yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

小6以上向けの「江戸の町・上」は家康の江戸入りから明暦の大火までの図解本

2020年03月14日 | 斜読

book507 江戸の町 上 内藤昌・穂積和夫 草思社 1982  斜読・日本の作家
 1980年代ごろ、まちづくりや巨大建造物を子ども向けに分かりやすく解説した図解本が流行した。子育て中だったから、さっそく10数冊購入した。その一つ、「日本人はどのように建造物をつくってきたか」シリーズは小学6年以上が対象だった。まだ低学年だった子どもには難しかったようで、私が読んだあと、本棚に並んだままになった。

 近年の城ブームで江戸城がよく話題にあがる。家康や江戸城下もテレビなどで取り上げられる。「家康、江戸を建てる」(book482)も興味深く読んだ。思い出して、ほこりをかぶった「江戸の町 上下」を開き、江戸のまちづくりがとても分かりやすく解説されているのに気づいた。建築史・都市史を専門とする内藤昌(1932-2012)氏の力量であろう。穂積和夫(1930-)氏のイラストも想像力を補ってくれる。

 上下巻の表表紙裏、裏表紙裏に、第1次建設1602年慶長7年ごろ、第2次建設1608年慶長13年ごろ、第3次建設1632年寛永9年ごろ、第4次建設1644年正保元年ごろ、1632年寛永9年、1670年寛文10年、1849年嘉永2年~1865年慶応元年の江戸図が掲載されている。この図を見るだけでも江戸の「の」の字型の発展、城下の拡大し、河川や水利の拡充の様子が分かる。図の説得力である。
 本文はB4サイズ257×364より一回り大きいサイズで、見開きごとに解説がまとめてあり、解説にあわせた大判のイラストが描かれている。解説を読む前にイラストが目に入るので、理解が早い。

 上巻ははじめに  から始まり、江戸の原風景  で、もともとの武蔵野台地は5つの小台地、沼、入り江などで構成されていた、太田道灌の江戸城  で、室町時代、関東管領上杉定正の重臣太田道灌が最初の江戸城を築くが、まだ地形には手をつけていない、と指摘する。
 小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉により、徳川家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃と北条氏の関八州を交換させられ、江戸入りするのが徳川家康の江戸入り 、続いて都市計画の原理・土木工事の開始・町割りの基準  で、家康は四神相応の原理に基づき城下を構想し、土木工事に着手し、武家地、寺社地、町人地の町割りを進める。
 道三堀のにぎわい・江戸開府・「の」の字型大拡張計画・江戸湊の整備  と江戸の発展の伴い、四神相応の原理から「の」字型の拡張へと移行する。
 江戸城の構築は、伊豆の採石場・木曽山林の小谷狩り・材木の輸送・江戸町中の運搬・江戸城の石垣積み・環立式天守の設計・大天守の作事  に描かれ、大阪城をしのぐ環立式天守が解説される。
 大坂の陣・徳川家康の死  のあと、2代将軍秀忠、3代将軍家光は神田山の切り通し・江戸城総構えと見付け門・江戸城完工・江戸城本丸御殿・江戸城天守  を次々と完成させる。総構え図、本丸御殿図、天守は内藤+穂積の傑作である。
 城下には城下の大名屋敷・武家屋敷  が整い、一里塚と伝馬・江戸湊・魚河岸・上水道・町屋の建設・職人町・江戸の町並み・商人町・木戸・自身番屋・高札場  と町並みも発展する。
 人々の暮らしが落ち着くと、寺社のにぎわい-浅草寺・上野寛永寺・山王社・神田明神と天下祭り 、さらに銭湯と遊郭・芝居  が盛んになり、かぶき者  が現れ、天下太平の世になるが、1657年の明暦の大火 で城下が火の海になり、天守炎上  する。
 巻末に専門知識の解説が付記され、上巻が終わる。家康が江戸に入った1590年から1657年の170年ほどが上巻になる。 続く

