア式オーダー、2階はコリント式オーダーで、壁面、軒下のコーニスsoffiettoや壁面、壁龕、窓周りにバロック様式のデザインを施している。
 教会の左隣はドメニコ派修道院だったが、現在は高等専門学校として使われている。レアーレ門に近いサン・フランチェスカ派修道院も高校として使われていた。日本なら寺院の講堂が学校ということになろうか。知性、理性、悟性に長けた卒業生を期待しよう。

 だいたい11:00、およそ1時間のバロックの街並み見学はここで終わる。レアーレ門11:30集合まで、トイレを含め自由散策になった。レアーレ門まで直線で600mほど、ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを復習しながら、ゆっくり下る。
 Cafe Milanoでエスプレッソ(1ユーロ)を立ち飲みし、トイレを利用する(写真)。・・なんと便座が高いことか!・・。
 レアーレ門に集まったあと、バスでラグーザRagusaに向かった。         (2021.6)

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