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2020.1シチリアの旅23 バロック様式で再建されたラグーザ2

2021年06月21日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 23 バロック様式で再建されたラグーザ 2

 シチリアの旅6日目、13:00 ごろ、カンチェッレリア宮横の階段をさらに上ると、崖の中腹につくられたつづら折れの道路に出る。往復2車線で歩道はなく、西側は崖で、東側に建物が続いている。車に気をつけながら道路を少し上ると、東側の家並みが切れる。この切れ目から眼下のイブラ地区を遠望することができた(写真)。
 イブラ地区は、崖や急峻な斜面を自然の要害にして築かれた街のように見える。遠目からも、市街は入り組み、密集している様子が分かる。写真左手が煉獄の聖墳墓教会なので、その下の駐車場から狭く折れ曲がった階段を上ってきたことになる。バロック様式を眺めながらを上ってきたので、高低差はさほど気にならなかった。
 
 イブラ地区の遠望を終え、階段を下り、途中からイブラ地区北西に向かって歩き、狭く折れ曲がった石畳の道に折れる。13:10過ぎ、石積みの2階建てが続いているなかの一軒で、外壁は白のプラスターで改装されたLa Terrazza dell'Rologioに入る。レストランのカードには時計塔が描かれている。屋階には展望のいいテラス席があるらしい。時計塔の近くの展望のいいテラスを縮めて、時計テラスと名付けたようだ。
 中は天井の高い石積みアーチ構造で、白く仕上げられ、明かりも入り、広々と感じる(写真)。

 前菜はシチリア発祥の野菜煮込みカポナータcaponataとシチリアでは定番の米コロッケアランチーニarancino(次頁写真左)である。カポナータもアランチーニも私には珍しいが、ヨーロッパのどこかで食べた記憶がある。材料が共通するから、日本のどこかで食べているかも知れない。
 主菜は食べ慣れたポーク=イタリア語maiale(上写真右)なので、赤ワインを頼んだら、シチリア産ネロ・ダーヴォラNero d'Avola(8ユーロ)が運ばれてきた(写真)。
 大きなワイングラスを回すとラズベリー?の香りを感じる。味わいはタンニンが効いたフルボディである。ワインを楽しみながら、ポークをいただいた。
 デザートは北イタリア生まれのテラミス=イタリア語tiramisuで、語源はtirami su=私を引っ張り上げて→私を元気づけて、だそうだ。日ごろケーキなど甘い物は食べないからテラミスの甘さは私の限界を超えるが、この甘さが元気の源かも知れない。
 料理、ワイン、ケーキの説明をメモしながら、1時間余のランチを楽しむ。

 レストランを出て、狭く折れ曲がった道を東に歩く。バロック様式の建物が続いた石畳の道は、折れ曲がるだけではなく、狭くなったり広くなったりしている。この道の作り方がアラブ人の侵略への備えだったようだ。
 道はVia Tenente di Stefano=ステファノ中尉通りからVia Capitano Bocchieri=ボッキエリ大尉通り、そしてVia duomoドゥオーモ通りへと名を変えていく。同じ道なのに名前が変わる理由は分からないが、中尉通り、大尉通りとは戦時の名残だろうか。
 ほとんどの建物がバルコニーを設けていて、その多くは腕木のような単純な持ち送りだったが、大尉通りからドゥオーモ通りに変わるあたりに建つロッカ宮Palazzo la Roccaの持ち送りmensolaはさまざまな人型が彫刻されていた(写真)。
 ロッカ宮は1760~1780年ごろにロッカ男爵が建てた館で、持ち送りの彫刻はバルコニーごとにすべて異なり、抱き合う二人、変形した顔、楽器を奏でる人などの彫刻が通り過ぎる人々を見下ろしている。

 ロッカ宮を過ぎるとドゥオーモ通りは大聖堂の西壁に沿って北に迂回する。道が狭いので大聖堂の形は見えないが、大聖堂北壁の途中の階段の上に入口が設けられている・・私たちのツアーはバロック様式の街並み見学なので拝観していない・・。
 黄色みの石積み壁を見ながらドゥオーモ通りを東に抜けると圧倒する大きさの大聖堂が姿を表す。大聖堂は正式にはサン・ジョルジョ大聖堂Duomo di San Giorgioと呼ばれる。ドラゴンを倒した聖ジョルジョgiorgio=聖ゲオルギオスgeorgiosは、ラグーザの守護聖人である。
 もともと、いまの大聖堂を下った突き当たりのイブレオ庭園近くに、守護聖人聖ジョルジョに捧げたカタルーニャ・ゴシック様式のサン・ジョルジョ大聖堂が建っていた。
 1693年の大地震で大聖堂は大きな被害を受けた。被害の少ない礼拝堂などを使い教会は維持されたが、1738年、現在地にバロック様式で新たな大聖堂の建設が始まり、1776年に完成した。
 もともとの場所には、ラグーザの地図にはSan Giorgio Vecchio、googlmapにはportale di San Girogioと記されているから、旧サン・ジョルジョ教会の正面ファサードの扉口=イタリア語portaleの遺構が現在も残っているようだ。扉口ポータル=イタリア語ポルターレはカタルーニャ・ゴシック様式らしいが、私たちは見学していない。