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2020.2 御年89才人間国宝野村万作の狂言を観る

2020年03月11日 | 旅行

2020.2 野村万作の狂言の世界「魚説法」「二人袴」 日本の旅・埼玉を歩く
 私の住むマンションの隣の隣の区画に、区役所、図書館、ホール、ギャラリーなどを併設した複合施設がある。
 ホールは1階席、2階席、計400席ほどと小ぶりのため舞台を身近に感じることができるので、コンサートや公演によく参加する。
 毎年2月に、「野村万作の狂言の世界」と題した狂言が催される。
 能と狂言は、子どものころ学校教育の一環で見た記憶がある。その後は狂言に接したことはないし、ずいぶん前、薪能を見たことがあるだけで、日本の伝統芸能といわれながらも能、狂言に疎い。

 数年前、複合施設のホールで人間国宝野村万作(1931-)の狂言が催されるのを知り、さっそく観劇した。最初は狂言独特の世界観が分かりにくかったが、毎年見ていると狂言に込められた滑稽さが段々分かってくる。
 昨年の11月ごろ、狂言の予告が出たのでさっそくチケットを購入した。演者の動きを俯瞰的に見たいので、2階最前席を予約した。

 能も狂言も舞台は共通する。本舞台の広さは3間四方、すべて桧の素木造りで、正面の壁は鏡板と呼ばれ、ダイナミックな形で葉の緑も鮮やかな老松が描かれている。
 鏡板の老松は、奈良・春日大社・若宮おん祭のとき、一の鳥居近くの影向の松のもとで猿楽が演じられたことに由来するそうだ。影向はようごうと読み、神仏が姿を現すことの象徴とされる。以来、鏡板に影向の松を描くのが慣例になったそうだ。松の形は「寿」の鏡に写った字を表しているといわれる。
 2019年3月に春日大社を参拝したとき、一の鳥居近くも歩いた。影向の松は枯死し、若木が植えられ、影向の松の説明坂があったが、鏡板の松との縁には気づかず、風景に隠された歴史文化を見落としてしまった。無知無学を猛省する。

 演者は左手の鏡の間と呼ばれる部屋で衣装を整える。鏡の間には揚幕と呼ばれる暖簾のような布がかけられていて、後見と呼ばれる補佐が竹竿で揚幕を上げると演者が登場する。
 鏡の間と本舞台のあいだには橋掛かりと呼ばれる通路が設けられている。橋掛かりは、遠近感を出すため本舞台に向かって傾斜がつけられている。橋掛かりの手前には2~3本の松が置かれ、本舞台側が一の松、順に二の松、三の松と呼ばれる。高さが段々低くなっているのも遠近感の演出であり、加えて演者のすり足の目印になるそうだ。
 本舞台右奥に切戸と呼ばれる小さな出入り口が設けられていて、後見、囃子の出入り、小道具の出し入れに利用する。 

 開演時間になると、合図もなく石田幸雄が登場し、解説を始める。・・狂言は照明無し、装置無し、化粧無しなどなどの無い無い尽くしで演じられる、フッと始まり、フッと終わる、きわめて情報量が少ない、演者が座ったときは話の流れから消えたことを意味するなどの約束ごとがあるといったことをぼくとつに語り、今日の演目のポイントを紹介して、フッと切戸に消えていった。

 演目の最初は、内藤連の「海老救川」という小舞である。内藤も地謡の岡聡史、深田博治、飯田豪も切戸から出てきた。狂言師は、謡で声の訓練をし、舞で体の動きの基礎をつくるそうだから、舞、謡ともに手慣れているのであろう。5分ほどの舞を披露し、切戸に消えた。

 鏡の間の揚幕が上がり、御年89才の人間国宝野村万作=新発意(修行僧のことでしんぼちと読む)がしずしずと登場し、「魚説法」が始まる。新発意は舞台右隅に進み、腰を下ろす。つまり演技から消える。
 次に揚幕から野村太一郎=施主が登場し、橋掛かりから本舞台に出たところで、堂を建立したので堂供養を住持に頼みに来たなど語り、舞台に声高に声をかける。
 座していた新発意が立ち上がり=演技に現れ、施主に住持は留守と応える。堂供養を行いたい施主の願いを聞いた新発意は、お布施ほしさに説法を引き受ける。しかし、修行中なのでまだ説法をしたことがない。苦肉の策で、子どものころ浜辺に住んでいたことから、知っている魚の名前を織り込んで説法を始める。
 あやしげな説法に気づいた施主が新発意を追求すると、新発意はあわてふためき橋掛かりへ進む。揚げ幕が上がり、万作が退場、続いて追いかける太一郎も退場する。
 魚の名前を連ねた説法が見どころなのだが、御年89才の修行僧も見逃せない。声はよく通るし、軽くはねたり、元気な演技を見せてくれた。

