<世界の旅・イタリアを行く> 2020.1 シチリアの旅 22 バロック様式で再建されたラグーザ 1
シチリアの旅6日目、11:30ごろ、ノートをあとにしたバスはラグーザRagusaに向かう。ラグーザはノートの西、直線で30kmぐらいだが、イブレイ山Monte Ibleiを始めとする急峻な山並みがせめぎ合っているため、いったん南西に向かい、北西に向きを変え、世界遺産ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の街々の一つ、モディカModicaを抜けていくので、およそ40km、バスでは1時間半ほどかかる。
現在のラグーザは、人口約73000人の基礎自治体コムーネで、ラグーザ県の県都である。ラグーザ市街はサン・レオナルド谷、サンタ・ドメニカ谷に挟まれた標高500m前後の石灰岩の丘の上に位置するが、ラグーザ市域は標高860mほどの山あいから、市街から南西22~23km先の海まで広がっている。
もともと標高300mほどの丘にシクリ人の一部族が住んでいた。ギリシャ植民都市との交流があり港を利用して発展したとの説もあるが、ギリシャ植民都市の膨張?で標高500mぐらいの現ラグーザ・イブラ地区に移住したらしい(図参照、イブラ地区は右の旧市街)。
カルタゴ支配ののち、東ローマ帝国はラグーザを要塞化した。848年、アラブ人がラグーザを支配した・・イブラ地区の通りは狭く迷路状なのはアラブ人の侵略を防ぐためとの説もある・・。
11世紀のノルマン人征服後、初代シチリア伯ルッジェーロ1世の子ゴッフレードGoffredoがラグーザ伯となり、ラグーザを県都にした。シチリア王国下でラグーザは発展した。
1693年の巨大地震で大きな被害を受ける。イブラ地区はバロック様式で再建された。新たに標高の高いラグーザ・スペリオーレRagusa Superiore=上ラグーザも開発された。
ラグーザ・スペリオーレに対し、標高の低いイブラ地区はラグーザ・インフェリオーレRagusa Inferiore=下ラグーザと呼ばれた。スペリオーレとインフェリオーレはポンティ谷によって分断されていたが橋が架けられ、1927年、ファシスト政権下で一つに合体し県都になった。
ラグーザ・スペリオーレの開発でもバロック様式が採用され、見どころが多いようだが、私たちのツアーはスペリオーレ地区東端でバスを降り、イブラ地区を見学し、イブラ地区東端でバスに乗ルコースを歩いた(図参照)。
12:40過ぎ、ラグーザ駐車場でバスを降りる(図、中ほどやや左「バス降りる」)。地図を見るとスペリオーレ地区の東端で、いろは坂を思わせるように蛇行した道路がスプリオーレ地区に上っている・・かなりの急斜面で、後ほど実感する・・。いろは坂状の道路を縫うように階段が高台と低地をつないでいる・・階段も実感する・・。
駐車場から坂道を上ると、レプッブリカ広場Piazza della Repubblica=共和国広場に出る。広場の東側に、西面をファサードにしたChiesa delle Santissime Anime del Purgatorio=煉獄の聖墳墓教会が建っている(写真)。黄色みの石灰岩とバロック様式のデザインのため重々しい感じはない。
教会の切妻破風ペディメントには1757と刻まれている。1757年の再建のようだ。コリント式オーダーを乗せた円柱、軒下、壁の蛇腹soffietto、破断した弓形ペディメント、入口上部の祈りを捧げる天使?の小さな像など、バロック様式の典型がうかがえる。
レプッブリカ広場から北西に少し上った左もバロック様式で、バルコニーの持ち送りmensolaは、獣?の顔と人?の顔が二段になっていた(写真)。グロテスクな彫刻の持ち送りはノートでも見たが、二段は珍しい。
角の柱は大きな切石を積み重ね、途中に聖人を飾っている。白みがかった石積みの柱は黄色みがかった壁面より張り出していて、がっしりした印象を感じさせる。地図にはPalazzo Cosentinコゼンティニ宮と記されていた。1779年の再建らしい。
コゼンティニ館手前の階段を上ると、階段の途中にサンタ・マリア・デッリトリア教会Chiesa di Santa Maria dell'ltriaが建つ(写真)。1639年にマルタ騎士団=イタリア語Cavalieri di Malta モディカ伯爵が再建したローマカトリックの教会である。1693年の大地震では大きな被害がなかったが、その後バロック様式に改装され、南向きのファサードは1740年に完成した。
アーチ門の木扉には、左扉に王冠をのせたM、右扉にマルタ騎士団の紋章であるマルタ十字が浮き彫りされている(写真)。Mariaなら光輪がふさわしいから、マルタ騎士団のMかも知れない。
1999年12月にマルタ共和国を訪ね、マルタ騎士団を学んだ。12世紀、十字軍時代にパレスチナに発祥した聖ヨハネ騎士団が、イスラム勢力に追われてロードス島に移りロードス騎士団と呼ばれ、オスマン帝国に追われてマルタ島に移りマルタ騎士団と呼ばれた。その後、マルタ島にナポレオンが侵攻、マルタ騎士団はローマに本拠を移す。マルタはシチリアの目と鼻の先だから、ラグーザにマルタ騎士団の痕跡があっても不思議ではない。
ナポレオン後のマルタ島はイギリスが支配し、イギリス領マルタ、英連邦自治領マルタ国を経て、現在はマルタ共和国である。
マルタ十字は4つのV字型が十字に配置されている。4つのV字の8つの角は、マルタ騎士団の8つの美徳である忠誠心、敬虔さ、率直さ、勇敢さ、名誉、死を恐れないこと、弱者の庇護、教会への敬意を象徴している、などを復習する。
教会前の階段をさらに上ると、カンチェッレリア宮Palazzo del Cancelleria vecchio前広場に出る(写真)。もとはニカストロ家の館で、1693年の大地震後にバロック様式で再建された。その後も増改築が行われたようで、1760年に完成した。
ニカストロ館を通る階段は、低い旧市街のイブラ地区と新たに開発された高いスペリオーレ地区をつないでいて立地がいいことから、1840年からPalazzo del Cancelleria市長官邸として利用された。
ところが1865年、イブラ地区とスペリオーレ地区が分離してしまい、1927年には改めて合体することになる。その間に、階段でしかアクセスできない市長官邸は嫌われ、利便のいい場所に移ったようだ。vecchio=「古い」はそうした歴史を表しているのであろう・・ついでながら、del Cancelleriaは「首相の」意味だが大げさすぎるので市長に意訳した・・。
カンチェッレリア宮は黄色みの石灰岩でつくられているが、入口周りは白みの石灰岩で入口を強調している。市長官邸後の改修かも知れない。石積みの付け柱の上には変形への字形の庇が伸び出している。2階バルコニーを支える持ち送りは人面彫刻はないが、3段の腕木が伸び出している。2階弓形アーチ窓の周りは、人面レリーフ、破断した弓形ペディメント、柱頭の付けオーダーなど大げさにで飾られている。間口の狭いファサードだが、官邸の威厳を表そうとしたのかも知れない。 続く(2021.6)