 大地震後、イブラ地区の再建と同時にスペリオーレ地区の開発が進み、1865年、イブラ地区とスペリオーレ地区は分離する。それまでサン・ジョルジョ大聖堂がラグーザの司教座だったが、スペリオーレ地区にも大聖堂が置かれたらしい。
 1927年、イブラ地区とスペリオーレ地区が合体する。司教座もどちらかに統合されることになり、議論を重ねた末、イブラ地区のサン・ジョルジョ大聖堂に決着したそうだ‥神様も忙しい‥。
 
 サン・ジョルジョ大聖堂Duomo di San Giorgio(写真)は、ラテン十字平面で東をファサードにし、西にアプスを配置した3身廊である。空にそびえる巨大なドームは1820年に新古典主義で完成した‥その折々に採用された先端的なデザインからも社会の思潮がうかがえる‥。
 大聖堂あたりからイブレオ庭園に向かって東傾斜になっている。東のドゥオーモ広場側から見ると、大聖堂は250段の大階段の上に建てられているため、偉容が誇張されている。言い換えれば、偉容を誇張するために250段の階段+東下がりのドゥオーモ広場を計画したようだ。
 ファサードの中央身廊部分を3層にし、弓形に張り出させ、両脇の円柱3本は奥行き方向にずらして配置している。ファサードの側廊部分は1層と低くし、身廊部分より奥に一段下げ、両脇の円柱3本も奥行き方向にずらしている。遠近法でファサードの偉容をさらに強調する仕掛けである。
 ファサード3層目の聖人はペテロとパウロだそうだ。2層目は走り書きのメモが怪しいので確証はないが、サン・ジョルジョ=聖ゲオルギオスとセント・ジェームズ=聖ヤコブらしい。

 ドゥオーモ広場を東に下り、1756~1796年に建てられたバロック様式のサン・ジュゼッペ教会Chiesa diSan Giuseppeの横を通り過ぎる(写真)。
 サン・ジュゼッペ=聖ヨセフ教会は、ファサード中央の3層を弓形に張り出させ、左右側廊に相当する部分のファサードは1層に抑えて中央部分より後退させるなど、サン・ジョルジョ大聖堂のデザインに似ている。その一方、ファサード中央両脇の円柱は三角に配置し、ファサード最上層に3個の鐘を並べるなど、大聖堂との相違点も少なくない。
 先に完成した大聖堂の建築家が少し趣向を変えたとも思えるが、若手建築家が大聖堂を手本にデザインしたのではないだろうか。大地震後、膨大な建物の再建、新築が行われていたから、腕の立つ著名な建築家は重要な建物、高貴な館を手がけ、それらを手本に若手建築家が腕を磨いたのは自然の成り行きではないだろうか。

 下りきるとイブレオ庭園Giardeno Ibleoで行き止まりになる(写真)。ここでバロックの街並み見学は終わりである。
 イブレオ庭園の東は崖だそうだ。イブラ地区は、東側、北側、南側は崖で、西は谷を挟んでスペリオーレ地区に接しているから、陸地の孤島といえる立地を選んで計画された街だったことが分かる(写真、帰路のイブラ地区遠景)。
 イブレオ庭園あたりは教会、館が建っていたらしいが、大地震で倒壊し、1858年に庭園として整備された。ヤシの並木の庭園は散策に良さそうだし、近くには前述した旧サン・ジョルジョ大聖堂の入口遺構などの見どころもあるらしい。が、時計は15:15、La Terrazza dell'Rologioを出てからたっぷり1時間以上歩いた。午前もノートをたっぷり歩いている。バロックの街歩きを終えて、バスに乗る。

 シラクーサに戻るには地中海側の道路で南東に向かい、イオニア海側の道路で北東に走る。ラグーザを出てすぐに前掲写真のイブラ地区を遠望する。
 ラグーザから25分ほどで、ノート、ラグーザとともに世界遺産ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の街であるモディカModicaを遠望する(写真)。ノート、ラグーザと同じ歴史をたどり、アラブ人の侵攻で要塞化されたそうだ
 1693年の大地震で大きな被害を受け、要塞化された街並みがバロック様式で再建された。遠望した限りではラグーザ・イブラ地区よりも密集しているように見える。
 遠望を終え、シラクーサ・オルティジアに直行する。17:00ごろ、駐車場に着いた。  (2021.6)

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