 「魚説法」は15分ほどの狂言である。次の「二人袴」は20分ほどだった。能は1時間を越える演目が多いが、狂言は30分以下が多いそうだ。
 20分の休憩をはさんで「二人袴」が始まる。

 まず舅役の深田博治が登場、次いで召使いの太郎冠者である月崎晴夫が登場、舅が聟の来宅を心待ちにしていると語る・・かつては結婚後、聟が妻の実家に一人で出かけ舅に挨拶をする婿入りというしきたりがあったらしい。舅は太郎冠者に酒の用意も言い渡し、二人とも舞台右に座る=演技から消える。
 続いて聟役の飯田豪、聟の親である石田幸雄が登場し、橋掛かりで聟が心細いからと親に同行を頼む。親は家の表まで付き添い、礼装の長袴のはき方を聟に教える。慣れない長袴をはいた聟が舅宅に声をかける。舅と太郎冠者が立ち上がり=演技に加わり、太郎冠者が聟を迎え、聟が舅に挨拶する。親が送ってきてくれたことを知った舅は太郎冠者に親も迎えるよう言いつける。
 長袴が一つしか無いので、聟は太郎冠者を引き留め、自分が表に出て長袴を脱ぎ、それを親がはいて家に入り舅に挨拶する。舅は聟を呼び入れるように太郎冠者に話すと、親が太郎冠者を引き留め、表に出て聟に長袴をはかせ、入れ替わる。このあたりのやりとりが前半の見せ場であろう。
 舅が二人いっしょに入ってくるよう言い渡し、やむを得ず親と聟は長袴を二つに裂き、親と聟がそれぞれ前だけに袴を着けて挨拶にあがる。前だけの袴を着けた二人が苦労しながら酒を頂く。興が乗って舞を舞うことになり、二人は後ろを見られないようにぎこちなく舞うが、ついに太郎冠者に見つけられてしまう。
 太郎冠者の大笑いのなか、聟、親が揚幕に消え、追いかけるように太郎冠者、舅が揚幕に消えて終わになる。
 後半の見せ場は、前しかない袴でぎこちなく振る舞うが、ついに太郎冠者に見付けられ、大笑いされる様子であろう。
 
 日常の暮らしにも似たような場面がある。その滑稽さを強調して寸劇にまとめたのが狂言、といえよう。狂言を観て滑稽さを笑って終わりにするのも良し、狂言を人生教訓として省みるのも良し、見方は自由であるが、笑う門に福来たるは間違いない。
 来年も御年90才の万作狂言が楽しみである。 (2020.3)

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2016.11 擬洋風建築の松江・興雲閣→本尊薬師如来の一畑薬師

2020年03月08日 | 旅行

2016.11 島根を行く ⑦擬洋風建築の興雲閣、本尊薬師如来の一畑寺  <日本の旅・島根の旅> 

擬洋風建築の興雲閣
 松江城一の門を抜け階段を下り二の丸に出ると、松江神社が建っている。明治時代、松平初代藩主松平直政、松江開府堀尾吉晴、第七代藩主松平治郷、徳川家康を祭神として建立されたそうだ。一礼する。
 その南の興雲閣に入る(写真)。明治36年1903年、明治天皇の山陰行幸の宿泊所として建てられたが日露戦争で行幸が中止となり、1907年、嘉仁皇太子=後の大正天皇が行啓したときの宿泊所になった。
 木造2階建て入母屋屋根桟瓦葺きで、外壁の下見板張りを白く塗装し、1階2階とも細身の円柱を巡らせたコロネードcolonnadeを設け、柱頭、軒下などに唐草や幾何学模様の装飾を施した擬洋風建築である。細い柱、屋根や軒の深いせり出し、白で統一した塗装は軽やかさを演出している。松江城天守の重厚な外観に対し、新しい時代を象徴しようとしたのであろう。
 嘉仁皇太子行啓後は松江市工芸品陳列所興雲閣として利用され、現在は島根県指定有形文化財として公開されている。
 1階の内部は白を基調にした真壁に竿縁天井で、展示室やカフェとして使われている。2階の大広間は白を基調にした大壁に竿縁天井で、ホールとして利用できる(写真)。和洋折衷ともいえるが、白壁に木調の竿縁天井は釣り合わない。
 天皇行幸宿泊所としてつくられ皇太子行啓宿泊所の役目を終えた後、工芸品陳列所として改修されたためか、擬洋風建築としては淡白すぎ、拍子抜けした。一回りして外に出る。

 大手門跡を抜けて堀川めぐり大手前広場乗船場に戻る。次の遊覧船まで間がありすぎたので堀川めぐりの続きをあきらめ、塩見縄手に向かう。
 昼時なので食事処に入り、そば好きの松平不眛を思い起こしながら割子そばを食べた。
 北田川沿いの塩見縄手を歩きながら松江城を見上げ、武家屋敷、田部美術館、小泉八雲旧居などの名所旧跡を眺める。観光客も行き交っているが、どちらかというと静かな雰囲気である。松平不眛に代表される茶の文化の奥ゆかしさのせいだろうか

醫王山一畑寺・一畑薬師
 12:50ごろ、城山西駐車場を後にする。出雲空港は宍道湖の南西端に位置する。松江城は宍道湖の北東端で、出雲空港には宍道湖の南を通る国道54号線、あるいは山陰自動車道を利用する方が早いが、宍道湖北側、島根山地の山あいに建つ醫王山一畑寺、通称一畑薬師に立ち寄ろうと、国道431号線を西に向かう。
 左手は宍道湖で広々とした湖岸の風景が続く。右手には松江しんじ湖温泉駅と出雲大社前駅をつなぐ一畑電車が並行している。途中、鮮やかなオレンジ色の電車とすれ違った。ローカル線の旅は魅力的だが、待ち合わせ時間や荷物を持った歩きに難点があり、行動が制約されやすい。
 レンタカーの強みを生かし、一畑電車一畑口駅を過ぎたあたりで右に折れ、小境川に沿った県道23号線を北に走る。ゆるやかなカーブの山道から、一畑薬師の標示に従ってカーブの連続する山あいの道に入る。ヘアピンカーブをいくつか抜け、商店が並ぶ近くの駐車場に車を止める。
 案内板を見て分かったが、一畑薬師は標高200mほどの斜面に段々に伽藍が配置されている。歩きの参拝者は山道を登ってきて、まず1300段の石段を上がり山門、法堂、さらに石段を上がり仁王門、また石段を上がり鐘楼堂、観音堂の建つ境内、石段を上がり本堂、八万四千仏堂に参拝となるようだ。
 車を止めた駐車場は山門、法堂レベルで、1300段の石段を省略したことになる。住宅の階段は1段が17~18cmぐらい、駅などは15~16cmぐらいでつくられる。仮に20cmの石段として1300段は260mの高さになる。一般的なビルなら86階、東京タワーの特別展望台の高さに匹敵する。1300段を上る信心深さが信仰なのであろうが、1300段を下り、改めて上ってくる体力に自信が無い。
 時間が無いのを理由にして、百八基灯篭が並ぶ参道を歩き、法堂横の石段を上り、仁王門で一礼し、石段を上って境内に出た。正面が薬師本堂である(写真)。形がいい。
 パンフレットなどによれば、平安時代、漁師が日本海で薬師瑠璃光如来をすくい上げ、持ち帰ったところ母親の目が治ったことから目の薬師様として信仰が広まり、894年、この漁師が出家して天台宗に属する医王寺を創建したそうだ。
 戦国時代には幼児が救われたことから、子どもの無事成長の仏様としても信仰されたらしいが、一時廃れ、1325年、臨済宗南禅寺派成徳寺として再興され、1653年に臨済宗妙心寺派に転属し一畑寺に改名された。通称一畑薬師として親しまれている。
 パンフレットには、出雲国神仏霊場第3番、出雲十大薬師霊場第1番札所、出雲観音霊場特別札所、中国観音霊場第26番札所、百八観音霊場第31番と記されているから、古くから参拝者を集めていて、参拝の便宜から一畑電車が敷設されたのではないだろうか。
 薬師如来が本尊なので、本堂に参拝、白内障快癒を祈願する。本堂は1890年の再建である。
 本堂を囲むように八万四千の仏像が奉納されている。仏教の説く八万四千の法門にちなんだ仏像だそうで、奉納された八万四千の仏像を一巡りする。
 境内の東南端に1938年建立の観音堂、1936年建立の鐘楼堂が建ち、その先は崖になっている。見下ろすと、1809年建立の法堂や1813年建造の書院が足元に建っている(写真)。目を上げれば、島根山地の彼方に宍道湖、その先の中国地方の山並みも望める。雄大な景色である。目も元気になったような気分になる。
 順路に沿って石段を下り駐車場に戻る。15:00に近い。

 途中に気の利いたカフェがあればコーヒータイムしようと思いながら空港に向かうが、山あいにはカフェは見当たらない。じきに斐伊川流域の斐川平野に出る。築地松を構えた民家が姿を現す。
 レンタカーを返し、出雲空港のカフェでコーヒーをいただく。16:30、時間通りに羽田便が離陸する。機が向きを変えるため傾くと、宍道湖に流れ込む斐伊川、流域の斐川平野、同じ向きに築地松を構えた民家がぐっと近づき、次第に小さな風景に変わっていく。一瞬、築地松民家の調査に参加してくれたみんなを思い出す。その一人K君はすでに鬼籍に入った。思い出も小さな風景になった。 (2020.3)

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2016.11 国宝松江城天守は宍道湖北東の亀田山に城を築いた堀尾氏に始まる

2020年03月05日 | 旅行

2016.11 島根を行く ⑥国宝松江城天守  <日本の旅・島根の旅

翌朝、ホテル一畑から宍道湖を眺める。雨は上がったようだが、ねずみ色の雲が広がっている。どんよりした風景の対岸にアルミだろうか曲線の建物がかろうじて鈍い光を放っていた(写真)。地図を調べたら、島根県立美術館のようだ。
 遠景となる標高500m前後の島根山地、中景の樹林帯の風景を妨げないように高さを抑えた丸みの柔らかな形は宍道湖からの景観に工夫したデザイン、と感じた。松江の人は景観美の意識が高そうだ。

松江城の縄張
 9時半過ぎ、松江城城西駐車場に車を止める。駐車場は四十間堀川沿いに位置し、目の先がふれあい広場乗船場である。
 出張、研究会、築地松調査で何度か松江を歩いているが、武家屋敷、小泉八雲旧居、田部美術館の並ぶ塩見縄手から松江城天守を眺めただけで、まだ入城したことはない。
 まず、松江城を船から見上げようと、10時発の堀川めぐり・ぶらっとコース30分に乗った。

 乗船場の堀川めぐりルートマップを見ると、松江城は内濠と外堀によって二重に囲まれている(図)。

 話は飛ぶ。出雲を支配下に置いていた戦国大名の尼子氏は、現安来市の標高184mほどの月山に築いた月山富田城を居城としていた。1600年の関ヶ原の戦い後、東軍に与した堀尾忠氏(1578-1604)が月山富田城に入ったが急逝する。跡を継いだ忠晴(1599-1633)はまだ5才だったので、祖父吉晴(1543-1611)が後見となり、地の利のいい宍道湖の北西端、北の丘陵の南に位置する標高29mの亀田山に城を移す。

 1611年、松江城が築かれた。

 宍道湖と中海をつなぐ大橋川に注ぐ朝酌川が亀田山の東を流れている。朝酌川から亀田山をぐるりと囲む京橋川が掘られたようだ。松江城の西を南北に流れる川は四十間堀川と名付けられているのが、京橋川が堀川であることの根拠になる。
 城の東を南北に流れる堀川は米子川、北の大きくカーブしながら東西に流れる堀川は北田川と記されているが、google図ではすべて京橋川と記されている。これも堀川の根拠になろう。この堀川を外堀とし、さらにその内側に京橋川から引き込んだ内濠を巡らせ二重堀の防御にしている。


 本丸は、内濠で囲まれた島状の中央に位置し、本丸北側に北の丸、本丸南側に二の丸、本丸東側に二の丸下段、内濠の南に三の丸が配置されている。本丸を北の丸、二の丸、二の丸下段が囲む縄張であることから輪郭式、三の丸、二の丸、本丸が直線上に並ぶ縄張であることから連郭式になるので、輪郭連郭複合の平山城に分類されている。


 高さ29mの亀田山に築かれた松江城は宍道湖や河川、街道ににらみがきく。交易の要ともいえなくない。徳川家康の天下統一がなったとはいえ、まだきな臭さが残るときである。亀田山山頂の広さと宍道湖、朝酌川、太田川、京橋川の流れを勘案して、輪郭+連郭の複合とし、外堀と内濠の二重堀で防御したようである。

 堀尾氏は忠晴に跡継ぎがなく、若狭の京極氏が1634~1637年のあいだ松江城主となるが、やはり跡継ぎに恵まれず、1638年から信濃の松平直正・・徳川家康の第2子・結城秀康の第3子・・が入国し、明治の廃藩置県まで出雲を治めた。
 ついでながら、第7代松平治郷(1751-1818)は不眛と号する大名茶人として知られ、松江の茶の文化を確立した人物である。・・島根を行く①で不眛がお忍びで出雲そばを食べに出かけたことを紹介した。気さくさも感じられる。

堀川めぐり
 船は幅2mほど、長さ8mほどと小さい。定員の10名ほどが乗り込み、船が動き出す。空はどんよりしている。船にはテント式の屋根が付いているので雨除けかと思っていたら、船頭が「腕を船から出さないでください、屋根を倒しますから頭を下げてください」といい、屋根を倒した。
 堀川には17の橋が架かっていて、水位が上がると頭をぶつける恐れのある橋もあるらしい。通常は雨除け、日射し除けで、低い橋桁では屋根を倒し頭を保護するようになっているそうだ。今日は水位が高く、屋根を倒してもくぐれない橋があるのでコースが一部変更され、北田川に向かった。


 船頭はなめらかな口調で、「石垣は穴太アノウ積みと呼ばれる野面ノヅラ積み」、左に見える橋の先は「椿谷と呼ばれ椿が多い、椿から油をとった」「白い実は南京ハゼ」などとガイドする(写真)。

 宍道湖は汽水湖であり、宍道湖と中海をつなぐ太田川も、太田川に注ぐ京橋川も汽水域で、淡水魚、近海魚が棲みついているらしい。となると、京橋川の水を引き入れた外堀、内濠にも淡水魚、近海魚が泳いでいそうだが、水はよどんでいて魚は見えにくい。

 ガイドの名調子は「このあたりが武家屋敷街の塩見縄手」「怪談で知られる小泉八雲の旧居」「いまも残る武家屋敷(写真)」と続く。

 縄手は縄のように細い道のことで、家老の塩見家屋敷があったことから塩見縄手と呼ばれたらしい。
 小泉八雲(1850-1904)は教科書でも習うし、子どものころ怪談を何度も読んだ。本名パトリック・ラフカディオ・ハーンがアメリカで働いているとき日本文化に興味を持ち、英語教師として松江に着任、その後小泉セツと住んだ家が小泉八雲旧居になる。
 船は北田川から本丸東の内濠に入り、大手前乗船場に着く。一日乗船券なのでここでいったん降り、城の見学に向かった。
 
国宝松江城天守
 現存する天守は12あり、うち5天守が国宝、7天守が重要文化財に指定されている。築城年が不確かなこともあるがwikipediaなどを参考に、天守を残す城を列挙する。
重文 宇和島城天守 築城941 天守1666 三重3階
重文 備中松江城天守 築城1240 天守1681 二重2階
国宝 姫路城天守 築城1346 天守1601 五重階
国宝 犬山城天守 築城1469 天守1601 三重4階
重文 丸岡城天守 築城1576 天守?  二重3階
重文 丸亀城天守 築城1597 天守1660 三重3階
国宝 松本城天守 築城1594 天守1615 五重6階
重文 松山城天守 築城1602 天守1852 三重3階
重文 高知城天守 築城1603 天守1747 四重6階
国宝 松江城天守 築城1611 天守1607 四重6階
重文 弘前城天守 築城1611 天守1810 三重3階
国宝 彦根城天守 築城1622 天守1606 三重3階
 松江城のパンフレットによれば、天守の平面規模では2番目、天守の高さでは3番目、天守の古さでは5番目で、四重地上5階地下1階の複合式望楼型である。

 前述の縄張で記したように松江城は輪郭式と連郭式の複合形式で、連郭式とは三の丸、二の丸、本丸が直線状に並ぶ形である。三の丸、二の丸は本丸の南に位置し、三の丸から内濠を渡った先に南口門が構えられていたそうだ。
 一方、大手門は本丸の東側、二の丸と二の丸下段のあいだに構えられていた。大手門あたりが馬溜で、正面に野面積みの石垣が圧倒し、復元された太鼓櫓が建っている。太鼓は登城や非常を報せるためであろうから、通常の登城は大手門が使われたようだ。
 三の丸、南口門の機能についてはパンフレットもwebも触れていない。どんな意図が隠されていたのか、解明は識者に任せたい。

 大手門乗船場を降り、大手門跡=馬溜あたりから石垣と太鼓櫓を見上げ、石段を上り三の門跡、左に折れて二の門跡、右に折れ石段を上り復元された一の門を抜けると、本丸に出る。枡形跡の説明には気づかなかった。もともと枡形は設けられなかったとすれば、外堀+内濠で敵の侵入を食い止め、万が一の敵にも石垣にはさまれ、右、左に折れる登城路で撃退できる考えたのであろう。
 本丸中央の高さ7.6mほどの石垣を積んだ天守台の上に、四重地上5階地下1階、高さ22.4mほどの天守がそびえる(写真)。本丸地面からは30m、現代ビルなら10階建ての高さだから、その偉容が計り知れよう。
 天守の防御のための右手の附櫓、二重の櫓に二重の望楼をのせた天守は、外壁を黒の下見板張りを基調とし附櫓と望楼の上部を白の漆喰塗としていて、重厚ながら、メリハリのきいた外観に仕上げている。宍道湖や街道を行き交う人々は、偉容とともに優美さすら感じたのではないだろうか。

 附櫓から入城し、まずは最上階の望楼まで上る。旧城下=市街、宍道湖、湖岸の県立美術館、遠くの島根山地も手に取るようによく見える(写真)。祖父堀尾吉晴がこの地を選んだ理由が納得できる。
 松平氏もこの地の利点を生かして繁栄につなげ、その豊かさが不眛に代表されるような文化に昇華されていった。それはまた小泉八雲をひきつける魅力になったに違いない。推測だが、足立全康氏も松江の文化に啓発され、日本美術、日本庭園に傾倒していったのではないだろうか。


 階段を下りながら各階の展示、石落としや狭間の仕掛けをを眺める。柱に板を張って鎹で止める包板の説明があった。柱の強度を高めるというより節や割れを隠すための珍しい仕上げ方であるが、ここだけは美的センスが感じられない(写真)。

 本丸は緑地に整備されている。天守台のまわりを一回りする。天守は低層の櫓部分と上層の望楼部分の比率が良かったようで、整った安定感がある(写真)。黒の板壁と白の漆喰壁の対比も絶妙で、重すぎず軽すぎず、緊張感をつくりだしている。

 11時過ぎ、本丸を後にする。つづく(2020.3)

 

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